次で何度目になるだろうか。もう、紬は数えていなかった。
ただ、決めていた。
次に律が澪の話をするのならば、遮ろうと。
「確かに、あの映画は
ホラーっていうより、
コメディだけどさ。
でもあの映画で恐怖を感じる人も居る訳で。
例えば澪なんかは」
「はい、ストップ」
紬は予め決めていた通り、律の発言を遮った。
そして訝しげな眼差しを投げ掛ける律に対し、人差し指を立てて宣する。
「駄目よ、他の子の話なんてしたら。
りっちゃんは今、私と二人っきりで遊んでるのよ?
だから、今は私だけに集中して?」
「んー、澪の話でも駄目なの?」
「澪ちゃんの話”だから”駄目なの」
鈍感、と心の中で叫びつつ、紬は答える。
”だから”という語に、強いアクセントを込めて。
実際に律は、澪の話ばかりしていた。
今この場に居ないその存在を、恋しがるかのように。
「えっ?澪の事、嫌いなの?」
律が驚いたような声を上げる。
本当に鈍感だと、紬は重ねて思った。
「いいえ、嫌ってなんかいないわ。
ただ、りっちゃんと特別に仲がいい人でしょう?
だから、最も避けて欲しい話題なの。
嫌いな訳じゃなく、嫉妬心、が一番近いのかな」
「ふーん、まぁ嫌ってないなら良かった。
ムギの言う通り、澪の話題は避けるよ。名前出すのも、控えるよ。
でも何か、ムギったらデートみたいなノリだよね。
他の子の、しかも特別に仲の良い子の話しないで欲しいとかさ」
律は笑いながら承諾したが、紬としては胸中愉快では無い。
これがデートだという思いが、二人の間で共有されていない事が浮き彫りとなったからだ。
以前、夏休みに律と二人きりで遊んだ事がある。
その時はまだ、恋と言うよりも仲良くしたいという思いが強かった。
だが今や、はっきりとした恋愛感情を律へと向けるに至っている。
今日こそは告白しようとも、決意していた。
だからこそ、律のみを遊びに誘った経緯があった。
「ノリとかじゃなくて、私、デートだと思ってたけど」
紬は頬を膨らませて言った。
律は驚いたように一瞬だけ目を見開いたが、すぐにいつもの表情に戻った。
「そうだよな、デートだよな。
やっぱり友達とデートするのも、ムギの夢だったりするの?」
律はデートだと肯定したが、紬は満足しなかった。
デートを擬した遊び、という律の思いが見て取れたからだ。
友達、という言葉も不満の要素だった。
「りっちゃん、私は本気よ。
友達として、デートごっこがしたい訳じゃないの」
紬の真摯な姿勢が伝わったのか、律が息を呑む音が聞こえた。
そして、訪れる数秒の沈黙。
その後に、律は躊躇いがちに言葉を放ってきた。
「ムギは、その、私の事が好きなの?
それも、友達としてじゃなく、所謂、恋愛の対象として?」
律の声は緊張を帯びて震えていた。
「ええ、恋愛感情を向けているわ。
私、そういう意味で、りっちゃんの事が好き」
紬の声も緊張で震えた。
そして再び、二人の間に沈黙が訪れる。
今度の沈黙は先程と違い、数秒では終わらず1分は続いた。
「あはっ、私、今まで、ムギの事そういう目で見て無かったからさ。
ちょっと混乱してる。少し、頭の整理させて」
耳まで赤く染めた律はそう言うと、幾度も深呼吸を繰り返した。
それは思考する際の仕草には見えない。
迷いを口にする際の仕草に、紬には映った。
頭の整理と言いつつも、既に律は結論を出しているのだろう。
後はそれを口にする心の準備が必要なだけだ。
暫く続いた律の深呼吸がいよいよ終わった時、紬の胸の鼓動はいや増した。
息苦しくなる程、心臓のピストン運動が激しく胸部に響いている。
早く答えを聞きたかった。聞いて、胸で暴れる鼓動を鎮めたかった。
胸が壊れそうだった。心が壊れそうだった。
深呼吸を終えてから数秒経った後、律がゆっくりと口を開いた。
そして一語一語、噛み締めるように区切って言う。
「私も、ムギの事、好きみたい。
その、友達としてじゃなく、恋愛感情として。
言われて気付いたけど、私もムギの事好きだったみたいで。
いや、好きだって言われたから、私もムギの事が好きになったのかな?
とにかく、今はムギの事、好きだよ。
好きだって言ってくれたムギに、全力で応えたいんだ」
律の言葉が終わると同時に、彼女の細い体を抱き締めていた。
迸る歓喜の感情に駆られた衝動が、そうさせていた。
「嬉しいっ、私、本当に嬉しいっ」
律の身体を抱きながら、紬は小さく叫ぶように言う。
「私も嬉しいよ、喜んでくれて」
強く強く抱き締めているのに、律は痛みを口にしなかった。
代わりに喜びの共有を口にして、頭を撫でてくれた。
ずっと、そのままで居たかった。
だが紬は至福を少しの間味わった後、律を解放した。
どうしても、訊かなければならない事があった。
それは律に恋した瞬間から、ずっと紬の脳裏に燻っている事だった。
恋愛が成就しない懸念として紬を焦がし、
また成就したとしても懸念として残り続けるだろうと思っていた事だった。
「ねぇ、りっちゃん。一つ教えて?
私、今、とっても嬉しいわ。それでもね、気になってる事があるの。
澪ちゃんの事は、いいの?」
澪は律にとって、特別な存在であるはずだ。
同様に、律は澪にとって特別な存在だろう。
そして紬から見た澪は、恋敵であるとともに大切な友人でもある。
だからこそ、紬は訊かなければならなかった。
律の意思を確認する為に。
そして、澪へと律の心を向ける事で、
抜け駆けめいた告白の贖罪に充てる為に。
「皆誤解してるけどさ、澪とはそういうのとは違うからさ。
大切な友達ではあるけど、それでも親友ってだけだよ。
それに、今の私の恋人はムギじゃん?
澪じゃなくって、ムギが恋人なんだよ?」
律はそう言うが、本当に澪とは友人でしか無かったのだろうか。
紬には、そうは思えなかった。
今の恋人である紬を傷つけない為に、過去や本心を隠しているのかもしれない。
また、少なくとも澪は、律をただの友達とは思っていないだろう。
そう思えるだけの根拠は、かつて律と二人きりで遊んだ時に求める事ができる。
あの後で律は、澪から自分も誘えと激怒されたらしい。
ただ実際には、律は紬を誘う前に澪を誘って断られている。
その自家撞着を律に指摘された澪は、状況の変化を理由に挙げていた。
即ち、紬も呼ぶなら改めて自分も誘うべきだ、という論理だった。
紬とは遊んでみたかった、という思いが澪にはあったらしい。
それらは律から聞いただけでは無く、澪本人の口から語られた事でもある。
だが、紬は”一度も”澪から遊びに誘われた事が無い。
もし、澪が紬と遊びたいという思いを持っているならば、誘えばそれで済む話である。
それ故澪は、律が自分以外の人と二人きりで遊んだ、
という点に怒っている事が明白だった。
それは恋愛感情を想起させる、強い独占欲や嫉妬心である。
紬は指摘せずにはいられなかった。
「でもっ、澪ちゃんは」
「はいっ、ストップ」
紬の声は、律によって遮られた。
言い掛けた言葉を飲みこんで、紬は訝しげな視線を律へと注ぐ。
対して、律が紬に向ける眼差しは優しく、続けて放たれた声も穏やかだった。
「あのさ、澪の話を控えるよう要求したの、ムギだろ?
なら、ムギも控えないと。
少なくとも、辛い思いしてまで、拘泥するような話題じゃないよ。
それにその名前はもう、ムギは気にしなくていい。
そっちの始末は、私で付けるから。ムギの恋人としての、ケジメだから」
律の言葉が終わると同時に、紬は身体に暖かな支えを感じた。
今度は律の方から、紬を抱き寄せてくれたのだ。
「ありがとう、ありがとう、りっちゃん」
紬の胸から懸念が消えた訳では無い。
やはり不安が渦を巻き、澪に対する罪悪感も犇めいている。
それでも、抱かれている今は、感情の負担は和らいでいた。
「明日、部活でさ、私達が交際してるって事、皆に言おう。
勿論、私から言うよ」
澪の眼前で律が紬との交際を明かすという事、その心遣いが深く心に染み入った。
それは、澪に未練が無い事を紬に示してくれる、という事だ。
律は澪との関係をどういう目で見られているか、充分に承知しているのだろう。
だからこそ、紬の懸念を一つ消そうとしてくれている。
紬は心底から、律に惚れて良かったと思った。
「りっちゃん、本当にありがとう。
私、私、良かった、りっちゃんと付き合えて、本当に良かった」
気付けば、声が掠れていた。視界も霞んでいた。
「私も、ムギと付き合えて、本当に良かったよ」
律はそう言うと、紬の目元を拭ってくれた。
明瞭さを取り戻した紬の視界に映る律は、本当に綺麗だった。
.