学外へ出ると、漸く紬は速度を緩めて歩き出す。
急に走った事で息が上がっているが、立ち止まって休もうとは思えなかった。
今は少しずつでも、学校から遠ざかりたかった。
 紬はふと、右手を見つめた。
右手は未だ熱を帯びて、疼痛の形で頬を打った衝撃が残り続けている。
澪の頬を張った事に対して、何らの爽快感も湧いてこなかった。
寧ろ、手に残る熱や疼痛が不快だった。
 分かっていたはずだ。
歌詞作りの協力など、口実でしか無かったと。
部室では澪と律の逢瀬が繰り広げられると、承知していたはずだった。
確かに、改めて見た二人の逢瀬は、紬の想像を超えて親密だった。
それでも、律を救うという目的を達する為には耐えるべきだったと、
紬は今更ながらに思う。
それが難しい事だったと自覚していても、思わざるを得ない。
 律と別れるべきなのかもしれないと、紬の脳裏にその選択が過ぎった。
いっそ澪に帰してしまえば、律も自分も楽になれる。
それが分かっていながらも、別れると考えただけで視界は霞んだ。
「ムギっ」
 その時、後ろから強い声で呼び掛ける声が聞こえてきた。
聞き慣れた、律の声だった。
先程とは違い、聞こえないよう装う事は無理がある。
紬は迷った末、袖で目元を拭ってから振り向いた。
「なぁに、りっちゃん」
「聞いてくれ、ムギ。全部、話すよ。
それで、もう澪とは、金輪際あんな事しないから。お願いだから、許してくれ」
 律は息を切らせながら、声を絞り出していた。
「許すも何も。私は別に怒ってないわ。
だって、りっちゃんは咎められるような事はしていないもの」
 そう言いつつも、視界が再び霞んでゆく。
溢れてきそうな涙を、止める事ができない。
目元をもう一度拭おうとした時、紬は律に抱き寄せられた。
「ごめんな、本当にごめんな。
全部、全部話すから。ムギの部屋、行っていいか?
私の部屋でもいい。とにかく、聞いてくれ」
 耳元に響く律の真摯な声に、紬は首肯で応えた。

*

 紬の部屋で紅茶の注がれたティーカップが二つ、湯気を立てている。
その湯気の向こうに座った律は、紅茶を一口飲んでから語り始めた。
「まず一つ、謝っておく事があるんだ。
付き合い始める時に、澪とは特別な関係じゃないみたいな事言ったけど。
あれ、嘘なんだ。一応、澪と恋人関係になってた事は無いよ?
ただそれも、どちらからも告白が無かったっていうだけの話で。
実態は、恋人みたいなものだったんだろうな。
肌を重ね合わせた事も、結構あったし。
ごめんな、嘘吐いてて」
「構わないわ。だって、私を気遣ったからでしょ?」
 律は首を振った。
「それもあるけどね。
澪との事話して、ムギが告白を撤回するんじゃないかって怖かった。
で、澪との肉体的な関係は随分と昔からになるけど、
その激しさが増したのが前の夏休みを迎えた辺りから。
もっと具体的に言うと、私とムギが二人きりで初めて遊んだ直後辺りから」
 紬はその事情を察した。
嫉妬に駆られた澪が、律を更に求めるようになったのだろう。
「そう」
「うん。それで、その、澪から激しく求められる事、私も嬉しかったんだ。
私も澪の身体、嫌いじゃ無かったし。
こういう事、ムギの前で言うのは憚られるけど……。
実は結構ね、えっち、重ねたりしたんだ。
そうやって私は、どんどん澪に依存していった。
中毒って怖いね。僅かな間なのに、ずぶずぶ依存の度合いが深まっていっちゃう。
それで気付けば、澪無しじゃ生きられない身体になってた」
 紬にとって、快い話では無かった。
だが逆に考えれば、それだけ今の律が正直だと言う事だ。
それに、紬と付き合う前の話である。
「気にしないで。私と付き合う前の話なんだから」
 紬がそう言うと、律は安心したように息を吐いた。
「ありがと。で、私はこのままじゃ駄目だって思った。
澪は確かにいい奴だよ?私自身、友人として好きだ。
それにあの豊満な身体は、安心感があって気に入ってた。
でも、恋愛感情までは抱けなかったんだ。
澪の方はどうだか知らないけど、ずっと友達だったから、
私は澪をどうしても恋愛の対象として見れなかった。
恋人じゃない対象に中毒しちゃうのは、不健全だって感じてた。
まるで身体目当ての遊びみたいだ、って。
そんな時、ムギが遊びに誘ってくれたんだ。
それで告白されて、私は付き合う事にした」
 今でも律に告白した日の事は、鮮明に思い出す事ができる。
大して日数が経った訳では無いが、懐かしかった。
 紬が懐かしさに浸っていると、律が慌てたように言葉を継いできた。
「一応言っておくけど、私はムギの事、本当に好きだからね?
澪に対する中毒を断つ為に、利用してる訳じゃないよ?」
「分かってるわ。
そもそも、私が澪ちゃんと距離を置くようお願いしたものね。
それに、あの時のりっちゃん、真っ赤だった。
声震えてたし、何回も深呼吸してた。
人を利用しようと目論んでる冷静さは、微塵も感じられなかった。
あの時の事を思い出してて、相槌入れるのも忘れちゃったの」
 律も思い出したのか、頬を少し綻ばせた。
「あはっ、あの時は頭が白くなったよ。
でも告白されて嬉しかったし、その前にムギと遊んだ時も楽しかったし。
それでムギとなら、楽しい恋愛になると思ったんだ。
でも」
 律の表情が、再び陰を帯びた。
「澪ちゃんに対する離脱症状が出ちゃったのね?」
 紬が先んじて言うと、律は頷いた。
「うん。それも、凄く激しかった。
澪から離れる事で何らかの離脱症状が出るかもとは思ってたけど、
想像を超えて苛烈だったよ。
それで、今日。澪と二人きりになる事を、ムギが許してくれたんだ。
最初は本当に歌詞を見る心算だったけど、抗えなかった。
それも、澪の魅力に抗えなかったんじゃない。
苦しみから解放される事に、抗えなかったんだ」
 律の口から、依存の恐ろしさが語られた。
依存が深刻になると快楽を得る為だけでは無く、
離脱症状を鎮める為に依存対象を求めるようになる。
そうなると、依存を断つ事は最早難しい。
最悪のスパイラルが形成されるからだ。
「そう……。負の循環って感じね」
 紬は諦念を込めて呟く。
自分では最早律を救えない、そう思わざるを得なかった。
「うん、それに嵌ってる。
それで私は、せめて浮気にならないよう、澪の腋をスニッフさせてもらった。
インパクトのある刺激が鼻を衝いて、私は幾分か楽になったよ。
それで離脱症状に暫く苦しめられないよう、更に嗅ぎ続けた。
そしたら、エスカレートしちゃってね。
澪の生の性器も、スニッフする事になったんだ。
あれだけ強烈なら、一時的とはいえ私の症状も飛ぶだろうから。
嗅ぐだけなら浮気じゃないって、自分に言い聞かせて」
「私もその場面は見ていたわ。
さっきはショックだったけど、でも今になっては仕方が無いと思う。
だって、りっちゃん、本当に辛そうだもの。
だから、いいわ。澪ちゃんを好きなだけ求めていいわ。
それを私は、浮気だなんて咎めないから。
ごめんね、りっちゃん。今まで無理なお願いしてて」
 別れた方が早いと思いつつも、切り出せなかった。
代わりに嘗ての要求を撤回する事で、律の負担軽減を図った。
 だが、律は首を激しく横に振っていた。
「いや、今なら分かる。あれは浮気なんだって。
もう絶対にしない。いや、できないよ。ムギのあんなに悲しそうな顔見たら。
さっき、部室のドア越しに見たムギの顔、本当に悲痛に満ちてた。
あんな顔させたのなら、それはもう浮気だ」
 繕いきれなかった笑顔が、却って悲痛さを際立たせてしまったのだろう。
「いや、さっきは少し、驚いたから。
でも今は大丈夫。事情を詳しく知ったから、納得してるわ」
 先程繕いきれなかった分を挽回しようと、紬は言った。
「いや。今もムギ、悲しそうな顔してるよ。
そんな顔、恋人に絶対にさせたくない」
 律の言葉に、紬は衝撃を受けた。
紬としては、今度こそ表情を保っている心算だったのだ。
それでも律には、見抜かれていた。
「ふふっ、りっちゃんには、私の稚拙な演技は通用しないみたいね。
でもね、辛そうなりっちゃんを見ている事だって、十分辛いわ。
んーん、澪ちゃんと特別な関係を続けられる事より、更に辛い事なの。
だから、澪ちゃんを好きなだけ求めていいのよ?
いや、りっちゃんが望むなら、いっそ私と別れて澪ちゃんと付き合っても」
 紬は今度こそ本音を明かした。
それでも、律は首を縦に振らなかった。
「いや、それじゃ駄目なんだ。
さっきも言った通り、澪の事、恋愛対象とは思ってない。
それに、澪を求めて私が離脱症状を鎮めたところで、そんなものは所詮、対症療法なんだよ。
何の解決にもなってない。だから、私、ムギの傍に居るね」
 そう言って律は、紬に寄り添って頭を預けてきた。
紬には分かっていた。自分から一方的に別れを切り出せば、それで済む問題であると。
だが、できない。できる訳も無かった。
「そう。でも耐えられなくなったら、いつでも言ってね」
 紬はそっと、律の身体に腕を回して受け入れた。

*

 部室で澪を求めた日の直後は、律の離脱症状は落ち着きを見せていた。
それは決して中毒から脱した訳では無く、律が言った通り対症療法の結果でしかない。
そう日を置かず再び離脱症状に律が蝕まれる事は、紬にも分かっていた。
 そして紬の危惧した通り、律の離脱症状は再び表れるようになった。
律は時折、暑さに脂汗を流し、関節に走る激痛に身を軋ませた。
尤も、それらの症状に襲われる頻度は、そう多くは無かった。
高い頻度で表れて最も律を苦しめる症状は、やはり寒気だった。
 更に日が経つと、離脱症状は最早学校でも容赦なく律を襲った。
寒そうに身体を震わせる律を、多くの生徒が心配した。
澪もその一人だった。
律に離脱症状が表れると、澪は決まって紬を睨み付けてくる。
『私に返せ』と言っているように感じたが、紬は気付かぬよう装った。
 それにしても、と紬は考える。
今までは、澪が居る場所では発症しない事が多かった。
依存対象への欲求を満たせずとも、発作を起こさない程度の効果はあったのだろう。
だが最早、律の澪に対する欲求不足は、
傍に居るだけでは効果が無い域へと達しているのかもしれない。
律の症状は、やはり悪化の一途を辿っているのだ。
 症状の悪化に合わせて、律は日に日に弱っていった。
離脱症状の苦しみは、小さな律の身体から容赦なく体力を奪っていったのだ。
「りっちゃん、大丈夫?」
 そんな律に対して、紬は心配そうに声を掛ける事しかできない。
「んー、大丈夫。あまり心配しないで」
 律は穏やかな声でそう言い、紬の手を握ってくれた。
一般に、依存対象を断っている間、人は苛立たしくなり易い。
だが今の律は、穏やかな態度を紬に見せている。
勿論、苛立ちが無い訳では無いだろう。
紬を不快にさせまいと、必死に自制心を働かせているに違いなかった。
 そんな日々が続いたある日、紬は澪に呼び出された。
頬を張った日以来、部活以外では疎遠になっている相手だ。
部活では唯や梓の手前、何事も無かったかのように澪と接している。
今回は、その唯や梓が居ない。
それでも紬は指定された場所へと、指定された通りに一人で赴いた。
 指定された屋上には、澪の他には誰も居なかった。
部活の終わった時間帯に、事情も無く屋上に立ち入る者は少ないのだろう。
「お待たせ。まず、この前の事、謝っておくわ。
ほっぺた叩いたりして、ごめんなさい」
 紬はまず謝罪から入り、頭を下げた。
実際に、澪の頬を張った事に罪悪感はあった。
「別にいいよ、私の事なんて」
 澪は吐き捨てると、近くに来るよう紬を手招きした。
紬は応じて、澪との距離を詰めながら言う。
「そう。じゃあ、やっぱり、りっちゃんの話?」
「分かってて来たんだろ?
単刀直入に訊くけど、律の事、不味いと思わないのか?」
 澪の問いに答える前に、紬は立ち止まった。
澪との距離は、二メートルも無くなっている。
「思ってる。
でも……りっちゃんは、それでも私と一緒に居たいって、望んでくれてる」
 今度は澪が距離を詰めて来た。
そうして紬の目前まで寄り、漸く立ち止まった。
「ムギに律を預けた事は失敗だったよ。
律があんなになるまで、ムギは何もできなかった。
だからもう、いい加減に律と別れて、私に返せ。
これ以上律を苦しませないでくれ」
 確かに澪の言う通りだと、紬は感じた。
結局自分は何もできない、と。
だが同時に、反発も湧き上がってきていた。
「ええ、確かに私は力不足よ。でも、澪ちゃんに責められる筋合いだけは無いわ。
りっちゃんがこうなった原因、分かってるでしょ?
分かってるからこそ、必ず自分の下に帰ってくるって余裕を持てたんでしょ?
一応、言ってあげる。りっちゃんは、澪ちゃんに中毒してるのよ?
そしてその原因を作ったのは、澪ちゃんなの。
そこに故意が無かったとは言わせないわ。
だって、私への嫉妬心から、りっちゃんを自分に依存させたんでしょ?」
 紬は話していくうちに興奮し、最終的には捲くし立てていた。
一方の澪は、冷静だった。
「ああ、ムギの言う通りだよ。
どうせ律が他の子と二人きりで遊ぶのは、止められそうも無かった。
そもそも私にはその権利が無かった。私は律の恋人には、なれなかったから。
でも、私無しでは生きられなくなるなら?
そうすれば律が他の子の所へ行っても、最終的には私の下に帰ってくる。
そう思ってた。
でも、まさかあんなに強度の依存を発症するとは、予想していなかったよ」
「予想していなかったと言えば、免責されるとでも思ってるの?」
 紬は苛立たしげに糾した。
確かに澪は律の離脱症状がここまで過激になるとは、予想していなかっただろう。
そこまで精妙に、他者の依存形成をコントロールできるはずも無い。
だがそれでも、この結果を招いた事は許せなかった。
「思ってないよ。
それに、強度の依存を形成した事は、私にとって悪い事じゃない。
律がそれだけ、私を求めるようになったって事だから。
問題なのは、ムギが律を返そうとしない事だ。
それが悪い結果を生んでる」
「りっちゃんの意思は無視なのっ?
私が返さないんじゃない、りっちゃんが私を選んでくれたのっ」
 紬は叫んだが、澪の冷静さは崩れなかった。
「どうかな?律は単に、ムギへの義理立てから離れないだけかもな。
逆に、もし本当に律がムギの事を好きなら。
あんな苦しみに耐えてまで私の下に来ない程、律を惚れさせたムギに責任は無いの?
ここまで惚れられるとは予想してませんでした、じゃあ、免責されないんだろ?」
「それは、あるわ。でも、澪ちゃんにだって、勿論責任はあるわ。
大体、原因を作った澪ちゃんに、りっちゃんを渡していいのか不安ね。
澪ちゃんの事、信用できない」
 自分の発言を引用された為、責任があると認めざるを得なかった。
付け加えた澪に対する批判など、反論できない苦し紛れでしかない。
「不安ならまだいい。確定していないからな。
でもこのままムギに預けていたら、確実に律は苦しみ続ける。
それに、私が原因を作ったからこそ、その責任を私自身が取らなきゃいけない。
ずっと律の傍に居て、律の中毒に応え続けるよ。
依存を断つ苦しみから、律を守り続けるよ。
だから私の責任を咎めるなら、律を私に返せ。
そうすれば、私は責任を取る事ができる」
 澪は毅然とした調子で言った。
「でも……りっちゃんは、それを望んでいないわ。
私と一緒に居る事を、望んでる」
 紬に残された唯一の反論など、律の意思でしかない。
「それが単なる義理立てに過ぎない場合、ムギから別れを切り出せば解決だ。
逆に、本心からムギと一緒に居る事を望んでいるのなら、
今度はムギが責任を果たす番になる。分かるな?
そこまでお前に惚れさせた事が、お前の責任なんだ。
ならその取り方は、分かるな?どっちにしろ、ムギのできる事に変わりは無いんだよ」
 律を惚れさせた事に責任があるのだから、別れて恋を醒ます事がその取り方だと。
澪がそう言っている事は、痛切に分かった。
律の意思がどうあれ、紬から別れを切り出す結論に変わりは無いのだ。
 紬は何も言い返せず、黙りこくった。
紬が反論できない事を悟ったのか、澪は続けて言う。
「話は以上だ。でも、これだけは考えておいてくれ。
私は律さえ帰ってくれば、自分の責任を果たす事ができる。
でも、もしムギが律を返さないなら。
そしてその結果、律に重篤な結果が齎されたら。お前はその責任、取れるのか?
ムギにできる責任の取り方なんて、一つしかないんだよ」
 澪はそれだけ言うと歩き出し、紬の脇を通り過ぎて行った。
それは校内へ通じるドアのある方向だった。
 紬は暫く背を翻せず、その場に立ち竦んでいた。
責任という言葉は、未だ高校生の紬には不似合いな程に重い。
それでも、押し潰される訳にも逃げる訳にもいかないのだ。
紬は律を澪に返すと決意した。


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最終更新:2012年02月28日 21:01