*

 紬と律が付き合い始めて、一週間近く日が経った。
その間に、二人の関係はより恋人らしく深化した。
それは自然の成り行きでは無かった。
澪から受けた屈辱が紬の恋心と愛欲を加速させ、
二人の関係の発展を遂げさせたのだ。
 澪の態度は、紬の独占欲を強烈に刺激していた。
余裕に満ちた澪から律を完全に奪い去り、自惚れを糾してやりたかった。
紬が律に恋人として伝えた幾つかの願望が、その思いを示している。
澪にあまり会わないで欲しい、澪と二人きりにならないで欲しい。
そういった願望に対して、律も応えてくれた。
それは律が澪を避けるようになった、という事では無い。
依然として二人は仲が良いが、律は友人としての範疇を死守し続けている。
二人きりにならぬよう、あまり親密になり過ぎぬよう、
律は澪と適度な距離を保って関わっている。
 紬は律の姿勢が有り難い反面、申し訳無く思ってもいた。
友人との関わり方にまで口を出す事は、過干渉だという自覚もあった。
「ごめんね、りっちゃん」
 思わず、紬は詫びていた。
恋人となったとはいえ、お互いの呼称は変わっていない。
「ん?何が?」
 律は首を傾げて、紬へと丸い瞳を向けてきた。
前後の脈絡も無く唐突に謝罪を受けた疑問が、その顔に表れている。
「ごめんね、いきなり。
私、りっちゃんと澪ちゃんの関わり方で、無理な注文をしちゃったでしょ?
その事が、恋人の範疇を超えたお願いだったんじゃないかって、ずっと気になってたの」
 今日の学校でも、律は澪と二人きりで過ごす事を避けていた。
澪よりも紬との会話が多くなるよう、調整までしてくれた。
学校が終わった今でさえも、紬を部屋に招いて二人の時間を作ってくれている。
 そういった律の気配りが、自分の願望を基にしているように紬には見えた。
ならばそれに伴う律の負担も、紬の願望が原因という事になる。
その事が律に対する謝意として、紬の脳裏に付き纏い続けていた。
「いーや、恋人として当たり前の要求だと思うよ。
特にさ、澪があんな事、言い出したんだから。
それでムギが澪を恋敵として意識するのは、私が好きだからでしょ?
だから私、澪との関係に要求受けて、少し嬉しかったり」
 律はそう言い、紬の要求に理解を示した。
それでも、律に対する後ろめたい思いは消えない。
本当は澪と親密なままで居たかったのではないか、
その疑問が紬の脳裏を巡っている。
 律が今言った言葉を、額面通りに受け取れなかった。
”あんな事”と形容しつつも、結局律は澪を咎めていないのだ。
それどころか、否定さえしなかった。
「ねぇ、りっちゃん。一つ、訊いていいかしら。
澪ちゃんに対して、未練は無いの?」
「無いよっ。絶対に」
 律は強い調子で即答してきた。
それでも紬は、律から答えを得た気分にはなれなかった。
律の言葉は自分自身に言い聞かせているように、紬には感じられたからだ。
「そうよね、ごめんなさいね、変な事聞いちゃって。
りっちゃんの事、信じてるから。
でも、私のお願いに沿う事が辛くなったら、遠慮無く言ってね。
りっちゃんの負担には、なりたくないから」
 それでも紬は追及しなかった。
律がそう言うのであれば、信じるしかない。
下手に探りを入れて、律との仲に亀裂を生じさせたくなかった。
代わりに要求の緩和を示す事で、せめてもの気遣いを律に伝える。
それが精々だった。
「うん、信じて。それと、別に負担だなんて感じないよ。
私は大丈夫、大丈夫だから」
 律は首を縦に振りながら、力強い声で返してきた。
それは自分に言い聞かせるというよりも、最早自分に押し付けているようにさえ見えた。

*

 律と付き合い始めて日が経つと、
紬は相手の今まで知らなかった面も多く知るようになった。
改めて数えてみると、既に一週間を過ぎている。
律も同様に、紬の新たな一面に気付いている事だろう。
それはお互いに、相手を発見し合う日々でもあった。
また、付き合う事で生まれた面も多々あるのだろう。
 最近になって見るようになった律の症状は、
果たしてどちらにカテゴライズされるのだろうか。
紬が気付いていなかった律の一面なのか、
或いは紬と付き合う事で新たに生まれた一面なのか。
ここ数日で顕在化した律の症状を、紬は改めて思い起こした。
 紬が懸念する律の症状は、三日程前から認識するようになった。
ふと気付くと、律が身体を小刻みに震わせていたのだ。
紬が驚いて声を掛けると、律は寒さを訴えた。
室温を調整しても毛布を与えても、律の震えは止まらなかった。
体温調節機能を破壊されたかのように、律は寒さに震え続けていた。
時間が経つと漸く震えは収まりを見せたが、律の体調は優れないようだった。
一昨日も昨日も似たような症状が表れ、時には逆に暑さを訴える事もあった。
到底暑いと言えるような気温では無いが、
額に浮かんだ汗を見れば冗談には見えない。
それでも全体としては、寒さを訴える事の方が多かった。
その際に立つ鳥肌を見れば、やはり遊びの類では無いと判断できる。
それは紬に幾年か前のクリスマスで見た、冷めた七面鳥の丸焼きを連想させる肌だった。
 その他にも、塞ぎ込む事が多くなり、稀に身体中の関節の激痛を訴える事もあった。
そうして今日に至り、紬の度重なる懇願を受けた律は漸く病院へと向かった。
紬は今、その律の報告を待っている。
 夕方を迎えた頃、律が紬の部屋を訪れた。
「どうだった?」
 紬は不安を押し留めて、律を迎えた。
今は律の症状も収まりを見せている。
「今のトコ、原因も病名も不明。一応、検査結果は出てないけどさ。
検査って言っても、尿検査と血液検査だけだけど」
「尿検査?」
 紬は律の言葉を訝しげに反復した。
律の症状と尿検査に、必然的な繋がりが見えない。
「ああ。他は色々と問診を受けたよ。寧ろそっちのがメイン。
依存しているものは有るか、だの、何らかのハーブは使っているか、だの。
特に薬物の使用歴には、しつこく聞かれたよ」
 律は心外そうに吐き捨てた。
「何らかの薬の副作用だと、お医者さんは推測しているのね?」
「いや。私に対しては、恐らく心因性だろう、っていう説明だった。
それでも、検査担当者に話してる声が聞こえちゃったけどね。
日本で手に入るとは思えないがヘロの離脱症状に酷似している、
詳しく調べてくれ、ってね」
 律の心外そうな表情は、違法薬物の使用を疑われた点にあるらしい。
紬とて、律が違法薬物に手を出したとは思っていない。
だが、離脱症状と心因性という二つの言葉に、思い当たる節ならあった。
ましてや律の症状は、最近になって出てきたものだ。
即ち、紬と付き合うようになってから。
より正鵠を射るならば、澪と離れるようになってから。
「りっちゃん、それで、今後の診察スケジュールは?」
「ん、尿検査や血液検査でも原因が分からなければ、
レントゲンで骨格とかも調べられるらしい。
それでも分からなければ、心療内科とかに回されるんだろうね」
 律の言う通りの流れになるだろうと、紬は思った。
「そう。ねぇ、りっちゃん。教えて欲しい事があるの。
その、澪ちゃんと会えなくて辛いとか、寂しいとか、思ったりしてない?」
 紬は原因に思い当たってから、それを口にすべきか躊躇っていた。
だが、律の身体や精神が蝕まれている以上、看過する事はできない。
「別に。それにほら、今だって澪とは会ってるだろ?
寂しいとか思う間も無いくらい、ほぼ毎日学校で話とかしてるだろ?」
「そうじゃなくって、ね。もっと密着して話したい、とか。
二人きりでも話したい、とか。
そういう欲求が満たされないで、辛いとか思ってない?」
 紬は遠慮がちに前言を正した。
本当は、更に踏み込んだ事を訊きたかった。
澪とは、深い繋がりを示す行為にまで及んでいたのでは無いか。
そして律の今の症状は、その行為から遠のいているが故の離脱症状では無いのか。
結局それらの疑問は、紬の胸中に留まっている。
「思ってないよ。私の恋人は、ムギだけだ。ムギだけなんだ。
だから澪に対して、そんな感情は抱いてない。
そもそも、抱いちゃいけないんだ」
 やはり自分自身に押し付けるように、律は言った。
紬はそれ以上、何も言えなかった。

*

 日が経つにつれ、律の症状はより顕著に表れるようになった。
寒さと暑さを数分おきに繰り返す事さえあり、紬の不安はいや増してゆく。
病院で行った検査では、結局症状は分からないままだった。
そのまま心療内科の紹介を受けた律だが、もう通院していない。
恐らく、通うまでもなく、律自身が原因に気付いているのだろう。
紬も既に、律の症状の原因に付いてほぼ確信を得るに至っている。
時期の符合や状況から勘案すれば、容易にその答えに辿り着けた。
認めたく無かっただけだ。
澪に対する離脱症状である、と。
 紬は律の症状に付いて、ネットで検索を掛けた事がある。
医師の言う通り、ヘロインの離脱症状に酷似していた。
律にとって澪は、強力な麻薬並みの依存対象だったのだ。
また、俗称ながらも、律の症状の名前も知った。
Cold Turkey、冷たい七面鳥と邦訳される症状だった。
それは薬物やギャンブル、買い物といった依存対象からの離脱症状を広く意味している。
律は澪に対する中毒を断つ為に、その症状に掛かってしまったのだ。
そしてコールド・ターキーの語源は、ヘロインを断つ際の離脱症状に求められる。
寒気を訴える鳥肌が、冷めた七面鳥に似ている為に付けられた。
 澪と一緒に居る間とその直後は、律の症状も軽やかになる事が多い。
一方で、澪を飢えた瞳で眺める事も時折あった。
そのような時、決まって澪は紬へと視線を向けてくる。
それは交際を発表した日に見た、哀れみと優越を込めた瞳に似ていた。
澪は分かっていたのだろう、律の依存対象が自分であると。
律が自分から離れられない確信があるからこそ、澪は余裕に満ちた態度を取れたのだ。
 その澪の余裕に対して、紬は以前ほどの敵愾心を抱けなくなっていた。
苦しむ律を救う為なら、澪との関係を大目に見るべきなのかもしれない。
離脱症状に襲われる律を見る度に、その思いが大きくなってきている。
 そのような折、澪の口から更に紬を揺さぶる言葉が放たれた。
その言葉は部活におけるティータイムの今、律に向けられている。
「なぁ、律。部活が終わった後、新曲の詩、見てくれないか?」
 律の症状が露わになる前ならば、紬は不機嫌になった事だろう。
だが今は、律と澪を二人きりにさせる好機とすら思える。
律の症状を和らげてやりたかった。
「てか今見せてよ。今なら、私以外の感想も貰えるじゃん?」
 紬に対する遠慮からか、律は澪の申し出を断っていた。
無理をするその姿は、紬から見てさえ痛ましく映る。
「いや、それはちょっと恥ずかしいな。
今の段階じゃ、律だからこそ見せられるんだ」
 律と二人になる口実でしか無いと、容易に察せられた。
それが分かっていながらも、律の背を押してやりたい。
その思いに駆られ、紬は言葉を割り込ませた。
「りっちゃん、偶にはいいんじゃない?
歌詞、見てあげれば?」
 律が大きく目を見開き、紬に問い返してくる。
「いいの?」
「いいわ。だって、りっちゃんと澪ちゃんは友達なんだから、
歌詞作りに協力するのも普通の話でしょう?」
 紬は”友達”という言葉を強調した。
友人としての範疇は越えるな、という言外の意が込められている。
律と澪の接近を認めるにしても、浮気まで許すものでは無い。
あくまでも、律の離脱症状の緩和が目的なのだ。
「ムギがそう言うなら。分かった、見るよ、澪」
 律は少し迷った末、澪の申し出を受けていた。
「それは有り難いな。ムギもありがとな」
「いえ、お礼なんて貰う立場に無いわ。
さ、唯ちゃん、梓ちゃん。そういう訳だから、今日は早めに帰りましょう?
完成した歌詞、早く見たいでしょう?」
 紬は席を立ちながら、唯と梓を促した。
唯と梓は顔を見合わせた後、二人とも立ち上がった。
「そうですね。新曲、そろそろ欲しいと思ってましたし。それでは、失礼します」
「うんっ、りっちゃん、澪ちゃん。楽しみにしてるからね」
 まずは梓が帰りの挨拶を放ってドアへと向かい、その後に唯も続いた。
「ええ、私も楽しみにしてるわ。それじゃ、ごゆっくり」
 紬も二人に倣い、挨拶とともにドアへと向かう。
「あまりプレッシャー掛けないでくれよ」
 苦笑交じりの澪の声が背に届いたが、紬は振り返らずに部室から出た。
そしてドアの外で待っていた唯達とともに、昇降口へと向かう。
「あの、本当に良かったんですか?
あの二人を一緒にして」
 その道すがら、梓が声を掛けてきた。
「構わないわ。
二人は友達なんだし、澪ちゃんがりっちゃんを頼りにするのは今まで通りでしょ?
それに、友人関係にまで口出しして拘束するなんて、私のスタイルじゃ無いの」
 紬は嘘を答えた。
実際には、口を出している。それが原因で、律はコールド・ターキーを発症したのだ。
また、澪が律を頼りにしているのでは無く、現状は逆だろう。
律が澪を求めているのだ。
「ふーん。りっちゃんが澪ちゃんに心移りしないか、不安になったりしないの?」
 今度は唯が訊ねてきた。
梓とは違い、遠慮の無い質問だった。
「ええ。りっちゃんの事、信じてるから」
 今度は本当の事を答えた。
だが、不安が無い訳では無い。
だから紬は、唯達とは昇降口で別れを告げる。
「ごめんなさい、私、職員室に用があるから」
 勿論、用など無い。
律達の観察に赴く為の方便だった。
 唯達を見送った紬は、背を翻して部室へと急いだ。
律を信じているものの、やはり足は急いている。
それでも部室へ通じる階段を上がる際には、歩調を緩やかに転じた。
気配を悟られる訳にはいかないのだ。
 そうしてドアにまで辿り着いた紬は、そっと中の様子をガラス越しに窺った。
途端、衝撃が紬を見舞う。
口から溢れそうになる声と、踏み込みたくなる衝動を必死に抑えた。
 部室の中で展開されている情景は、それ程衝撃的だった。
紬の瞳には、澪の腋に顔を埋めた律が映っている。
「ふふっ、久し振りだからって、貪欲になり過ぎだぞ」
「ごめん、澪。もうちょっと、もうちょっと補給させて。
また暫く、こういう事できないから」
 聞こえてくる二人の声に、紬は耳を澄ませて聞き入る。
「できない?私はいつでも歓迎するけど?」
「いや、ムギとの約束があるから。
澪とはあまり会わないって、約束してあるんだよ。
特に二人きりとかでは、ね」
「約束だって?どうだか。
どうせムギに押し付けられたってだけだろ?」
 紬としては、あくまでも要求の心算だった。
拘束する心算も強制する心算も無い。
だが律も澪も、紬の意図通りには解していないらしい。
「押し付けられたって訳じゃないよ。
私だって納得してるんだから」
「納得してる割には貪欲だよね?
ムギじゃ律を満足させられないのかな。
そろそろ私の所、帰ってくるか?」
 紬は息を詰めた。
律の返答など分かりきっている、律を信じているから。
それでも、心は不安に震えた。
「だーめっ。てゆーか、帰らないよ。
ムギの事好きだし、ムギと付き合ってるし」
「いい返事だね。問題はいつまで持つか、だけど。
可哀想に、私の事をこんなに求めてるのにね。
まぁ、今はまだいいか。
でも暫く私と二人きりになれないなら、
もっとダイレクトな方法で私を求めておいた方がよくないか?
久し振りに、一緒に寝よ?可愛がってあげるよ。今晩、家においで」
 律は激しく頭を振った。
「駄目っ、それだけは駄目っ。
ムギを裏切る事になっちゃうよ。澪と寝るなんて、金輪際しないよ」
 律と澪の話から、既に二人は褥をともにした仲だと知った。
律は澪の事を『親友ってだけだよ』と言っていたが、それは嘘だったのだ。
その嘘も自分に対する配慮の結果だと、紬は必死に自身へと言い聞かせる。
それでも、悲しみは湧き上がって来ていた。
「そっか、偉いね、律は。
じゃあ、裏切らない程度に、浮気にならない程度に、私を求めなよ。
舐めたり噛んだり掻き回したりはアウトでも、
嗅いだり触ったり程度はセーフラインだろ?」
 そう言うと澪はスカートをたくし上げて、濃紺のレースの下着を披露した。
律の視線がその下着へと向き、表情が切なげなものへと変わる。
澪は悪戯っぽく笑むと、下着さえ下ろして陰部を晒した。
黒々とした陰毛の隙間から、生々しい赤色が覗いている。
「みっ、みぃおっ」
 律は愛しそうな声で短く叫んだ。
律の瞳は蕩けて、晒された陰部を凝視している。
「ほら、欲しいだろ?
暫くこういう事できないなら、今のうちに、浮気にならない程度に求めておきなよ」
 澪の発する声が、甘さを帯びて響いた。
律は抗えないかのように、膝を折りながら言う。
「そうだね……嗅いだり触ったりする程度なら、浮気にならないよね。
一線さえ守れば、ムギを裏切った事にはならないよね」
 紬は目を見開いた。
律の言った言葉が、信じられなかった。
それは浮気だと、声を大にして言いたかった。
室内に踏み込んで、澪の性器から律の目を逸らさせたかった。
そして、澪の頬を張ってやりたかった。
紬がそれらの衝動を抑える事は、もう限界に近い。
それでも必死に、決死の思いで、自制心を働かせて耐えた。
「おいで、律」
「みぃお」
 律が途中で踏み止まってくれる事を期待したが、それは裏切られた。
跪いた律は澪の性器に顔を埋め、呼吸音を響かせた。
そして、陶酔しきった声を漏らす。
「んはぁ、凄い、強烈。意識持ってかれそ……」
「止めてっ、りっちゃんっ」
 紬は思わず、叫んでいた。
紬の精神に、いよいよ限界が訪れたのだ。
だが限界は、激しい衝動の発露としては表れなかった。
逆に、紬の身体から力を奪う形で表れた。
最早立っていられなくなり、紬は臀部から床へと頽れた。
臀部が床を打った衝撃音が、鈍く響き渡る。
途端、室内から声が途絶えた。
代わりに、澪が下着を上げているのだろう、衣擦れの音が聞こえてくる。
その直後には、こちらへと向かって来る足音が聞こえてきた。
だが今の紬には、立ち上がって去ろうとする気力が湧いてこなかった。
「ムギ、唯達と帰ったんじゃなかったのか?」
 ドアが開き、澪が端正な顔を覗かせて言う。
そしてその後方の室内では、律が戸惑った表情で紬を見つめていた。
「ごめんなさい、覗き見する心算、無かったんだけど。
気になっちゃって」
 律の眼前で、無様な姿を晒したくは無い。
紬は無きに等しい気力を振り絞り、何とか立ち上がる。
そして無理矢理に笑顔を作り、言葉を続けた。
「でも、杞憂だったわね。
やっぱり、りっちゃんは私を裏切らなかったわ。
だって、今行われていた事は、浮気じゃなかったもの。
性交にはならないし、キスさえしてないんだもの。
だから、だから、何の問題も無いわ」
 そう言いつつも、紬の視界は霞んでゆく。
無理矢理に繕った笑顔も崩れてゆく。
これ以上この場に留まっていては、情けない表情を律に晒す事になる。
だから帰ろう、そう思った。
それでも紬は、律に痛罵を浴びせなかった。
糾す事も咎める事もしなかった。
それらの衝動は、どうにか抑え込めた。
 けれども、抑え切れなかった衝動もある。
紬は近くに立っていた澪の頬を、力任せに平手で張った。
大きな音が響き、澪の頭部が右に振れて姿勢も崩れた。
澪は打たれた頬を抑えると、紬を無言で見返してきた。
「ごめんなさいっ」
 紬は咄嗟に謝ると、背を翻して駆けた。
「ムギっ」
 律の声が背に届くが、振り向く事はしなかった。
寧ろ、その声からさえ逃れるように、走る速度を上げた。
校内で走る事を注意する教師の声さえ、紬は無視した。


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最終更新:2012年02月28日 21:01