*

 律を前にして、紬から別れを切り出せる訳も無かった。
それ程までに律の愛しさは、紬を捉えている。
ただ、律を澪に渡すという決意は固い。
そして別れを告げずとも、律を返す機会ならあるのだ。
 律は最近、離脱症状による体力の消耗が激しいのか、眠りが深くなった。
特に紬の部屋に泊まり込むと、昏睡と見紛う程に深く眠る。
そうなると、大抵の事では起きない。
その間に、律を澪の下に届ける心算であった。
別れの言葉は、澪から伝えてもらえばいい。
 今日は土曜日という事もあり、律が紬の部屋へと泊まり込みで遊びに来ていた。
一昨日の決意を実行に移すには、絶好の機会だった。
今日も律は深く深く眠るのだろう。
紬の部屋では安心して眠れると、律は言っていた。
家では家族の手前、あまり眠り過ぎて不審を買う事はできない。
自分の症状を、家族には知られたくないらしい。
自分の家族は依存や同性愛に無理解だろうからと、律はその理由を説明した。
依存を意思の弱さや甘えだと断ずる社会的風潮の一端が、そこには垣間見えていた。
性的マイノリティに対する社会の冷たさも、敏感に感じ取れた。
「りっちゃん、まだ早いけど、もう眠ろっか」
 律が目を擦った機に、紬は言った。
時刻はまだ夕方だが、律にとっては辛い時間だろう。
平日は律が必要とする程の睡眠を賄えない為、その疲労は蓄積されて週末に回されている。
「ん、そうだね。折角今は、症状も落ち着いてるし」
 律は発作の最中、体力の消耗に耐え切れず眠る事があった。
だが、症状が落ちつている時の方が、快適に睡眠へと入れる。
「ええ。今のうちに、ね」
「もっとムギと遊びたいけど、どうせ明日も遊べるからね」
「そうね。明日もいっぱい遊びましょ」
 紬は嘘を答えた。
明日はもう、律と遊ぶ事は無い。明日には、律は澪の腕の中だ。
「ね、ムギ」
 ベッドに身を横たえた律は、紬を呼んだ。
紬も応えて、脇へと身を寄せる。
「なぁに、りっちゃん」
「私、ムギの事、好きで良かった。ムギとずっと一緒に居たいよ。
例え私が死んでも、ムギの事、ずっと愛してるから」
 何かの不安を感じ取っているのだろうか。
律は頻りに、紬への愛を訴えている。
「もう、縁起でも無い事、言わないの。でも、気持ちは有り難いわ」
「うん、ムギ……ずっと、ずっと一緒に居よう……ね」
 律は言い終えると、力尽きたかのように目を閉じた。
紬はそっと、その寝顔と肢体を窺った。
この小さな体に、地獄のような苦しみが襲っているのだ。
これでは、耐えきれるはずも無い。やがては、命の保証さえできなくなるだろう。
『お前はその責任、取れるのか?』
澪の言葉が蘇る。
「取れないからこそ、私は、私にできる一つしかない責任の取り方を選ぶの」
 紬は呟いて己を鼓舞すると、律の背と膝の後ろへと手を回した。
そのまま、身体を抱え上げる。
やはり眠りは深く、その穏やかな寝顔に変化は訪れなかった。
名残惜しそうに、そして愛しげに寝顔を一瞥してから、紬は歩き出した。
澪の家へと向かって。
 道中、律を抱える紬は、時折好奇の視線を受けた。
だが、この姿勢を変える心算は無かった。
最後の律との触れ合いなのだから、大切にしたかった。
 電車の中では、律の頭を腿に載せて過ごした。
車内は空いており、二人に注がれる視線も少なかった。
紬がふと沈みゆく夕日へ目を向けた時、律が呼ぶ声が耳朶に届く。
「んんー、むぎぃ、何処行くのぉ?」
 紬は驚いて律を見遣る。
律は相変わらず、深い眠りに意識を支配されていた。
寝言だったのだろう。
「暖かい所よ。もう、寒い思いなんてしなくていいからね」
 紬はそっと語りかけるように、律の寝言へと答えた。
律の寝顔が、心なしか微笑んだような気がした。
 澪の家の最寄駅へと着くと、既に辺りは薄暗くなり始めていた。
紬はベンチに律を横たえて、携帯電話を取り出す。
澪の家を訪れた際に、できれば澪本人に真っ先に応対して欲しかった。
 発信してすぐ、通話に応じた澪の声が届く。
「律の事か?」
 澪は出るや否や、そう言葉を放ってきた。
紬からの連絡という時点で、律に関する話だと察しは付いたのだろう。
「ええ。りっちゃんを、澪ちゃんに返すわ。
それで今、澪ちゃんの家の最寄駅に居るの。りっちゃんも一緒よ。
澪ちゃんが家に居るなら、真っ先に私達を迎えられるよう控えててくれない?
澪ちゃんの家族には、話せない事情でしょう?」
 もし澪が旅行か何かで不在ならば、律の家へと届ける心算だった。
後は澪にフォローを頼めば、上手く律と一緒に居てくれる事だろう。
「居るよ、そして構わない。でも、ムギも来るのか?
ムギが律に交際の終了を告げた時点で、終わる話だろう?
後は律が一人で、私の所へ来れるだろ?
それとも、私に返すというよりは、律を交えて三人で何か話すのか?」
 澪は不審そうに、幾つもの疑問を並べてきた。
ただ、紬が最も知りたかった内容は、一番最初に答えてくれた。
それで十分だった。
「いえ、本当にりっちゃんを返すわ。
三人で話す事なんて無いし、交渉も駆け引きも無いわ。
私も一緒に行く詳しい事情とかは、後で話す。
今は一刻も早く、澪ちゃんにりっちゃんを届けたいから」
 屋外であまり律を眠らせたままにしたくは無かった。
「分かった。その時に詳しい事情は聞く。
律が帰ってくると分かったなら、今はそれで十分だ」
 澪もこの場で問い質す事はせず、今は納得してくれた。
紬は簡潔に礼を述べて、通話を終了する。
「もう少しの辛抱だからね」
 ベンチで眠る律に呟いて、再びその身を抱き上げる。
後は澪に届けて事情を話して、それで終わりだ。
それで、自分の恋は終わりだ。
そう思うと、改めて切なさが込み上げてくる。
紬はその感傷的な思いを頭から追い払って、歩き出した。
両手が塞いでいる今、視界を霞ませる訳にはいかないのだ。

*

 澪は約束通り、最初に出迎えてくれた。
澪に会う為に、不自由な腕でインターホンを押すまでも無かった。
玄関の前に、澪は立っていたのだ。
「眠っているのか?」
 紬の抱える律に目を留め、真っ先にそう訊ねてきた。
「ええ。これも、話そうと思ってた事情の一つ。実はね」
 紬の言葉を、澪は手を上げて制した。
「いや、部屋で聞くよ。
部屋まで私が運ぶから、玄関とドアを開けてくれ」
「分かったわ」
 紬は答えると、律を澪へと渡した。
手放す事で両腕に訪れた軽い感覚が、紬に喪失感を齎す。
これが律を失う事なのだと、改めて実感した。
 軽くなった腕で、玄関を開いた。
律を抱えた澪が屋内へと入り、紬も後に続いた。
 澪の部屋に着くと、律はベッドに横たえられた。
澪のベッドで眠る律というこの構図も、別れる事の象徴として紬を抉る。
「ぐっすり寝てるな。全く起きる気配を見せない。
やっぱり、日々の体力の消耗が激しいんだろうな」
 律の髪を撫でながら、憐れむ調子で澪が言った。
「それも、今日までよ。もう、離脱症状とは無縁になるから」
 紬は声で澪に応じつつ、その為に別れたのだと胸中で自分に言い聞かせた。
「そうだな。
と言いたい所だけど、さっきの電話の口振りじゃ、色々と事情があるみたいだな?」
「いえ、大した事じゃ無いわ。ただ、澪ちゃんに最後のお願いはあるんだけどね」
「お願い?」
「ええ。電話じゃ伝えてない事情と絡めて、今から話すわ」
 紬は話して聞かせた。
律にはまだ別れを告げていない事、それ故、眠っているうちに連れて来た事。
そして、澪から別れを代弁して欲しいという願いを。
 聞き終わった澪は、顎に指を当てて深刻そうに呟いた。
「なるほど、そういう事情があったのか。それが今日のムギの来訪に繋がるのか。
不味いな。そうなると……まだだ、まだ問題は片付いていない」
「えっ?片付いたでしょう?
だって私、りっちゃんを澪ちゃんに渡したんだし」
 紬は訝しげな声で応じた。
「渡しただけだ。返した事には、なっていない。
律はムギに惚れ続けるままだよ。ムギから、別れを告げられていないんだからな」
「だから、その代弁を澪ちゃんにお願いしたの。
私からじゃ、どうにも言い出せなくて」
「それで律が信じると思うか?信じたとして、納得すると思うか?
やっぱり、ムギから伝える必要がある。言葉が駄目なら、手紙でもメールでもいい。
ただ、こうなった以上、強烈な方法で別れを伝える必要があるよ」
「強烈な方法?」
「ああ、律を痛罵する文面とともに、別れを切り出せよ」
 紬は絶句した。
澪の論理の飛躍に付いていけなかった。
その事に気付いたのか、澪は続けて言う。
「律が認識していない間に話が進んだ以上、普通に別れると伝えても駄目だ。
律は不審に思い、お前から切り出された別れを真意とは思わないだろう。
そうなると、意味が無い。
けれど、その伝え方がムギに対して幻滅する程、強烈だったなら?
信頼関係さえ壊れてしまえば、否応なく律は別れを選ぶ」
 漸く、澪の言っている事が理解できた。
律は知らぬ間に澪の部屋に居て、そこで紬からの別れの文面を受け取る事になる。
その状況下では、律の不審を買う事は避けられない。
律に隠して話を進めた事が、裏目に出たのだ。
 ただ、理解はできても受容までできる訳では無い。
「そんな……そんな事、できないわ」
 紬は激しく頭を振った。
まだ律に口頭で直接別れを伝える方が、心理的な抵抗は少ない。
ただ、もう後戻りできない事も、分かっていた。
「なら、どうする心算なんだ?
眠ったままの律を担いで、再び家に帰る?
それで改めて明日にでも、口頭で別れを切り出すの?
言っておくけど、この時間に再び外気に寝たままの律を晒す事は、
断固として反対だからな」
 澪に指摘されるまでも無かった。
「なら、りっちゃんが起きるまでこの部屋で待って、
それで口頭で別れを切り出せば」
「律が眠ってる間に私の部屋に来た以上、口頭か文章かは問題じゃない。
信頼関係を破壊して幻滅させる、という方法は取らざるを得ないんだ。
状況に対して律が不審を感じる以上、嫌われるというプロセスが必要なんだよ」
 言われるまでも無く分かっていた。
それでも、律に嫌われる事だけは避けたい。
その思いが逡巡となって、紬の口を衝いているのだ。
「でも……」
「でも、じゃない。律を愛しているなら、できるはずだ。
寧ろ、この方が良かったのかもな。
こうなる前にムギが普通に別れを切り出しても、律は別れを受け入れても未練が残っただろう。
でも幻滅してしまえば、未練なんて残らない。
何より、律をあまり傷付けずに済む。
好きな相手と別れる事は心を抉るけど、嫌いになった相手なら傷付かない。
律にとって最上の結果だ。律が好きなら、ムギも喜んで最後の務めを果たせよ」
 そう言われてしまえば、もう拒む事などできない。
それに、澪の言う事にも一理あるのだ。
少なくとも紬から別れを切り出されれば、律は悲しむだろう。
その事も、律に別れを告げられなかった一因としてある。
悲しみを和らげてやる事が、恋人として律にしてやれる最後の事なのだろう。
紬は痛みに軋む心を叱咤して、遂に決断した。
「分かった。手紙で、その方法を取らせてもらうわ。
紙とペン、借りていいかしら」
「ああ、構わない。机と椅子も使っていいよ。
ありがとな、これで律を救う事ができる」
 澪は机の中から、花柄の便箋とボールペンを取り出した。
書き慣れている文具だけに、律は筆跡で紬が書いたと判別付くだろう。
躊躇いはあるが、それでも下した決断を覆す心算は無い。
紬は澪からボールペンと便箋を受け取ると、机を借りていよいよ書き始めた。
 書いている最中、何度もペンを放り投げたい衝動に駆られた。
一文字書き進めるだけでも、胸が締め付けられるように痛んだ。
紬の想いは、律に冷淡な言葉を並べる文面とは対極にあるのだ。
それでも、律を救う為という強靭な意志で、ペンを進めてどうにか書き上げた。
苦難に耐え切ったというのに、達成感は微塵も無い。
ただただ、悲しいだけだった。
「終わった?」
 紬の手が止まった機を見計らい、澪が声を掛けてきた。
「ええ。今、渡すわ」
 紬は文面を一度見直してから、澪に手渡した。
受け取った澪は、早速便箋に目を走らせている。
疲労困憊の紬は目を閉じ、書いた内容を脳裏で反復した。
暗唱さえできる程、書いた文字は脳に深く刻まれている。
『唐突だけれど、さようなら。そして有難う。
私、友達と恋人ごっこをするのが夢だったの。
それが、りっちゃんとの恋愛ごっこだった。
ガサツなりっちゃんなら、疑われる事も無く手玉に取れると思ったから。
もう、それも終わり。恋人ごっこは思ってた程、楽しく無かったし。
何より、りっちゃんに魅力が欠けてた。
だから私は、りっちゃんが眠ってる隙に、澪ちゃんに返す事にしたの。
この手紙を読んだ瞬間から、もう二人はただの友達。
さようなら、澪ちゃんとお幸せにね。』
 これで十分、律から嫌われただろう。
真剣だった律に対して遊びだったと言えば、十二分に幻滅されるだろう。
律から誤解を受ける悲しみはあったが、紬はこれでいいのだと思った。
これで、いいのだと。
「駄目だな」
 不意を衝く澪の冷たい声に、紬は目を見開いた。
「えっ?」
「これじゃ駄目だ、ムギ。確実に嫌われるには不十分なレベルだよ。
まだまだ甘さが残ってる。本当は嫌われたくない、その思いが文面に滲んでるよ。
大体、所々に律への気遣いがある。有難うとか、お幸せにとかね。
不審の念が湧く余地すら無い程、憎まれて恨まれて嫌われるような文面が必要なんだ」
「そんなっ。これで精々よっ。これ以上、どうしろって言うのよ……」
 始め昂ぶっていた声は、徐々に小さくなっていった。
反発から絶望へと瞬間的に変化した、紬の精神を表すかのように。
確かに律は以前、紬の演技を見破っている。
生半可では騙せない、その思いが擡げてきたのだ。
「まずはムギが、律を嫌いになったと仮定しろよ。文面で律を怒れよ。
律の欠点やコンプレックス、普通じゃない点を抉れよ。
そうして終始一貫して徹底的に突き放せよ。
あと、この部屋に律が居る理由は、ムギから説明しなくていい。
寝てる隙にムギが押し付けてきたと、私の方から説明しておくから。
余計な事は書かず、嫌う事、嫌われる事に徹しろよ」
 澪の言葉を聞き終わった時、紬の心底から震えが湧き上がってきた。
確実に律から嫌われる文面の発想を、澪の言葉から得てしまったのだ。
それは形式だけで考えるなら、単純な方法だった。
律に対する怒りを書き連ね、別れの責を相手に押し付けるというものだ。
紬が震えた発想は、その怒りの対象にこそある。
律を苛む離脱症状、即ち彼女の苦しみこそが怒りを向ける標的だった。
 律が離脱症状に伴う苦しみを耐えてきた動機は、紬への恋情にある。
にも関わらず当の紬から、その苦しみに怒りを向けられれば。
律も何の為に自分は苦しみに耐えたのかと怒り、紬を確実に嫌うだろう。
律の離脱症状に嫌気が差したと書いてやれば、終わる。
律の苦しむ姿や声が鬱陶しいと伝えてやれば、終わる。
 勿論紬は、律に怒りなど抱いていない。また、別れる責が律にあるとも思っていない。
だが、真意など伴う必要は無いのだ。
発想を得た以上、後は律から嫌われる覚悟だけが必要なのだ。
 紬はベッドで眠る律を見遣った。
あの寝顔に伝えたはずだ、温かい所に連れて行くと。
もう寒い思いはしなくていい、と。
紬は崩れそうな心を無理矢理に支えて、澪に言う。
「分かったわ。もう一枚、便箋貰えるかしら」
「ああ。今度こそ頼むよ」
 紬は頷くと、澪から便箋を受け取った。
そして机に向かい、再びペンを手に取る。
『いい加減ウンザリなのよ、りっちゃんの病気に振り回されるのは。
いきなり寒がったり暑がったり痛がったり、気味が悪いわ。』
 導入部分を書いただけで、紬の胃は吐き気を伴って痛んだ。
『ねぇ、知ってた?私、度々澪ちゃんの下に帰るよう、りっちゃんに促したでしょう?
それって、りっちゃんの身体を慮ったんじゃない。
嫌気が差してたから、いい加減に澪ちゃんに引き取って貰いたかったのよ。』
 辛辣な言葉を連ねる度に、視界は霞み涙が溢れそうになる。
紬は必死に落涙の衝動を抑えて、筆を進める。
便箋に涙の跡を付ける訳にはいかない。
『それなのに、りっちゃんは勘違いして。
私の迷惑省みず、家に何度も押し掛けて来た。しつこく、付き纏ってきた。
私はもうとっくに、冷めてたのよ。
澪ちゃんと仲良くするよう方針を変えた段階で、気付いて欲しかった。』
 書き進めていくうちに、律と過ごした日々が脳裏に蘇る。
律に対する心配はあったが、迷惑だと感じた事は一度も無かった。
それでも紬は、真意を微塵も文に出さない。
大切な思い出を嘘で穢してまでも、律を救いたかった。
それ程までに、律を愛している。
その愛が翻って、紬に今の地獄を強いているとしても。
『それでも告白したのは私の方だから、今まで我慢してきたけど。
その義理立ても、もう限界。言わせてもらうわ。』
 深く愛した相手から、蛇蝎の如く嫌われると言う事。
その途方も無い喪失感に指が震え、字体が歪みそうになる。
それでも、後少しだと言い聞かせ、紬は指に力を込めた。
後、一文。後、一文だと。
『もう私に付き纏わないで。』
 書ききった紬は澪に便箋を渡すと、机に突っ伏した。
身体中が脱力し、姿勢を支えている事さえ困難だった。
「うん、いいんじゃないか?
これなら律も、ムギを嫌って別れてくれるだろう」
 読み終わった澪の言葉が、成功を担保してくれた。
だがやはり、達成感も喜びも湧いてはこない。
逆に、改めて悲しみが身を劈き、心を深く深く抉る。
「そう。じゃあ、後はよろしくね」
 紬はそれだけ言うと、無理矢理に身体を立たせた。
深刻な精神の動揺に嬲られた今の身体では、家に帰れるかどうかさえ危うい。
それでも紬は歩き出す。帰れずとも構わなかった。
律の傍から離れられれば、道中で尽き果てても構わなかった。
「大丈夫か?」
 余程、今の紬が弱って見えるのだろう。
澪が心配そうに声を掛けてきた。
「別にいいわ、私の事なんて」
 律の事だけ気に掛けていればいい。
その意を伝えて、紬は澪の部屋を出た。


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最終更新:2012年02月28日 21:04