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琴吹の名の下で育ってきた紬はその閉鎖的な暮らしのためか世間知らずな一面があった内気な性格で小中学校と友人を多く作らず
礼儀や知識はあっても常識に疎かったのである又自分の家庭が普通でないという自覚もあったであろう然るに庶民的な価値観や生活に
憧れを抱くのは自然の成行きといえる。
はっきりと口に出して云わないが矢張り決められた生き方に不満を抱いていたのかも知れないそれが昂じてか紬は予め両親から
勧められていた高校への進学を拒んで桜ケ丘高校の受験を希望した此れが前触れなく唐突な申し出だったので周りの大人たちは戸惑った。
但し琴吹会長は娘が自発的に意思を示した事を喜び紬の希望をすんなり受け入れた斯くして紬は桜ケ丘高校を受験することになり春には
目出度く入学となった同時に菫も中学へ上がった
紬は元来表情が豊かであったが家では余り感情の目立つことが無かった常に何か思索に耽るような穏やかな目をしていたのが
桜ケ丘高校に入学すると期待感と満足感とに目を活き活きとさせて帰宅することが多くなった又普段は余り学校の事を話さない紬が
両親に楽しげに高校での出来事を語るようになったのも此の頃であった。
紬が屋敷でよくしゃべるようになっても菫との会話は依然として必要最低限なものに留まった
故に菫は紬が楽しそうにしている高校生活を詳しく知らなかった菫が噂で聞いたのは紬が軽音楽部に入ったという事ぐらいであった。
此の時菫の心に軽音部への嫉妬が無かったとは言い切れまい菫は自分の全てを主君に捧げる積りで奉公してきた
そこには見返りを求めない謙虚な忠誠心がなければならないと考えていたけれどもそれは只精神的に依存していたに過ぎないのである
菫は紬が自分以外の誰かに心を許してしまう事を恐れた此の考えは菫を大変悩ませた。
紬お嬢様が学校で何をしていらしても自分には全く関係ない寧ろお嬢様に親しい友人が出来たのは喜ぶべき事ではないかと
菫は自分に言い聞かせたしかし召使としての料簡とは別に、菫にはどうしても嫉妬の思いを拭いきれなかった
自分だけが紬お嬢様の傍らに居る資格があると信じたい気持があった紬の前では露骨に態度に現せないだけに
此の葛藤は胸の内で日に日に膨れ上り抑えがたいものになっていった。
紬は部活のため日頃帰りが遅くなり菫はその間何をするでもなくひたすら紬の帰宅を待った屋敷に仕えてから遊びらしい遊びもせず
趣味と言える物も無かったため仕事を一通り終えてしまうと暇を持て余したそういう時菫は痛切な寂しさを感じるのであった。
菫の苦悩とは対照的に紬は益々学校生活や部活を楽しんでいたかつて家に籠りがちだった紬が此の頃休日でも外へ頻繁に出掛けるようになった
そうすると菫と一緒にいる時間も短くなる菫は自分の人生が奪われていくように思えた此の絶望感は十四歳の菫には耐え難いものであったろう果して或る日
菫は生れて初めて家出をした。
家出と云っても本格的な家出ではない下校中に思いつきで道草し、いっそ此の儘帰らないでやろうとやけっぱちになったのである
どうせ自分が早く帰っても紬お嬢様は屋敷にいらっしゃらないそれに自分が居なくなる事で紬お嬢様も私の必要性を思い直して下さるかも知れないと期待したが
次には自分が子供じみた幼稚な考えをした事を情けなく思った此れではまるで紬お嬢様に対する当て付けではないかと激しい自己嫌悪に陥った。
一度決心すると意地が後押しして気持の引っ込みがつかなくなるもので、菫は近くの公園に寄りじっと時間が過ぎるのを待った
その間ぼうっと考え事に耽ったけれども脳裏に浮かぶのは紬のことばかりである改めて自分の不甲斐なさが悲しくなり己れの惨めさに涙をこぼした。
どれ程そうしていたか分からない気付くと空は真っ暗である不意に菫は空腹を感じた今頃屋敷では夕飯の支度をしている時刻である
私が帰らない事に気付いて慌てているであろうか。 いやもしかすると私など居なくても誰も困らないからと放って置かれているのかも知れない
或いは忘れられているのであろうか
紬お嬢様はどうしていらっしゃるだろうあのお方の事だからきっと私の身を案じているに違いないそう思うと菫は一刻も早く帰らなければと
心が落ち着かなくなったけれども今更何と云って詫びればいいのだろう一体紬に合わせる顔がない。
菫が思いつめてじっとしていると遠くで誰かが名前を呼んでいるのが聞えたハッとして面を上げると暗がりの公園の中で電灯の光が揺らめいて
こちらに向かっているのが見える屋敷の誰かが探しに来たのだとすぐに分かった。
菫は返事をするのを躊躇った思ったより早く探しに来てくれたのは嬉しかったが自ら見つけてくれと云わんばかりに身を乗り出したのでは
何のために家出したのか分からないここは見つかるまで黙っておこうと菫は物陰に潜みながら様子を伺った。
あちらは懸命に菫の名前を呼び続けているそれが次第に近づきはっきりと聞き取れるまでになると菫は声の主が誰だかようやく分かり思わず叫んだ。
そこに居たのは紬であった彼女は夜の町で一人菫を探していたのであるそれも辺りを憚ることなく
世間体もかなぐり捨てて必死に菫の名前を呼び続けていた菫はその姿を見るや否や慌てて影から飛び出し紬の下へ駆け寄った。
蓋し菫にとって此のような事態は驚きこそあれど嬉しくもあったろう紬が自分のためにこうして来てくれたことが
寂しい菫の心を癒したのは想像に難くない菫は恐縮と感激とで声を震わせながら紬お嬢様なぜ御一人で此のようなところまでと云った
菫は謝罪の言葉も忘れ只紬がいつものようにあの優しい瞳で自分を許してくれることを期待した
しかし月明かりにぼんやりと浮かんだ紬の表情は穏やかで無かったそればかりか険しい目つきで菫を睨んでいる
菫がそれに気付いた瞬間バチンと頬にするどい痛みが走った
アッと驚いて菫はのけぞった余りに突然だったので何が起きたか理解に時間がかかりようやっと紬を見ると彼女の顔は悲しみと怒りに歪んでいる
菫が茫然としていると紬が俄かに口を開いて曰く
「使用人の責務を放棄し何をしているかと思えば道草を食っている呆れて物も云えません況してや連絡の一つも寄越さず屋敷の者にまで
迷惑をかけるなど己が無礼を恥じなさい。 あなたが屋敷で無聊を託ち私の不在を快く思っていない事は此の頃の表情の暗い様子から薄々
感じていましたけれども一介の使用人が琴吹家の規律を破り斯くも身勝手な不遜の心得を許していい道理とはなりません
又私が何よりも許し難いのはあなたが私の信頼を裏切ったことです身辺の奉仕を召使に任せるのもその忠義に対する信頼あってこそ、
それを何と履き違えたか己れの都合で主家に背きあまつさえ召使の分際で此の私にまで恥をかかせましたあなたは琴吹の名に泥を塗ったのです。
身の程を知りなさい」と。
紬の語調には押し殺したような静けさと冷淡さがあったけれどもその声は僅かに震えている
暗がりの中で菫が我に返ると紬の目にうっすらと涙が浮かんでいるのが見えた。
後に菫が此の時の心境を語って曰く、
「それ迄の私は紬お嬢様の親切に甘えて滅私奉公の美徳に自惚れていましたところが紬お嬢様が望んでおられたのは
私の奉仕の心ではなく使用人としての役割であったのですあのお方は私の無益な心がけよりも琴吹家の召使たるべき
忠実な所有物としての斎藤菫を望んでいたのです。 したがって所有物は意志を持つ必要がありません斯くして私は
私のためでなく紬お嬢様のために人生を生きる決意と覚悟を得られたのです」と。
果して紬の真意はどうだったか知れないけれどもいくら名家の矜持と云えど紬が菫を道具のように見なしていたとは考えにくい
然るに紬の内では此れが菫に対する真の愛情であったことは厳しく叱咤しながらも涙を堪えていた様子から猜せられる。
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此の騒動を経て二人は月並の夫婦関係や恋愛関係の夢想だもしない強固な主従の縁を結んで行った凡そ我々一般人には理解できぬ世界であろう。
紬はその後高校を卒業し大学へ進学した折柄彼女が一人暮らしをしたいと云うと周りの者は驚き反対したが菫だけは紬の意見を
黙って受け入れた周囲が紬お嬢様が居なくなって一番悲しがるのは菫であろう、どうか紬お嬢様を引き止めてくれないかと頼むと
紬お嬢様には紬お嬢様の考えがございます私に異論を申し上げる権利などありませんと涼しい顔をして云うのであった。
斯くして紬は屋敷を去り入れ換わるようにして菫も桜ケ丘高校に入学した菫は言い付け通り軽音部に入部し
紬の痕跡を辿るように音曲の道へと進んで行った。
一人暮らしの紬とは長く連絡を取っていないけれども不幸とは感じなかった嘗て彼女が使っていた紅茶や菓子の名残から
己れの観念の中に紬の魂を満たしたのであろうか或いは菫に近しい友人に依ると部活という新しい居場所を見つけ
別の喜びを見出したと云うが読者諸賢は首肯せらるるや否や
終
おまけ
菫「な……な……なんですかこれー!?」ガビーン
純「これ梓の字だよね……」
菫(最近やけに紬お嬢様のことを質問してくると思ったら、まさかこんな小説書いてたなんて……
しかもちょっと え、えっちなシーンとかあるし……///)
ガチャ
梓「 」
純「あ」
梓「二人とも………み、み、見た……?」
菫「は はい……これ、先輩が書いたんですか?」
梓「はずっ はずかにゃああああああああああっ!」ピュー
純「逃げた……」
菫「逃げましたね……」
おわり?
最終更新:2012年01月22日 21:48