……
………


梓「――憂は、憂だけは…一緒に連れて行っていいかな」

梓?「……ダメ」

梓「ど、どうして!? あなたと憂が一緒に居たって、何もいいことなんてないでしょ!?」

梓?「……憂が、『中野梓』の存在の何よりの証明だから、だめ」

梓「っ!?」

梓?「『中野梓』は、憂を好きだった。憂に愛された。憂の存在自体が中野梓の証だよ。わかるでしょ?」

梓「で、でもっ!」

梓?「確かに、私は憂より唯先輩が好き。だから問題となるのは『あなたの隣に憂がいる』こと。それだけであなたは『中野梓』の要素を得てしまう」

梓「っ……」

それは…そうかもしれない。
私が憂を好きなように、憂は『中野梓』が好き。つまり憂の隣にいるのは『中野梓』であり、憂が隣にいたがるその人は必然的に『中野梓』になってしまうんだ。
元々は両想いではなかったとはいえ、今は両想い。そしてそれを皆が知っている。
全員を騙すことが出来ないと、“私”は私になれない。つまり、憂は『中野梓』の隣にいないといけないんだ。
『中野梓』を譲り渡すと言い、そして誰よりも憂に好かれていた私に、その理屈を否定することは出来なかった。

梓?「……人を好きな気持ちはよくわかるよ。だから憂を悪いようにはしない。それだけは約束する。けど、一緒に行くことは許してあげられない」

梓「そしたら……憂は…どうなるの? 憂は、きっと気づくよ……?」

恋心に敏感な憂なら、きっと隣にいる『私』の恋心の向く先が変わってることにすぐに気づくだろう。

梓?「…死なせはしないよ。あなたが悩み、苦しんで、決断したことはちゃんと伝える。ちゃんとわかるように言うよ、あなたが憂に手を汚させたくないが為に、こうして来た事も含めて」

梓「………」

梓?「あなたの弱さも、そしてそれ以上の優しさと愛情も、ちゃんと伝える」

つまり、憂にはちゃんと理解してもらうように努力する、と言っているんだろう。
私の選択の意味を理解して、受け入れて、平穏無事に生きてもらう、と。

梓?「恋人がいない事に絶望して自殺…なんて絶対にさせない。あなたは憂に生きて欲しいんでしょ?」

梓「……うん」

憂の隣に居られないのなら、あとは望むことはそれだけ。
“私”もやっぱり憂のことは恋愛感情こそ抱かずとも大切に想っているんだろう、私の答えに僅かだけ微笑んだ。

梓?「……来年まで私が生きてたら、唯先輩のところに進学したいと思ってる。その時まで純にバレてなければちゃんと話して、憂と純とは別の道を歩もうと思う」

梓「……うん」

梓?「……それまであなたも生きてれば、また会えるかもしれない」

梓「………」

やっぱり“私”が求めるのは唯先輩の隣。あの家を出るのは必然と言える。今がその時期ではないというだけで。
そしてその時が来れば、純に話して憂と一見自然に見えるように別れ、唯先輩と付き合う、ということだろう。
だからその別れの時が来れば、私はまた憂に会える…かもしれない、と言う。もちろん、『中野梓』としてではないけど。
でも、本当にそうなれば全てが丸く収まる、と思う。私が『中野梓』じゃない以外全てが元通りで、そして唯先輩達の望みも叶う。理想のカタチに思える。

そんなものを“私”は提示してくれた。

それは、優しさなのだろうか。
それとも、慰めなのだろうか。

梓?「私は、憂を好きだと言いながら私を殺せないあなたを軽蔑するよ」

梓「っ……」

そこまで言われても、私の手は動かない。
この手は、命を奪うことを良しとしない。

梓?「……けど、その優しさにも感謝してるから、生きて欲しい。あなたにとっては屈辱だろうけど、私はあなたから居場所を『譲って貰った』形になるんだから。この手を汚さずに『中野梓』になれるんだから」

だから、感謝はする、と言う。
弱さを感謝されて嬉しい人なんていないと思うけど、それでもこの感謝は本物なんだろう。

……そして、私の悔しさもわかってる。
弱さに、情けなさに感謝される側の屈辱をわかってて尚、お礼を告げる。
言われた側が惨めな気持ちになることをわかってて、それでも偽らない思いを告げる。

梓?「二度と、私と唯先輩の前に現れないで欲しい。けど、優しい決断をしてくれたあなたに、もう私は「消えろ」なんて言えない」

梓「………」

梓?「殺したいのに殺せないと言ってくれた優しい人を、私は殺せない」

梓「……それは、弱さだよ」

梓?「…私は助けられた。だから、それは優しさだよ」

優しさと言い切り、私に情けをかける“私”。
優しさを貰ったなら、優しさを返してあげたい。私は常々そう思ってる。
きっとこの“私”が言うのも似たようなことなのだろう。

梓?「……あなたのことは大嫌いだけど、絶対に生きて欲しい」

やっぱり、この“私”も、私達と何ら変わらない『人』なんだ。


  「――さよなら、私……――」


…………
………


【#30】


梓「――変わってないね、何も…」

電車を降り、駅から一歩歩み出て、そんな言葉が口をついた。
当然といえば当然だ。ほんの数ヶ月で目に見えて変わるものなんて、そうそうない。
この街、桜が丘も当然、数ヶ月程度では何も変わらないに決まってる。

ただ一つ大きく変わったのは、この街にはもう私の戻れる家すらないということ。

この数ヶ月間、両親との関係は好転しなかった。悪化こそしなかったものの、特に何かしらの動きがあったわけでもなかった。
家の事なんて気にかける暇すらないほど毎日に必死だった。他に考える事が多かった。

でも、失ってみれば、それは確かに私の手の中から零れ落ちたモノの一つとなって、私の心に影を落とす。

人は失って初めてその大切さに気づく、とよく言うけど、本当だと思う。
考えもしなかったのに、見向きもしなかったのに、目を逸らし続けてきたのに、今、私は確かに寂しいと感じている。

純との生活、憂との関係、全てが失敗しても私にはまだ帰る家があった。
プライドを捨て、反省し、泣きながら土下座すればきっと迎え入れてくれるはずだった家が。
確かにあったはずなんだ、暖かく、温かかった家が。今はもう戻れない家が。

梓「っ……」

強く目を瞑り、袖で涙を拭う。
ううん、涙じゃない。私は泣いてなんていない。認めるわけにはいかない。

……泣いている自分を認めてしまったら、きっと涙が止まらなくなる。

自分から『私』を捨てた私に、涙を流す資格なんてない。
それでなくても、私は強くなろうって思ったんだ。憂達を守ろうって思ったんだ。結果は伴わなかったけど、それでもこれは私のそんな選択の結果なんだ、泣いちゃいけない。
当初の予定とは違うけど、誰も命を落とさず、誰も手を汚さなかった。理想的な『終わり』なんだから泣いちゃいけないんだ。

……それでも、涙が溢れ出て来そうになる。寂しさが胸の奥から湧き出てくる。

でも、そんな気持ちと決別するために私はこの街に戻ってきたんだ。
家を、お父さんお母さんを一目だけ見て、それでも涙を流さずにいられれば私は大丈夫のはず。
それが出来れば、私は一人ぼっちでも生きていける。憂とまた会えるその時まで生きることが出来るはず。


――そう思っていたんだけど、やっぱり無理かなぁ、とも思い始めている。


ちゃんと涙を流さず駅から歩いてきた。でも、この曲がり角を曲がれば我が家が見える、そんなところで一時間近く立ち止まっている私には、いざ家や両親を目にしたら泣かないことなんて無理かもしれない、と。
今のこれは涙じゃないと言い張れる程度の量だとしても、その時は我慢できないんじゃないか、と。
とはいえ、これ以上立ち止まってはいられない。不審に見えるのももちろんだし、そもそも帰ってきた意味がない。
意を決し、首を伸ばして曲がり角の向こうを覗いてみる。すると……

梓「……? 今、誰か……」

家の前に人影が見えた気がして、尻込みしていたのも忘れて静かに家に近づいていく。
時刻はたぶんお昼時。憂に見つからないよう早朝に純の部屋は出たけど、移動と、そしてさっきまでの躊躇いできっとそれくらいの時間になっているはず。
両親は平日休日の区別なく不定期に家を空ける人だから両親の姿を見た可能性もあるけど、どうにも違うような気がした。そんな気がしたからこそ恐る恐る近づいているんだ。

そして、家に数メートルというところまで近づいたあたりで話し声が聞こえてきて、その相手に驚いた。

中野母「――ごめんね、まだ……」

菫「……そうですか」

直「……ありがとうございます、おばさん」

梓「――!?」

間違いない。一年間一緒にバンドを組んだ、愛すべき後輩の声だ。斉藤菫と、奥田直。忘れるはずがない名前。
透き通るような綺麗な外見に違わない透明な声と、最初の印象よりずっと歳相応に感情豊かな、細かい起伏の多い声。聞き間違えるはずがない。
どうやら家に居るお母さんと向かい合って玄関で話しているようだから、顔を出して覗くことこそ出来ないけど。それでも会話の内容はちゃんと聞こえてきた。


中野母「こちらこそありがとう。毎日毎日」

菫「いえ、ただ一目会いたいだけですし……言わば私達のワガママです」

直「今は向こうで元気でやっていると聞いてます。本当はそれだけで充分なんですから」

中野母「……ごめんなさいね。あの子、いろんな人に迷惑かけてるわね」

菫「迷惑なんかじゃないです。だって…私達は、先輩を支えきれませんでしたから、迷惑をかけてもらえる資格さえないんです」

直「………」

中野母「……山中先生から話は聞いてるわ。あなた達も先生も、梓の同級生の子達と、そして先輩に遠慮してたんだって」

菫「遠慮なんて……そんなものじゃありません」

直「力不足だったんです、私達では。私達の声は、先輩に届かなかった……」

中野母「そんなこと……」

菫「いえ、やっぱり出会って一年も経たない私達じゃ、ダメだったんです」

直「……悔しいですけど、やっぱり一緒に居た時間の差には勝てなかったんです」


梓「っ……!」

痛い。
胸の奥が、とても痛い。

そんなわけがないと、出て行って否定したい。
時間の差なんて関係ない。大事な大事な後輩なんだって伝えたい。心配かけてごめんねって謝りたい。

でも、それは出来ないんだ。
今の私は『中野梓』じゃないから……とか、そんな些細なことは問題じゃなくて。

あの時の私は、実際に皆の声を無視していたんだから。実際、私を助けてくれたのは純だったんだから。

その二つの事実が、私の招いた事実が、二人の言うことを肯定してしまっている。
そんな中で薄っぺらい言葉だけで否定したところで、何が伝わるというのだろう。

きっと逆に、「他の先輩方にはちゃんとお礼を言ったんですか?」と返されるのがオチだ。
自ら身を引いた二人だからこそ、他の人を立てようとするだろう。そして実際、私はまだムギ先輩と律先輩には何も告げていない。そんな私が二人の前にどんな顔をして立てばいいというのだろう。
それにそもそも話を聞く限り、二人が会いたいのは元気にやっている私だ。立ち直った私だ。今の私では、到底その純粋な想いに報いることはできない。


梓「っ……ごめんね……」

この胸の痛みは、きっと報いなんだ。
憂と恋人として歩んで行きたいとか、純に隣に居てほしいとか、私はこれから何をするべきかとか、一見前向きな綺麗事ばかりを並べていたけど、それは全部自分のためのこと。
前を向いた気になって、その実自分のことばかり見てて、後ろの過去に置き去りにしてきた人達の想いを見なかった私に対する報い。


梓「そ、っか……」

ようやくわかった。

私がするべきことは、過去や『私』や寂しさとの決別なんかじゃない。

自らが為した事、招いた事、全てを受け入れ、抱え込み、痛みに耐えながら生きることだ。
あの時からずっと弱いままの私は、多くの人を傷つけてきた事実を直視しないといけない。傷つけたことに気づき、傷つかないといけない。


私が『私』であったなら、まだ償いようもあったのかもしれない。
でもそうでない今、償う手段すら残されていない。『中野梓』が犯した罪を死ぬまで抱えながら生きるしかない。

今の私は『中野梓』ではないとはいえ、見て見ぬフリなんて出来ない。目を逸らせない。
だって、それは私が招いたものなんだから。ドッペルゲンガーではない、『人間』の私がやったことなんだから。
今となっては責任も取れないし償いも出来ないけど、投げ捨てて目を背けるなんてこと、出来るはずがない。

人間は、自分の心に嘘は吐けない。人間の心に、逃げ道なんてない。

……ドッペルゲンガーなら、多少は言い訳が効くのだろうけど。




【#31】


――これからどう生きるのか。それを痛いほど思い知らされた私は自分の家に背を向け、ただフラフラと歩いていた。
ただフラフラと歩き、足は自然とここに向かっていた。

梓「……変わってないね、ここも」

内心ホッとしていた。目の前にある家の表札が『平沢』から変わっていないことに。
純と危惧していた通り、そう簡単には買い手が付かなかったのだろうか。答えは私にはわからないけど、とにかくここが変わっていないことが嬉しかった。
憂の暮らしていたこの家を、変わらぬまま在るこの家を、最後に一目見れることが嬉しかった。

そう、最後に、だ。
やっぱり私は、この街に居てはいけない人間だ。元よりここで暮らすつもりなんてなかったけど、もう少しはゆっくりしていくつもりだった。家を見た後に思い出の場所を巡ろうかと考えつつあったくらいには。
でも、今となってはそんな気も起きない。フラフラと歩きながらも求めたこの場所を目に焼き付けたら、すぐにでもこの街を出ようと思う。
私はこの街の全てを捨てたようなものなんだ。この街にいた頃に受けた想いを全て置き去りにしたのだから。
そんな私がここにいていいはずがない。もっと厳しい処で、足を震わせながら独りで生きて行かなくちゃいけないんだ。

だから、憂のいたこの家だけでもせめて目に焼き付けて、この街を出よう。
もう涙も我慢する必要はない。涙を流しながら悔いながら情けなく生きるのが私にはお似合いなんだから。

いっそいつぞやの純みたいにドアノブまでガチャガチャ回してみようか。
あの日憂が鍵はかけたはずだけど、もし、もしも開いてたら、私は……

梓「……なんて、そんなバカな事考えたってしょうがない――」

と、どうしようもない自分を嘲っていると。



不意に。


後ろから。


梓「っ――!?」


肩越しに、腕が回され。


 「……――――……」


その腕と、背中に押し付けられた身体から温もりが伝わってきて。

それらはそっと優しく、ぎゅっと大切そうに、私を包み込む。


そして

囁かれる。


  「――会いたかった……」


反射的に振り払おうとしたけど、その声によって私の動きは止められた。その声の持ち主を、私が振り払えるはずがなかった。
ここにいるはずがない、いや、考えなかったわけではないけど、それでもここに『居てほしくない』人。
そしてそれでもずっと心のどこかで願っていた、隣に『居てほしかった』人。
しかし私は、それを願うことは許されない。だから私は、私も貴女もそれを願わずに済むように仕向けたはずなのに……

梓「――どうして……」

肩越しに振り向いた、その先。


そこには、微笑みと共に涙を流す、憂の優しい笑顔があった。


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最終更新:2012年04月02日 23:37