【#11】
◆
梓「――疲れた……」
アルバイト初日を終え、制服から着替えて「お疲れ様でした」と挨拶して店を出て。そのまま真っ直ぐ帰路へつきながら今日の仕事内容に思いを馳せてみる。
仕事自体は楽といえるほどではないけど、苦痛ってほどでもない。一人でも続けられる範囲かな、と思った。同僚も変な人はいなさそうだし。
シフトは大体朝から夕方少し手前まで。お金は欲しいから勤務時間は長めに取ってもらっているけど、それでもこの調子だと純より早く帰れる日がほとんどじゃないのかな。
……つまり、家に帰れば憂と二人っきり。
梓「……べ、別に変なこと考えてるわけじゃないんだけどね!」
想像するだけで誰にでもなく言い訳をしてしまう程度には頬のニヤけが止まらない。特に何もなくても、両想いの恋人と二人っきりの時間を想像するだけで幸せだ。
もちろん純も純で大事な存在で、一緒にいられて幸せだけど、やっぱり少し質が違う。というか違わないと憂にも失礼だ。
だったら、やっぱり私達は二人っきりの時間と三人仲良く過ごす時間を使い分けないといけない。
三人の時はいつも通りやればいいとして。じゃあ二人っきりの時は……何をすればいいのだろう?
梓「……あれ?」
もちろん私だって年頃の女の子だ。恋人関係の二人がすることに対する知識くらいはある。きっと最低限だと思うけど、それでも知識はある。
だから問題は、いろいろ思い描くことはできるけど恋人として実行している『自分の姿』が想像できないこと。
恋人らしい流れで恋人らしいことをする。その段取りが全く想像できない。
現実はマンガとか小説とかみたいに上手くいくとは思えない。それくらいはわかってる。
だからリアルな体験談とかで予習しておきたかったけど、つくづくそういう系統のガールズトークとは無縁だった。軽音部でも、クラスメイトとの会話でも。
……実際のところ、当時はこの恋が叶うことはないと思っていたからそっち方面の話題なんてむしろ出なくてホッとしていた位だったけど。
偶然なのか必然なのかはわからないけど、そうして逃げ半分で恋愛より音楽に傾倒していた学生時代のツケが回ってきた、ということなんだろうなぁ……
梓「………」
住んでいるマンションが近づくにつれ、不安になる。
私は憂の恋人だ。憂も私をちゃんと好きでいてくれるし、私も憂を好きな気持ちは揺らがない。
でも、私はちゃんとその気持ちに応えた行動ができるのだろうか。憂のしてほしいことをしてあげられるのだろうか。
……そもそも、憂の気持ちを汲んであげられるのだろうか。察してあげられるんだろうか。
梓「…出来るように、なりたいな」
心から、そう思う。
それくらいには憂の事が大好きで、それくらいには今の私は何も出来ない。
梓「――ただいまっ」
憂「お帰り、梓ちゃん」
不安を隠し、極力自然に見えるようにドアを開き挨拶する。
小走りで奥の部屋から出てくる憂は、朝と何も変わらず可愛い。
憂「どうだった? 疲れたでしょ?」
梓「ん、まぁ…ね。でも一日はまだまだこれからなんだし、疲れたなんて言ってないで何かしたいよ」
これはアルバイトをすると決めた時から常々思っていたこと。
あくまで生活のためのアルバイトなんだから、それだけを人生にしちゃいけない。働く意味は食い繋ぐ為でも、生きる意味はそれじゃいけない。
学生時代に学校から帰ったあとに何かしていたように、これからも変わらず自分の為の何かは続けていきたい。
私としてもそう思うし、憂も純も間違いなくそれを望んでる。
憂「じゃあお風呂もご飯も後でいい?」
梓「うん。そのあたりは話し合った通り、純を待とうよ」
憂「そうだね。特にご飯」
梓「先に食べたら追い出されかねないからね」
憂「もー、梓ちゃんったら」アハハ
……ヤバい、憂可愛い。その控えめな笑い方は本当に大好き。
いつもとそこまで変わらない会話だけど、それでも私が憂を見る目は明らかに今までとは違う。特に純が大学とかで家におらず、二人っきりになった時は。
……変な意味じゃなくって、恋人の可愛いところなんていくつあっても困らないでしょ?
憂「……梓ちゃん? どうしたの?」
梓「ん、いやぁ、憂可愛いなぁって」
憂「ふぇっ!?」
梓「あっ!? い、いや、ごめ、別に深い意味は……」
……なんか最近、本音がポロポロ零れ落ちやすくなってない? 私……
まぁ、ずっと胸の内に抑えこんできた想いを隠す必要がなくなったんだから当然かもしれないけど……
憂「あ、梓ちゃんだって可愛いよっ!」
梓「うぁ、ぁ、ありがと……」
憂「………///」
梓「………///」
予期せぬ口撃と予期せぬ反撃で互いに真っ赤になってしまい、なんとも居心地の悪い沈黙が続く。
こういう時に何と切り出せばいいのかわからないあたり、やっぱり私には経験が圧倒的に足りてない。
梓「さ、さて! 何しよっか、憂」
憂「えっ!? な、何って……何?」
梓「え? えっと……ギターでも弾く、とか?」
憂「あっ……あぁ、そっか、そうだね…」
強引に話を最初に戻したらすごくガッカリそうな顔をされた。
これは……もしかして? 勘違いだったら恥ずかしいけど、まさか……
梓「あっ、あのさ、憂!」
憂「な、なにかな?」
梓「も、もしかして、恋人らしいこと、とか、してほしかったり……した?」
憂「うっ……///」
再び顔を真っ赤にして、少し悩んだあとに俯くように頷く。
そんな憂がすごく可愛くて触れたくなるけど、危惧していたとおり、憂の望むものを読み取れなかった私にはきっとその資格はない。
梓「……ごめんね、憂。察してあげられなくて」
憂「い、いいよそんな、気にしなくて!」
梓「……でも私は憂の、こ、恋人なんだし。そのへんはちゃんとしたいって、いつも思ってるのに…」
憂「それは…梓ちゃんだけが背負うことじゃないよ。私だって……梓ちゃんの恋人なんだよ?」
梓「う、うん……」
憂「……それなのに、こうして梓ちゃんを困らせちゃってる。私も…どうすればいいか、よくわからないの」
そういえば、付き合うことになってから憂からのスキンシップが極端に減った気がする。
それは憂も私との距離の取り方に戸惑っている、ということかもしれない。
そして、憂も私と同じような悩みを抱えているということ。私と同じように、相手の事が恋人として本当に好きだから、大切だから臆病になってしまってるんだ。
梓「……あはは。上手くいかないね…」
お互い本当に好きなのに、好き同士なのにすれ違う。それはとても悲しいこと。
憂「……それでも、私は世界で一番梓ちゃんが好きだよ」
梓「……私だって、憂を好きな気持ちは誰にも負けないよ」
憂「この気持ちは何があっても、一生、死ぬまで揺らがないよ」
梓「私だって憂以外の人を好きになることなんて絶対にない。約束するし、誓うよ」
ずっと憂を好きでいたいし、ずっと憂に好かれていたい。
そして、ずっと憂にも同じ想いを抱いていて欲しい。
憂「私達の想いは、ぜんぶまるっきり同じだよね?」
梓「うん。そうだよ。恋人なんだから」
恋人というのは、そうでないといけない。そうであってほしい。そうじゃないと安心できない。
思うことは、いろいろあるけど。
憂「……だったら、急がないでも大丈夫なんじゃないかな?」
結局のところ、それだけの話なのかもしれない。
もちろん恋人としてしたいこととかはたくさんあるけど、だからといって急ぐ必要は全く無い。
……だって、私も憂も、一生共に添い遂げるつもりなんだから。
梓「…そう、だね」
わからない私でいい。わからない憂でいい。わからないくらいで互いを嫌いになったりなんてしないから。
等身大の私でいればいい。ただ一つ、ずっと憂のことを好きでいるだけでいい。それだけで……私は憂の恋人でいていいんだ。
憂「…ね?」
そう気づかせてくれた憂は、私の恋人は、目の前で素敵な笑みを浮かべている。
憂自身も不安だっただろうに、私を安堵させるための答えを一緒に探してくれた。
そんな、笑顔が素敵で優しくてあたたかい、何物にも代え難い私の大事な恋人、
平沢憂。
……憂。
……憂に。
触れたい。
触りたい。
……そんなことを、ふと思った。
梓「……ねぇ、憂……」
憂「……あ、梓ちゃん…?」
左右から両の二の腕を掴み、引き寄せようとする。
憂は少し不安げな視線を向けるけど、それさえも可愛い。
梓「……キス、したい、かも」
憂「えっ!?」
梓「今度は、私から」
最初のキスは告白代わりの憂からのものだった。もちろん臆病な私達はあれから一度もしていないけど、今は無性にしたくてたまらない。
今、憂のことが愛しくて愛しくてたまらない。
……慌てる必要なんてないって思い知った瞬間にこんなこと考えるなんて、自分でもどうかと思うけど。
でも、私は慌ててはいない。急いでなんていない。焦った行動じゃない。自然と溢れ出た想いなんだ、これは。
梓「……いい?」
憂「っ、う、うん……///」
頬を朱に染めた憂が目を閉じ、軽く俯く。
背の低い私に対する気遣いなんだろうけど、実際のところこうして向かい合ってみるとそこまで致命的な身長差でもない。
……私から抱き締めても、そこまで不自然に見えたりしないのかな。だってほら、今もこうして軽く背伸びするだけで……憂の唇が目の前に。
梓「ん……」
憂の肩に手を置き、少し体重をかけて顔を近づける。
ゆっくりと、唇を近づけ。重なる、その瞬間。
純「うぉーーっす! 帰ったぞーーー!」ガチャ
梓「」
憂「」
純「――いや、せめてもっと奥の部屋でやりなさいよ、見られたくなければ」
梓「うっ……正論だ」
玄関からさほど離れていないところで会話し、イチャつき、キスしようとしていた私達は純に説教されていた。
いや、でも仕方ないって。だって憂がトテトテと迎えに来てくれたんだもん……嬉しいじゃん、お出迎え。
純「ま、イチャイチャ禁止なんて言うつもりはないんだけどね。私が悪いみたいな目で見られたらそりゃイヤだけど」
憂「…ごめん」
梓「ごめんなさい」
純「よろしい。まーでも確かに難しい問題だ。なるべくカップルの時間はあげたいけど……」
梓「あっ、それは……えっと、私なりにちょっと考えたんだけど」
純「んー?」
梓「何て言うか、三人でいる時は昔みたいに普通に三人でやれたらいいなって思うんだけど……」
憂に目配せすると、柔らかに微笑まれる。
この件は別に憂に相談したわけじゃなくて私が一人で考えたことなんだけど、きっと憂も同じ意見なんだろう。
私と同じくらい、助けてくれて巡り合わせてくれた純に感謝してるんだろう。純を除け者にしてイチャつくなんて考え付かないくらいに。
梓「純と一緒にいられる時間も、大切にしたいんだ」
純「……なんか、気を遣わせちゃってるみたいだね」
梓「そうじゃないよ!」ダンッ
純「うぉぅ、びっくりした」
梓「ごめん。でも本当にそんなのじゃないよ。純には……えっと、なんか、今更言い辛いんだけど……私、感謝してるから」
言い辛くても、ちゃんと言わないといけない。
ずっと言いそびれてた、感謝の言葉を。
梓「……純。ずっと支えてくれて。見捨てないでいてくれて。あの時見つけてくれて。そして、憂との仲を取り持ってくれて、ありがとう」
純「…………」
梓「……純?」
純「梓、あんた熱でもあんの?」
……そうだね、そういう奴だねあんたは。
純「冗談だってば。まー、そう言われるとちょっとは報われた気分にはなるけどさ。でも見返りが欲しくてやった事じゃないよ?」
憂「そんな純ちゃんだから一緒に居たいんだよ? 私も、梓ちゃんも」
梓「そうそう」
純「あー、うん、わかったわかった。憂もそっち側なら私に勝ち目はないよ」
両手を挙げて降参のポーズをとる純。勝ち目って何よ、と思わないこともないけど、確かに憂の存在はいつも大きい。
どちらかといえば一歩引いた感じで常に誰かを気にかけていて、困っていたら迷わず手を差し伸べる。その手を拒むことは何故か誰にも出来ない。
そんな憂の優しさに助けられた人は多いから、憂の諭すような『説得』というものはとても大きな力を持つ。どんなにシンプルな言葉でも心に響く。
……自慢の恋人だよ、ホントに。
純「要するに、変に意識しないで普通にやれ、ってことね」
梓「うん。私達の時間は私達でちゃんと考えて作るから、純は何も気にしないで」
純「ははっ、言うようになったね、梓」
梓「……無理だと思う?」
純「まさか。やる時はやる奴だし。梓は」
そう言って屈託なく笑うその顔は、私の決意を後押ししてくれる。
そして、そう言いながらもフォローも忘れないのが純だ。
純「…ま、どんな形でもなんだかんだで上手くやれると思ってるけどね、私達ならさ」
梓「……そうだね、それはそうかもしれない」
憂「……こんな私の事も受け入れてくれた二人だもん。何があっても、ずっと一緒にいられるよ」
純「ちょーっと重い言葉な気もするけど、結局はそういうことなのかもしれないね」
梓「そうだね……」
ドッペルゲンガーだろうと、ちゃんと憂が憂のままなら構わない。私はそう言った。
憂が好きで、純が大切で。そんな私の感情に『ドッペルゲンガーだから』という理屈なんて入り込む余地はない。
たとえ純が明日ドッペルゲンガーになっていたとしても、私がそうなったとしても、私達の関係は何も変わらないだろう。
有り体に言えば大切なのは中身で、心なんだ。人とのふれあい、友情、愛情、絆というものはそういうもの。
憂「……ありがとう、二人とも」
純「いえいえ、こちらこそ」
梓「うん、こちらこそありがとう、だよ、憂。そして純」
――互いを大切に思い遣る私達の関係は、絶対に終わらない。私達の誰もが、そう信じて疑わなかった。
でも、それでも周りは変わっていく。小さなところは変わっていく。私達の在り方の『核』を包むモノが、少しずつ変わっていく。
時が流れ、周囲の環境が変化する以上、それは仕方がなくて、どうしようもないこと。
そんな中で互いを思い遣る私達に出来ることは、その変化を良い方向に持っていくことだ。
良い方向に変わろうと努力する。それは私と憂の関係にも言えるし、純を含めた三人にも言えることだった。
最終更新:2012年04月02日 22:54