【#26】
――同じような毎日が、再度動き出した。
違うのは私の心の中だけ。
不安を抱え、情けなさまで抱え、それでもその二つから逃れられず、動くことが出来ず、同じ毎日を繰り返す。
そんな中でたった一つ、憂のことだけは大事にした。憂だけは守り続けた。
本当に、それだけが私の存在意義だった。
「大丈夫?」と、憂が問う。
「大丈夫」と、純が励ます。
私はただ、憂に「好き」と囁き続ける。
何かが狂い始めていた。
なのに、何も変わっていなかった。
歪。
私達の日常を、歪に歪ませたのは誰か。何か。
その答えは、すぐそこまで迫っていた――
憂「――もうすぐ純ちゃん帰ってくるかな」
梓「…もうこんな時間……」
最近、時間が経つのが早いと思う。原因は……何だろう。
同じ毎日の繰り返しだと自覚したから? 心配事や不安が増えて、考えることが増えたから?
歳を取ると時間の流れが速く感じると誰かが言っていたけど……まだ年齢のせいにはしたくないかな……
梓「……ギター片付けとこっか」
憂「そうだね」
二人での練習を止め、憂が先にギターを置きに行く。
これはいつものこと。憂はどうやら誰かを出迎えることが好きなようだから自然と私が順番を譲る形になっていった。
そして憂がギターをスタンドに立てかけると同時、入り口の扉が開く音。そして純の声。
純「たっだいまー」
憂「おかえりー」
パタパタと駆けていく憂。
その時、私がおかえりを言うよりも自分のギターをスタンドに置くことを優先したのには深い意味はない。言うなれば偶然。気分。たまたま。
でもそのおかげで玄関口の会話がよく聞こえた。
純「一人で寂しかったでしょ、憂」
……え?
身体が動かなかった。玄関口の方を見つめた姿勢のまま何も出来なかった。
憂も、純のその言葉に何も反応出来ていない。そして玄関口のほうからは、もう一人、誰かの声がする。誰かの声が。
「ただいま、憂」
誰?
誰の声?
憂「っ……」
視界の先に、後ずさる憂の姿が映る。
それでも私は動けない。憂が怯えているのに、動けない。
……怯えているんだ、私も。その先にいるであろう“誰か”を見たくないんだ。
純「……憂?」
純の声が聞こえ。
怯えきった憂が私の方へと走ってきて。
純「いったいどうしたの――」
純が姿を現し、私を見て絶句して。
……その後ろから顔を覗かせる“私”と目が合った。
梓「ひっ………」
たぶんその瞬間の私は、腰を抜かして尻餅をついて、それでも必死に後ずさったんだと思う。
何かに触れた手とか、ギターが倒れる音とか、そんなのもうっすらとしか記憶にない。
憂「っ……!」
……気がついた時には、守られるように、憂の腕に抱き締められていた。
純「……どう、いうこと…?」
私と、自分の後ろの“私”を見比べながら、純が呟く。
“私”はしばらく私と、その隣にいる憂を見比べていたけど……
憂「純ちゃんっ!!」
純「うわっ!?」
不意に純を突き飛ばし、私の方へ走ってきて、床に倒れたムスタングのネックを両手で掴み、
梓「ひっ……」
持ち上げ、
振り上げて、
私に向けて――
憂「ダメぇっ!!」
……振り下ろそうとしたところを憂に突き飛ばされ、一緒に床に倒れこみ。
それでもまだギターを握って憂を振り払おうとしたその腕は、起き上がってきた純によって押さえ込まれた。
純「――ったく、危ないことするねぇ。この……えーと、梓二号は。8時にはまだ早いよ?」
梓「……笑えないよ………どういうことなの!? ねぇ、あなたは何なの!?」
梓?「………」
身動きの取れない眼前の“私”に向かって問いかけるけど、返事はない。
あの後、呆然としている私をよそに憂と純の二人はこの“私”を拘束した。
拘束なんてしたことないだろうし、暴れるしで大変そうだったけど、二人は私に手伝えとは言わなかった。
私も頭の中がごちゃごちゃだったからそれは助かるけど、そうして時間を置いて“私”に向き合っても気持ちは変わらない。
聞きたいことだらけ。それは変わらない。
何がどうなっているのか、今、目の前で座り込むこの“私”は何なのか。予想はつくけど……わからない面も多いし、認めたくない面もある。
梓「答えてよ!!!!」
憂「梓ちゃん……」
純「……少し落ち着きなって、梓。私が聞き出しておくからさ、外の空気でも吸ってくるといいよ」
梓「………」
痛々しそうな顔で私を見、気遣う憂と純を見るとさすがに少し頭も冷える。
というか、無理にでも冷やさないと二人に悪い。私が今どんな顔をしてるのかはわからないけど、少なくとも二人は本当に辛そうな顔をしてるから。
梓「……大丈夫。ごめん、急ぐことはないよね。ちゃんと縛ってるし、何も出来ないでしょ?」
梓?「……ふんっ…」
純「おーおー、見た目だけじゃなくて生意気さもそっくりだこと」
憂「純ちゃん……そんなこと言ってる場合じゃないってば」
……でも、純のそういうところを見れると何となく安心する。私はこんなに生意気な振る舞いをした覚えはないけど。
純「ふむ。ま、何も言わなければ言わないで別にいいんだけど。想像はつくしね」
梓「………」
梓?「………」
純「……この梓二号は…ウチの梓の、ドッペルゲンガー。誰が呼び出したのかはわからないけど」
うん、まぁ、そうだよね。そうとしか考えられない。
憂に唯先輩、前例が二人もいるとさすがに私も純も自然に受け入れてしまうようで。
……余談だけど『ウチの梓』と言ってくれたのが少し嬉しかったから、純がそれと気づかずに連れ込んだことについては言及しない。
いや、そもそも気付けと言うのが無理な問題だとも思うからね、私も。憂も唯先輩も、たった一つの違いを除いて全く同じだし。
梓?「……純は」
純「お?」
梓?「純は、私が偽者だって、そう言うの? さっきまで普通に話してたのに」
……せっかく私が言及しなかったのに、あっちに言及されてるし。
でもきっと、純なら誰に問われようと純らしい予想通りの答えを返すんだろうなぁ。
純「うーん、あんたも『梓』なんだと思うよ。もう一人の梓。だから私は普通に話してた」
梓?「じゃあ、こんな扱いしないでよ」
純「いや、梓を傷つけようとする人を放置はできないでしょ。たとえ『梓』でも。それがあんたを二号呼ばわりする原因だし」
梓?「……私が『
中野梓』だよ。純と普通に仲良く話せてた、それが証明してる!」
純「ん? そのために私と偶然出会った風を装った、ってこと?」
梓?「っ………」
確かに今の言い分を聞く限り、そういう作戦か何かだった、と考えるのが自然だけど……
梓?「……その時は……考えてなかった」
純「……何を?」
梓?「…そんな風に、打算で純と仲良くしたつもりなんてなかった」
とても、苦しそうに。
梓?「……『中野梓』は、私は、純のことを親友だと思ってる。仲良くするのに理由なんていらないよ…」
とても悲しそうに、“私”は言う。
言いたいことはわかる。理由とか、意味とか、そういうのを求めてしまうような関係なんて、親友とは呼べない。
同時に、そう思われてしまうのも。
純「……はぁ。そうだね、私がそう言ったんだもんね。もう一人の梓、って。ごめんね」
梓?「……いいよ。私だってわかってるから。私のほうが、望まれて生まれたほうなんだ、って」
純「……どうして?」
梓?「最初からわかってた。矛盾してるんだもん、記憶と心が。目の前の光景が」
そう言い、こっちを睨みつけて。
梓?「……私の好きな人と、そこの“私”の隣にいる人が、違うんだもん」
憂「ッ……」
やっぱりというか何と言うか、向こうの“私”がドッペルゲンガーであるという事は、好きな人も違うんだ。
憂を好きな私の記憶を引き継いでおきながら、今は好きな人が違う。もしかしたらドッペルゲンガーとして生まれた時に憂のように声を聞いたのかもしれない。
……そういえば唯先輩は、誰かの声を聞いたんだろうか? 私を好きな唯先輩は、何も言ってないはずの私の声を聞いたのだろうか? あるいは連れ戻してくれたはずの先輩全員の声を聞いたのだろうか? それとも……
梓「……っ、ちょっと待って……」
待って。考えるより先に、明らかにしておくべきことがある……
梓「……あなたが好きなのは、誰…?」
梓?「…唯先輩だよ。何かおかしい?」
梓「っ……」
ということは……唯先輩が求めたの?
唯先輩が、自分のことを好きな“私”を求めたの?
純「……ま、可能性としてはそりゃ真っ先に出てくるけどさ」
そう、確かに純の言う通り可能性としては当然唯先輩は浮かぶ。
私の不安通りに、いろいろなものを背負いすぎた唯先輩は諦めきれなかった。そうだとしても不思議じゃない。
憂「で、でもっ……」
純「うん、皮肉にもその唯先輩自身が例外なんだよねぇ」
ドッペルゲンガーが好きな相手が、必ずしもドッペルゲンガーを生み出すほど好いているとは限らない。
つまりここにいる“私”は……唯先輩が生み出した可能性もあるし、『唯先輩を好きな私』を欲する誰かが生み出した可能性もある。
……後者なら、先輩達だろうか。5人でバンドをやりたがっていて、唯先輩が失恋で傷つく事を良しとしない、優しい先輩達なら有り得る。憶測に過ぎないけど、可能性は高い。
純「憂もだけど、唯先輩もあんたと同じドッペルゲンガー。それも知ってるよね?『梓』なんだから」
梓?「…もちろん」
純「じゃあ、いくつか質問したいんだけどいいかな? あんたと唯先輩達は同じ存在のはずだけど、いろいろなところが違いすぎる」
やっぱり純は私の知らないところでいろいろ考えているらしい。
そしてもちろん、私が知らないそのあたりのことは“私”も知らないはず。そこに興味を持って乗ってくるかな……?
梓?「……ま、唯先輩のことを理解するためにも、乗ってあげてもいいけど」
純「ありがと。じゃあまず一つ目。あんたは唯先輩を好きなのに、記憶の中の想いは憂に向いていた。そんな記憶と心の矛盾に、どうして向き合えたの?」
梓?「……? 言ってる意味がわかんないんだけど。普通に生きてれば気づくでしょ?」
憂「………」
憂は純に指摘されるまで目を逸らし続けていた。唯先輩も、話した感じだときっと気づいていない。
……普通に生きてれば、か。一度死んだ二人と生きている“私”では、やっぱり見ているところが違うのだろうか。
いや、あるいは私のドッペルゲンガーだからという可能性もある。あんなに憂を好きで憂のために生きてきた私が、突然唯先輩を好きになればそりゃ自分でもおかしいと思う。
憂や唯先輩は、以前は誰かに特別恋愛感情を抱いてなかったから急に誰かを好きになってもあまり違和感を感じなかったとか…?
まぁ、どれも仮説に過ぎないけど。
純「……じゃあ、その矛盾に気づいたからここに来たの?」
梓?「……そうだね。矛盾してるから、それらを無かったことにしようとした」
梓「……それら、って?」
梓?「……私は、唯先輩が求めてくれた私だから」
純「……だから何?」
梓?「…だから、そっちの“私”は、要らないでしょ?」
憂「ッ!!」
睨みつける憂の前に、純が立って視線を遮りながら問いかけを続ける。
純「唯先輩を好きで、唯先輩に好かれて、それで完璧だからこっちの梓は要らない、と」
梓?「唯先輩の理想の私がここにいるんだから、それに反する存在なんて要らないでしょ? 少なくとも私は必要だとは思わない」
……その言葉は何かを思い出させる。
そうだ、あの時の憂だ。再会した日、駅で声を荒げていた憂の言った言葉。
―― 「……梓ちゃんを好きじゃない私がいるっていうなら……殺してやるっ! そんなの、私が許さない!!」 ――
私の理想に反する憂を、憂が殺そうとする。
ドッペルゲンガーである憂が、本物の憂を殺そうとした。今になって思えば、あれはそういうこと……?
梓「ねぇ純、もしかして……」
純「……ドッペルゲンガーを見た者は死ぬ。そんな都市伝説もあったねぇ」
梓「…あ…!」
最終更新:2012年04月02日 23:29