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 満身創痍ながらも、どうにか紬は自宅に帰り着いた。
食事を拒否して自室に入ると、ベッドに手を当てる。
つい数時間前まで律が寝ていたはずなのに、その温もりは既に消えていた。
その事を確認した途端、抑えていた感情が溢れ出してきた。
「えぐっえうぅ」
 室内に嗚咽が響き、堪えていた涙がベッドを濡らした。
幾ら泣いても、悲しみは癒えなかった。
それでも涙は、紬が力尽きて眠りに落ちるまで止まる事は無かった。
その日見た夢の中では、未だ律と付き合っていた。
覚めなければいいと、何処か朧な意識で紬は願った。
 無情にも夢は覚める。紬は起床後 日曜日も激しい悲しみの底で過ごした。
そして月曜日の朝になると、悲しみに恐怖が加わって紬を苦しめた。
学校では、律と顔を合わせなければならないのだ。
律から嫌悪を注がれる事など、想像しただけで耐え難く恐ろしい。
更に恐ろしい事に、紬は学校でも律を避けて過ごさねばならない。
手紙に説得力を持たせる為には、必要な事だった
愛する律を眼前に置いて、手を伸ばす事すら許されない。
その辛さを、これから幾日も味わっていくのだ。
 学校では、紬は律と極力視線を合わせないよう努めた。
どのような視線で遇されるのか、怖かった。
律が近付いてくる度、紬は自然を装って離れた。
 しかし、律との接近が、意外な形で実現する事になる。
「ムギ、話があるんだ。ちょっと来てくれ」
 放課後、不意に澪に呼び掛けられた。
もう既に、律の問題は解決したはずだった。
それとも、まだ何か解決すべき懸案が残っているのだろうか。
紬は不安に苛まれながら、澪に従う。
「ええ、分かったわ」
「律っ。律もちょっといいか?話があるんだ」
 続いて澪は、律も呼び寄せていた。
紬が驚いて声も発せぬ間に、律が寄ってくる。
「話?いいよ、ムギも居るなら。付き合うよ」
「ああ。じゃ、場所を移そうか」
 澪はそう言うと、二人を先導して歩き出した。
律も交えて、澪は何を話す心算なのだろうか。
また、律の「ムギも居るなら」という言葉も引っ掛かっている。
律はもう、紬に気を使う必要など無いはずである。
それどころか、軽蔑の対象ですらあるはずだ。
紬は不安と疑問を胸中に浮かべながら、黙して続く。
 辿り着いた先は、軽音部の部室だった。
澪は二人に隣り合う椅子を勧めた後、正面の椅子に座って話を切り出す。
「まず、律。お前の中毒を治す為に提案があるんだ。
絶対に受けてもらわなければならない提案だ」
 紬は耳を疑った。
澪がずっと側に居るのだから、もう依存を治す必要など無いはずだ。
それとも自分が見ていない間に、事態が思わぬ方向へと進んだのだろうか。
律が起きた後にどういうやり取りがあったのか、紬は気になった。
「提案?内容によっては受けるよ。
私だって、このままでいいとは思ってないし」
「簡単だ。まずは3日から5日置きくらいに、私を求めろよ。
そのスパンでも、どうにか離脱症状は抑え込めるな?」
 律は眉根を潜めた。
「駄目だよ。ムギを裏切れないよ。
私はもう決めたんだ。ムギを悲しませないって。
それにそんな対症療法じゃ、意味が無いよ」
 この律の態度にも、紬は疑問を抱いている。
律は手紙の内容を信じなかったのだろうか。
「まぁ、話を最後まで聞け。対症療法なんかじゃ無い。
私を求める間隔を、徐々に伸ばしていくんだ。
やがて私を求めずとも発作が起きなくなった時、律の中毒は治ったって事だ。
勿論、長い時が必要だろう。
治ったと思っても、フラッシュバックに襲われる事があるかもしれない。
それでも、根気強く治癒していこう」
「だから、駄目だって。
間隔の問題じゃ無く、求める事自体がアウトなんだよ。
また前みたいに、ムギが悲しんじゃうから。
私は意地と根性で治すよ」
「ムギが悲しむと言うけれど、苦しむ律を見る事の方が、もっとムギは悲しむよ。
意地と根性で我慢する間、お前はどれだけの苦痛を負うんだ?
その苦痛に律の身体が耐え切れず、重篤な事態になるかもしれないんだぞ?
そうなった時こそ、ムギの悲しみは最も大きくなる」
 澪の言う通りだった。
ただ紬とて、その事は既に律へと話して聞かせている。
その時、律は首を縦に振らなかった。
今回の澪の説得も無駄に終わるだろうと、紬は諦念に駆られて二人を見つめる。
「悲しみの大小だけが問題じゃない。次元が違うんだよ。
私の浮気じみた行為でムギを悲しませる事と、
ムギを愛するが故に貞節を守って結果悲しませてしまう事。
恋人としてどちらが正しいか、一目瞭然じゃん?
それ以前にさ、ムギはやっぱり、治療目的とはいえ私が澪を求めた方が悲しむと思うよ。
あの時に見たムギの表情以上に、悲しい表情があるとは思えない」
 紬の予想通り、律は澪の提案を拒んでいた。
予想はしていても、落胆が改めて紬を見舞った。
紬としては、確かに律から未だ好かれている事は嬉しく思っている。
だがそれとて、律の安全が確保された上での話だ。
離脱症状に苦しむ姿など、澪に懐く以上に辛く映る。
 そして何より、律が未だ苦しむ選択をするならば、
一体自分は何のために断腸の思いで手紙を書いたのか。
紬は抑える事のできない怒りを覚え、澪を睨み付けた。
澪は紬に手紙を書かせる事で、解決を担保したはずだ。
それなのに解決に至っていない事が、腹立たしかった。
 だが澪は紬の視線に動じた様子を見せなかった。
それどころか、律の返答に諦めた様子さえ見せていない。
まだ律を翻せる策でも持っているかのように、落ち着いて振る舞っている。
その澪はポケットに手を入れると、再び口を開いた。
「そうか。できればこれを使わずに、律に承諾して欲しかったんだけど。
まぁ、そう上手くはいかないか。これ、読んでみろよ」
 澪はポケットから封筒を取り出し、律に手渡した。
受け取った律は開封し、中から花柄の便箋を取り出す。
途端、紬は声を上げそうになった。
一昨日、紬が律に宛てて書いた便箋だった。
律が便箋を開くと同時に、澪の解説を入れる声が響く。
「それ、私が土曜日に、ムギに書かせた手紙なんだけどね。
律には土曜日の事、ムギが心配して届けてくれた、としか説明してなかったな。
実際にはそれだけじゃなく、別れの手紙を書くよう指示もしてたんだ。
律に嫌われるような内容を書けってね。
それを律に渡して、嫌ってもらうからって。
そうすれば律がムギから離れて私に懐き、離脱症状を抑え込めるって言ったんだ。
そうしたら、ムギ、書いてくれたよ」
 律は便箋から目を上げると、震える声で澪を糾す。
「何でこんなもの、書くように指示したんだよ……」
「ムギの思いを律が知るべきだと思ったから。
それ書いてる時のムギ、どういう思いで書いていたか分かる?
私の目から見てさえ、血を吐きそうな表情で書いてたよ。
そんな思いしてまで、お前を救いたかったんだよ。
律は悲しみの大小の問題じゃないと言ってたけど、
悲しみが大きいってつまり、ああいう姿を言うんだ。
お前が見た時以上の悲しい表情、確かにあるんだよ。
悲しい事のハイエンドがどういうものか、ちゃんと考えてなかったろ?
そして律から嫌われてまでも、律を救いたかった。
この意味が分かるか?
律と別れる事よりも、律の苦しむ姿を見る方が辛いって事なんだ。
それでも、自分も苦しんで紬も苦しめる道を選ぶのか?」
 律は視線を彷徨わせた。
具体例を突き付けられ、心が揺れ動いているのだろう。
それでも律は、尚も逡巡を口にした。
「でも……。それで、私はいいかもしれない。
ムギも、より大きな不幸は避けられるかもしれない。
でも、澪はいいの?私、ぶっちゃけて言っちゃうけど、澪に恋心は抱いてないんだよ?
専ら、身体依存的なものだから。
何か、澪を身体目当てで利用してるみたいで悪いよ」
 紬もかつて、律の口からその罪悪感を聞いた事がある。
律の苦しむ姿を見ている方が辛いと、澪を求めるよう勧めた時の事だ。
澪の提案を容易に受け入れない理由には、やはり彼女に対する罪悪感もあるらしい。
「そもそも、律を依存させたのは私だからな。
律の中毒を治す義務があるんだよ。責任を取る、っていうだけの事さ。
それに、ムギにここまでやらせておいて、私だけ負担を免れると言うのなら。
それだと私は悪魔だよ。
私は律の為に鬼になったけど、悪魔にまではさせないでくれ」
 澪の言葉を受けて、遂に律は首を縦に振った。
「分かったよ、澪。私だって、ムギを苦しめたくない。
それに、澪の立つ瀬も奪いたくない。
だから、ムギ。ごめんな。私、澪をまた求める事になる。
勿論、性的な事は一切しないよ。スニッフ程度に留めるから。許して、くれるか?」
 話を振られた紬は、笑みを浮かべて頷いた。
「ええ、勿論。
りっちゃんが苦しまず、そして私はりっちゃんと付き合い続けられるんだから。
望外の結果よ。謝る必要さえ無いわ」
 確かに望外の結果だと、紬は改めて思う。
律を苦しませずに交際を続けられる、その事実が素直に嬉しい。
また、これから先、律が澪を求めても妬む事は無いだろう。
一旦は律から嫌われる決心をした紬にとって、その程度些事としか感じない。
そしてそれは、澪が齎した成果でもある。
だから紬は澪に向けても、礼を言う。
「有難う、澪ちゃん。
澪ちゃんのおかげで、最も良い結果が得られたわ。
でも澪ちゃんは、良かったの?
澪ちゃんが何も事情を明かさずに手紙を渡していたのなら、
澪ちゃんはりっちゃんを独占できた。
なのにどうして、りっちゃんを手放す気になったの?」
 澪の冷笑や自信に満ちた態度が、脳裏に蘇る。
あの態度から推測するに、澪は律を自分のものとして扱っていたはずだ。
更に澪は、律を返せ、という言葉すら放っていた。
なのに澪はどうして、律を手放す気になったのか。
その疑問も、紬は礼と併せて口にした。
「ああ、今も好きだよ。だから、律の事を救いたい。
律の恋を不自由無く成就させてやりたい。
律をこんなにした責任も感じてるしね。
まぁムギと律が付き合い始めた最初のうちは、そうは思ってなかった。
律は私の物だと思っていたし、ムギとの交際さえ長続きしないと思ってた。
でも律が見舞われた離脱症状は、私の想像を超えて過酷だった。
いや、離脱症状さえ発症しないと思っていたんだ。
私に対する恋慕から、戻ってくるって、そう思ってた。
恋慕なんて、所詮私からの一方通行だったのにね」
 寂しそうに笑う澪から、紬と同じく律を深く愛している事が伝わってきた。
澪もまた、紬と同じく律を手放す決断を経ているのだ。
嘗ては恋敵と見ていた澪が、今となっては最も親近感の湧く存在となっている。
「それで、この計画を思い付いたのね。
流石よ、見事に私やりっちゃんの性格を読み切って、
りっちゃんを救う道を実現させたわ」
 紬は感嘆を込めて言うが、澪は手を振っていた。
「いや、過大評価だよ。別に読んでた訳じゃ無いし、計画というには杜撰だ。
私にとって、これは賭けだった。
律はともかく、ムギを試す事に付いては特にね。
律を救う為なら律と別れる事さえ辞さない、
その覚悟をムギから見せてもらいたかったんだ。
その確信が無いと、間隔を空けて律が私を求めるという治療法に、
ムギが協力や理解をしてくれると信じられなかったから。
律を救う為なら、律が他の女の身体を求めてもいい。
その心理にムギが到達しなければ、治療と二人の恋の両立は難しかっただろう。
でもムギは、その選択をしてくれた。有難う」
 紬に礼を述べる澪の表情には、笑みが浮かんでいる。
だがその笑みの裏側にある悲しみを、紬は敏感に見取っていた。
律と別れる決心を一度はした紬だからこそ、澪の悲しみは痛い程に理解できる。
澪は賭けの一言で片付けているが、
その賭けを実行に移すまでには計り知れない葛藤があっただろう。
律を他の女に渡す事になるのだから。
紬が味わったものと同じ地獄を、澪も経ているのだ。
 澪を憐れんだ紬の口から、自然と謝罪と問い掛けが漏れ出ていた。
「澪ちゃん、本当にごめんね。
やっぱり、少しは私の事、恨んでたりする?」
 途端、澪の表情から笑みが消え、険しい視線が紬を捉える。
次の瞬間には肌を打擲する音が響き、紬は頬の痛みとともに姿勢を崩した。
「み、澪っ?」
 律が叫ぶ中、紬は澪へと視線を向けた。
右に振り抜かれた左手の位置から、紬は頬を張られた事を悟る。
「いきなりで悪いな。そういえば、前にムギから頬を叩かれた事があったから。
そのお返しだよ」
 澪は悪びれずそう言うと、表情を緩めて続けた。
「だから、これでチャラだ」
 紬は澪の言葉に込められた意図を、敏感に悟った。
単純に頬を張った相殺だけでは無く、
感情の遺恨さえ無くなったと澪は言っているのだ。
二人はもう恋敵同士では無く、友人同士だった。
「ふふっ、そうね、ふふっ。これからも、よろしくね」
 紬は思わず笑みを漏らしていた。
かつて律と初めて二人きりで遊んだ時の事を思い出したのだ。
あの時、紬は律から叩かれてみようと試みた。
律と遊んだ後の日には、澪から叩かれてみようと試みた。
紬は本気で叩ける間柄の二人に、強い友情の絆を感じて羨ましく思っていたのだ。
だから紬は「友達に叩かれる事が夢だったのー」とまで形容し、打擲を二人に乞うた。
それでもあの時は、二人とも本気で紬を叩きはしなかった。
 だが今、澪から本気で頬を張られて、その夢が叶った思いだった。
紬は澪との間に生まれた友情を、確かに感じている。
「わっ、ムギっ、どうしたんだよ。急に笑い出したりして」
 訝しげに問う律に向けて、紬は答える。
「いえ、嬉しくって。恋と友情の両立なんて、本当にあるんだなって。
夢物語だと、思ってた」
 愛する対象が同じだからこそ、成り立った友情だった。
お互いが愛する者への責任を果たす事で、二人の友情は続いてゆく。
澪は律の依存を治すという責任を。
そして紬は──
「りっちゃん、惚れてくれて有難う。
その責任、ずっとそばに居る事で果たしていくわ」
 改めて律に伝える。
「うん、ありがと、ムギ」
 律は頬を赤く染め、小さく頷いた。
「改めて、おめでとう」
 そして澪は笑顔を浮かべて、拍手で祝福してくれた。
それは友人らしい祝い方だった。
その姿に、律の依存が治っても澪と友人であり続けようと、紬は次の夢を芽生えさせた。

<FIN>

以上で完結です。
お付き合い頂き、有難うございました。



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最終更新:2012年02月28日 21:05