憂「…お姉ちゃん!お姉ちゃん!?」
浴槽の中で忘我状態だった私を現実に引き戻したのは、憂の声だった。
憂「お姉ちゃん…どうしたの?大丈夫?」
憂は心配そうに、風呂のマットに膝をつきながら、私の顔を覗き込んでいる。
その真っ直ぐな目は、塞ぐ姉を心配する妹のそれでしかなく、私は先程まで友達と結託して腹を探っていた自分を恥じた。
―ああ、そうだ。今日はクリスマス。ここは私の家の風呂場。
夏の夜でもなければ、お嬢様の別荘でもない。
その証拠に、風呂場の小さい窓からは、星も朝日も見えない。
唯「えへへ…ぼーっとしてた」
憂「のぼせてない?」
唯「うん。大丈夫」
憂「…梓ちゃんの事思い出してたの…?」
私は精一杯笑顔を取り繕ったつもりだったが、この聡明な妹には見透かされたようだ。
唯「うん…」
頷いて顔を落とす私を、憂は自分の服が濡れるのも意に介さず、抱きしめた。
憂「大丈夫…。大丈夫だから…」
憂は小さく、そう繰り返した。
憂の髪から、あの時の匂いがした。
あのシャンプーの。
憂はあずにゃんと同じシャンプーを使っていた。
合宿の少し前にあずにゃんから教えてもらったらしく、憂はそれをとても気に入っていた。
柑橘系のその匂いを肺いっぱいに吸い込んだ私は、憂を私の身体からゆっくり引き離した。
唯「ごめん、ごめん。もうあがるね。憂も早く入りなよ」
私は浴槽を出ると、座ったままの憂の横を通り、脱衣所のバスタオルで身体を拭いた。
憂「…」
立ち去る私を、憂は無言で見つめていた。
私はあの日以来、あのシャンプーの匂いを畏れるようになっていた。
また私は理性を失うかもしれない。そう思うと、汗腺が刺激されるような、焦燥感に駆られてしまうのだ。
実際、あの時みたいな事はもうなかったが、匂いと記憶は密接に
リンクしていて、あの匂いを嗅ぐだけで、全ての記憶が荒波の様に押し寄せてくるのだ。
それが堪らなく気持ち悪かった。
にも関わらず、私の本能はその匂いを求めた。
精神的な依存に近かった。いまだに私はあずにゃんの身体を欲していたのだろう。
憂に隠れて、私は風呂場で何度もその匂いを嗅いでいた。
しかし、私はその依存を断ち切るべく、先週、憂が買ってきたシャンプーの買い置きを全て捨てた。
ちょうど私がパジャマに着替え終わる頃、憂は服を脱いで風呂場のドアを閉めていた。
さらさらとシャワーの音が聞こえてくる。
その水音もあの日の記憶を蘇えらせるため、私はなるべくそれが聞こえないよう、居間のテレビをつけた。
あの特番は終わったのか、今はアイドルグループが理想のクリスマスを語る番組が放映されていた。
それを見るともなく見ていると、風呂場から憂の声がした。
憂「お姉ちゃーん、シャンプーきれちゃったから、詰め替え用のとってくれる?」
私は洗面所でシャンプーの替えを探すフリをした後、
唯「憂~、ないよー」
と白々しく言った。
憂「え?こないだ買ってきたはずなんだけど…」
唯「でも見当たらないよー?」
憂「…え~…?」
唯「コンビニ行って買ってこようか?…って私お金ないかも…」
憂「うーん…じゃあ、居間のテーブルの上に私の財布があるから、買ってきてくれる?」
唯「わかったー」
憂「ありがとうお姉ちゃん。あ、出来れば同じの買ってきて欲しいな」
唯「うん。あったらそれ買ってくるよ」
風呂場のガラス越しに、互いの顔を見る事なく会話を終えた私は居間に向かった。
テレビを消し、憂の牛皮の財布をパジャマのポケットに入れ、パジャマの上からコートを羽織ると、サンダルを履いて私は家を出た。
勿論、憂には別のシャンプーを買っていくつもりだった。
唯「う…さぶい…はぁ~…」
頬を刺す寒さの中、私は手袋をはめた両手を擦り合わせながら、コンビニへ向かった。
私が吐いた白い息は、ゆっくりと昇っていった。
私はそれを目で追っていく。
白いモヤはあっという間に、消えてなくなり、私はそれが広がっていくのに吊られて、空を見上げる格好になっていた。
そこにあの露天風呂から見た星空はなく、雲なのか排気ガスなのかよくわからないものに夜空が覆われているだけだった。
私は雲間(ガス間かもしれないが)から星が見えないか目を凝らした。
――合宿の帰りもこんな具合の曇りだった事を、私は思い出した。
律「…いや~な空だな」
合宿の帰りは夕方だった。
昨夜までは晴れていたはずの空は、そこに浮かんでいるのが不思議なほど重く見える雲群に覆われていた。
その日、きちがいじみたあの夜を越え、朝を迎えた私達は、早速隠蔽工作に着手した。
澪ちゃんとムギちゃんは半日かけて、ケータイを使ってネットで必死にエンバーミング…いわゆる防腐処理について調べた。
私とりっちゃんは、風呂場を徹底的に洗い直した後、再び入浴した。
これは風呂場が綺麗すぎるのは逆に怪しいという澪ちゃんの指摘に従っての事だった。
すでに垢など残っていない身体をボディソープで洗い流すのは、妙な気分だった。
垢は落とせても、罪を流す事はできない。むしろこれによって、さらに私達の身体は汚れていく気がした。
何かのドラマで、「長いこと人間やってると、洗っても落ちない汚れがつくもんだ」というセリフがあったが、まさか18年ぽっちの人生でこんな大きい汚れがこびりつくとは、私もりっちゃんも思わなかった。
それから私達はあずにゃんをギターケースに詰め、あずにゃんの荷物を持ってバスに乗った。
それから電車を二回乗り継ぎ、私達は桜ヶ丘に帰ってきた。
りっちゃんはあずにゃんの家に荷物を届け、私と澪ちゃんとムギちゃんは、澪ちゃんの家でアルコールや小難しい名前の薬品を使い、あずにゃんにとりあえずの防腐処理を施した。
みんな医学の素人ではあったが、何もしないよりはマシだった。
実際、ある程度の効果はあったらしく、その後腐臭立ち込める自室で数学の宿題をするハメになる…なんて事はなかった。
加えて、全員の部屋でアロマオイルを焚き続ける事にした。少しでもニオイを掻き消すためである。
防腐処理を終えた私達はりっちゃんの帰りを待った。
程なくしてりっちゃんは澪ちゃんの家に来て、万事上手くいった旨を私達に伝えた。
とりあえず私達は解散し、明日また集まる事にした。
私達は担当部位をギターケースに隠し、各自の家へ持ち帰った。ムギちゃんとりっちゃんのぶんは、別荘から持ってきたケースで補った。
唯「ただいま」
憂「あ、お姉ちゃんおかえり!合宿どうだった?」
家に着いた私は、出迎えてくれた憂を一瞥しただけで、問い掛けには答えないまま、階段を上がって自分の部屋に入った。
ギターケースを二つ抱えている私の姿は、憂の目にどう映っただろう。
クローゼットにあずにゃんの頭部と上半身が入ったギターケースを押し込めて、澪ちゃんの家の帰りに百貨店で購入したアロマオイルを炊き、私はベッドに俯せになった。
そして枕に顔を埋めた後、ふうっと息を吐いた。
甘ったるいラベンダーの香りが部屋に充満した。
コンコン
部屋のドアをノックする音がした。
憂「お姉ちゃん、入るよ」
憂「あれ?いい匂いがするね?」
唯「…」
憂「お姉ちゃん、何かあったの…?軽音部の人と喧嘩しちゃった…?」
私は枕に顔を埋めたまましばらく黙っていたが、憂が立ち去る気配もなかったため、顔を上げて話しはじめた。
唯「あずにゃんと喧嘩しちゃった…」
憂「梓ちゃんと…?」
唯「うん。私が練習しないから、怒って帰っちゃったんだ…」
事前に用意したセリフ通りに私は話した。
私は精神的に参っていたが、私達にとって憂は最も警戒すべき相手だ。
ここで私が心身疲労を理由に下手を打つわけにはいない。
憂「そうなんだ…。ちゃんと梓ちゃんに謝った?」
唯「うん…謝ったよ。何回も謝った」
これは本当だった。
私は謝った。
何回も、何回も。
これからも私は、心の中で謝り続けるだろう。謝り続けなければならない。
憂「そう…。じゃあ梓ちゃんもきっと許してくれるよ。私からも言っておくから…」
唯「うん。ありがとう…」
憂「ご飯、何時にする?」
唯「ごめん…今日はいらない。私、疲れたから寝てるね」
憂「うん…。何かあったら呼んでね?」
そう言って憂は私の部屋を出ていった。
私はベッドに寝そべりながら机の上の時計に目をやった。19時過ぎだ。
みんなに、憂にはうまく伝えたとメールを送り、ケータイを放り投げると、私はまた枕に顔を埋めた。
唯「…っ……っぅ……!」
憂に気付かれないよう、私は声を殺して泣いた。
泣きつかれた私は、そのまま眠りに落ちた。
が、30分もしないうちに目を覚ましてしまい、身体は疲労を訴えていたが、精神が眠る事を許さなかった。
枕の端をぎゅっと握りながら、私は何度か思い出した様に泣いた。
それを繰り返しているうちに、カーテンの隙間から朝日が射し込んできた。
部屋を出て階段を降り、居間に入ると、憂が掃除機のコンセントを収納していた、
どうやら朝から掃除をしていて、今しがた終えたらしい。
憂「あ、お姉ちゃんおはよう。ご飯テーブルに置いてあるよ」
唯「うん。ありがとう」
憂「…ねえ、梓ちゃんの事なんだけどさ」
その言葉を聞いて、私の全身の神経がぴんと張り詰めた。
唯「あずにゃんがどうかしたの…?」
憂「うん。昨日お姉ちゃんの話を聞いてからメールしたんだけど、返事がないんだ」
憂「それで電話してみたんだけど、梓ちゃんのお母さんが出てね、まだお家に帰ってないんだって…」
唯「…どういう事?」
私は愚鈍な姉を演じた。
憂「わかんないけど…家出すような子じゃないし…心配だよ…」
唯「うん…。確かにそれは心配だね…どうしちゃったんだろう?」
憂「お姉ちゃんと喧嘩して紬さんの別荘を飛び出しちゃったんでしょ?」
憂「ちゃんと桜ヶ丘まで帰って来れてないのかな…?」
唯「…どうしよう…あずにゃん、迷子になっちゃったのかな?」
憂「…ねえ、もし明日になっても連絡つかなかったら、警察の人に相談したほうがいいと思う…」
憂「女の子が一人で歩いてたら危ないし…もしかしたら何かあったのかも…」
警察という単語を聞いて、私の心臓が大きく鳴った。
ここで私が通報を止めるのはおかしい。
いつもの私なら、間違いなく憂に同意しているはずだ。
私は逡巡した後、答えた。
唯「うん。そうだね。あずにゃんに何かあったら、私も嫌だもん…」
憂「…本当に何もなければいいけど…大丈夫だよね?」
唯「うん…。きっと迷子になっちゃったんだね…。猫さんみたい」
憂「ふふ…もう、お姉ちゃんったら」
まだ失踪1日目だ。
さしもの憂も、まだ重大な事態になっているなんていうのは、万に一つくらいにしか思ってないだろう。
憂は時代錯誤な三角巾を外すと、掃除機を階段下の物置に仕舞いに行った。
その日、りっちゃんの家に集まり、話し合いをしたが、まだこれといった動きはなかった。
私達は家族に何も気づかれていない事を確認し合い、解散した。
三日後。
夏休み最後の週の水曜日に、あずにゃんの母親が私の家を訪ねてきた。
あずにゃんが合宿の日から家に帰って来ないため、私に話を伺いに来たようだ。
他の三人から、あずにゃんの母親が来たという話をまだ聞いていなかったので、察するに、軽音部の中で私を最初に訪ねたようだ。
梓母「梓から、唯ちゃんの話は良く聞いていました。梓をとても可愛がってくれていたみたいで…」
私は前置きを遮るように言った。
唯「あずにゃ…梓ちゃんはまだ帰ってないんですか?」
梓母「…はい。唯ちゃんは何か知ってる?」
敬語とタメ口を混ぜて喋る人だった。
私のほうが20歳近く年下だが、娘の先輩であるため、何となく扱いにくいのだろう。
唯「わかんないです…。合宿で別れてから、何の連絡も来てませんし…」
梓母「…そう…ですか…」
その後、私達は互いにぽつぽつと言葉を交わしたが、あずにゃんの母親は私から何の手がかりも得られそうもない事を悟り、丁寧に挨拶をしてから、私の家を去った。
私は自分の部屋に戻ると、急いで三人にメールを送った。
私が話した内容を出来るだけ詳しく書いて。
後で食い違いが生じないように、これは全員に義務づけられた行動だった。
夏休み最後の日、警察の人が来た。
あずにゃんの両親が通報したらしい。
警察の訪問は、私が4人の中では最後だったため、事前に澪ちゃんから会話の内容とその対応を徹底的に指導されていたので、この日は難なく切り抜ける事ができた。
翌日、始業式を終えた私達は、いつものように音楽室に集まった。
私が音楽室に入った時、みんなの前にはムギちゃんが淹れた紅茶が置かれていたが、量が減っていないところを見ると、誰も口をつけていないようだ。
あずにゃんが座っていた席の前には、猫のイラストが描かれたカップが置いてあり、それも紅茶で満たされていた。
紬「はい。どうぞ唯ちゃん」
唯「ありがとう」
私はムギちゃんからカップを受け取り、席についた。
私のカップの中で揺れる紅茶から、湯気がゆらゆらと立ち昇った。
律「…とりあえず、今の所は大丈夫そうだな」
りっちゃんが最初に口を開いた。
今日の議題は、バンドの事ではない。
宿題の事でもないし、試験の事でもない。
お菓子の事でもなければ、最近始まったドラマの事でもなかった。
私達は、これから毎日あずにゃんの話だけをして、放課後を過ごす事になるのだろう。
私達が守ろうとした以前の軽音部はもうどこにも存在しておらず、これは澪ちゃんとムギちゃんも誤算だったようだ。
音楽室と楽器とお茶があれば何とかなるほど、私達はシンプルに出来ていなかった。
澪「大丈夫?何が?」
澪ちゃんが不機嫌そうに尋ねた。
最終更新:2010年01月28日 00:23