不思議と落胆はなかった。そうあっても不思議じゃないと思っていた。
そもそもドッペルゲンガーを生み出した私が、他の誰が生み出そうともそれを責める事も非難する事も出来るはずがないんだし。
それに、やっぱり澪先輩も思いやりに溢れていて、優しい人だから。

澪『……私達は、唯に大きすぎる物を背負わせてしまった。いくら悔いても足りない程に重い物を。だからやっぱり、望むなら唯だと思う。家にいる時はボーっとしてるし…』

梓「……憂を望んだのは私です。だからその気持ち、よくわかります」

よくわかる。そのボーっとしている時間で願っていてもおかしくないと思える程度にはよくわかる。
実際、私はそうして無気力なまま願い続けていたんだし、こうして今、“私”も現れたんだし。

澪『……本当に、本当の本当にもしもの話なんだよな?』

梓「っ……」

……少し、気持ちが揺らいだ。
何度も念を押すほど怖がりで、そして優しい澪先輩なら話せばわかってくれるかもしれない。協力してくれるかもしれない。
でも……

梓「大丈夫です。私は『私』です」

でも、言うわけにはいかなかった。
言えばきっと唯先輩が責められる。澪先輩じゃないとすれば、やっぱり澪先輩の言う通り、生み出したのは唯先輩だ。それもきっと澪先輩の知らない所で。
事情を話せば、唯先輩は非難されるだろう。澪先輩達のように意図的なものだったか、私のように偶然のものだったかに関わらず、唯先輩の生み出した“私”は私の命を奪いに来たのだから。
優しい唯先輩が意図して生み出すとは思いたくないけど、偶然だったなら尚更、皆に責められた時に唯先輩自身も自分を責めるだろう。
私の発言がキッカケで、唯先輩は皆に責められ、自分を責める。そうなるのが目に見えているなら、言えるはずがない。
……これ以上、あの人を苦しめることなんて私に出来るはずがない。今でさえ、もう許してもらえないほど傷つけているのに。

あと最も考えたくないパターンだけど、澪先輩の言葉すら演技で、嘘で、先輩達全員が私のドッペルゲンガーを望んでいた場合。
この場合もやっぱり言ってはいけない。電話前に考えた通り、言えば完全な決別に繋がり、強硬手段に出られる可能性があるから。
……このパターンの可能性は、まずないって信じてるけど。


……何にしろ、話せない以上これ以上話を長引かせるのは得策じゃない。
まだ少し不審がるような澪先輩に、「どうか唯先輩をお願いします」とだけ告げ、電話を切った。
私はきっと、もう二度と唯先輩の前に立てない。顔を見せることすら許されないだけのことをした。だからどうか、澪先輩達が支えてあげてください、と、そう願いながら。


……電話を切れば、私はそこにある6つの瞳に射抜かれることになる。そうわかっていても、もう逃げられない。



梓「――明日の朝、私の考えを言わせてほしい」

純「……まぁ、確かにもう夜だし、一晩置いて頭を冷やすのはアリかもしれないけど」

梓「うん」

本当は、もっと先延ばしにしたい。でもそれは逃げだ。それじゃきっと何も変わらない。
純はこう言ってくれてるけど、純と憂の気持ちも、“私”の気持ちもきっと変わらない。そして、私の気持ちも。
結局誰一人として、頭を冷やしたくらいで変わるような答えなんて持ってない。
だからこれは私のワガママ。自分勝手な私の、私の為だけの我が儘。

先輩達に相談すら出来ず、“私”は私を殺すことを諦めない。
そんな状況で私が、憂と純を守るために出来ること。

そんなの考えるまでもない。私の答えはすぐに出た。
だから、私が先延ばしにしたいのは答えを出すことではなく、告げること。見せること。教えること。
頭の中で考えるだけなら責任は伴わないけど、口にする、文字にする、行動する、どんなカタチであろうと現す行為をした時点でそれは私の責任になる。
それが怖くて、先延ばしにしたいと願う。

……でも、やっぱり先延ばしにしてはいけないんだ。それが皆のことを考えて出した、私の選択なんだから。


――その日はそのまま普通に夕食、入浴を済ませ、“私”については一晩押入れに監禁する形にした。
憂も純もそれで納得してくれた。私の行動にも提案にも何の疑問も持たなかった。
それほどに私は自然に見えていたんだろうか。憂と純を守りたいと願いながらも、自然な私で居られたんだろうか。

……私は、自然に二人を守れるくらい、強くなれたんだろうか。

変われるほどの何かをしたわけじゃない。ただ一つ、気持ちが変わっただけ。
誰にも頼れず、自分一人で結論を出さざるを得ない状況に追い込まれて、覚悟が決まっただけ。
大切な人達を、守りたいから。


――……皆が寝静まった頃、私は包丁を一本手に取り、押入れに向かった。




【#28】




純「――梓は?」

憂「まだ寝てるよ。やっぱり精神的に堪えてるんじゃないかなぁ……」

朝、大学に行く準備をした純ちゃんが私に声をかける。あんなことがあった次の日なんだし、仕方ないと思った私は梓ちゃんを強く起こそうとはしなかった。
自分のドッペルゲンガーが目の前に現れて、ショックを受けない人なんていないはず。真面目で繊細な梓ちゃんなら尚更だと思うから。

純「……やれやれ。考えを朝に言うって言った本人が寝坊とはね。気持ちはわかるけどさ」

憂「…純ちゃんは、こういう時強いよね」

梓ちゃんに変に気を使わず、軽口を言う純ちゃんは本当に強いと思う。
いつものペースを崩さないそんな姿は、やっぱり頼りになる。だから梓ちゃんも純ちゃんに甘えちゃうんだと思う。
私はそれに嫉妬するんじゃなくて、感謝しないといけない。きっと梓ちゃんの中の、私が助けてあげられないところを助けてくれるのはそういう人だから。

純「…憂のほうが強いよ。ちゃんと梓を守ってる」

憂「そう…かな」

純「そうだよ。私に出来るのはそんな二人のお手伝いだけだし」

そう言って純ちゃんは私を持ち上げてくれる。きっと同じように梓ちゃんにもそうやって接してるんじゃないかな。
でも、最近の梓ちゃんはそんな純ちゃんに負い目を感じてる。
手伝ってくれる純ちゃんに、ただ甘えるだけの自分を嫌悪してる。
……そういうところを支えてあげないといけないのは、恋人の私だと思うし、ずっと思っていたい。ずっと支えてあげたい。
だから、私は梓ちゃんの隣にいてあげたい。隣にいたい。隣にいることを許してほしい。

純「まぁ、私が学校行ってる間は憂に任せるしか出来ないんだけどさ」

憂「…うん、任されるよ。大丈夫」

純「あはは。まぁ今に始まったことじゃなかったしね。んじゃ行ってくるよ。梓の考えとやらは夜にでも」

憂「いってらっしゃい。早く帰ってきてね」

特に深い意味はなく言った言葉だったけど、純ちゃんは笑顔で「もちろん」と返してくれて、そのままドアを開けて出て行った。
こうしてこの部屋には梓ちゃんと私、二人きり。……あ、今はもう一人いるんだっけ。あとで様子は見ておかないとね。
うん、様子を見て……それで……

憂「………私、は………」

……私だって、あの“梓ちゃん”をどうこうするのには抵抗がある。最悪、命を奪わないといけないなんて、考えるだけで怖すぎることだと思う。
人の命を奪うなんて梓ちゃんの言う通り恐ろしすぎることで、私達には無縁だったはずで、しかもその相手は私の恋人と同じ顔をしているんだから怖くないはずがないに決まってるよ。
でもやっぱり、梓ちゃんがいなくなるほうがずっとずっと怖いから、やっぱりそれしか手がなくなっちゃったら迷わない。

ねぇ、梓ちゃん。
私達が梓ちゃんに伝えた気持ちには、何一つとして嘘なんてないんだよ……?


梓「――ん……」

枕元に座って可愛い寝顔を眺めていると、梓ちゃんが目を覚ました。
っていうか起こしちゃったのかな。でもそろそろ起きた方がいい時間だと思うし。

憂「……おはよう、梓ちゃん」

梓「……うい…? 今何時…?」

答える代わりに枕元の時計を見せてあげる。短い針はもうだいぶ上の方。

憂「アルバイト、休みでよかったね」

梓「うん……。朝ご飯は…?」

憂「出来てるけど……今食べる?」

梓「……もうお昼と一緒でいいかな……」

寝惚けてるのか、ボーっとしながら喋る梓ちゃん。
そこだけ見ればよくあることだけど、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ違和感を感じた。何だろう?

梓「……起きよ」

憂「う、うん」

梓「? どうかしたの…?」

気のせい…だよね。
寝惚けながらも私を気にかけてくれる梓ちゃんの、どこに違和感なんて感じたんだろ、私。

憂「ううん、なんでも。あ、私ちょっと押入れ見てくるから、顔洗ってきたら?」

梓「……ん、いいよ、押入れは見なくても」

憂「え? なんで?」

梓「んー……だって、気配はするでしょ?」

……気配? 私にはわからないけど……

憂「……よく、わかんない」

梓「…とりあえず、『そこ』は私が何とかするから、大丈夫」

憂「………」

梓「…見なくても、大丈夫」

憂「ッ……!」

見なくちゃいけない。理由なんてわからないけどそう思った。
ううん、違う、理由はわかってる。違和感なんだ、きっと、これも。気のせいじゃなかったんだ。

胸騒ぎがする。とっても大事なことを見落としちゃってるような、嫌な感じがする。

憂「……ちゃんと無事か、確認するだけだから」

梓「大丈夫だよ」

憂「……何が?」

梓「………」

憂「……梓ちゃん…?」

梓「…私が、殺したから。だから憂は見ちゃダメ」

憂「………」

その梓ちゃんの言葉が嘘か本当か、私にはわからなかった。
梓ちゃんは人を殺したりなんてしない。そんな事の出来る子じゃない。とっても優しい子だから。
でも、そんな優しい子だからこそ自分の手を汚した可能性もある、って思う。私を守るために。私の手を汚させないために。
それはとても悲しいことだけど、私の事を想っての行動には違いないんだから何も言えない。あくまで今はまだ可能性にすぎないけど……

どっちが正解か、私にはわからない。
でもただ一つ、ここで悩むくらいなら自分の目で真実を見てみるべきだ、って思う。

梓ちゃんの言葉が嘘か本当かはわからないけど、一つだけわかることがあるから。


……今日の梓ちゃんは、私のことをあんまり見てくれてない。


ううん、私のことだけじゃない、かな。なんか、いろんなことに対してボーっとしすぎてる気がする。
そうだよ、いつもの梓ちゃんなら、そもそも昨日あんなことがあったのに寝坊なんてしないはず……


憂「……開けるよ」

梓「ダメだってば」

憂「…開けるからね」

梓「ダメ」

憂「っ――!」

ダメって口で言うばかりで、私に触れてくれない梓ちゃん。
その言葉『だけ』から逃げるように、勢い良く押入れを開く。


憂「っ……!」


背後からは、どこか何かにガッカリしたような梓ちゃんの声。溜息。

そして、私の目の前、押入れの中には……


憂「っ――いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」



――何も無かった。


        何も




【#29】





――何もない。

――何も。


ふわふわと、私自身がどこにいるのかすらわからないような感覚。

真っ暗な闇の中で、上下もわからず漂う、そんな感じ。


そんな感覚を


……身体が認識できたなら、どれほどよかっただろうか。


わかってる。

わかってるんだ。


……私の身体は、普通にここにある。

ただ、心だけがどこにもない。


梓「………」


……殺せなかった。

否定できなかった。

強くあれなかった。


梓「……っ、ひっく……」


膝を抱え、電車に揺られる私は独り。
私は『私』であるだけ。それ以上の何者にも、もう成れない。

私の『名前』を示すものは、結果的に全て奪われた。
今の私にあるものは財布の中に入っていた約一万円の現金と、身につけている服だけ。
現金は『梓』のほうに通帳があるから、と情けで持たせてくれた。服も結局は情けだけど。
そしてその他携帯電話、財布、持ってきた私物、名前に経歴、大事なギター。全て奪われた。

……奪われた、は語弊があるかな。
散々そう言ってきたけど、私が『譲り渡した』というのが真実だ。


私は“私”を殺せなかった。
人を殺すなんて、怖すぎて出来なかった。自分の手を汚して、命を奪うなんて怖すぎて出来なかった。

私は“私”を否定できなかった。
すでに一人の『人』として生きている“私”を否定できなかった。
憂や唯先輩を『人』として認めているのに、同じように『好かれたい』という想いのためだけに生きている“私”を否定できるはずもなかった。

そしてどう言い訳しようとも、私は強く在れなかった。
『怖い』という臆病な理由を付けようとも、『否定できない』なんて偽善的な理由を付けようとも、私が弱さ故に全てを手放した事実は変わらない。
私の居場所も、名前も、そして……恋人も。


――死にたくない。殺せないけど、死にたくもない。
居場所が欲しい“私”と、死にたくない私。そんな二人の落とし所は『中野梓』を私が譲り渡すことだった。
“私”は正式に『中野梓』となることが出来れば目的は達成される。私が死ぬことは絶対条件ではなくて、わかりやすい解決方法だというだけ。

『中野梓』であることを私が捨て、二度とそう振舞わない。その条件を呑むことで、どうにか私は生き永らえた。
そうすることで結果的に誰も死なず、誰も手を汚すことはなかった。つまり私は綺麗事のために自分を犠牲にした。そう言ってしまえば少しは心も晴れそうなものだけど。


……それでも私は、憂をも捨てた。


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最終更新:2012年04月02日 23:34