【#20】




憂「――そろそろ帰ってくるかな、梓ちゃん」

この退屈な時間が終わる時をまだかなまだかなと待ちわびる、この感覚は嫌いじゃない。
というより、梓ちゃんのことが好きだからこの時間さえも愛しい、と言ったほうが近いかな。

好きな人を待つ自分に酔ってる可能性もあるけど、私はそれを否定したい。
純粋に楽しみなんだ。帰ってきた梓ちゃんが真っ先に何を話してくれるのか。次に何を聞いてくれるのか。そして何をしようって誘ってくれるのか。全部が私は楽しみ。
楽しみなことが、幸せなことが目の前に迫ってくる感覚が嫌いじゃないのは普通だよね?


憂「……普通、かぁ…」

……私はドッペルゲンガー。言ってしまえば偽物。

でも梓ちゃんと純ちゃんは、そんな私でも『普通』に生きていいんだって、私は私なんだって、私は『憂』なんだって認めてくれた。
死んで、どこかに行って、梓ちゃんの声で帰ってきた。そんな記憶を持つ私を、それでも受け入れてくれた。
実は私が私自身についてわかっていることはそれだけだったりするんだけど、それだけでも充分普通じゃないのに普通に接してくれた。
そんな梓ちゃんが愛しいし、そんな純ちゃんを大切に思う。とっても、いっつも、心から。


だから、早く会いたいよ、梓ちゃん。

梓ちゃんが私を好きってずっと言ってくれたから、私はここにいられるんだよ。


梓ちゃんから見れば私はどう映るのかな。純ちゃんの言ったことが真実だとして、ううん、真実なんだろうけど、それでも『私』はずっと梓ちゃんのことを好きなんだよ。
梓ちゃんはそれを信じてくれてるし認めてくれてるけど、私はたまに不安になる。噛み合わないココロと記憶の歯車が、時々ガリガリって音を立てるのが怖くなる。
私のそんな弱さを、梓ちゃんはどう見てるのかな……


憂「……ちょっと、遅くなるのかな?」

いつもならもう帰ってきてる時間。帰ってきて、私に笑いかけてくれてる時間。
その時間が大好きだから、その時間に隣に居てくれる人が隣に居ないととても寂しくなっちゃう。

もちろん、梓ちゃんにだっていろいろ用事はあるはず。
でもそういう時はちゃんと連絡するって言ってたし、実際にしてくれたし、それを支えに待てた。

だから、支えがないと足元がフラフラする。いろんな不安が心の中を渦巻いて、飲み込まれて落っこちていきそうになる。
胸がぎゅうっと締め付けられて、そのまま破裂しちゃいそうになる。

憂「っ……ぁ……」

そんな風になりたくなんてないのに。もっと梓ちゃんと一緒にいたいのに。
もっと、ずっと、いつまでも一緒に……

憂「……あずさ、ちゃん……」

消え入りそうな声。それが私のものだと理解するのにちょっと時間がかかって。そしてちょうど理解したその時、ドアの開く音が聞こえた。

憂「っ!!」

現金な私は胸の痛みも忘れていつものように小走りで駆け寄るんだけど、一瞬だけ視界の端に映った黒いツインテールは私に見向きもしないで洗面所のほうへ走って行ってしまう。
言葉も交さず、視線すらも私に向けないで、姿を消してしまう。いつもここに私がいること、知ってるはずなのに。

憂「ぇ……」

いつもと違う行動に違和感を覚えて

また不安が大きくなって


後を追い、こっそりと洗面所を覗き込む。


憂「……梓ちゃん?」


梓「……っ、ぷはッ、はっ……」


梓ちゃんは、水を大量に出して顔を洗っていた。
顔……というか、口元? とにかく必死に、何度も、何度も洗って、擦って、洗い流していた。


その背中は、とても怖い。

どこか遠くへ行っちゃったんじゃないかって思うくらい、その背中は怖い。


梓「はぁっ、んぶっ、っ……はぁ、っ」

憂「梓ちゃんっ!!」

私の声も届かないその背中が、梓ちゃんのものじゃないような気がして。
やっぱり怖くなって、それでも梓ちゃんのことだから心配で。つまり知らない背中なんて見ていたくないから、思いきって梓ちゃんの身体を無理矢理振り向かせた。

振り向かせた。振り向かせたら、見えた。


梓「っは、ぁ、っ……」

憂「っ……!?」

梓ちゃんは、泣いていた。

涙に濡れた瞳と、頬と。
水に濡れた口元と、服の襟と袖と。
そして、きっと心も。何もかもがびしょ濡れだった。

きっと、全てが梓ちゃんの流す涙。
全てがびしょ濡れの梓ちゃんに、私は何を言ってあげればいいの?
純ちゃんなら、お姉ちゃんなら、どうするの?

恋人の私は、何をしてあげればいいの?


梓「……うい……」


……名前を呼んでもらっても、何て言えばいいのかわからない。
私が固まっていると、梓ちゃんはそのびしょ濡れの手を肩に置いて体重をかけてくる。
背伸びして近づいてくる、梓ちゃんの顔。覚えてる、この流れは――


  「――っ、ちゅ――」


……梓ちゃんからの初めての唇へのキスは水道水でびしょびしょで、あたたかくさえなかった。



――「キスして欲しい」って、梓ちゃんは何度も言った。

「ずっと」「いつまでも」「永遠に」「死ぬまで」「死んでからもずっと」
「憂からだけキスされたい」「憂以外とはキスしたくない」「されたくない」
「憂がいい」「憂だけがいい」「憂じゃないとダメ」

梓ちゃんは、うわごとのようにそう言い続けて、私を求めた。

それの意味するところが見えた時、悲しくならなかったと言えば嘘になるけど。
でも梓ちゃんは涙を流したから。涙で洗い流そうとして、私を求めてくれたから。
約束も、ロマンティックさも、ムードも。全部無くっても、私は梓ちゃんの恋人だから。

だから、その綺麗な心に応えてあげようと思った。
ずっと、何度もキスして、応えてあげようと思った。
恋人として、応えて、伝えてあげようと思った。


……大丈夫、梓ちゃんは汚れてなんかいないよ。




【#21】





あたたかい。

憂。

うい。

大好き。

大好きだよ。

ごめんね。

ごめんね。

ごめんね。


重なる唇から、つながる口唇から、注ぎ込むように、流し込むように。
感情だけを、つたえる。

ごめんね、うい

何度も。なんども。伝える。つたえる。
自分勝手に伝えて、自分勝手に求めてほしがる。

わかってほしい。わかって受け入れてほしい。
汚い形で無理矢理押し付けたそんな想いを、それでも憂は理解しようと努力してくれた。

汚れた私の、穢れた欲を、受け止めてくれた。

そして冷たかった唇が、次第にあたたかくなってきて。憂の熱を奪っている気がして。
……ううん、違う。憂が与えてくれているんだ。
唇と、腕と、身体と。その身の全てで私を包んでくれている。凍えている私を、あたためてくれている。

だいじょうぶだよ、あずさちゃん

何度も。なんども。伝わる。つたわってくる。
私を赦し、労り、受け入れる。そんな憂の優しさが。

その腕の、身体の温もりはあの人を思い出させるけど。
あの頃の、何度も私を包んでくれたあの人を思い出させるけど。


それでも、私は……――


憂「――落ち着いた?」

梓「……うん」

憂「……大丈夫だから」

梓「……ごめん」

憂「大丈夫だよ」

梓「……ありがと…」

憂「うん」

純「ほら、お茶でも飲みなさい」

梓「ありがと、純も」

純「うん」

純から愛用のコップを受け取り、ゆっくり飲み干す。
喉を通り抜けて身体に染み込む冷たさは、イヤでも心を落ち着かせてくれる。
いつもなら憂が持ってきてくれるんだけど、まぁ、今は私が憂にべったり抱きついてるから仕方ない。純で我慢しよう。

梓「………いや、待って、いつからいたの純」

憂「………そういえば」

純「…あんたら、今何時だと思ってるの」

言われて時計を探して見やれば、びっくりおどろき、いつもなら夕食の時間くらい。純も帰ってきてて当然の時間だ。

純「玄関先で息を潜めて約一時間。いやはや、居心地の悪い時間でしたよ」

梓「…ごめん」

憂「ごめんね、純ちゃん」

純「まぁ私は心が広いから、梓がちゃんと誠意を見せれば許してあげるよ」

憂「クレーマーみたいだね」

梓「…どうすればいいの?」

純「決まってるでしょ」

そう言うと、私の前で膝をつき、手を頭に乗せてくる。
その瞬間、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ人の顔が近づいてくることそのものに怯えてしまった。
それに純が気づいたのか、気づく気づかないは関係なかったのか、それはわからないけど。

純「……何があったのか、教えなさい」

ハッキリと、有無を言わせない口調で、親友はそう言った。




憂「――っ、そんな……」

純「ふーん…唯先輩が、ね……」

あの後。帰り道の途中で呼び止められた後。
私が向けた先の意外な顔は、いつも通りに自然に私の名を呼んで、抱きついてきて、「久しぶりだね~」とか言いながら、

……実に自然に、私の唇を奪った。

そこからは覚えていない。たぶん、いつかのように平手打ちをしてしまったと思う。
それさえハッキリとは覚えていないほどに、その時の私の心の中はぐちゃぐちゃだった。

驚きと、衝撃と、後ろめたさと、申し訳なさと、情けなさ。そのへんのいろんな感情で。

きっと泣きながら家に帰ってきた。そこから先は憂に縋ったことしか覚えていないけど、代わりに憂が事細かに語ってくれたから良しとしよう。

純「……一応、念のために確認するよ。本人で間違いないんだね?」

梓「……私が間違うわけがないよ、あの人を」

純「ま、そりゃそうか。別人だったらもうちょっと話がラクなんだけどなぁ」

梓「……あんなことされた時点でラクも何もないよ……」

憂「梓ちゃん……」

そっと、憂が手を握ってくれる。
あたたかい手は、しかし少し震えていた。

……不安、なのかな。憂も。だって――

純「とりあえず、アレだね」

言う前に憂を一瞥するあたり、純も憂の不安を察知してはいるのか。
私にだって少しはわかる。だって、言うまでもなくあの唯先輩は――

純「…唯先輩も、ドッペルゲンガー。とりあえずそう考えるのが自然だね。前例の憂がいることだし」

梓「そうだね……」

だって、唯先輩も憂と一緒にあの日に死んでいる。そんな事実がある以上、そう受け止めるしかないよね。
でも、私とそして恐らく純も察知しているであろう憂の不安はそっちじゃない。

純「そして、梓はキスされるほどに好かれている」

憂「っ………」

憂が息を飲む。私はやっぱりまだ少し申し訳なくて目を逸らす。
そう、そういうこと。あまり自分で言いたくはないけど、あの唯先輩のキスが本気で好意を表していると仮定すれば、これは三角関係だ。

もっとも、あの先輩は以前にも何度か私にキスをしようとしてきたことはある。
でも、それらのいずれにも『勢い』があった。その場の会話の流れに乗って、というか、そんな感じのものが。
なのに今回はそれがなかった。本当に自然に、会話の合間に滑り込んできた。躊躇いは勿論、前兆すらなかった。
それこそ、何度も愛を確かめ合い、周囲の目など気にならないほどにお互いを好き合っているカップルがするキスのように。

だから……だから私はショックを受けたし、驚くことしか出来なかったんだ。本当の恋愛的な好意にしか見えなかったから。

私の気持ちは憂一筋だけど、それを伝えられた憂からすれば不安にもなるだろう。私が唯先輩を素晴らしい人だと思うように、憂も唯先輩のことを尊敬していた。それはきっと私以上に。
そんな尊敬する人が恋敵。そんな大好きな姉が恋敵。今の憂の胸の中はきっとごちゃごちゃなはず。
だから、私の気持ちを疑いはしないまでも、不安に――

純「でも、ここで謎が一つ出てくる」

そう言い、純は私に珍しい視線を向ける。
私には表現できないほど、様々な感情が入り混じった視線を。

梓「……な、何?」

純「……誰が、唯先輩を求めたんだと思う?」

梓「求めた…って?」

純「憂は梓に求められたって言ったよね。ずっと声が聞こえてた、って」

梓「う、うん」

憂が戻ってこれた理由、それは私が『求めた』から。『呼んだ』から。あの日にそう憂は言ったし、今、純もそう言う。
そして、

純「同じように、唯先輩を呼び続けた人がいるとすれば?」

梓「…それは……誰?」

わかるわけがない、そんなの。私にわかるわけがない。
憂の時みたいに、声を聞いていた本人に聞かないとわかるわけが――

純「……憂の時は、梓の声が聞こえて、憂はそれに応えた」

梓「? う、うん――」

私の声に応えた。つまり戻ってきて、私の事を好きになってくれた。


そう、憂は私を好きになってくれた……


梓「――ッ!?」


ということは、今、唯先輩が私に好意を抱いているとすれば――!?


梓「ッ、違う! 違うよ憂、私じゃない!!」

憂「わ、わかってるよ! 信じてるもん! 梓ちゃんのこと、信じてるもん!!!」

そう言うけど、憂の手はずっと震えている。そうか、憂の不安は最初から……!?
でも、違う、違うよ憂、本当に私は、憂以外の人のことなんて――!

純「まぁ落ち着きなって、二人とも。ああは言ったけど、梓はそんなことする奴じゃないってのは私達が誰よりも知ってる」

憂「っ…そうだよ、梓ちゃんは二股なんてかけないよ!」

純「そう。そんな器用な性格じゃないよ。憂がいなくなっただけで無職にまで堕ちたんだから」

梓「褒めてんの? 貶してんの?」

純「ははっ。でもね、話は戻るけど結局、それが謎なんだよ」

梓「ん……なるほど」

そう、好かれているはずの私に覚えがないなら、誰が求めた?
そして逆に、なぜ求めた人ではなく私を好いている?
純の言う謎とはこういうことだろう。確かに憂の前例からすれば謎としか言えない。

純「まぁ、もしかしたら憂の事例のほうが謎で、唯先輩のほうが普通なのかもしれないけど」

梓「どういうこと?」

純「憂のほうが奇跡だったのかもしれない、ってこと。もしかしたらカップルになれるほど上手くいくほうが不自然なのかもしれない」

憂「……そう、なのかな」

純「わからないよ。私には断言できない。当事者の憂や梓にもわからないんでしょ?」

梓「……まぁ、ね」

純「だからとりあえず、なにもかもを憂の前例に頼るのがたぶん一番危険だと思う」

……なるほど。ドッペルゲンガーという状況がまず異例だから、思わず安全のために先の例に当て嵌めて考えてしまいそうになるけど。
確率論とかなんとか、そういう可能性がどうとかって考え方をすれば、異例なものこそそうして当て嵌めて見てしまうのは何よりも危険な『思い込み』にすぎない。前例が少ないからこそ視野を広く持たないといけないんだ。

純「一応仮定として、ドッペルゲンガーを生み出すには求める人の存在が必要だとは思ってるけど。もしかしたらそれさえもひっくり返されるかもしれない」

憂「……あくまでそれは、私の時だけの真実だった、ってこと?」

純「そうなる可能性もある、ってこと。でも憂にとっての真実は変わらないんだから、憂が怯えることじゃないよ」

憂「! そう、だね……うん、ありがとう、純ちゃん」

憂の時は、私が憂を好きで、私が憂を求め、憂はそれに応えてくれた。そして今、私達は幸せだ。
唯先輩の件にどんな真実が絡んでいようと、憂にとってのその真実には関係がない。現実は変わらない。そう純は言ってくれた。

ずっと握り合っていた憂の手の震えが少しずつ引いていく。よかった、落ち着いてくれたようだ。
いつもの聡い憂なら気づくような問題だけど、憂は自分のこととなると案外いろいろ見えてなかったりするからね。そういう時に誰かが支えてあげないといけないと思う。
今回は純に感謝だけど、次からは私がちゃんとしてあげたい。しないといけない。


純「……んで、まぁ、それらを踏まえて。どうする? 梓」

梓「…へ? どうするって?」

純「……このままにしておくわけにもいかないでしょーが。また会うことになるかもよ」

梓「あっ…」


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最終更新:2012年04月02日 23:08