夕暮


空が徐々に赤く染まり、影が背を伸ばし始め、校内に響いていた喧騒も徐々に静まっていく。
そんな今日が終わろうとしている時間の中で、私は一人、部室で空虚な時間を過ごしていた。
先輩たちは受験勉強のため、部活には来なかった。私も帰ればよかったのだが、なんだか帰る気が沸いてこず、ふらりと部室に立ち寄ってしまった。
ふと周囲を見回す。先輩たちがいないとなんだかがらんとして、私だけが全てから取り残されてしまったみたい。

いつもの長椅子に腰かけ、赤く染まっていく部室を眺める。夕方は嫌いだ。意味も無く寂しくなってくるから。
だけど、考え事をするにはうってつけで、私は椅子にもたれかかりながら目を閉じて思考の渦へ身を任せる。
ごちゃごちゃしていた思考はすぐ、一人の女性のことで支配される。やわらかくて、暖かくて、誰よりも大人だと思えば一番子供だったりするどこか危なっかしくて目が離せない人。

…このところ、ムギ先輩のことが頭から離れない。
私の目は気が付くと彼女を追い、彼女が私に視線を向けるたびに私の鼓動は早まる。
ムギ先輩のことを考えると、なんだか胸が苦しくなるのに、私は彼女を想うことをやめることが出来ない。

ただ、それは苦しいと同時になんだか心地よいもので、、
私は今も寂しさと苦しさと心地よさがない交ぜになった思考の中で彼女のことを考えていた。

――今日は、一度も顔を見られなかったな。
彼女とは部活以外で顔を合わせることは殆ど無く、部活が無い今日のような日は会えないことのほうが多い。
なんだか彼女との縁が細いような気がして、私は一層寂しくなった。卒業したら、ムギ先輩と会えなくなるかもしれない。
学校から、私の世界から彼女の影が消えることに私は耐え切れそうもなく、考えるだけで泣きそうになった。
そんな思考に支配されて、私は膝を抱きかかえて涙がこぼれないようにするので精一杯だった。

そうやって思考が負の方向へと走っていこうとしている最中、部室の扉のがらりという音が私の耳に届く。
今日は、誰も来ないはずなのに。予期せぬ音に私は驚いて、意識を現実に戻した。


「…あ」

顔を上げるとぱっと表情を輝かせたムギ先輩の顔が私の視界に入る。

「…梓ちゃん」

「…ムギ先輩」

さっきまで私の思考を支配していた人が目の前に登場し、私は混乱する。

「なんで…」

「……あ、えっとね…。今日は誰も、部室に来ないかもしれないじゃない?だからトンちゃんに餌、あげなきゃて思って」

「…そうですか」

「けど、梓ちゃんがきてくれてたなら、大丈夫だよね」

「…はい」

「梓ちゃんは、こんな時間まで、何してたの?」

彼女の疑問はもっともで、さっきまで弱音ばかり吐いていた私はなんだか彼女に弱いところを見られたようでばつが悪く、慌てて抱えていた膝を床に戻し、姿勢を正した。

「…別に何もしてないです。ちょっと考え事、したくって」

「ふーん…」

ちょっと突き放した言い方になってしまった。
ムギ先輩は何も悪くないのに。自己嫌悪の念が私を支配し、彼女から視線を逸らす。
そんなつんけんした私にムギ先輩は臆した様子も無く言葉を続ける。

「そうだ!…ねえ!お茶にしない?」

「…え?」

「こんな素敵な夕暮れ時に、ティータイムって、とってもいいと思うの!」

彼女の素直で優しい微笑みが私に注がれる。その笑顔が私にだけ注がれているだけで私の負の思考は吹き飛んでしまう。

…我ながら単純だと思う。

………

……


窓から射しこんでくる光が更に赤みを帯びるのにも構わず、私たちはテーブルを囲む、普段の騒がしいティータイムとは間逆の、静かで優しい時間。

いつもの大騒ぎも楽しいけれど、こういうのもいいなぁと、先輩を横目に思う。
あ、今ムギ先輩と2人っきりなんだ。今更状況を把握して、なんだかいい雰囲気なのかもなんて思いながら、ムギ先輩に視線を移す。
紅く染まりながら段々と輪郭を失い、闇に溶けようとしている空間の中で、彼女の鮮やかな色の髪だけが光に負けずに輪郭をはっきり保っていて、まるで一つの絵画みたいだ。
そんな彼女に私はどうしようもなく見とれてしまい、彼女が呼びかけているのにも気付かなかった。

「…梓ちゃん?」

「…」

「あーずーさーちゃん」

「…ぁ、す、すいません先輩。ちょっと、ぼーっとしてて」

「もぉ。ちゃんと私の話、聞いてね?」

怒ったような口調で、それでいてとっても楽しそうに笑っている先輩の顔。彼女がこの表情をしたときはとっても楽しんでいて、且つ誰よりも暴走しがちで。
そんなことがわかるほどには、先輩と一緒の時を過ごしてきたし、嫌いなもの、彼女の悲しんでいる顔を余り見せてくれない程度に私は彼女を知らない。
急にそんなのはイヤだと感じる。ムギ先輩のこと、ムギ先輩のいろんな表情、もっともっと見ていたいのにもうすぐ先輩は卒業してしまうのだ。

彼女は私の意識がちゃんと自分に向いたことに満足したのか、話を続けた。

「だからね、夕暮れ時の部室に2人っきりなんて、なんだかとってもロマンチックねって」

「…はあ」

「どんどん暗くなってるのに電気もつけないで、なんだかいけないこと、してるみたい」

そういってムギ先輩は無邪気に笑う。
そんな少女マンガみたいなことを後輩に嬉々として話すムギ先輩に若干あきれるふりをしつつ、自身の心臓の鼓動が早まったのを無視して私は同意する。

「……そうですか」

「うん。なんだかね、ないしょな恋人の秘密の逢瀬って感じ」

彼女が私をからかっていることは分かっているのに私の心はどうしようもなく乱される。彼女の一挙手一投足が私の意識に食い込んでくる。
自身のこの異常事態に私はうろたえるしかなく、口を開いてみてもなんだか言葉にならない音を発するだけ。
真っ赤になって口をぱくぱくさせている私を見て満足したのか彼女は満足そうに笑う。

「ふふ…ゴメンね?変なこと言って。梓ちゃんとこんな風に一緒に過ごせたのがなんだかうれしくって」

そんなムギ先輩の言葉を聞いた私は自分がどうしようもなく舞い上がっていることに気付く。
ムギ先輩も私と過ごせて嬉しいんだ。ムギ先輩もおんなじことを思ってるんだ。
ムギ先輩のたった一言に私は歓喜し、同時に言葉があふれ出す。私だって。

「…いえ。私もそう思ってましたから」

「…ふえ?」

「こんないい雰囲気の中でムギ先輩と2人きりで嬉しいって、私もそう思ってましたから」

真顔でこんなことを言う私に驚いたのか、ムギ先輩は目を見開いた後、その顔が一気に朱に染まった。
私の放った言葉は彼女にとってかなりの一撃だったらしく、しばらくあたふたした後ようやく言葉を搾り出した。

「ぁ、ありがとうございます」

なぜかお礼を言われてしまった。さっきまで余裕たっぷりだったムギ先輩の余りの動揺っぷりに私は思わずふきだしてしまって、

「もう!先輩をからかうものじゃありません!」

と、からかい返されたんだと思ったムギ先輩に怒られてしまった。…ホントに思ったこと、言ったのにな。
赤い顔のままあたふたと先輩の威厳を守ろうとするムギ先輩は眉をきっと上げ、怒りの表情を浮かべているものの、真っ赤な顔と潤んだ瞳で迫力なんか一切無い。

…私の言葉で、ムギ先輩はこんな顔をしてくれてるんだ。
そうだよ。私の行動で、私の言葉で、彼女のいろんな面を見ることだってできるんだ。彼女が卒業してしまうなら、学校以外で会えばいいじゃないか。
先輩のいろんな表情も感情も私の言葉で、行動で、引き出すことができる。いろんなムギ先輩を見たい。
卒業したってムギ先輩といっしょにいたい。

――ムギ先輩を、私だけのものにしたい。

暴走する思考の中で、私は無視し続けた自分の感情にようやく向き合う。
…やっぱり私は、ムギ先輩が好きなんだ。
ムギ先輩を見る。彼女は赤い顔のまま。ぷいっと私から視線をそらす。
彼女の視線をこちらに向けたくて、私は彼女に話しかけようとするものの、彼女への想いがあふれだしてうまく言葉がでてこない。

…でも今なら

「ムギ先輩」

「……ふんだ」

今、ここでなら、ようやく向き合えた今なら、一番伝えたい気持ちを、伝えられる気がする。

「ムギ先輩」

彼女の手をとる。私の行動に彼女は驚いたのか、びくっと身体を震わせて、私に視線をむける。
もっともっと、私を見てほしい。これから先もずっと。だから

「私、ムギ先輩のことが好きです」

「……ぁ」

冗談なんかじゃない私の想いを、ムギ先輩に伝えたくて。

「卒業したら、会えなくなるなんてイヤです。もっともっとムギ先輩のことを知りたい。もっともっとふたりっきりでいたい。
 卒業しても、大学に入っても。ううん…その先だって私はムギ先輩と一緒にいたいんです」

私の想いを、伝わらなくても、叶わなくても、今、彼女に伝えたかった。

「ムギ先輩、大好きです」

こんなときに伝えなくてもとか断られたらどうしようとか私は一切考えず、彼女に思いの全てをぶつけた。
いきなりの私の告白を先輩は処理しきれなかったのか、しばらく声にならない声を発し、急に俯いた後、何も言わなくなった。
私は不安に包まれる。私の言葉は伝わったのか。冗談だと思われたのか。
…彼女は優しいから、どう私を傷つけないように断ろうかと考えているのかも。
彼女の気持ちも大して考慮せず、勢いで告白してしまったことに私は今更気付いて、だけどもう後の祭りで、彼女の反応をただ待つしかなかった。

私の告白から部室に伸びる影が随分と背を伸ばす程の時間が経った後、ムギ先輩がようやく口を開く。
…断られるのかな。判決を待つ被告人のような気持ちで彼女の言葉を聞く。

「…わたしも、すき」

「…え?」

「わたしも、あずさちゃんのこと、だいすき」

私のおそらく求めていた言葉をムギ先輩は口にする。喜んでいいはずなのに、彼女が泣きそうな顔をしているので、私はただ呆然とするしかなかった。
ムギ先輩はとうとう涙を流し始める。私はどうしたらいいかわからなくって、ただ、先輩を見ているしかなかった。
ひとしきり涙を流した後、落ち着いてきたのか彼女がとぎれとぎれに口を開く。

「今日ね、ホントは梓ちゃんと会いたくて、部室に来たの。」

「会えたらいいなって。そしたら、あずさちゃん、いてくれた。とっても嬉しかったの」

「伝えられないと、思ってた。梓ちゃんに嫌われたくなくって」

「どうしよう…。とっても嬉しい…」

彼女はそう言って再び涙をこぼしつつ、私に向かって笑顔を浮かべてくれた。今までで一番綺麗な笑顔。ムギ先輩が私だけに向けてくれる笑顔。
そう思ってしまうほど歓喜に包まれているのだと。私はようやく気付く。
彼女に伝わった、私の想い。これから形にしていくんだ。
ムギ先輩が落ち着いてきた頃、私は動きそうになる身体を必死で押さえながら、彼女に提案する。

「ムギ先輩、今度の週末、空いていますか?」

「…うん。空いてるよ」

「じゃあ、2人でお出かけしましょう。遊園地でも、お買い物でも、ムギ先輩とどこかに行きたいです」

努めて冷静に振舞いながら、彼女と話す。でも私はいろんな感情であふれそうで、とまらない。彼女を愛おしいと思う気持ち、彼女に触れたいと思う気持ち。

「…うん」

「ムギ先輩」

どうしよう

「はい」

もう抑えられないよ。

「…抱きしめても、いいですか?」

抑えられなかった私の言葉を受け止めたムギ先輩はまた顔を赤く染め、照れながらも頷いてくれた。

「ど、どうぞ」

私から彼女を抱きしめるのは初めてのことだ。ムギ先輩の背中に腕を回し、身体を密着させる。
…ムギ先輩の体温は安心する。いい香りもするし、とってもやわらかい。
恐る恐る、私に回される腕も、手に触れるさらさらの髪も、鼓動も、全てが愛おしくて私は腕に力をこめた。
彼女の体温を、感じる。とっても暖かくて優しい温度。

「…あったかいね」

「ええ」

「……ずっと、こうしてたい」

「…わたしもです」

だんだんと夜になり始めた時間の中で、かろうじて輪郭を保っていた彼女ももうあやふやで、だけど抱きしめた彼女の鼓動が体温が、吐息が彼女の存在を雄弁に語っている。

そうして互いの存在を、想いを確かめ合いながら、私たちはふたり、闇に溶けていった。




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最終更新:2012年02月01日 23:13