梓「――ねぇ憂、これからどうしようか」

私の問いに、うーん、と少し考え込んで、空を仰ぎ見ながら憂は答える。
その横顔を綺麗だと思い、好きだ、と思った。

憂「……私達に、何ができるのかな。何をしていいのかな、私達は」

梓「……難しい問題だね、それは」

でも私は、それを憂と一緒に、二人でずっと一緒に探していきたいと思った。

梓「……じゃあ、これからどこに行こうか」

憂「……私は、梓ちゃんと一緒ならどこへでも」

梓「……うん。私も憂と一緒ならどこでもいいよ」

……他の何も、要らない気がした。
隣に居る憂が、そう思わせてくれた。

……二人、瞳を閉じ、綺麗に重なり合う互いの想いにしばらく身体も心も預けることにした。


ずっと、ずっと一緒に。


――――
―――
――


【#0】



――憂が死んだ。


私の大好きな憂が。

澪先輩や唯先輩の背中を追おうとしてもがく私を、いつも隣で支えていてくれた憂が。

先輩達が先に行ってしまった後も、変わらず私の隣にいてくれた憂が。

悩む私にも、焦り、戸惑う私にも嫌な顔一つせず、ずっと一緒に居てくれた憂が。


――死んでしまった。いなくなってしまった。





平沢一家の事故の報を聞いた時には、全てが壊れてしまったような気にさえなった。実際、片想いとはいえ私の全てだった憂がいなくなったとなれば、それは私の世界の崩壊を意味してると言える。
……もちろん憂だけじゃなく、唯先輩もそのご両親も大切だ。いなくなって悲しくないはずがない。命に順位なんてつける気は無いし、唯先輩に受けた恩を忘れたわけじゃない。
軽音部でいつも近くにいてくれた唯先輩がいなくなった、それが悲しくないはずがない。

でも、当時の私が求めたのは憂だった。先を行く先輩の背中ではなく、共に歩んでくれる隣の姿だった。
いろいろと事情はあるんだけど、とにかく弱い私は近しい存在を求めてしまった。支えを求めてしまった。それが憂だった。

憂がいてくれたから、私は頑張れた。
憂がいなくなってしまったら、私は何も出来ない。何も頑張れない。

……それほどに、私は憂を愛していた。


――もちろん、それは一方的なものであって、故に私自身も決して伝えるつもりなんて無かったんだけど。




【#18】


……
………

  「――梓ちゃーん? もうすぐご飯できるから机の上片付けてー?」

キッチンから恋人の声がする。
憂を失い、全てを投げ捨てた私の前に現れて支えてくれた大事な大事な恋人の声が。
どこにいても何をしてても聞き逃すことはないと断言できる、甘く綺麗な声が。

梓「片付いてるよー。大丈夫」

  「そう? んじゃ持って行くね」

……今、私は恋人と同居人とで三人暮らしをしている。
憂を失って大学受験どころじゃなかった私は、今じゃ立派なフリーター。訳アリの恋人に家事全般を押し付け、ただただ日々を食い繋ぐためだけに働く日々。
それでいいのか、と問われれば私は首を動かせない。でも恋人は首を縦に振るから私自身は変わるつもりはない。
近々、彼女と同居人と三人で音楽関係のオーディションでも狙ってみようかと思っている。もう少し夢を追いたい。一緒に輝いていたい。それが私の恋人の望みだから。

少しすると、「お待たせ」との言葉と共に大小様々なお皿がテーブルの上に並べられていく。
いくら三人いるとはいえ…この量はちょっと多いんじゃないのかな?
でも、今日も相変わらず見事な出来。本当に、いつも変わらず――


梓「――おいしそうだね、憂」





……そう、私の恋人は偽物《ドッペルゲンガー》。




………
……


【#1】


――平沢一家の事故は、確か冬休みだったように思う。
あの日のことなんて覚えていないし、それからの日々も私にとっては空虚なものだった。
そんな私の周りに誰が居てくれて、誰が離れていったのか。それさえも認識できなかった。

憂がいなくなった。それだけが私の現実。

空虚な私の心を唯一揺らした出来事、それが起こったのは桜高の卒業式の日だった。
とはいえ、言うほど大きな事があったわけではない。ある種当然の出来事があっただけ。式の後、進学も就職もしなかった件で両親に勘当されただけ。
もっとも、厳密には両親に勘当するつもりはなかったのかもしれない。一向にやる気を見せない私への叱咤のつもりだったのかもしれない。
我が子を千尋の谷へ突き落とす、親とはそういう生き物らしいから。それも親の愛情らしいから。

でも仮にそうだとしても、谷から這い上がってあの家に戻るつもりにはなれなかった。家だけじゃない、どこにも居るつもりになれなかった。
時間が傷を癒すこともあると聞いていたけど、時間で癒えないこの傷はどうやっても、何処に居ても癒える気がしなかったから。

今にして思えばただの自暴自棄と言って差し支えないと思うけど、それは私が今、満たされているからだ。
当時の私からすれば自暴自棄であろうともなかろうとも、それさえもどうでもよかったんだから。



……そんな私を真っ先に見つけてくれたのが純であったことには、心から感謝しないといけない。


純「やっと見つけた」

梓「………」

純「…ほら、梓。ウチに来なよ」


夜の闇に溶け込み、沈み込む私を純がどうやって見つけてくれたのか。それはわからない。
私にわかるのは、何気なく振舞っているように見えるけど汗だくの純の姿と、自分が携帯電話も財布も何も持ってなかったことと、そしてその後、純が話をつけてくれたおかげで私は家に連れ戻されずに済んだ、ということ。

……私は純がどこの大学に受かったかさえ知らないのに、純はそんな私を助けてくれた。
何の見返りもないと知っていながらも。その時の私の頭の中に、大事なはずの親友のことなんかこれっぽっちもなかったと知っていながらも。

絶対に、今が初めてじゃない。純が私を助けてくれたのは。
こんな私が卒業できたのは、卒業できる程度になんとか日々を歩いてこれたのは、隣で手を引いてくれていた人がいたからだ。
それでも気づけなかった。そんなことにも気づけなかった。
好きな人を失い、帰る家までも失い、この身一つになるまで私は気づけなかった。

梓「……純」

純「んー?」

梓「…ごめん。ありがとう」

純「……ははっ」


そのことに対する申し訳なさに気づけた時、私はほんの少しだけ前を見ることが出来た。


純「――私、春から一人暮らしする予定なんだけどさ。梓も来ない?」

梓「……え?」

私の携帯電話と財布を投げて寄越しながら、純は言った。
話を聞くと、純は軽音部の先輩達とはまた別の大学に進学したため、春にはこの街を出る、とのこと。
そしてもちろん、純がこの家にいなくなるのなら私も出て行かざるを得ない。

純「家に戻るってんなら引き止めはしないけどさ。そのつもりがないなら一緒に暮らさない?」

梓「え、っと……待って、話が見えないんだけど」

純「とりあえず先に聞くけど、行くアテあるの?」

その問いには首を振る。少なくとも家に戻るつもりはない。ならばどこに行くか、という話になるもののたいしたお金も持ってないから宿泊施設は厳しい。
ならば図々しくも、今の純のように泊めてくれる人を探す、となるけど……同情から泊めてくれるような友人なら確かに何人かはいるかもしれない。でも親友として泊めてくれるのは間違いなく純だけだ。
そして軽音部関係は…今更合わせる顔も無い。先輩にも、後輩にも。
というわけで、行くアテなんて全く無かった。野宿でも構わないという気持ちも無いことはないけど、私を探し出してくれた純の前でそれだけは口には出来ない。
何も無いし、これから先もどうでもいい私だけど、だからといってこれ以上純に心配をかけられるはずはない。

そのくらい中途半端には私は前を向いていて、同時に人生の道標を失っていた。

純「何も無いならさ、ルームシェアしようよ。バイトでもして、いくらか入れてくれればいいからさ」

だから、その申し出は素直に嬉しかった。
憂のいない世界でも、ただ流されて生きるだけなら私にも出来る。死なないだけの生を送ることなら。
勿論、純にとってはそれは私に猶予を与えただけなんだと思う。私を信じて、無期限の猶予を。
その信頼に応えられるかはわからない。けど、ここで足を止めて朽ちたら少なくとも純は悲しむから。だから理由は何であれ、私を動かしてくれる存在が何よりも嬉しかったんだ。

梓「……純は、いいの?」

純「猫一匹泊めるだけで家賃がいくらか浮くなら安いもんよ」

梓「まずありえないと思うけど、もし、一人暮らしと二人暮らしで家賃が違ったりしたら?」

純「……さあ?」

梓「………」

純「………」

梓「………」

純「……で、返事は? 家賃が上がったりして私の気が変わる前に言っておいたほうがいいと思うよ?」

梓「……よろしくお願いします」

純「うん、よろしい」




【#2】


――そして、その時はすぐにやってきた。

純「……行こうか、梓」

この街を出て二人で暮らす、その日。
純はだいたいの荷物を郵送するらしく、手提げバッグ一つの軽装で立ち。私は一度だけこっそり家に戻って持ち出したお気に入りの服や日用品を詰め込んだボストンバッグと、ギターを背負う。
……こっそりとはいえ両親のいない時間を見計らったというだけで、私が戻って私物を持ち出したこと自体は純が伝えてくれた。泥棒と騒がれるのも当然ながら本意じゃないし、純のその気配りには素直にお礼を言っておいた。
もうひとつ余談だけど、それ以外の私物は手当たり次第売った。全てを持ち出し、売り払うことは叶わなかったけど、両親への罪悪感もないわけじゃないからそれで良かったとも思う。
売って得たお金は新しい生活の足しにするつもりだ。一部は迷惑料として純のお母さんに渡そうとしたけどやんわりと断られた。
きっともうこの街に戻ってくる気にはなれないからちゃんと清算しておきたかったんだけど、「それも青春だよ」という一言と親友の面影を持つ笑顔には返せる言葉が無かった。

純のご両親にお礼を告げて、道路に立つ。
空から私を照らすいつもの太陽。代わり映えしない人と車の往来。無機物でありながら無機質ではない民家の列。そんな中に彩りと癒しを与えてくれる植物。それら全てが、憂が生きて死んだこの街、桜が丘を形作っているんだと今更ながらに思い至る。
この桜が丘の街並みを見るのが今日で最後だとしても、何の感慨も沸かない私だけど……

梓「………」

純「……梓?」

……何の感慨も沸かない私だけど、今日が最後だというのなら行っておかなくてはいけない場所がある。
行ったところで何も変わらない。私が吹っ切れることはきっと永遠にない。そうわかっていても。

梓「……ごめん、まだ時間ある?」

純「大丈夫、充分あるよ」

梓「じゃあ、寄っておきたいところがあるんだけど…」

純「うん、行こうか」

全てを見透かしたようなその顔は学生時代だったら文句の一つもぶつけたくなっていたのだろうけど、今はただ頼もしく、ありがたかった。



――行き先なんて互いに確かめもせず、ただ歩いて自然と辿り着いた先、一軒の家。『平沢』と書かれた表札の前に立つ。
住む人のいない死んだ家は、それでもさほど外見に変化は見られなくて、余計に物悲しい気持ちになる。

梓「……どうなるんだろうね、この家」

一旦荷物を地面に置き、家を見上げて呟く。純も同じように荷物を置き、隣に並んで見上げる。

純「……誰かが買い取る、とか?」

ただの高校生にすぎない私達は、ミュージシャンの知識こそそこそこ持ってても、住人のいなくなった家のその先なんて知り得ない。
賃貸マンションならいざ知らず、それなりに豪華な一軒家だ。いろいろ面倒そうなのくらいは予想がつくけど。
更にこの平沢家、立地条件も悪くはない。そして何より、住人はちゃんと引っ越したわけじゃないから、ある種の曰く付き物件…になりそうな気がする。
これだけ揃ってると純の言う通りだとしても買い手さえつくかどうか……
……ま、考えててもしょうがないことなんだけど。

しばらくすると純が「もうちょっと近くで見て行こうか」とかいって敷地内をぐるりと一周して、しまいにはドアノブに手をかけ始めた。
もうすぐ大学生なんだから落ち着きと常識を持とうよ、純……

梓「そういうのやめなよ……もう」

純「大丈夫だって、どうせ開いてるワケないし」

梓「そりゃそうだけど……」

それでも、実は鍵は開いていて、近づいた瞬間にタイミングよく中から憂が顔を覗かせるのではないか。
それに純が驚いて尻餅をついて、憂が手を伸ばし、私が苦笑しながら近寄って。そんな日常がまた体験できるのではないか。
そんな希望を捨てられずにいる。きっとずっと。

あぁ、そっか。
私は前を向いていても、今の景色を見ていても、やっぱりそこに憂の存在をいつも求めている。
下ばかり向いていた時期と本質は何も変わらない。前を向いても、歩いていても、生きていても心は此処にはない。
会いたい、悲しい、寂しい、と目を閉じていた時期と何も変わらない。ただ目を開け、顔を上げただけにすぎず、心は何も変わっていない。

ただ、その目に現実が写るようになっただけ。純粋で残酷で綺麗な現実が。


純「……ホラね」ガチャガチャ


そう、これが現実。
覚悟を決めるんだ、私。前を向いて、現実を見て、それでもそこに憂をいつも求めながら惨めに生きていく覚悟を決めるんだ。
憂はいない。けど私は憂を求めている。憂のいる日常に焦がれている。そこまで全部ひっくるめて私の現実なんだと認めるんだ。
そんな現実の中で生きていく覚悟を決めるんだ。どうあっても生きなくてはいけないと教えてくれたのは純じゃないか。

梓「っ………」

苦悩しながら、ドアノブをガチャガチャやってる命の恩人の背中を数歩引いたところからしばらく眺めていると。



不意に。


後ろから。


梓「っ――!?」


肩越しに、腕が回され。


  「……――――……」


その腕と、背中に押し付けられた身体から温もりが伝わってきて。

それらはそっと優しく、ぎゅっと大切そうに、私を包み込む。


そして

囁かれる。


  「――会いたかった……」


反射的に振り払おうとしたけど、その声によって私の動きは止められた。その声の持ち主を、私が振り払えるはずがなかった。
純が青ざめた顔でこちらを見ている。ということは、やっぱり私の判断は正しかったんだね。


梓「――私も……会いたかったよ」


肩越しに振り向いた、その先。



そこには、微笑みと共に涙を流す、憂の優しい笑顔があった。


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最終更新:2012年04月02日 22:46