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ただ、逃走劇じたいは三十秒もかからずに終わった。
はっきり言って私の方が足が速い。
もともと私が女子にしてはかなり足が速いというのと、そうでなくても鈴木さんの足は決して女子ということを
考慮してもそれほど速くないということで、あっさり彼女を捕まえることができた。

ちなみに捕まえたというのは、私が鈴木さんの手をつかんだということだ。

憂「……」

しかし、困った。
ここに来て私はなにを言えばいいのかわからなくなってしまった。
というより、もとからなにを言うのか考えていなかったというのが正しいだろう。

純「……」

そして鈴木さんも鈴木さんでなにも言ってくれないのだから、ことさら私は困った。
困り果てた。
なにより、私は私から逃げる鈴木さんの腕を掴んでこそはいるが、だからこそ彼女の後ろ姿しか未だに見ていないのだ。

鈴木さんの表情が見えない。
なにを考えているのか、なにを思っているのかわからないのだ。

それに私は人とケンカをした経験がない。
当然仲直りのしかたなんてなにも知らない。

憂「……ごめん、なさい……」

だから、私はそう言うのが精一杯だった。
それ以上は言葉は出てきてくれなかった。

頭では数え切れないほどの言葉が煮えたぎるように湧いていたのに、それを口にすることができなかった。

雨の音だけが、今この二人の空間を埋めてくれるものだった。



純「う、い……」

そう、鈴木さんの声がしたときには、私も彼女もすっかり雨びたしになってしまっていた。

ただ、私はすっかり沈黙に耐え切れず顔を伏せてずっと雨に濡れていく地面を見ていた。
緊張しているのか、鈴木さんの腕をつかんでいる手は汗ばんでいた。
こめかみを伝っている雨粒にはきっと冷や汗のようなものが混じっているだろう。
それに雨に打たれて寒かったからか、鼻の奥がくしゃみをする一歩手前のようにツンとして、ムズムズした。

それでも気配で彼女が私を振り返ったのだけはわかった。

私は恐る恐る顔をあげた。

私の予想していた鈴木さんの顔はどこにもなかった。

私は鈴木さんは怒っているものだとばかり思っていた。

私が呼び止めたら鈴木さんは逃げたのだ。
それは私に対して腹が立っていて、ゆえに私の顔なんて見たくなかったから……だから彼女は私から逃げたのだと思った。

だけど、私が実際に見た鈴木さんの顔からはとても怒りや憤りのようなものを感じられなかった。
しいて言うなら、鈴木さんの顔は家の壁で爪とぎをしたのを飼い主に見つかった猫のそれだった。

いや、それどころか今にも泣き出してしまいそうなそんな危うささえ漂わせていた。

一瞬、雨による錯覚なのかと思ったけどそれこそ錯覚だとすぐに理解した。

だって鈴木さんは本当に泣き出したのだから。

目尻から大粒の涙を雨粒と一緒に流して。



それからは、なぜか私が鈴木さんをなだめることになった。
もっとも私は泣いている人のなだめかたなど知らないので、しもどろになっていだろうけど。

それでもできるかぎり頑張って、鈴木さんに泣かないでなど、なんだの色々言ってみた。

鈴木さんは鈴木さんでなんで自分が泣いているのかわからないかのように、戸惑いながら、

純「な``んでわだしないでんだろ……うううううぅ……」

みたいなことをわめいていた。

純「……その、申し訳ないです」

ようやく落ち着きを取り戻した鈴木さんは目と鼻の頭を真っ赤にして私に謝った。

鈴木さんが泣き止むのには思いのほか時間がかかった。

憂「うん……」

純「……」

憂「……」

純「……」

鈴木さんが泣き止んだら、そのまま私たちふたりは沈黙してしまった。
しかし、今回の沈黙に関して言えば、私はもう言うべき言葉をきちんと見つけていた。
ただ、いまいち踏ん切りがつかなかっただけ。

でももう、大丈夫。

私は鈴木さんの赤く腫れた目を見た。
はっきりと目を合わせた。

憂「ヒドいこと言って……ごめんなさい」

声は少しだけ震えていたけど、それでも雨音にはかき消されることはなかった。

純「……」

鈴木さんはなぜかとんでもなく理不尽な人事を言い渡された平社員のような顔をした。

なにか私は間違ったことを言ったのだろうか?
いや、言ったのかもしれない。
なにせ私はケンカの経験がないのだ。

しかし、鈴木さんはそんな私の不安に反して頭を下げた。

純「私のほうこそ、憂の気持ちもわからずに……ごめん!」

憂「え? あ、いや……な、なんで鈴木さんが謝るの……?」

純「それは……」

鈴木さんはばつが悪そうに目を反らした。

純「あのさ、実はあの日……」

あの日というのは、もちろん私が例のハンバーガー屋で鈴木さんと中野さんに『キレた』日のことだろう。

純「……憂が店を飛び出したあと、梓に相談したんだ。
  なんで憂が怒ったのか、私には全然わかんなかったから」

憂「うん……」

純「最初は梓もわかんなくて結局わけもわからないまま家に帰ったんだ。
  それで、たまたまあの日はお父さんもお母さんもいなかったから一人で……。
  そしたらなんか不安になっちゃったんだよね」

憂「不安?」

純「うん、その……」

いつの間にか目や鼻どころかほっぺまでほんのりと赤くして鈴木さんは言った。

純「もう憂としゃべれなくなったらどうしよう……って思って」

鈴木さんは思いっきり鼻をすすった。
心なしか声が上ずっているように聞こえたのは気のせいではないと思う。

そんな鈴木さんとは対照的になぜか私は口元は緩んでいた。

純「……そう思ったら悲しくなって……とりあえずまた梓に電話したんだ。
  そしたら、梓がどうして憂が怒ったのかわかった気がするって。
  それで実際に教えてもらったの」

憂「うん……私ね、あのとき二人と話してて……急に不安に、なったんだ……」

自分がどうして怒ったのかを話し出そうとして、しかし羞恥心にも似た気持ちが湧いてきて思わず言葉がつっかえる。
それでも、鈴木さんがきちんと私に事情を話してくれた以上、私も話さなければいけないと思った。
だから、私はつまりながらも、必死に言葉を探した。

憂「中野さんにお姉ちゃんをとられるんじゃないかって。
  それに、なんでかわからないけど……」

急激に顔に血が昇り始める。
はっきりと顔が熱を帯びていくのがわかった。

憂「二人においてけぼりにされる気がして……」

純「おいてけぼり……?」

鈴木さんが小首をかしげ、細い眉がぴくりとはねた。

憂「うん……おいてけぼり……」

うまい表現が見つけられなくて私はもう一度繰り返した。
鈴木さんにはなんとなく伝わったらしく、唇のはじっこを持ち上げて、

純「私と憂と梓は友達なんだから、おいてくわけないじゃん」

視界は滲んでいて、目の前にある鈴木さんの顔はぼやけてしまっていた。
それでも、鈴木さんが私に微笑みかけてくれているのだけはわかった。

憂「う”ん……ぁりっ……」

『ありがとう』と言いたかったけど、言葉は涙と一緒に流されてしまった。
そんな私を鈴木さんがやさしく抱きしめてくれた。

授業時間はとっくにすぎているのだろうけど、もうそんなことはどうでもよかった。



梓「かくして二人は仲直りしたんだね」

純「まあ、そういうわけ」

憂「うん」

私たちはすっかり溜まり場となっている例のハンバーガー屋に来ていた。
相変わらず閑散とした店内では私たちの声は、いささか大きいのかよく響いた。

梓「一時はどうなるかって思ったけど……よかったよかった」

中野さんはしきりにうなずいた。

純「うんうん」

鈴木さんも茶化すように首を大きく縦に振って同意した。

二人ともどこかふざけたように言っているけれど、たぶん心から安心しているのではないのかな、と思う。

だって、私が……そう、だし。

……二人もそうだよね?


ふと、ポテトを頬張る中野さんとなくなりかけのジュースを必死にすすっている鈴木さんを見て私は二人になにかをしたくなった。

しいて言うならお礼とか……いや、でも……
と、そこまで考えたあたりで唐突に私は思いついた。

憂「あのね……」

これが果たして二人に対するお礼(あるいはお詫び)になるのかと尋ねられると困るのだけど、私はあえて思いつきを口にしてみた。

憂「中野さん、鈴木さん」

二人が同時に私を見る。
私は深呼吸をしてから言った。

憂「私……鈴木さんの言ってた『作戦』を実行しようと思うの」



憂「……」

しばらく走らせていたペンを止めて、私は伸びをした。
一時間近く椅子に座っていたせいか、身体の筋肉が強ばっていた。

改めて作戦確認。

鈴木さんがいつか私に提案した作戦というのは、以下のようなものである。

お姉ちゃんにとってもうまいご飯を作って食べさせてあげる。
うまいご飯は人の気分をよくさせるらしいので、告白の成功を高めるであろうから。
そして、この際には私の決意を鈍らせないようにお姉ちゃんの友達や、鈴木さんたちを食事の席に呼んでおく。
いわゆる排水の陣っていうところだろうか?

……改めて振り返るほどの作戦でもない気がする。
ずさんを通り越して、もはや作戦にすらなっていないような……

それでも、私は私のためにこの作戦を考えてくれた彼女たちに本気で感謝したいと思った。

それは先ほど、中野さんとの電話で鈴木さんの意気込みについて聞いたから、という理由もあった。

梓『純が考えた作戦ってすごく雑だけど、これでもすごい真剣に考えてたんだよ』

憂『うん……』

梓『それとね。
  これは私の予想なんだけど、この作戦を考えたのってただたんに憂のためにってだけじゃないと思うんだ』

憂『……どういうこと?』

梓『きっと純は憂が好きだからこそ、今回の作戦を提案したんだと思うんだ』

憂『……』

梓『憂のためにそういうことをするっていうのは、憂ともっと仲良くしたいと思ったからじゃないのかな』

憂『……』

梓『というか、それに近いことを言ってたしね』

憂『うん……』


憂「……うん」

鈴木さんが私のためを思って、今回のことを計画してくれたのにあの日の私はなんてヒドイことを言ったのだろう。
思い出すだけでも、胃がキリリと痛むようだった。

でも、だからこそ、今回の作戦を実行しようと思ったのかもしれない。

私は休めていたペンをもう一度力強く握って、再び『ソレ』を書き始めた。



音楽準備室に行くのはこれで二度目になる。
あのときは状況に流されて仕方がなく、この場所を訪れた。

でも、今回は状況に流されたわけでもないし、いやいやでもない。

自分の意思でここに来た。

ノックをしてから間延びした返事を聞いて、そして扉を開ける。
古く寂れた蝶番の音は、さながら私の緊張を代弁しているかのようだった。

扉を開けてまっ先に目に飛び込んできたのは、軽音部の部長さんである田井中律さんだった。

律「唯……?」

田井中先輩は椅子に座った状態でからだだけをこちらにむけた。
よく見るとほっぺに生クリームのようなものがついている。

澪「……?」

紬「唯ちゃん、じゃない……?」

憂「……」

おっとりとした感じの琴吹先輩と黒髪釣り目の秋山先輩も首をかしげる。

さて、ここで私とお姉ちゃんを間違えるということは、すなわちそれはお姉ちゃんがこの場にいないことを意味する。

しかし、髪型も顔もかなり似ているせいか、やはり間違われるらしい。
もっともそれでも彼女たちが違和感を抱いてしまうのは、身にまとっている雰囲気が圧倒的なまでに違うからだろう。

いや、そんなことはどうだっていい。
私は私だし。
こんな私にだって、私のことを思ってくれる友達がいるんだ。

私は大きく深呼吸をしてから口を開いた。

憂「妹の憂です」

言ってから、なんだかあまりに愛想に欠けている気がしてとりあえず、

憂「……姉がいつもお世話になっています」

ここまでは合格だ。
まさか、一度も噛まずに話すことができるとは思わなかった。

律「ああ、憂ちゃんか……」

本当に似てるな、とボソッと言ったのが聞こえた。

紬「唯ちゃんならさっき梓ちゃんとどこかに行っちゃったけど……」

知っている。
なにせ私が中野さんにお姉ちゃんをどこでもいいから、しばらく音楽準備室から引き離すように頼んだのだから。

憂「はい。あの、それで……」

問題はここからだ。
ここから先が重要であって、今まではすべて前振りだ。

手が汗ばんでいるのがわかる。
頭蓋骨をノコギリで切り裂かれているかのように、キリキリとした頭痛がする。
唇が震える。
動悸がする。
目眩がする。
息が切れる。

もう一回、深呼吸。

私はみなさんを見据える。

まるで挑むように。
まるで対峙するように。

私は言った。



憂「うん……それじゃあ、おねがいします……はい、おやすみなさい」

和ちゃん……和さんへの電話をすました私はリビングで、読みかけていた雑誌を再読することにした。

唯「うーいー、お風呂出たよー」

しばらく雑誌を読んでいると、お姉ちゃんが湯気を浮かべてお風呂から出てきた。
ああ、お風呂上がりでほんのりとピンク色に染まったほっぺのお姉ちゃん、かわいすぎる!

唯「なにしてるの?」

憂「うん……ちょっと料理のレパートリーを増やしたくて……」

唯「今でも憂っていっぱい色んな料理作れるじゃん」

憂「うん、まあ……」

私は曖昧にうなずいてお茶を濁す。
今ここで気取られるわけにはいかない。
まあ、お姉ちゃんは普段はのほほんとしているけど、けっこうカンが鋭い。

だから、私はあえて正直に言ってみた。

憂「もっとお姉ちゃんにおいしいご飯を食べてもらいたいから……」

唯「うーいー!」

喜ぶお姉ちゃんに抱きつかれて、私はそのままソファに倒れてしまった。

憂「お姉ちゃん」

唯「なあに?」

憂「楽しみにしててね」

唯「うん!」

お姉ちゃんの顔は私の首に抱きついているから、見えなかったけどそれでも笑顔を浮かべていることは想像にかたくなかった。



ついに本番当日。
計画してから五日。
ちなみに今日は金曜日。
そして今はちょうど学校から全力で帰宅したところ。

今回のこの作戦については色々と恵まれていた。

天候も。
皆さんの都合も。

アイディアも。

それに……。

私は隣を見る。

憂「よしっ……!」

現時刻四時一十六分。
企画開始時間は七時。

さあ、準備開始!


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最終更新:2012年01月20日 01:20