梓「……どうして、ここに来たの…?」
憂「……私の知ってる『梓ちゃん』なら、ここに来ると思ったから」
後ろから抱き締めてくる憂を、振り払うほどの力は出ない。
でも、それを理由に黙って受け入れるわけにはいかない。
憂「私に好きって言ってくれた『梓ちゃん』なら、ここに居ると思ったから」
梓「っ…! そうじゃなくてっ! 私はっ、私が、ちゃんと『終わらせた』のに…!」
望んだ方法ではなくとも、これで結果的に全て丸く収まる。そういう形にしたはず。なのにどうして…!?
梓「…もしかして“私”が約束を破ったの…!?」
憂「ううん、違うよ。私が問い詰めたら、ちゃんと教えてくれたよ」
梓「なら、どうして…!?」
どうして、なんて言うけど実際はわかってる。憂は納得いかなかった。我慢できなかった。私と離れることに。きっとそれだけ。
正直、ここまで早くバレるのは予想外だったけど。でもそれ以上に、憂の行動自体がバレるタイミング関係なく予想外だった、と言える。
極端な言い方をすれば、憂のことを……買い被りすぎていたんだ、私は。憂なら皆の幸せのために、誰も傷つかないために、少しくらいは我慢してくれると思っていた。
優しく思いやりに溢れている憂なら、私の気持ちも汲んでくれると思っていた。“私”の気持ちも、唯先輩の痛みも考えて動かないでいてくれると思っていた。
でも、そんなことはなかった。
憂「遺書をね、書いてきたんだ。「梓ちゃんがお姉ちゃんのことを好きになりそうなので消えます」って。これなら筋は通るでしょ?」
梓「っ…!」
あくまで自然に別れたように見せかけて、“私”は唯先輩の元へ行かなくてはいけない。
そういう意味では一応筋は通る。そうか、だから“私”も止めなかったのか。
でも、それじゃ強引過ぎる。唯先輩しか見えていない“私”はともかく、憂は気づいてないの!?
梓「ダメだよ、憂。唯先輩は優しいから、きっと憂のことを探すよ?」
憂「………」
梓「憂を失って“私”を手に入れても、唯先輩は素直に喜ばないよ? そういう人だったでしょ?」
唯先輩だけじゃない。澪先輩達も、そして憂も、一番大切なものだけを見ていられるほど冷たい人じゃない。
愛する人さえいればそれでいい、なんて狭量なことは言わない。周りの人みんながいないとダメだって言い切る、欲張りで優しい人達だったはずだ。
だから、だから私はあんなに悩んだのに。悩んでこの結論を出したのに。それなのになんで憂は――
憂「……お姉ちゃんの事、よく見てるんだね、梓ちゃんは」
梓「え…っ?」
憂「……私でもね、たまには怒るんだよ? 怒ってるんだよ?」
梓「う、憂…?」
後ろから一層強く抱き締められ、振り向くことも逃げることも出来ない。
そんな中で耳に届く、いつもよりトーンの低い憂の声。
憂「みんなのことを考えて、私の事も考えてくれたのはわかってるよ。でも梓ちゃんは、私の事を理解してくれてなかった」
梓「そんなこと……」
憂「恋人同士、なのにね。梓ちゃんがいないと生きていけない私のこと、わかってくれてなかった」
梓「っ……!」
憂「我慢なんてできないよ。毎日『梓ちゃん』に会えないなら死んだほうがマシだよ」
梓「死ぬ、なんて……」
そんなこと、軽く言わないで欲しい。
私の選択の結果だとしても、そんなこと軽々しく憂に口にして欲しくない。
そんなことを言う憂を見たくないというのもあるし、それに、それだと……
憂「……そうだね、梓ちゃんは私がいなくても生きていけるんだもんね?」
梓「っ!?」
そう、自ら憂から離れる選択をした私の恋心なんて、所詮はその程度ってことに……
梓「ち、違う! 来年になれば憂に会えるかもって言うから!」
憂「それを支えに頑張って生きる、って言うの? 来年までずっと私に会えないのに?」
梓「だ、だって、また会えるっていうなら、みんなのために我慢するしか……」
憂「みんなと私で、みんなを選んだんだよね? 私のためにみんなに我慢してもらおうとは考えなかったんだよね?」
梓「それは…っ……でも……」
ちょっと、憂のことを、怖い、と思った。
でもそう思われそうな発言だっていうのは憂も気づいていたのか、それとも私の言葉から察したのか。憂はすぐに補足の言葉を口にした。
憂「……私だって、お姉ちゃんや純ちゃんや澪さん達、みんなが傷つくのは嫌だよ。だから梓ちゃんがそこに悩んだ気持ちはすごくわかる」
そう、私の知る憂なら気づくはずなんだ。私の好きな優しい憂なら。
少しでも怖いと思った自分を恥じたい。でも結局は、憂は私の考えに気づいていてなお私に怒っているんだ。
憂「……それでも梓ちゃんは、みんなと私を天秤にかけて、私を捨てた」
梓「っ――!」
憂「こうやって家を見に来るくらいには私の事を好きなはずなのに、私を捨てた。…違う?」
そこを突かれると、返す言葉がなくなる。
私だって、それは痛いほどわかってる。わかってるからこそここに来た。
みんなを守って、憂も守る。そのために自分を犠牲にした――ように見せかけて、憂を捨てた。
私が“私”の命を奪えれば、こうはならなかった。結局は私の弱さが招いたこと。そんなこと、痛いほどわかってる。
捨てられた憂が怒るのも、当然といえば当然かもしれない。
梓「……違わない、よ」
憂「……でしょ?」
でも。
梓「でも! あのまま私が何もしなかったら、憂は“私”を殺してたでしょ!?」
憂「……かも、しれないね。諦めそうにはなかったし」
梓「私は、それが嫌だった…!」
憂が手を汚すくらいなら、私が汚す。
結局それは叶わなかったけど、だからといって退く事だけはできなかった。退けば全ては元の木阿弥。結局、憂が“私”を殺そうとする。
それなら。私がいることで憂が誰かを傷つけるなら……私が消えよう。『私』が二人いるのがいけないなら、『私』を一人に減らそう。
そうすれば憂は綺麗なままでいられるんだ。憂は酷い事をしなくて済むんだ。そう、私の思いは最初から一つ。
梓「憂を、守りたかった……!!」
大事な人に非道な選択をさせたくない、というのは自然な感情だと思う。たとえどんな手段をとってでも。
もちろん、それが憂にも適用される理屈だというのはわかってる。わかってるから、憂の寝ている間に全てを終わらせようとしたんだ。
憂がそこを突いてきたなら反論は少し考えてある。でも結局、それらの出番は無かった。
憂「……わかるよ。梓ちゃんが本気でそう思ってくれてたっていうのはわかったよ。でも」
代わりに、もっと痛いところを突いてきた。
憂「結局、梓ちゃんは私がいなくても生きていけるから、この条件を呑んだんでしょ?」
梓「っ――」
憂「……私にとって一番大事なのは、そこ。私の存在は、梓ちゃんの足を止めるに至らなかった、ってところ」
最初からずっと、そこだけが問題なの、と言う。
……ちゃんと、憂は理解している。「条件を呑んだ」という言い方をしているということは、私と“私”の間にあった会話もちゃんと知っている。
私が最初は憂を連れて行きたがったけど、最終的には“私”の理屈に屈したことを知っている。
死にたくない、けど殺せない。そんな弱い私が、言われるままに憂のいない道を選んだことを知っている。
それならやっぱり私には、憂の言葉を否定できない。
でも、否定できなくとも認めちゃいけない。
だって認めたら、憂のやり方が正しいということになってしまう。唯先輩に迷惑をかけ、重荷を背負わせるそのやり方が。
それは私の選択の果てにある、唯一信じたい私の中の正論に反する。自分の中にある矛盾はもう認めるしかないけど、唯先輩達も傷つけない方法を探そうとした気持ちだけは否定したくない。
極端な言い方をするなら、自分の恋心のために、他の人に迷惑をかけることを肯定なんてしたくないんだ。
そしてきっと私は、それ以上に意地になっていた。意地でも認めたくなかった。
だって、だって憂の選択を認めるという事は、私の恋心が劣っているということを意味してしまうから。それは私の全てが壊れてしまうことを意味するから。
憂を失って途方に暮れた私も、ドッペルゲンガーを生み出すほど求めた私も、憂との生活に幸せを感じた私も、そして苦渋の選択をした私も、全てが嘘になって壊れてしまうから。
憂が私の事だけを考えて生きているのはわかりきったことだけど、私の考えの中心にだっていつも憂があったんだ。それは決して嘘なんかじゃない本気の想い。劣っているだなんて認めるわけにはいかないんだ。
梓「……じゃあ、憂は今のやり方で満足なの…?」
憂「……そうだよ。お姉ちゃんも純ちゃんも、みんな捨ててでも梓ちゃんがいい」
ずっと後ろから抱き締めてくれている憂の表情は見えないけど、その言葉を私は信用しなかった。
言葉だけで嘘だとわかった。だって、相手は憂なんだから。
梓「……嘘でしょ? 憂は優しいもん」
憂「っ……」
憂が息を飲んだ。
すっと、抱き締めてくれていた温もりが離れていく。少し不安になったけど、憂はそのまま私の正面に回ってきて、言葉を紡ぐ。
憂「……そうだよ、捨てたくなんてない。けど……でも、だってそうしないと、梓ちゃんが……っ!」
梓「……っ、ぁ、憂………」
その言葉と顔に、今度は私が息を飲んだ。
――……正面に立つ憂は、泣いていた。
その涙の理由は、自然とわかった。
苦悩とか、後悔とか、そんな類のものだ。自分の選択の果ての答えに対する涙だ。
――……私の好きな憂が泣いていた。私を好きな憂が泣いていた。
あぁ、そっか。私は何て残酷なことを聞いてしまったんだろう。
わかっていたはずだ。私の好きな憂は捨てられる人じゃない。優しい憂はそんなことできない。
でも捨てなければ私がいなくなってしまう。捨てて私を追わないと、足を動かさないといけない。
憂は、その狭間でもがいていたんだ。
憂は『私の好きな憂』のままであろうとしながらも、同時に『私を好きな憂』であろうとしたんだ。
どちらも結局は私のためなのに。私に一緒にいてほしくて、私と一緒にいたいからのことだというのに。
憂「でも、っ、梓ちゃんは私を捨てた! だったら、って、私だって…!」
梓「っ……うい……!」
私が捨てたから、憂も捨てた。当て付けのように。それだけのことだ、と泣きながら憂は言う。
私が憂を捨てたことをずっと悔いて泣いたように、憂も皆を捨てたことを悔いて泣いている。
私達は二人とも大事なものを捨てて、二人ともそれを悔いている。
そんな中で、お互いに弱みを突き合ったところで何になるんだろう。
恋人を捨てた私の選択は、愛を語る恋人としてこれ以上なく最低な行為で。
恩人や家族を捨てた憂の選択も、人の輪の中で生きていく者としては最低だ。
自分の中の正論とか、選択とか、そんなことはもう関係ない。
大事な『ひと』を捨てた私達は、人として等しく間違っている。そして……先に間違ったのは、私だ。
梓「ごめん、ごめんね、憂っ…! 私の…私のせいで…っ!」
謝らなくちゃいけない。私は間違った選択をして、憂にも間違った選択をさせたんだから。
いつの間にか私も泣いてるような気もするけど、そんなのは問題じゃない。
憂「っ…ぁ、あずさちゃん…! ごめん、ごめんね……!」
梓「うい…っ! 謝らないで……! わたしが、私が間違ったんだからっ…!」
憂「で、でもっ、私は、あずさちゃんがやろうとしたこと、全部、壊しちゃった……!」
梓「っ……違う、違うよ、そうさせたのは私だよ…!」
憂「わ、わたし、悔しかった…! 梓ちゃんに置いていかれて、悔しくて、だだをこねて、全部、壊した……!」
梓「だから、っ、それをさせたのは、私っ…!」
憂「違うの……私、きっと、梓ちゃんを信じられなかった…! 私の事なんてもうどうでもいいのかなって、思っちゃった…!」
梓「ッ……!」
その言葉は、すごくショックだった。
自分から恋人を捨てるような人間だと思われたことがショックだった。誰よりも好きな恋人にそう思われたことがショックだった。
でも、本当はショックだなんて思うことさえおこがましいんだと思う。だって、結局は私の行動のせいで憂はそう思ってしまったんだから。
捨てていって、その上私を信じて待てなんて、今にして思えばどれだけ自分勝手なことを私は憂に押し付けようとしたんだろう。
憂からの信用を無くしても当然だと思う。憂のためと信じて疑わなかったけど、憂のための他の方法は思いつかなかったけど、それでも私が憂ならきっと同じ行動を取るだろう。
憂の立場に立って考えてあげられなかった。そんな私に、憂の言葉にショックを受ける資格はない。
憂「私、ね、梓ちゃんの帰りが遅いだけで、すぐ不安になる…。ちょっと連絡がないだけですぐ怖くなるの……」
梓「……うい……」
憂「き、きっとわたし、おかしいんだよね。梓ちゃんに依存しすぎなんだよね」
梓「そんなこと……」
憂「だって、だって私は……! 人間じゃないから…!」
梓「っ…! 憂っ!!」
抱き締めた。聞きたくないことを口走った憂を抱き締めた。相変わらずの身長差なんて気にせず抱き締めた。
その言葉は、私だけでなく憂自身をも深く傷つける。むしろ私よりも憂自身を傷つける。
だから私は憂を抱き締めた。傷の痛みより私を感じて欲しかった。焼け石に水程度の誤魔化しだとしても、何もしないわけにはいかなかった。
憂「あずさちゃん……ごめんね……人間じゃなくてごめんね…!」
梓「っ、違う、そんなの関係ないって、私、言ったのに…!」
憂「でもっ、きっと、人間なら、梓ちゃんのこと、信じて待ってた…! 梓ちゃんは私の事を嫌いになんかならないって、信じていられた…!」
恋心に何よりも敏感で、それのために行動し、失うことを何よりも恐れる。そんなドッペルゲンガー。
確かにそれ故にこんな行動に出たとも言えるけど、そこは私にも否定できるかわからないけど、でも……
梓「だったら私が、憂のこと、ちゃんと考えてればよかったんだよ…! 憂は誰よりも、人間よりも私のそばに居たがってくれる嬉しい存在だって、ちゃんとわかってればよかった……!」
憂「うれ、しい…?」
梓「……好きな人にそう思われて、嬉しくないわけないよ…! 今更信じてもらえないかもしれないけど、憂のこと、大好きだから…!」
憂「っ、信じるよ、信じないわけないよ! 私だって梓ちゃんのこと、大好きなんだから…!」
梓「……うい、ごめん……好きなのに、置いて行ってごめん…!」
憂「……私も……信じきれなくてごめんね……好きなのにっ…!」
憂はそう言ってくれるけど、やっぱり憂の立場で考えれば私の方が悪いと思う。
でもきっと憂も、誰よりも私の事をわかってくれているから、私の苦悩も弱さも理解してくれているから、自分を責める。
梓「ごめん…うい、ごめん……!」
憂「あずさちゃん…! ごめんね…!」
私が悪い。そう思うから謝る。お互いに。
自分が悪いと思っているから、謝られると余計に申し訳なくなってしまう。お互いに。
自分が悪い事をして、なのに相手に謝られて、悲しさばかりが募っていく。
そうして何度も何度も、謝って謝られて。
「っ…ぐすっ……」
「っ、うえぇ……」
「ぅ、ぁ……」
「ひぐっ、うぁ、うわあああんっ…!!!」
……いつしか、どちらからともなく謝るのをやめ、私達はただ、二人きりで抱き合って大声で泣いた。
最終更新:2012年04月02日 23:38