【#13】
◆
――翌日。カレンダーの上では土曜日にあたる今日、運良く私はアルバイトは休みだった。
純も授業自体は休みのようだけど、調べ物があるとかで一応大学まで足を運ぶとのこと。大学生は大変らしい。
……まぁ、特に待ち合わせとかしているわけでもないようで、当人はいまだにイビキかいて寝ているんだけど。
憂「……梓ちゃん、朝ごはんどうする?」
梓「…純が起きてからでいいんじゃない?」
憂「そだね」
梓「………」
……さて、どうしよう。今日これからの予定もだけど、純が寝ているこの時間に私は憂とイチャイチャしていていいのだろうか、というほうが当面の問題だ。
イチャイチャなんていうけど特別恋人らしいことをするのは純が起きて来た時気まずいし、そもそもそこまでの勇気がある私じゃなかったりするわけだけど。
憂「………」
梓「………」
でも、この中途半端な時間はどうしても互いに意識してしまって、こう、モジモジしてしまう。
っていうかこれはこれで気まずい。どうにかしよう。キスする? いや、いきなりそれは無理かな……
と、悶々としていると。
憂「……梓ちゃん、電話鳴ってない?」
梓「……鳴ってるね。なんか……ごめんね?」
憂「ううん、大丈夫。それより出ないと」
梓「うん―――っ!?」
着信を知らせる携帯電話。そのディスプレイに表示された名前を見て、一瞬息を飲み、動きが止まる。
相手は予想だにしていなかった人物。いや、私が予想しようとしなかっただけ? 可能性は充分にあったはずだ、この人なら。
だとしたら、やっぱり私が避けていた、という事になるのだろうか。実際、電話に出るのに勇気が要る。
かつて尊敬し、その背を追い。なのに失意の底に沈んだ私は、ずっとその人の言葉に耳を貸そうとしなかった。
……その人の、その人達の電話を、無視し続けた。優しさを拒み続けた。
一度拒んでしまえば、後はなし崩し。もし仮に後から向き合おうとしたところで、『一度は拒んだ』という罪悪感があるために一歩を踏み出せない。人間とはそういうもの。
私だって例外じゃない。自分を取り戻した時に、あの人達の事が頭に浮かばなかったわけじゃない。
でも、いかんせん時間が経ちすぎていた。とっくの昔に電話は鳴らなくなっていたし、今更電話をかけてくれるとも思っていなかった。
私自身、とっくの昔に見捨てられていると思っていた。そうであってほしかった。お互いのためにもそれがいいと思っていた。
……わかってた。それはただ、私が頭を下げるのを恐れているだけだって。
わかってた。優しいこの人達が、私を見捨てたりなんてするはずがないって。
ごめんなさい、先輩達。ごめんなさい――
梓「みお、せんぱい……!」
――意を決し、通話ボタンを押す。これは私の責だ、逃げることは許されない。
状況は掴めていないはずだけど憂も空気を読んで席を立ってくれた。向かい合うしかない。
梓「……もしもし…」
澪『……梓。良かった、出てくれて』
電話口から聞こえる、変わらない澪先輩の声。あの時は聞こうともしなかった、考えすらしなかった声。
身近にいてくれた純のことさえ視界に入らなかった私だから、遠く離れた先輩達のほうに気が回るわけがないとも言えるけど、それでも全ての原因は私の弱さ。罪悪感が無いわけがない。
梓「……ごめんなさい。迷惑かけました、よね」
澪『……いいよ、気持ちはわかる。私達だって…動けなかったんだから』
「動けなかった」、その言葉が意味するものは精神的なものなのか、行動的なものなのか。
それを問い詰める理由も意味も権利も、私にはない。
梓「……すみません。本当に」
澪『………』
沈黙のあと、電話の向こうから溜息がひとつ聞こえた。
私に呆れたような溜息ではなく、話を仕切りなおすかのような、私に聞かせる溜息。
澪『……そういえば、梓は今どこで何してるんだ?』
梓「……N女とはちょうど逆方向の隣町で、フリーターです」
澪『……そうか』
梓「…失望しました? それとも…やっぱり、怒っていますか?」
澪『いいや。ちゃんと生活しているならそれだけで嬉しいよ』
「二度と声が聴けないような事になっていたら怒ったし失望したけど」と付け加える澪先輩。
臆病な一面もある人だけど、いつも真面目で優しく面倒見がいい立派な先輩だ、本当に。
澪『……もう、大丈夫?』
梓「……はい。少なくとも、あの時のようにはなりません」
なるわけがない。憂がいるんだから。
でもそれを伝えるわけにはいかない。勿論この人達なら私を疑いはしないし憂も受け入れてくれるのだろうけど、それでも伝えるべきじゃない。余計な波風を立てるようなことは避けるべきだ。
……というのはきっと建前。
恐らく私は、憂が羨望の目で見られることを恐れて、危惧しているんだ。
……だって、先輩方も唯先輩を失っているのだから。
そんなところに憂が生き返った、なんて告げたら「どうして憂ちゃんだけが」となるのは目に見えている。
優しい先輩達はそれを口にはしないだろうけど、それでも憂のことを教えたところで物事が良い方向に転がるとは思えない。
憂のことを妬み、嫉むとまではいかなくても、憂と私のことを羨むだろうから。そして、唯先輩を求めてしまうだろうから。
もちろん私だって唯先輩には戻ってきて欲しいけど……でも、こんな奇跡が再び起こるとも思えないし。
変に期待を抱かせないという意味でも、きっと黙っておくべきだと思う。
澪『……ねぇ梓、話があるんだけど』
梓「…何ですか?」
澪『………』
思わず息を飲む、澪先輩の深刻な声色。そしてそこから続く少しばかりの沈黙。
でもその沈黙はさほど長くは続かず、澪先輩はハッキリと私に告げた。
澪『梓。来年、こっちに進学してこないか?』
……ハッキリと、私を誘った。
勿論嬉しくないわけがない。それは先輩達からの私への『赦し』であるのだから。
迷惑を、心配をかけておいて連絡も返さなかった私を赦すということなのだから。
私の居場所がまだそこにあるということなのだから、嬉しくないわけがない。
梓「……澪先輩…それは……」
しかし、前述の理由から即答するというわけにはいかなかった。
私はもう憂から離れられないし、離れたくないし離れて欲しくない。でも憂のことを隠し続けたまま澪先輩達とバンド活動を続けるというのはかなり難しいだろう。
それに純にも悪い気がする。いろいろ世話を焼いてくれた純に、私は何一つ返せていない。そのまま澪先輩達の元へ行く気にはなれない。
もっとも、純なら話せば笑顔で送り出してくれるんだろうけど――
「――誰?」
梓「わっ!?」
電話を耳に当てたまま悩む私に、いきなり反対側の耳元で問いかけたのは純だった。
悩んでいて気づかなかったのと、その悩みの一環の人物だったことがあって二重で驚く。
そして、驚いた後に今度はその真剣な顔色に気圧される。
純「……電話、相手は誰?」
梓「え? み、澪先輩だけど……」
純「代わって」
梓「え、えっ? なんで?」
純「話があるから」
梓「で、でも……」
真剣な顔色と声色に気圧されてるけど、何故だろう、代わってはいけない気がした。
……いや、気圧されているから、か。こんな『らしくない』空気を放つ純に代わってはいけない。嫌な予感しかしない。
澪『……梓? 誰かいるのか?』
梓「あ、はい、純が一緒に。代わってくれって言ってますけど……」
純「………」
澪『鈴木さん、か…。それは…無理だろうな、許してもらえないだろうから』
梓「え?」
澪『…ごめん、今言った事は忘れてくれ。次は梓のほうから電話してほしいな。いつでもいいから』
梓「え? ちょ、澪先輩? 何が――」
澪『待ってるから。じゃあ、また』
急いだように、それでいて願いを込めるように言葉を紡ぎ、澪先輩は電話を切ってしまう。
どうして、そんな申し訳なさそうに言うんだろう。忘れてくれなんて言うんだろう。そして――
純「……今更っ…!」
梓「……純?」
一体、何があったのだろう、二人に。
【#14】
純「――別に、そんな深いことがあったわけじゃないよ。あっちにもあっちの事情があったって理解はしてる」
朝食後、片づけを全て憂に任せて席を外してもらい、純の話を聞くことにした。
ちなみに憂に再度席を外してと頼んだのは純だ。どんな意図があるのかはわからないけど、きっと正しいのだろう。
梓「……私には、まるで予想がつかないよ。澪先輩のこと、尊敬してたじゃん」
純「そうだね、尊敬してた。いや……こうして梓に接触してくるあたり、私が尊敬してた澪先輩のままなんだろうと思うよ」
梓「しっかりしてて面倒見がいいからね、澪先輩は」
純「……そうだね。そのはずなんだけど」
梓「……だけど?」
純「……それでも、優先順位はあったんだよ、あの人にも。私はそれが許せなかった」
梓「………」
純「憧れてたからこそ、そんな人であって欲しくなかった。要は私の自分勝手な八つ当たりだよ」
怒った顔ではなく、辛そうな顔で純は告げる。
口だけではなく、頭でもちゃんとわかってるんだ、八つ当たりだと。
勝手に理想を押し付けて、それが違ったからといって失望する。私で言えば唯先輩の時のそれのようなもの。
純「わかってるんだ、唯先輩を失った澪先輩達も梓のように苦しんだことも。そんな中、梓に過剰に構う余裕なんてなかったのも理解してる」
梓「………」
純「でもあの時、電話『だけ』でしかコンタクトを取ろうとしないで、しかもそれが通じなかったのに次のアクションを起こそうとしない。そんな澪先輩が……ちょっとだけ自分勝手に見えたんだ」
そう、電話に出る気にもなれず、電池が切れても充電する気にもなれなかったあの頃の私は確かに音信不通だった。
純に拾われるあの時まで、私は死んでいないだけの抜け殻のようなものだった。
要は、後輩がそんな状態なのに電話以外の行動をしない先輩達に純は憤っているわけだ。
客観的に見れる今の私なら、それは無理強いだと言い切れる。いや、純本人も今は充分わかってるんだ。
前述の通り、唯先輩を失った先輩達にそんな精神的余裕はなかったって。私が音信不通になっていたことに、何らかの深い意味を見出して気後れしててもおかしくないって。
純「……梓のことを私に任せてくれたんだと思えば、そこまで悪い気もしないけど。でも、私なんかより澪先輩達のほうが、きっともっと上手く梓を助けてあげられたのに…!」
梓「……っ」
……いや、違うかな。
純の感情は、きっと『憤り』なんて一言で表せるものじゃない。表していいものじゃないよね。
こんなにも純に大切に想われている私が、そんな一言だけで表していいはずがない。
梓「……わからないよ、それは」
純「………」
梓「……わからないよ。実際にやってみないとわからないことだよ、それは」
純「…そうかな。澪先輩達のほうが、絶対上手くやれると思うけど」
梓「そうかもしれない。けど、あくまで『かもしれない』の話だよ」
純「でも、絶対にそっちの可能性のほうが高いって」
梓「可能性なんてどうでもいいよ」
そう、どうでもいい。
私にとって大事なことは、もっと他にある。
梓「私は、今の状態に不満なんてないよ。自分の行動に後悔はしてるかもしれないけど、純にしてもらったことに不満なんてないよ」
いろんな人に迷惑をかけた。こうして純に悲しそうな顔をさせた。そのことに対する後悔は無いと言ったら嘘になる。
でもそのおかげで、迷惑を迷惑とも思わない親友の優しさに気づけた。感謝してもしきれない、底なしの優しさに触れることが出来たんだ。
梓「……私の事を思ってしてくれたことに、不満なんてあるわけない。誰が相手でもそれはきっと変わらないから、一番近くにいてくれた純でよかったって、私は思うよ」
純「……そーゆーもんですかね」
梓「そーゆーもんだよ、親友」
そう言って笑いかけると、素早くそっぽを向いてしまう。
頬が赤かったのは見なかったことにしてあげよう。
純「……実はさ、澪先輩にもね、私から一回電話したんだ。梓を助けてやってください、って言おうとして」
梓「……それで?」
純「いや、出なかったんだけどね。でも澪先輩のことだから用件は予想ついてたと思うし」
梓「……そりゃ、気まずくもなるね」
精神的に参っていたのか、忙しかったのか。事情はわからないけれど、澪先輩は結果的に純の電話を無視した。
むしろ責任感の強い澪先輩だからこそ無視したのかもしれない。自分達も唯先輩の死を引きずったまま、私のほうの問題を解決できるなんて思い上がる人じゃない、あの人は。
それでも結果的には私と純を無視したことになる。そして澪先輩もその一回の無視を引きずり、電話を返すことが出来なかったんだろう。
その時の澪先輩は、先輩ではなくただの人間だった。そういう意味で『許してもらえない』と思ったのだろう、澪先輩は。
純「でも、軽音部の要の唯先輩を失ってたんだから私のは無理強いだったよね、本当に」
そう言って純が自嘲気味に笑うから、もう大丈夫だと判断する。きっと次は冷静に澪先輩と接してくれるはず。
そう確信を持っていたから、ここいらで話を変えることにする。
梓「へぇ、唯先輩のことちゃんと評価してるんだね、やっぱり」
純「嬉しそうだね、梓」
梓「……っ、まぁ、いい先輩だったと思うし。本当に……」
見事に反撃を受けたけど、否定なんてしない。
憂のことが一番大事だった私だけど、だからといって唯先輩のことがどうでもよかった、なんてことは絶対にない。唯先輩ともう会えないという事実を思うだけで痛いほどに胸の奥は締め付けられる。
唯先輩と、先輩達みんなと過ごした軽音部の時間は宝物だ。
純「……ギターとボーカルってだけじゃなく、人間関係の意味でも中心にいたよね」
梓「……そうだね」
まるで物語の主人公のように、唯先輩はいつもみんなの中心に位置していて、誰とも仲が良かった。皆と公平に接していた。
でも同時に、唯先輩もみんなに特別大切に想われていたように今では思う。きっと私の入部前から。
不幸にも、私が憂を特別大切に想っていた様な類の意味で。つまり、恋愛的な好意を持って。
……それに気づかない唯先輩は私を可愛がってくれて、そのおかげで私はあの軽音部に馴染めた。そのことについて感謝はしてるし私もそんな唯先輩に惹かれなかったと言えば嘘になるけど、それはちょっとだけ別の話。
いつか純が言っていた、「軽音部は結束して見えるから入りづらい」という言葉。それはきっと、私の時の新入生歓迎ライブにも同じことが言えたんだと思う。
その証拠に、あれから軽音部の扉を叩いたのは学園祭の録音テープを聴いて憧れを持っていた私だけだった。あの時の演奏は素晴らしく、私もそのテープ以上に聴き惚れて周囲の反応も上々だったにも拘らず、だ。
……まぁ、一応見学だけなら憂とか純とかも来ているんだけど。ライブ後に扉を叩き、入部届けを出したのは私だけだったから。
つまり、私は最初から入部するという固い決意を持っていたから気づけなかったけど、他の皆には軽音部は『入れる余地のない部』と見えたということ。ライブの時点で既に。
唯先輩を中心とした、異様なほどの結束を持つ部。あるいは奇妙なバランスで成り立っている部。そういう風に。
そこに私が混ざれたのは奇跡としか言いようがないし、そんな自分を誇ってもいた。
そして、誇らしい自分になれた場所である軽音部を潰さないようにと頑張った。憂がいなくなるまでは、だけど。
純「身も蓋もない言い方すれば、朴念仁の唯先輩のハーレムだったよね」
梓「ホントに身も蓋もない……」
純「……でもだからこそ、唯先輩を失った時は、みんな落ち込んだと思うんだ」
梓「そう、だね……」
そこからどう立ち直ったのかはわからないけど、さっきの澪先輩はいつも通りだった。
もしかしたら最近立ち直ったのかもしれない。ようやく元通りになりつつあるから誘ってくれたのかもしれない。
そうだとしたら私よりも時間はかかっているけど、それでも先輩達は唯先輩のことをちゃんと吹っ切れたんだ。それはそれで強いし偉いと思う。
私はそうはあれない。強くも偉くもない。
憂のことを吹っ切れないくらいに弱く、でもだからこそ憂の事を好きだという気持ちだけは誇れる。
なら、私は……
梓「……澪先輩には、いつかちゃんと断るよ」
憂を放っておけない。憂から離れたくない。憂を守りたい。
そんな私自身のことだけを考えるなら、こうするのが当然だ。
澪先輩達に対する申し訳なさは消えないけど、そちらを優先すると今度は憂と純に申し訳なさを抱いてしまうだろうから。
澪先輩達への償いは別の方法を考えよう。もう二度と、目だけは背けない。
純「……コメントしづらいね」
梓「嬉しいの?」
純「嬉しくないといえば嘘になるけど」
梓「残念、憂のためでしたー」
純「残念、予想通りですよーだ」
梓「…あははっ」
純「ははっ」
梓「……でも、純も一緒にいてくれるよね?」
純「ま、イイ人の一人でも見つかるまではね」
梓「…見つかるといいね」
純「なんだその上から目線はー!?」
梓「きゃー」
……ありがとう。ごめんね。これからもよろしく。
親友に向けるべき言葉は、いつもいつでも沢山ある。
最終更新:2012年04月02日 23:00