「終わっちゃったねえ、高校生活」

溜息まじりに呟いた言葉に、そうね、と短く返ってきた。

軽音部のみんなとバイバイして、和ちゃんとふたりの帰り道。
並んだ影がくっついたり離れたりしながらアスファルトの上に長く伸びている。

「終わっちゃったなあ」

もう一度、オレンジ色の空を見上げてつぶやいたら
和ちゃんはちょっと笑って私のほうを見た。

「なに、気が抜けたような顔して」

「うーん、なんか急に、卒業なんだなあって」

「え、今?」

「うん、今」

少し間があって、唯らしいわ、と、今度は和ちゃんが溜息を吐いた。
軽く笑った口元につられて私の口角も上がる。

「梓ちゃんへの曲、一生懸命作ってたんでしょ」

「うん、頑張ったよぉ」

「だからじゃない?」

「へ?」

「あんたは何かに夢中になると、他のこと忘れちゃうから」

自分が卒業することも忘れてたんじゃない?と言われて、
そんなこと、と反論しかけて口をつぐむ。

「ぬ…………。否定できない、かも」

「まあ、高校最後の下校中に思い出しただけいいじゃない」

「えっ」

「え?」

足を止めた私の数歩先で、和ちゃんが振り返った。
唯?と首をかしげた和ちゃんの眼鏡に夕陽が映って光る。

「最後の下校……」

「えっ、それも今気付いたの?」

「……うん」

はあ、と二度目の溜息を吐いて、和ちゃんが苦笑いする。
きれいに弧を描くその口元を見ても、今度はうまく笑い返せなかった。

「そっか、和ちゃんと一緒に下校するの、今日が最後なんだ……」

自分の言葉が実感を伴って、かくん、と急に膝の力が抜けたような気がして
慌てて和ちゃんに飛びつく。

「ちょっ、唯?」

勢い余ってふたり一緒に2、3歩よろめいた。
肩に下げられたスクールバックと、そこから覗く丸筒が揺れる。

和ちゃんの腰に両手を回して黄緑色のマフラーに頬をうずめたら、
もう、と呆れたような声と一緒に頭の後ろ側を撫でられた。
顔は見えないけど、この声はきっと笑ってる。

「……実家を出て暮らそうって子がこんなじゃ、先が思いやられるわ」

「大丈夫だよぉ、寮はみんなと一緒だし」

「人に頼る気満々じゃないの」

「えへへー」

「えへへじゃないわよ、もう」

腰に回していた手を外して和ちゃんの左手を握ると、
和ちゃんはちょっと眉尻を下げて、やさしく握り返してくれた。

どちらからともなく歩きだす。
ふたりの影が、くっついたままアスファルトの上に長く伸びる。

「ちっちゃい頃さ、よくこうやって手を繋いで帰ってたよね」

「手を繋いでおかないと、あんたすぐどっか行っちゃうから」

「えっ、そんな理由?!」

「自覚なかったの?」

「えぇー……」

くすくす笑う見慣れた横顔が、夕陽できらきらと光る。

「ぜんぶで何年だっけ、一緒に帰ったの」

「幼稚園はお迎えがあったから……小学校からだと12年ね」

「12年!」

「高校に入ってからは、あまりなかったけど」

「あー、そうだねえ……。もっと一緒に帰ればよかったなぁ」

「お互いやりたいことやってたんだからいいじゃない」

「そうだけど」

私は軽音部で、和ちゃんは生徒会。

いつの間にか軽音部のみんなと一緒に帰るのが当たり前になっていて、
和ちゃんが誰と帰っていたのか、それともいつもひとりだったのか、
それすらよく知らなかったことに今更気がついた。

「……ねえ和ちゃん」

「なに?」

「生徒会どうだった?」

「どうだった、って?」

「楽しかった?」

「んー……。やりがいがあったわね」

「やりがい……かぁ」

「唯は? 軽音部楽しかった? って、聞くまでもないか」

「あはっ。楽しかったよぉ」

「ふふ、でしょうね」

大通りからいつもの角を曲がって、左右に家が並ぶ静かな通りに入る。
幼い頃から変わらない、ふたりで一緒に登下校した道。

「ね、和ちゃん」

「うん?」

「ちょっと寄り道していこ?」

「寄り道って……もう家に着くよ?」

「ね、ちょっとだけ」

「憂もご飯作って待ってるんでしょ?」

「そーだけど」

「……」

「……だめ?」

和ちゃんは少し考えてから、ちょっとだけね、と困ったように笑った。
憂も一緒に3人でよく遊んだ公園に寄って、水銀灯の下にあるベンチに並んで座る。

「わ、もうだいぶ暗いね」

「そうね」

橙色の夕陽はいつの間にか風景の向こうに隠れてしまって、
水銀灯の光がふたりの影を足元に落としている。

頬をかすめる風が思いのほか冷たくて、鼻先までマフラーを引っ張り上げた。
お互いの肩と肩をくっつけて、それから再び手を繋ぐ。

「ここでよく遊んだねー」

「小さい頃は広いと思ってたけど、案外狭いのね、この公園」

「だねぇ」

「……」

「ねえ、和ちゃんは大学入ったら何するの?」

「そうねえ……。とりあえず入ってから考えるかな」

「そうなの?」

「うん。何か楽しいことを探すつもり」

「楽しいこと」

「そ、楽しいこと」

「そっかあ……」

「唯は? 大学でも軽音部に入るつもり?」

「まだわかんないけど、みんなも入るなら入るよ」

「そう」

「あずにゃんがいないから4人になっちゃうけど」

「梓ちゃんもN女子大志望?」

「んー、どうだろ。同じとこ来てくれるなら嬉しいけど……」

「そうね」

「でも、もしあずにゃんが違うとこ行っても、また5人でやりたいな」

「じゃあ、それまでにギターもっと練習しておかないとね」

「がんばりやすっ!」

フンス!とガッツポーズをしてみせたら和ちゃんがクスッと笑って、私もつられて笑う。
ふたりの吐いた息が水銀灯の光の中にふわりと広がる。

白い息が夜に溶けるのを見送って、話を続けようと口を開きかけたとき、
ぶるる、とポケットの中で携帯が震えた。

「……あ、憂から」

ちらっと和ちゃんを見てから、通話ボタンを押す。
お姉ちゃんいまどこ?と聞かれて、近くの公園に和ちゃんといるよと答えた。

「うん、うん。……ん? ん、ちょっと待って」

一旦耳から携帯を離して、和ちゃんと視線を合わせる。

「ねえ和ちゃん、憂がうちで一緒にご飯食べてかないかって」

「……嬉しいけど、うちもご飯作って待ってると思うから」

「そっか」

憂にそのまま伝えて、もうすぐ帰るよと付け足した。
ふぅ、と軽く息を吐いて、ポケットに携帯を仕舞う。

「えへへ、憂に心配されちゃったぁ」

「誘ってくれてありがとうって伝えておいてね」

「憂も、寂しいんだねぇ」

「……」

「そりゃそっか」

「……唯」

「うん?」

「……。ううん、そろそろ帰ろうか」

「……うん、そうだね」

繋いだ手を離して立ち上がる。
下ろしていたギー太を再び背負って、スクールバッグを肩から下げる。



……うちの前に着くまで、和ちゃんも私も何も喋らなかった。
何か喋りたいのだけど、言葉が喉元で止まってしまうようなへんな感じ。

アスファルトの上に、ふたりのローファーの音が響く。
さっきまで和ちゃんと繋いでいた手を制服のポケットの中でぎゅっと握る。

「……着いちゃった」

和ちゃんが、そうね、と短く返す。
2階の窓から漏れる灯りを見上げて、それから和ちゃんのほうを向く。

「憂に顔見せてく?」

「ううん。うちもそろそろ電話掛かってきそうだから」

「そっか」

「すぐ引っ越すわけじゃないし、また遊びに来るわ」

「うん」

憂にもそう伝えとくねと言ったら、和ちゃんは静かに口角を上げた。
そしてそのままの表情で、ゆい、と私の名前を呼んだ。

「うん? なに?」

「我慢しなくていいのよ」

「えっ?」

何が?と聞き返すよりも早く、右目からぽろりと涙がこぼれた。

「あ、あれ?」

最初の一粒をきっかけに堰を切ったように両目から涙が溢れ出し、
薄桃色のマフラーの上にぱたぱたと染みを作っていく。
嗚咽が漏れて、慌てて手の甲で口を強く押さえる。

ぽんぽんと頭を撫でられて、涙でにじんだ視界に大好きな笑顔が見えた。
両手を和ちゃんの首に回して抱きついて、自分より少し高い肩におでこをくっつける。

「っ……、のどかちゃ……」

「感情がすぐ顔に出てた唯が、泣くのを我慢できるようになるなんてね」

「……」

「成長したのねえ」

お母さんみたいなことを言いながら、子供をあやすように、
和ちゃんの手が私の頭をやさしく撫でる。

「卒業おめでとう、唯」

「……のどかちゃん、も、……卒業、おめでと」

「うん」

「……うん」

言いたいことが沢山あるはずなのに、喉元で詰まってしまって言葉が出てこない。

涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながらやっとの思いで言えたのは、
ありがと、のひとことだけだった。



**





「唯?」

「うひゃっ?!」

蛍光灯に照らされた深夜の廊下で、後ろから急に名前を呼ばれて飛び上がる。

「な、なんだ……晶ちゃんかぁ。びっくりした」

「なにやってんだよこんな時間に」

「晶ちゃんこそ」

晶ちゃんはタンクトップにハーフパンツのラフな格好で、
手に持った袋をひょいと掲げてみせた。

「目が覚めちゃって寝られそうにないから、風呂入ってこようかと思って」

「あ、そうなんだ? 私もだよー」

「げっ」

唯もかよ、と顔をしかめた晶ちゃんにニシシといじわるな笑顔で返す。

「お昼寝しちゃったせいで、変な時間に目が覚めちゃったんだよねぇ」

「ゲームで徹夜なんかするからだろ」

「晶ちゃんだって楽しそうだったくせに」

「うっ……」

「まいいや。露天風呂、一緒に入ろ?」

「……はぁ。しゃあねえなぁ」

大学生になって最初の夏休みは、大学軽音部の合宿で始まった。

大学で友達になった晶ちゃんとはバンドのパートも学科も寮も一緒で、
なにかと仲良くしてもらっている。
ちょっと口が悪いけど、困ってる人をほっとけないし、すごくいい人。

「おぉー! 貸し切りだよぉ!」

「当たり前だろ、何時だと思ってんだ」

「風も涼しくて気持ちいいねー」

「前隠せ、前」

「いやぁん、晶ちゃんのえっちぃ!」

「うざっ」

軽く身体を洗って、ざぶんと露天風呂に飛び込む。
泳ぐなよ、と先を読まれて、子供じゃないもんと頬を膨らませる。

だけど結局泳いで晶ちゃんに思い切り呆れられて、
それから露天風呂のふちに背中を預けて並んで夜空を見上げた。

「おお、星がいっぱいだねえ」

「山の中だから周りが真っ暗なぶんよく見えるんだな」

「晶ちゃんは、合宿のあと実家に帰るの?」

「ん? ああうん、そのつもり」

「先輩にも逢いに行っちゃったりするの?」

「……逢わねえよ」

「えー、逢えばいいのにー逢いたいくせにー」

「るせっ!!」

晶ちゃんの顔を覗き込もうとしたところにばしゃんとお湯をかけられた。
鼻の中にお湯が入ってげほごほとむせる。

「げほっ……ひ、ひどいよ晶ちゃん……」

「人を茶化すからだろ。そういうお前はどうなんだよ」

「へ?」

「いないのか? その、好きな人とか」

「え」

好きな人、と言われて何故か、馴染んだ笑顔がぽこんと浮かんだ。
あぇ?と間の抜けた声を出してしまった私を見て、晶ちゃんが眉を上げる。

「あ、あれ? ん?」

「……ほう」

「……」

「いるんだな?」

「……」

「どんな奴?」

「……」

「なんだよ、人のこと茶化したんだからお前も言えよな」

何も言えずにいる私を黙秘しているのだと思ったらしく、
今度は晶ちゃんが私の顔を覗き込んで質問を重ねてくる。

「……えと……、いるっていいますか」

「うん?」

「いま、晶ちゃんに好きな人って言われて」

「うん」

「意外な人の顔が浮かんで自分でびっくりしたところです」

「へえ、どんな奴?」

「えっと……。幼稚園からずっと一緒で、あたまが良くて、高校で生徒会長もやって」

「ほう」

「優しくて、ときどき厳しくて、お料理も上手で、すごくあったかい……」

「ほほう」

「……女の子です」

「はぁ?」

なんだそりゃあと晶ちゃんが呆れた声を出して、
私も苦笑いで返す。

「あは……私もなんだそりゃあだよ」

「つまりカレシとか好きな人は別にいないってこと?」

「んー、女子高だったし、部活が楽しかったし、そういうの全然考えなかったや」

「ははっ、ギターが恋人ってやつか」

「おお! そうだね! ギー太が恋人!」

「だからダサいってその名前」

「えぇー、可愛いじゃんギー太」

「はぁ……まあいいけど」

口を尖らせた私に軽い溜息で応えて、
晶ちゃんはまた背中を露天風呂のふちにくっつけて星空を見上げた。
私もそれに倣って、ちかちかと瞬く星を眺める。

「……私長風呂だから、のぼせる前に先上がっていいぞ?」

「大丈夫だよー、風涼しいし」

「そっか?」

「うん」

「……」

「……」

ふたりが黙ると辺りはほんとうに静かで、
水の音のほかには風がザワザワと葉を鳴らす音くらいしか聞こえない。


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最終更新:2012年04月14日 23:40