練習を始めたが、
早く帰りたいと思うからなのか、自分でも分かるくらいに私のドラムは走っていた。
梓「唯先輩。Aメロの出だしなんですけど……」
ムギはキーボードで何かを弾いて遊んでいる。
澪「律、ドラム走ってるぞ」
律「これくらいがちょうどイイんだよ」
澪「もうちょっとリズムをキープしないと……」
律「あぁもう、分かったよ。ゆっくりやるよ」
澪「……律」
律「分かったってば」
澪「律……私を見てよ。私の目を見て、話をしてくれないか?」
スティックを見つめていた視線を、ゆっくりと上げた。
澪が、真っすぐに私を見ている。
やめろ。
見るな。
その目で彼氏を見つめて、
その唇で彼氏に愛を囁いて、
その手で彼氏に触れて、
その胸の中は彼氏への想いで溢れているんだろ?
律「ああああああああああああああ!!!! 用事があったんだ!! 帰る!!」
乱暴に荷物を掴むとスティックをねじ込み、
律「ごめん! またな!!」
みんなに背を向けたまま音楽室を出る。
すぐに澪の足音が聞こえた。
アイツ、追ってきたのか。
放っといてくれ!
私は全力で走った。
下駄箱に脱いだ上履きを乱暴に詰め込み、
靴をつっかけて雨の中走り出す。
が、走り出してすぐに腕を掴まれた。
足元に目線を落とすと、上履きのまま泥だらけになった澪の足が見えた。
バカ、靴履き替えないなんて反則だろ。
澪「律! なんで? なんで私のこと避けるの?」
律「」
両腕を掴まれた。
澪「目を見て! 私の目を見てよっ!! お願いだよ、りつうう……」
涙声に訴える澪。
未だ澪を見れずに俯く私。
雨は何もかも濡らしていく。
私も、澪も、髪も、服も、涙も、心も。
澪「私に彼氏ができたら親友に戻ってくれるんじゃなかったのか?」
律「ごめん。用事があるから、帰んなきゃ……」
そう言うと澪の腕は力なく垂れさがり、私の腕は解放された。
背を向けて歩きだす。
もう、戻れないかもしれない。
私って、ワガママだなぁ。
自己中でさ、ガサツでさ、サボってばっかでさ。
だけど、どうしようもなく澪が好きでさ、
誰よりも好きでさ。
例え澪に彼氏が出来ても、私が一番澪のこと好きなんだ。
絶対誰にも負けない自信があんだ。
だからさ、澪を見てるのが辛いんだよ。
誰かのものになっちゃったんだと思うと、
胸が痛くて苦しくて息が出来なくなっちゃうんだ。
親友ならさ、一番澪の幸せ願ってやんなきゃいけないのに、
なんでだろうな。
こんなはずじゃなかったのにな。
今頃軽音部のみんなどうしてんだろ。
空気悪くしちゃったな。
ごめんよ、澪。
もう私、どうしたらいいか分かんないや。
トンちゃん視点
澪ちゃんがりっちゃんを追いかけて教室を出て行った。
教室に残された三人は、窓から校庭を眺めている。
唯「あ、りっちゃん……」
梓「走って帰っちゃいましたね」
ムギ「あ、澪ちゃんも歩いて帰って行くわ」
三人同時に溜息が洩れた。
唯「あの二人に何かあったのは確実だね」
梓「でも、何があったんでしょうか?」
唯「りっちゃんはずっと澪ちゃんを避けてるし、澪ちゃんは元気無いし」
ムギ「ケンカ、かな?」
また三人同時に溜息が洩れた。
梓「こんな酷いケンカは初めてですね。」
梓「二人とも止めちゃって軽音部が廃部に。なんて、なりませんよね?」
ムギ「きっと大丈夫よ。あんなに仲良しの幼馴染なんだもの」
唯「りっちゃん家に行こ!」
梓「え? 律先輩、用事あるって言ってましたけど?」
ムギ「澪ちゃんを避ける為についた嘘。なんじゃないかしら」
梓「でも、行ってどうするんですか?」
梓「私達に話してくれるでしょうか?」
唯「澪ちゃんが忘れていった荷物をりっちゃんに渡すんだよ」
唯「そうすればりっちゃんは、澪ちゃんに荷物を届けなきゃいけなくなるでしょ?」
ムギ「そうね。あの二人にはじっくり話し合う機会が必要よね」
三人は荷物をまとめて出て行ってしまった。
りっちゃんは昔、
俺の水槽についているコンセントが抜けていたのを真っ先に見つけてくれたことがあった。
水温を調節するコンセントだったから、
もう少しで寒くて死ぬところだった俺を助けてくれた、いわば命の恩人だ。
そんなりっちゃんが、最近元気がない。
どうやら原因は澪ちゃんにあるらしい。
この二人に何があったのか。
スッポンモドキの俺には分からないが、
りっちゃんに恩返しがしたい。
俺は生まれて初めて、人間の為に何かしたいと思った。
スッポンモドキの俺に、いったい何が出来るのだろうか……。
澪宅
澪ママ視点
澪ちゃんがずぶ濡れで帰って来た。
しかも泥だけの上履きで。
今はお風呂に入って温まっているけれど、明らかに様子がおかしかった。
いえ、様子がおかしかったのは今に始まったことではなかったわね。
日曜日、りっちゃんとお出かけしてくるって行った日。
あの日帰ってきてからずっと、澪ちゃんは食欲が無い。
今では、一目で分かるくらい痩せてしまった。
そして何より、りっちゃんの話をしなくなった。
りっちゃんに出会ってから毎日りっちゃんの話をしていた澪ちゃんが
りっちゃんの話をしないなんて。
きっと、りっちゃんと何かあったのね。
最初はケンカかと思ったわ。
でも、いつもなら翌日には仲直りするのに、
あれから5日も経っている。
澪「ママ、お風呂ありがとう。やっと体が温まったよ」
痛々しい笑顔に、思わず目をそむけたくなった。
ダメ。
私だけは何があってもこの子から目を離したらダメ。
澪ママ「ねぇ澪ちゃん。駅前のケーキ屋さんが新作のプリンを出したのよ」
澪ママ「買ってあるから一緒に食べましょ?」
澪「……」
澪ママ「澪ちゃん?」
澪「え? 何?」
澪ママ「手が止まってるけど、プリン美味しくなかった?」
澪「美味しいよ。でも、部活でお菓子をたくさん食べすぎちゃってさ、」
澪「お腹いっぱいになっちゃった。ごめんね」
澪ママ「いいのよ。じゃあ私、そろそろお夕飯の支度するわね」
澪「……」
澪ママ「澪ちゃん?」
澪「え? 何?」
澪ママ「ううん、何でもないわ」
真面目で優しくてしっかり者の澪ちゃん。
何でも私に話してくれたのに、こんなことは初めてで。
正直、どうしていいか分からない。
ただ。
例えどんなことがあっても、私だけはこの子の味方でいよう。
そんなことを考えながら料理を作っていた。
澪ママ「澪ちゃーん。出来たわよお」
後ろを振り返ると、澪ちゃんはリビングのソファーで眠っていた。
仕方ないわねぇ。
大きくなったと思っても、まだまだ子供なんだから。
二階から毛布を持ってきて澪ちゃんに掛けようとした時、
ふと床に落ちている携帯電話が目についた。
澪ちゃんの携帯電話。
メールでも見ながら寝ちゃったのかしら。
毛布を掛けて、携帯電話を拾い上げた。
その拍子。何かのボタンを押してしまったのか、
真っ暗だった画面が光り、文字が現れた。
いくら我が娘でもこれはプライバシーだ。
だから読まないようにしようと思ったのに、
目に飛び込んできた『律』という文字。
いけないいけないと思いつつ、私はメールを読み始めてしまった。
そこには、りっちゃんへの溢れる愛がこもっていた。
ショックは無かった。
薄々気がついていたから。
でも、予想外だったのはその愛の深さ。
思春期の一時的なものと捉えていたけれど、
こんなにもりっちゃんのことが好きだったなんて。
私は携帯をそっと澪ちゃんの横に置き、立ちあがる。
キッチンへ行こう。
料理しなくっちゃ。
久しぶりだから上手にできるかしら?
律宅
律視点
帰宅してみると、家には誰もいなかった。
都合が良い。
こんなびしょ濡れの姿家族に見られたら、イジられるもんな。
制服を洗濯機へ放り込み、スイッチを押す。
雨で濡れた体は冷え切っていたが、お風呂を沸かすのが面倒くさい。
自室に戻り、頭まですっぽりと布団にもぐりこんだ。
寒いな。
ちっとも温まらないや。
ここには雨が降っているのかもしれない。
玄関のチャイムが鳴った。
あぁ、家に誰もいないって面倒くさい。
布団から出たくない。
まぁいっか。
誰もいませんよおー、っと。
しかし玄関から聞き覚えのある声が聞こえた。
唯「りっちゃーーん!!」
あぁ、何か言いに来たのかな。
会いたくないなぁ。
やっぱ居留守使おう。
梓「ちょっ! 唯先輩!! それはマズイですって!」
唯「あれ? 靴があるよ?」
律「うおおい!! 勝手に玄関開けるなっ!!」
唯「あ、りっちゃん! ほら、やっぱり居たよ?」
ムギ「あら、本当ね」
律「無視かい……」
ムギ「りっちゃん、あのね? これ」
ムギが手に持っていたのは、澪のベースとバッグだった。
三人もいるのに、一人で持ってきたのか!?
ムギ「澪ちゃん、荷物置いて帰っちゃったの。」
ムギ「それで、三人でここまで持ってきたんだけど、重くって」
唯「りっちゃん、澪ちゃんに届けてくれないかな?」
ここまで来たんなら頑張れ。
澪の家はすぐそこだぞ。
なんて言えなかった。
だってこれは、私を澪の家に行かせたい為の口実なんだろ?
つまりこれは私に、澪と話し合えってことなんだ。
用事があるって言って帰った私の家に来るなんて、
まるで私が家に居るって分かってたみたいじゃないか。
やっぱし私が澪を避けてること、バレバレなんだな。
でも、そこを責めないでいてくれるみんなに感謝しなきゃな。
律「しょうがないなぁ。そこに置いといて。みんな、上がってく?」
唯「ううん。今日はいいや。それよりもりっちゃん!」
唯「早く荷物を届けてあげて! きっと澪ちゃん、困ってると思うから」
梓「絶対届けてくださいね! 律先輩にベースを預けたままだと不安なんで」
ムギ「りっちゃん! ふぁいとおー!!」
三人は玄関を閉め、帰って行った。
と思ったらすぐにドアが開き、唯が顔を出した。
唯「りっちゃん! 今度遊びに来た時には上がってくからね!」
律「ん、またな」
唯「りっちゃん隊員、ご武運を!!」
ゆっくりとドアが閉まった。
今度は私がそのドアを開ける。
外には道路を歩く三人の姿があった。
律「みんな! ありがとな!!」
三人は振り向き、手を振ってくれた。
澪宅
通い慣れた道。
見慣れた家。
押し慣れたインターフォン。
聞きなれたチャイム。
もう来ることは無いと思っていた場所は、
ひどく懐かしく、
とても愛おしかった。
澪ママ「あら、りっちゃん。いらっしゃい」
律「おばさん、久しぶりっ!」
澪ママ「どうぞ、上がって」
律「ありがと」
家の中は甘い匂いが漂っていた。
くんくん、良い匂い。
私、この匂い知ってる……。
澪ママ「りっちゃん、犬みたいね、ふふふ」
玄関で靴を脱ごうとしてハッとした。
隅に、泥だらけになった澪の上履きがあったのだ。
あのまま帰ったのか。
だから荷物を唯達が持ってきたんだな……。
リビングに行くと、澪がソファーで寝ていた。
澪を見ただけで胸が痛む。
澪ママ「りっちゃん、ちょっと」
ダイニングキッチンに通されると、テーブルには焼きたてのクッキーがあった。
澪ママ「今ちょうど焼けたところなのよ。一緒に食べましょ?」
律「ありがと! えっと……」
私は澪をチラと見た。
澪ママ「澪ちゃんはもう少し寝かせておきましょう」
二人向かい合わせになり、おばさんが淹れてくれた紅茶でティータイムが始まった。
クッキーを一口かじると、懐かしさが込み上げてきた。
このクッキーは、私が小学生の時に初めて御馳走になったもの。
あんまりにも美味しくて、動けなくなるまで食べたっけ。
それから時々おばさんはクッキーを焼いてくれるようになった。
でも最近はなかったから、久しぶりだな。
澪ママ「ねぇ、りっちゃん。おばさんの昔話、聞いてくれる?」
最終更新:2012年04月12日 13:40