斎藤菫が琴吹家に仕えるようになったのは九歳の時であった
琴吹家は菫にとって累代の主家であり現に菫の父は幼少時代より琴吹家に奉公してきた
その父の奉じる琴吹会長の一人娘が紬である菫はまだ使用人として右も左も分からぬうちから
琴吹財閥の大事な跡取りの世話を任されたのであった此の時紬は中学に入学した頃であった
本国有数の財閥である琴吹家は街の一等地に広大な屋敷を有している斎藤家はその土地の隅に小さな
分室を借りて暮らしていた分室と言っても市中の上流家庭の邸宅並に豪奢である。
まだ菫が使用人でない頃琴吹家の者を間近で見る機会が少かったしたがって父親から聞く話でしか
琴吹家の様子を知ることが出来なかった菫の父は厳格で礼儀を重んじ何事にも動じなかった菫はそんな父を誇りに思った
琴吹家に仕えるというその日になって菫は初めて紬と挨拶を交わした実を言うと紬の顔をまともに見たのも
これが初めてであった菫が恐る恐る頭を下げると紬はキョトンとして首をかしげた
「今日から紬お嬢様に仕えることになりました斎藤菫です」と練習した通りに云うけれども紬はぼうっと菫を
見るばかりである父によれば紬お嬢様はお優しい方との事だが返事もしないのはやや意地が悪いのではないかと
眉をひそめていると思いがけず紬はにこりと笑って反応した。
此の時菫ははっと身体を強張らせた蓋し紬の柔和な笑顔には何か人を惹き付けるものがあったに違いない
菫がそれをどう受け取ったか定かではないが、或る不思議な気韻に打たれ一瞬にしてその笑顔に魅入られたという
菫は後に自分の紬に対する忠誠心がこの笑顔に依って支えられたと語る又曰く、
「お嬢様はその頃いつも物静かで余計なことは何一つしゃべりませんでしたけれどもその寡黙な中にも微妙な表情の
変化があります。 私はそれを注意深く観察してお嬢様の最も望む環境を用意するのですが慣れてくるとお嬢様が
次に何を望むのか先に分かるようになります。 すると今度はお嬢様が何を考えていらっしゃるのか理解できるように
なりますそれは恰も自分自身がお嬢様と一体になったかのように細かい感情の波まで伝わるのです。
私風情があの方の心を芯から理解できるとは到底思っておりませんけれども私がお嬢様と同じ風景を見、同じ感情を
共有できるのは此の上もない喜びでした」と。
ただし紬が返事もせずにこりと笑ったのには訳がある紬は今迄菫の父に身の回りの世話をしてもらっていた
加えて屋敷には表情の引き締まった大人ばかりである彼女自身もその環境に慣れていた
そこへ突然自分より歳下の女の子が現れ何やら早口で呟く紬は驚いて聞き逃したのでただ笑顔で誤魔化すしかなかったのである
紬は元来主張の大人しい子供であった彼女はその愛嬌のある仕草と優しく思いやりのある言動で
一家中の者に親しまれたが普段は口数少なく不都合があっても文句一つ言わない、誰かが気付いてくれるまで
我慢してしまうその控えめな性格は時に家族を心配させる程であった
琴吹会長の過剰な甘やかしが却って紬にこのような影響を及ぼしたのかもしれない必要な物は全て与えられる環境と
徹底して管理された暮らしが紬から自発的な行動の機会を奪ってしまったとも考えられる
但しそれは菫にとっては好都合であった紬の世話役に経験の浅い菫が抜擢されたのにはこのような理由もあった
後年紬を視ること神の如くであった菫だが仕え始めた当初はそこまで崇拝の念を抱いていなかった
蓋し紬はこちらが何か尋ねるまで黙っていることが多く初めのうちは菫も何をしたら良いか分からず
只紬の傍に突っ立っているだけであったすると厳格な父が目ざとく発見して菫を叱り飛ばすのであった
紬お嬢様の目の前で怠けるとは何事だと怒鳴られ、でもお父様紬お嬢様は何も文句など仰いませんと云う
すると父は益々怒気を強めてお嬢様は優しい方だから大目に見て下さるそれをいいことに仕事の手を抜くなど
言語道断である、恥を知れと云って殴った
此の理不尽な仕打ちに対する怒りは自然と紬に向けられたいっそ全部命令してくれれば気持も楽であったろうに、
私が悪いのでなく紬お嬢様が悪いのだと忌々しく思う事も少くなかったけれどもいざ紬を前にすると不思議と怒りは
消えて無くなった紬の優しく伏し目がちな表情は見る者の心を穏やかにした。
実際の年齢より凛として見えた紬であるがそれは彼女の綺麗に手入れの行届いた髪が淑女然と感じさせるのであって
目元などはむしろ子供らしく特徴的な太い眉毛が却って飾り気のない無垢な印象を与えた又此の頃ははっきりと
感じられないが紬は既に妖しさ艶めかしさを備えていたように思われる常に目蓋を薄く開いて透き通るように人を見つめ、
ゆるやかで上品な所作は見る者に官能的な感覚を呼び起させた
恐らく菫が心を惹かれたのも紬の妖艶な部分を垣間見たからであるかもしれない菫がそれに気付いたのは数年後で
あったが主人である紬に対し劣情を抱いた事は最後まで否定した紬お嬢様に惚れるなど恐れ多い私にそのような資格は
ありません、第一私は女ですと云って頬を赤らめ慌てて目を背けるのであった
始め数ヶ月は琴吹家の規律を学びつつ召使いの作法も覚え同時に紬の身辺の世話もしなければならなかった菫はその間
目の廻るような忙しい日々を過ごしたが紬というと自室に籠もってばかりいた菫にとってはあちこち行かれるより
余程助かった紬が自室から出るのはほとんど食事か風呂か登下校の時だけであったし自室に籠もる時は大抵家庭教師を
付けて勉強している最中か又はピアノの稽古のいずれかであったそうすると菫も多くの気を使わずに済んだ
一口に紬の世話と云っても簡単ではない先ず朝は紬を起こすとコップと桶を用意してうがいをさせる
次に着替えを手伝うのであるが此の時紬は一切動かないため流れるように手順を踏まなければならない
化粧台の前に座る頃には紬の目も冴えるそこへ菫が髪をとかしつつ今日一日の予定を確認する紬はまだ化粧こそ
しないが身だしなみを疎かにする事は何よりも許されなかった此処が菫の最も慎重になる所であった
手足の爪の長さを確かめ鼻毛や目ヤニを取り除き口臭を嗅ぐ紬は為すがままチョコナンと座って支度が終るのを待った
時折紬は何か意味ありげに目配せすることがあったけれども慣れない当初は菫もそんな合図を頻繁に見逃した
或る時など紬がトイレに行きたいのを我慢し続け菫が目を離した隙に急いで部屋を出て行ったことがある
菫は紬が居ない事に気付くと大いに取り乱しお嬢様が消えたと云って屋敷中を騒がせた後に事情が判明すると
父に散々叱られた但し琴吹会長は笑って許してくれた
紬とて意地悪心に菫を欺こうとした訳ではない菫が難しい顔をして一生懸命自分の世話をしてくれている所を見ると
声をかけるのが躊躇われたのである此れは紬の優しさと云うよりも或る種の臆病な性格が災いしていたように思われる
しかし斯くの如き逸話が果して紬の本質を表しているのかは疑問が残る事実彼女は高校に入学した頃から性格が
明るくなり口数も増えたというすると紬の心には以前から控えめな性格を克服したい気持があったのであろう乎
菫はただでさえ忙しいのに加え毎日のようにドジを踏んだので紬に対しても機械的に仕事をこなすのが精一杯であった
ましてや紬の心情を察する心的余裕もない又紬も専属の召使だからと云って特別扱いすることは無かった琴吹家の規律を
幼少より叩き込まれた紬であったから主従の区別は肝に銘じてある故に使用人との会話は最低限に留めようと努めていた
即ち菫が見習い同然であった頃はお互いの事を露も知らずに過ごしたのである此の義務的な関係は凡そ半年近く続いた
菫は永いあいだ一人前の使用人として認められなかった彼女は頗る物覚えが悪く不器用だったのである
斎藤家は丁稚と雖も一流の家系であったので父は娘の出来の悪さにほとほと困った。
菫は一生懸命やっている積りであったけれども日に一回は必ず失態を犯した更にそんな菫を信用していないのか
紬は出来ることは一人でやろうとした例えばふと気付くと紬が優雅に紅茶をすすっている、はて誰が淹れたのだろうと思い
訊ねてみると驚いたことに紬が用意した物だと云う菫は平身低頭申し訳ありません喉が御渇きになられているとは
気付きませんでした御無礼をお許し下さいと謝った又或る時などいきなり部屋の掃除をし始めたりもした
此れも菫は驚いて紬お嬢様はそのような雑用を為さる必要はありません部屋の掃除は私めがやりますのでと慌てて
止めるといった具合であったすると大抵紬は例の優しい笑みを浮かべてごめんなさいちょっとやってみたかったのと云う
その言葉には全く嫌味がなく菫は却って紬が何を考えているのか分からなくなるのであった。
こうした過怠を起す度に菫は自分が至らない事を反省したけれども紬は決して菫を信用していない訳ではなかった
自分より他人の気持を優先する紬の事であるから使用人の労力を気遣って積極的に手伝いをしたのかとも思われる
だがどれ程簡単な雑用でも仕事を奪えば如何に召使共の誇りを傷つけるか紬も想像できなかった訳ではあるまい
然るに「私もやってみたかったの」と云う台詞は言葉通り好奇心から来る本音であったかも知れない或いは後年
周囲の反対を押し切って屋敷を離れ一人暮らしをした事を考えると自立したい願望が此の頃既にあったのであろう乎
○ ○ ○
さて菫が琴吹家に仕えて半年も経つと覚束ないながら一通りの仕事はこなせるようになった大抵の場合に於いて未熟者が
半端な自信を得ると油断が生じるものである果して或る日大きな事件が起った。
菫が紬の部屋に飾ってあるトロフィーを粉々に割ってしまったのであるそれも一つではない五つ六つの黄金絢爛な上物たちである
上機嫌で床を掃いていた菫は調子に乗って手に持った箒を振り回し、あっと気付いた時にはもう遅くトロフィーは箒に
薙ぎ払われ床に叩きつけられた後であった菫の顔は一瞬にして青ざめた
菫には誤魔化すという発想がなかった又咄嗟に言い訳を考えるような悪賢い性分でもなかった然るにどうしたら良いか分からず
しばらく部屋で一人茫然としていた他の使用人が何か割れた音がする紬お嬢様の部屋から聞えたと覗きに行くと菫が砕けた破片を懸命に
拾っている姿が見えた当然菫の父が呼ばれ場は騒然となった。
父は粉々になった破片を見るや否や激昂して菫を怒鳴りつけた菫は身体を震わせて縮こまった菫の父は此れまでの失敗は
大目に見てやっていたが今度ばかりは失敗したでは許されない、此れは紬お嬢様が厳しい稽古に耐えて得た立派な賞であるのに
何とお詫びしたらよいのだと云って破片を片付ける事も忘れ散々菫をぶった菫は痛いやら恐ろしいやらで顔は涙と鼻水と痣だらけになり
嗚咽をあげて泣いた。
騒ぎを聞きつけた紬が遅れて部屋に戻ってくると召使が涙をぽろぽろ流して怒号を浴びせられているではないか
紬は状況を察するなり「斎藤ッ」と一喝したそれが余りに鋭く部屋中に響き渡ったので二人はびくりと驚き空気はしんと静まり返った。
紬は毅然と菫に歩み寄ると怪我はないかしらと云って泣き腫らした菫の頬や頭を優しく撫でた菫は息が詰まってまともに
返事が出来ないすると紬がおもむろに菫の手を取って傷が無いか調べた
幸い菫に怪我は無かった紬は菫の父をキッと睨みつけると私の部屋でみっともなく大声を張り上げあまつさえ
暴力沙汰など見苦しいにも程があります今後一切そのような事は許しませんと凄みのある声で云った
又高々トロフィーが壊れた位で召使一人の体面を追詰める程私が怒ると思いますか琴吹の者はそんなに器の小さな
人間ですか全く以て心外甚だしい此れ以上私と私の召使を侮辱する積りでしたらどうぞ気の済むまで喚きなさいと
十二歳とは思えない迫力で菫の父を圧倒した
菫の父は普段大人しい紬が珍しく語気を強めて物申した事に戸惑い思わず反論できなかった紬の静かな怒りは先程の
菫の父の怒声よりも鬼気迫るものがあった紬は又続けて私の召使のしつけは私がやります斎藤は下がっていなさい
それから外で見物しているあなた方も自分の持ち場に戻りなさいときっぱり云った
野次馬共は散らばるように去っていき菫の父も半ば気圧されるように部屋をあとにした残されたのは紬と菫の二人だけとなった
菫は相変わらずめそめそと泣いている
紬はなだめるように菫の肩を抱いてもう泣かないで、ほら一緒に片づけましょうと声をかけた菫は目を真っ赤にして
コクコクと肯いた此の時菫の潤んだ視界に紬がどう映ったか恐らく慈母観音が如き温情に感激し眩しく輝いて見えたに違いない
それ迄紬という人物が謎めいていただけに此の美しい印象は菫の脳裏に強く焼きついた
菫が神を崇めるが如く紬に接するようになったのは此の事件がきっかけであった以降菫が改めて紬を注視してみると
彼女の美貌と高尚な人格とに益々気付かされた紬は相変わらず口数が少なく菫に対する態度もいつも通りであったが
菫にはそれが却って謙虚な風に感じられた椅子に座りじっと本を読んでいる姿などは物憂げに目を伏した表情も相まって
真に神秘的であった菫はその神聖な風景に心を奪われうっとりした
事件は琴吹会長の耳にも入ったが紬が菫を庇い結局不問に付する所となった会長は紬の好きにやりなさいと云って
菫の処置も含め彼女に一任したという。 然るに紬と菫との間に主従以上の信頼関係が生れるのを期待したのであろう
けれども傍目から見れば二人の間にはむしろ強固な主従の壁が出来あがってしまったように思われる菫は紬を絶対的な主君と認め
決して馴れ馴れしく接しなかった自分が紬お嬢様に意見するなど思いあがりも甚だしいとして紬の意思を全て肯定するようになった
或る種の歪んだ信頼関係が斯くして築かれたのである
その昔会長と菫の父にも主人と召使の立場があった二人はその主従に於いて時に喧嘩腰に意見を交わす事もあったという
しかし紬と菫はそうではなかった菫が一方的に紬を崇拝し紬も亦それを受け入れた菫は只紬のあるがままを望み
それは琴吹家の使用人という使命を超えて菫の人生そのものとなったのである此れが菫にとって破滅的な道のりでない訳がない
周りの者達は菫の狂信的な言動をしばしば不気味にさえ感じていたが当の本人は至極仕合せそうであった
例えば何やら紬がむず痒そうな顔をしているすると菫がサッとちり紙を差し出して鼻をかませるのだが紬が一言
「ありがとう」などと云えば菫は頬を紅潮させて喜びその鼻水だらけのちり紙を有難く保管しておくのである当に変態的という他ない
而も紬もそれを咎めることが無いのである表立って気持ち悪いなど云える紬ではないから胸中を推し量るのは難しい
けれどもひょっとすると紬はそんな菫を可愛らしく思っていたのではないか。
紬は例の事件以来菫のしつけを全て引き受けた原則として紬の部屋には紬と菫以外の立ち入りを禁じたのである
故に一日のほとんどを菫を過ごすことになったしつけと云ってもあれをせよ此れをせよと強く命令するのではない
些細な失敗や仕事の抜けがあるとさりげなく注意を促し時には親身になって手取り足取り教えるのであった
紬からすれば専属の召使は自分が育てる義務があると感じていた節もあろう又純粋な善意も含まれていたとも思われる
すると知らぬうちに愛着が湧くのも自然の数であろう
したがって菫が熱心に奉公すれば紬もそれを内心喜んでいたのではないだろうか
傍から見れば菫の奉公は常軌を逸していたが紬には只召使のひたむきな努力に見えていたのかも知れない。
菫はよくドジを踏んだが愛嬌があり憎めない所があった紬と同じように彼女も人から愛され易い性格であった
そんな菫に一方的に見初められて次第に紬も恩情を超えて思う所があったに違いない
けれども紬は飽くまで主君と召使の関係を守ろうとしたそれが却って菫の崇拝の念に拍車をかけた。
最終更新:2012年01月22日 21:44