そうだ、唯先輩がなぜこっちの街にいたのかも含めて謎だらけだけど、ビンタしただけで解決するわけがない。
純の言う通り、また会う可能性はある。私の事を好いているとするなら尚更だ。
純「理由も原因も何もわからないけど、三角関係を続けるわけにはいかないでしょ?」
梓「それは…当たり前だよ。私の恋人は、憂だけだから」
憂「……梓ちゃん……」
梓「……うん」
唯先輩に好かれて、嬉しくないといえば嘘になる。無理矢理キスをされたのは確かにショックだけど、それでもあの人を嫌いになれない程度には私はあの人の事が好きだ。
それに、仮にドッペルゲンガーになった故の恋心に振り回されているのだとしたらあの人ばかりを責める事も出来ない。そうでなくとも唯先輩は私が憂と付き合っていることは知らないんだから、情状酌量の余地はある。
だとしても、それらは憂の存在には絶対に劣る。比べるまでもない。憂と比べられるものなんてこの世には存在しない。
他にも大切なものは多いけど、一番は憂だ。心からそう思っているし、そう言い切るのが恋人の責務だと思う。
今も隣にある憂の笑顔が、温もりが、私にはずっと必要なんだ。
純「とりあえず唯先輩の目的がわからないのは不安材料だけど、こちらからすることは断ることだけ。わかりやすいね」
憂「それで…丸く収まるかな? 収まったとして、お姉ちゃんはどうなるのかな?」
純「……わからない。それはわからないよ。でも…」
梓「それでも、憂のためにも私のためにも、ちゃんと断らないといけない」
純「……痴情のもつれは怖いからねぇ。ハッキリスッパリ断らないと」
憂「うん……」
憂の顔からは不安の色が滲み出ている。
もちろん私だって不安がないわけじゃない。断ったことで唯先輩と気まずい関係になってしまう可能性はある。
それこそドッペルゲンガーゆえの恋心の変移で唯先輩が私を好いているのだとしたら、唯先輩は何も悪くないのに私にフられるわけだ。理不尽極まりない。私としても申し訳ないという気持ちは尽きない。
憂も、そうして私が苦悩していること、そして唯先輩が傷つくことに心を痛めている。きっと私以上に。
……誰も傷つかない選択肢があるなら、見せて欲しいと思うけど。それでもきっと、それは叶わない。
大切なものに順位をつけるっていうことは、きっとそういうことなんだ。
一番大事なものを掴み取ろうとするその手で、周囲の誰かを傷つけてしまうんだ。
誰かに恋をする時点でそういうことまで受け入れる覚悟が出来ればいいんだろうけど、それはきっと無理。
……無理だから、その時にちゃんと覚悟を決めて向き合わないといけないんだ。
純「……できる? 梓」
梓「……できるよ。大丈夫」
それが、世界でたった一人の憂の恋人としての義務だから。
純「――さて、じゃあ次の問題はタイミングだ」
梓「…断る話を切り出すタイミング?」
純「そう。唯先輩が今どこで何をしてるのかはわからないけど、どうせならこっちの都合のいい時間に待ち合わせとかできればいいよね」
梓「まぁ、そっちのほうが心の準備はしやすいよね」
純「梓のバイト先とかに乗り込んでこられても困るだろうしね。あと私も一緒に行きたいし」
憂「純ちゃんもお姉ちゃんに会うの?」
純「憂は来ちゃダメだよ」
憂「な、なんで!?」
純「ちょっと考えればわかるでしょうに…」
質問に答えずに先手を打つ純。さすが付き合いの長い親友だ、憂のことをわかってる。まぁ私だって負けてないつもりだけど。
ともかく憂を行かせないというのには賛成だ。憂のことはいろんな人に隠してきたわけだし、それに相手が唯先輩だし、どう考えてもプラスには転ばないだろう。
最悪の場合は姉妹喧嘩になる。私のせいでそんな風になるのは絶対に嫌だ。仮に私が関係ない場合でもこの姉妹の喧嘩だけは絶対に見たくない。
梓「憂は来たらややこしくなるからダメだってのはわかるけど、純が来たがるのはなんで?」
純「憂の分まで近くで心配しておいてあげようと思って」
梓「……大丈夫だよ」
純「私はそうは思わないけどね。梓だからってわけじゃなくて、別れ話の場なんて大抵一悶着あるもんだからさ」
どんな状況を想定しているのかはわからないけど、冷静でいられなくなった時に間に割って入ってくれる人がいるのは確かに心強い。
冷静さを欠くのが私だったとしても唯先輩だったとしても、純なら適任だろう。事情を把握してるなら軽音部の他の先輩方でも悪くはないんだけど。
それくらいにはみんな信頼できる。でも、それでも私は拒んだ。
梓「……でも、唯先輩に失礼じゃないかな」
やっぱり、別れ話の場に誰かを同席させていいのかという事に対する戸惑いは尽きない。相手に失礼じゃないのか、と。
とはいえ、これば厳密には別れ話じゃない。事情を知らなかったとはいえ私達から見れば悪いのは向こうだ。
だから正当化は出来る。出来るんだけど、それは向こうの事情を汲んではいない……
……そうして悩む私に、純はまた優しく猶予をくれる。
純「そう思うならこっそりついて行くよ。やっぱり不安だって言うなら隣にいてあげるし。好きなほうを選べばいいよ、その時までにね」
梓「ん……じゃあ、そうさせて」
純「はいはい」
梓「ありがとね」
純「……はいはい」
憂「…むー…」
純「…オホン。まぁ、こうやっていろいろ考えてるけど、唯先輩に連絡がつかないとどうしようもないんだよね」
……言われてみればそうだ、すっかり忘れてた。今日なんて完全に偶然の遭遇だし。
いや、唯先輩のほうは私がこっちに居るって何故か知ってたようではあるけど、そうじゃなくて。
話し合いの場を設けるために前もってこちらから連絡を取る方法。それが無い事には今の相談も全部意味がない、ということ。
それは非常に困る……んだけど、そこは憂の一言であっさり解決した。
憂「……普通にメールか電話かすればいいと思うよ?」
そう言い、自分の携帯電話を見せる憂。そういえば再会した日も電車の中で携帯電話をいじっていたっけ。
いや、それどころか私も純も何度か憂にメールとかしてるじゃん……何故気づかなかった……
純「……そういえば憂、普通にケータイ持ってるよね。使えるの?」
憂「うん。家族みんな口座からの引き落としだったからお姉ちゃんも使えてると思うよ」
純「いや、そうじゃなくて、なんで持ってるのかとか、普通死んだら口座のほうも凍結されたりケータイも解約されたりするんじゃないかとか」
憂「……さあ?」
これもまた今まで気づかなかったけど、結構大きな謎じゃないかな……
口座のお金だけ見ても、遺産として遺族に分配されるとか何かいろいろあるはずだよね、普通は。
純「……今度確かめに行こうか。もしかしたら憂が生き返った時点で、その辺の矛盾自体が『なかったことに』されてるのかもしれないけど」
憂「……どういうこと?」
純「いや、確かめないほうがいいのかな。事実として認識してしまった瞬間にその矛盾が明るみに出てしまって認識が崩壊する可能性もある…か。憂が今バイトできないように。いや、それだって厳密には確かめたわけじゃないけど、でもそう考えると確かめなかった判断はやっぱり正しいということで、これからも確かめずに生きていくべきなんだろうね、私達は。『認識できないものは存在しないのと同じ』なんてよく言ったものだよ、本当に。ん、そういえば――」ブツブツ
憂「……あ、えっと、純ちゃん? おーい?」
……延々と続く純の独り言からどうにかわかったところだけ抜粋すると、世界自体が矛盾を拒絶し、目の届かない範囲で都合のいいように作り変えることがある。らしい。
本人が気づき、確かめさえしなければ何の問題もなく世界が回る、都合のいい仕組みに。
純のこういう妙な方面の知識には感服するけど、生憎理論までアツく解説されても私には理解できなかったので割愛。
適当なところで声をかけ、こっちに引き戻す。
梓「おーい、純ー」ユサユサ
純「――お、あぁゴメン、えっと、何の話だったっけ」
梓「……とりあえず、携帯が普通に使えてるなら純の作戦で問題はないんだよね」
純「うん、一応ね。電話してみる?」
梓「………」
……流れでそう言われ、躊躇ってしまった自分に驚く。指が震えた自分に驚く。
憂「……梓ちゃん」
梓「っ…あはは…いや、なんというか…」
純「……メールに決定だね。別にどっちでもいいんだし」
梓「…いや、その……」
憂「仕方ないよ……」
梓「……っ」
情けない。心からそう思う。
電話するだけで怯えているのか、私は。いずれ会わないといけないというのに、声だけでも怯えてしまうのか。ついさっきまで会うときの相談をしていたのに、いざとなれば電話するだけで怯えてしまうのか。
それに何より、嫌いでないはずのあの人をこんなに恐れてしまうのか、私は。
……本当に、情けない。
でも、怯える理由については誰も口にしなかった。怯えることも二人は許してくれた。
どう言い繕ったって結局はあのキスにショックを受けている、そして罪悪感を覚えている。そんな私を二人は許してくれた。
私は「たかがキスされたくらいで」なんて思いたくない。私にとっては大切なものだったんだ。同時に憂にとっても大切なものであってほしいんだ。
憂も純も、それをわかってくれているんだと思う。そして肯定してくれているんだと思う。
それについてだけは、こんな時でもまた二人に救われたことになる。
そう気づいたら、不思議と指の震えも治まっていた。
――メールの文面を考え、憂に検閲、推敲してもらい、送信する。
メールに記した内容は、生きていて驚いたこと、キスされて驚いたこと、ビンタしてごめんなさい、でもああいうのは困ります、と臭わせた上で「純と一緒に詳しい話を聞かせてください」で締めて日時を添えた。
憂絡みでややこしくなるのを避けるため、こちら側はドッペルゲンガーの存在を知らないフリをして話を通す。だから唯先輩が生きていたことに驚く体を装わないといけない。これは少し難しいかもしれない。
でも最終的に「好きな人がいるから気持ちには応えられない」というところにどうにか穏便に持っていけばいい。結局のところ目的はそれだけとも言える。難しいけど。
……そして、すぐに返事は来た。
いつもの唯先輩の軽いノリで、でも互いの現状に深く踏み入ることはしない文章。その最後に「じゃあまた明日ね」と記してあった。
純「……梓、本当に明日でよかったの?」
梓「…早いほうがいいよ。学校終わった後なら純も来てくれるんでしょ?」
純「そりゃ行くけど……」
梓「あまり待たせるのもあれだし、それに…早く諦めてもらわないと」
そう、早く諦めてもらわないと困る。
唯先輩が今何をしているのかはわからないけど、もしこの家が突き止められでもしたら。憂が一緒にいることがバレたら。結局また作戦が全部ムダになるような最悪の事態になってしまう。
憂を守るためにも、やっぱり勇気を出して先手を打つしかないんだ、こっちから。
純「…そっか」
梓「そうだよ」
純「………」
梓「………」
憂「………」
純「」グゥゥゥゥ
梓「ちょっ、お腹すごい音した!」
憂「……あはは、お腹空いたねぇ」
純「今何時だと思ってんのさー……二人だってお腹減ってるでしょ?」
梓「…確かに」
確かに夕食の時間は大幅に過ぎているし、私は走ったし、憂には心配かけたし、純には待ちぼうけを喰らわせたわけで。
一度意識し始めるとダメだね、みんな左手がお腹にいってる。
梓「…食べに行く? 今から作って、なんて言えない時間だし」
憂「私のことは気にしないでも……」
梓「いや、それもあるけどそれ以上に――」
純「待ーてーなーいー」ジタバタ
梓「――というのが居る訳で」
憂「……なるほど」
こんな時間から憂に作れなんて言えるわけもない。
憂なら本人の言う通り苦にしないんだろうけど、今日は迷惑をかけすぎたし私が申し訳ないから内心純に感謝しておく。
梓「でもこれなら外出するのさえめんどくさがりそうだよね」
純「はいはーい、出前がいいと思いまーす!」
梓「また思いつきで適当なことを……」
憂「あ、でも私も出前の味って興味ある…かも。頼んだことないし…」
梓「……ん、憂がそう言うなら…出前取る?」
憂「ほんと? やったぁ!」
純「なんか納得いかないけど……まぁいいや、何にする? お寿司? ピザ?」
憂「お寿司は高いんじゃないかなぁ」
純「じゃあピザね! 帽子! やっほぅ!!」
梓「なんでそんなにテンション高いの……」
……と、そんなノリで電話をして出前を取ってみたはいいけど、結局届くまでの時間もずっと純はブツブツ文句を言っていましたとさ。
――その夜。
梓「……あの、憂?」
憂「ん?」
梓「……眠れないんだけど」
一足先に純が寝静まっている横で、憂は何故か私の布団に入ってきてずっと私の頭を抱き締めていた。
憂「…寝ていいんだよ?」
梓「いや、だから……」
憂の胸元に顔を埋める形になって、どうにも興奮する…なんて理由じゃなく。
憂が隣にいる。それだけでヘンに意識してしまうし、それに……
憂「……ごめんね。何も出来なくて」
……そんな顔で隣にいられて、眠れるわけもない。
梓「……憂は家に居てくれればいいんだよ。ちゃんと言ってくるから」
憂「……うん。頑張ってね」
そう言って、抱き寄せた頭を撫でてくれる。
でも、一見憂が私を励ましているようでも、そして実際私がそれに励まされているとしても、憂の顔はずっと寂しそうなんだ。
憂「…ちゃんと帰ってきてね?」
梓「当たり前だよ。憂こそ…ちゃんと待っててね?」
憂「当たり前だよ…私の居る場所は、ここしかないんだから……」
もしかしたら私も、同じような顔をしているのかもしれない。
憂を安心させようとして、そして実際憂が私の言葉に安堵していても、私の顔は不安を隠せていないのかもしれない。
それほどまでに、私達の中で唯先輩という存在は大きい。
あの人と再び会えた事は嬉しいこと、喜ばしいことのはずなのに。
その事態を引き起こした誰か、あるいは何かに感謝すべき奇跡、幸運のはずなのに。
それでも、私達はあの人を否定しないといけない。拒まないといけない。
私達が、互いの為に、あの人を遠ざけないといけない。それは悲しくて、心苦しくて、とても怖いこと。
もちろん、私達の考えが間違っている可能性だってあるんだ。
好かれているなんて私の思い上がりで、それを重く受け止めてしまった純が話を膨らませすぎた可能性だってあるんだ。
だけど、その可能性には縋れない。
キスされた私には、キスしてきた唯先輩の顔を間近で見た私には、どうしてもあれが勘違いだったと言い切れないんだ。
それを充分すぎるほどわかっているから純は真剣にいろいろ考えてくれたし、憂はこうしていつも以上に不安がっているんだ。
客観的に見れば可能性があっても、私達から主観的に見れば可能性は無い。だからこそこうして二人で不安に震えるしか出来ないんだ。
梓「……寝よっか」
憂「……うん」
それでも私達は、それ以上の泣き言を言わない。
互いを信じているから。信じていたいから、それ以上の不安をさらけ出そうとしない。
相手のために強くなりたいから、ぐっと堪える。心配をかけたくないから我慢する。
どちらかに余裕がある時なら甘えて欲しいし、支えてあげたい。でもそうでない時なら、せめて二人で同じ思いを抱こうと努力する。
二人で気持ちだけでも共有しようとして、そしてそのままそれぞれ強くなろうとする。自分が強くなった時、相手も同じだけ強くなってくれていると信じながら。
盲目的に信じているばかりで、確証なんてないけど。
二人で乗り越えるというのはこういうことも言うんだと、そう信じていたい。
最終更新:2012年04月04日 20:42