律「……なんか最近、唯が元気ない気がする」

大学にも徐々に慣れつつある時期。そんなある日の部活を終えた後、律は私と幸にそう呟いた。
ムギは律に似て行動力のある菖に引っ張られ、私達の遥か前を歩いている。晶は後片付けに手間取る唯を相手していた結果、私達より少し後ろを歩いている。
後ろを歩く二人に聞こえないくらいの音量で律が口にしたことから、真面目な話だという事はわかる。わかるんだけど。

澪「……そうか?」

後ろを振り返ってみる。晶にブツブツと小言(ただし正論)を言われながらもだらしない顔で聞き流す唯の姿が見える。
そこだけを見ればいつも通りの光景。いつも通りの唯。そう思っていたけど。

唯「ぁ……」

澪「……?」

唯が不意に表情を僅かに曇らせ、視線を逸らす。
……私と目が合ったその瞬間に。

澪「……唯?」

私のその呼びかけは、しかし唯の隣で説教を続ける晶の声にかき消され、きっと唯には届かなかった。
直後に唯がまた笑いながら晶への言い訳に戻ったため、私も前に向き直らざるを得なくなってしまう。
その様子を見届けたであろう、私の左側を歩く律は、珍しい神妙な顔つきで私に再び告げる。

律「……な? 元気ないだろ?」

澪「……私、何かした?」

幸「けんか?」

澪「それはない…と思うけど」

今の動作は、元気が無い、というよりは私を避けているようにも見えた。
それこそけんかでもしてればそうなっても不思議じゃないけど、思い当たる節はないし唯とけんかなんてしたくもない。
もちろん、私が知らないうちに唯を傷つけていた可能性もあるけど……

律「……多分、澪が悪いってわけじゃないと思う。私が見る限り、澪のいない時でもたまにあんな顔をしてたし」

澪「ん、そうか……」

私が原因じゃない、と言われて安堵すると同時に、そんな唯の変化に気づけなかった自分を悔やむ。
唯のことにはちゃんと目を配っていたつもりだったのに。高校時代は何かと傍にいた梓と憂ちゃんがいない今、高校一年時のように私がちゃんと唯の行動には目を光らせていたつもりだったのに。
どこか、唯と学部が同じ晶に甘えてしまっていたのだろう。もしかしたらこれからも甘えてしまうのかもしれない。
それが自然な形なのかもしれない。けど、悔しかった。自分でそう決めておいておきながら、成せないのは悔しかった。
……唯との距離が無意識に離れてしまったような気がして、悔しかった。

澪「……今からでも、間に合うかな?」

幸「……唯ちゃんのこと?」

澪「うん。余計なお世話かもしれないけど……」

何もしない、というわけにはいかなかった。
私が原因でなくても、私を見て唯は目を逸らした。律の言う通り私に何もないなら、唯のほうに何かがある。
私の気づかないうちに、唯の何かが、どこかが変わってしまったんだ。目を逸らすほどに。
……そんなの、放っておけるはずがない。

律「……そうだなぁ、じゃあ今夜、様子見も兼ねて唯の部屋にみんなで押しかけてみないか?」

澪「様子見?」

律「もしかしたら単に騒ぎたいだけかもしれないじゃん。それこそ最近、秋山さんとは疎遠だったようですしー??」

澪「ぐっ……」

流石は律、私の考えていることを的確に見抜いてくる。
私も律が悩んだりしたらすぐに察せる自信はある。それくらい私達は付き合いが長くて、そしてお互いから見れば『わかりやすい』人間同士だ。
変に似た者同士じゃないからこそ、相手の心の内がわかってしまうというか。私達は互いにそんなところがあった。
……まぁ、時に過剰に私の神経を逆撫でするような言い方や行動をするのだけは止めて欲しいけど。胸を揉むのとかもね。

澪「……今夜、か……わかった。唯には教えるのか?」

律「サプライズでいいんじゃね?」

幸「じゃあ、晶と菖には私が伝えておくよ」

律「んじゃムギには私だな。澪はお菓子とかジュースとか宜しく」

澪「ん、わかった」

と一応頷いたけど、夜中に食べるとムダなお肉になるのはわかりきったこと。
お菓子は少なめにして私の分は唯にあげるとして、みんなで遊べるトランプか何かでも持っていくことにした。


――相変わらず不用心に開けっ放しの唯の部屋の扉をくぐると、意外にも珍しく机に向かう唯の背中が見えた。

律「お? なんだー? 珍しく勉強でもしてるのかー?」

唯「わぁっ!? り、りっちゃん……と、みんな?」

律「……どうしたんだ? そんなに驚いて」

晶「やましい事があるならドア閉めとけよ」

唯「べ、別にそういうわけじゃ……」

晶「っていうかそうでなくても閉めろ!」

唯「あ、あはは……はい……」

とか言いながら、唯は机の上の紙切れか何かを隠した……ように見えた。
部屋に入ってきた時も唯の背中で見えず、今だって上手い具合に身体で隠していたから確証はないけど。
でも唯の慌てようを見るに、追求しないほうがいいんじゃないか、と思う。他のみんなだって気にしていないようだから。
みんなが気づいているのか気づいていないのかはわからないけど、わからないほどにそれに触れようとしていないから。

菖「遊びに来たんだけど、お邪魔だった?」

唯「う、ううん! 大歓迎だよ!」

菖「そっか、よかった。じゃあ澪ちゃん、お菓子を!」

澪「はいはい。夜だから少なめにな」ガサガサ

唯「わーい」

晶「おまえら食ってばっかだよな」

律「高校時代はムギに餌付けされてた部として有名だったからな!」

紬「えっへん!」

幸「……ホントなの? 澪ちゃん」

澪「……まぁ、あまり否定できない」

晶「苦労してたんだな……」


――そんなこんなでしばらく普通に食べ、遊び、喋ったものの、見た感じはやっぱり普通の唯のようだった。
律もさりげに気にかけているようだったけど、日付が変わってお開きになるまでに唯があの表情を再度見せることはついぞ無かった。


そうして解散した後、たまたま私は忘れ物に気がついた。
本当にたまたま。偶然だ。
意図的に忘れ物なんてする理由がないし、実際その忘れ物は私がうっかり置き忘れてきただけのものだった。


それでも、踵を返したその先で、


澪「……唯?」

唯「え……? あっ……」


自室で一人、しゃがみこんで涙を流す、その姿を見てしまったら。


唯「ち、ちがっ、あの、みおちゃん、これは……」


……私が戻ってきたのは、必然だったんじゃないか、とか。運命だったんじゃないか、とか。そんなことをうっすらと思ってしまうわけで。
厳密には私でなくてもよかったのかもしれないけど、それでも唯には誰かが必要だったんじゃないか、とは思うわけで。
つまるところ、口を開かずにはいられなかった。

澪「……何か、あった?」

唯「っ………」

澪「唯……」

唯「………」

放っておけない。それだけは確かだった。
歳を重ねて減ってきたものの、唯が泣くこと自体は珍しいことじゃない。自分の感情に素直に生きる唯には。
でも、こうして誰もいない部屋で、自分以外の誰にもわからない涙を流す唯は珍しいはずだ。
独りきりで感情を溢れさせる唯を目にして、放っておけるはずがなかった。

澪「大丈夫だよ、唯」ギュッ

唯「あ…!」

澪「……何があったのかはわからない。唯がなんで泣いてるのか、私には予想もつかない。もしかしたら私のせいかもしれない。……でも、大丈夫」

唯「……みお、ちゃん……」

澪「大丈夫だから」

何が、なんて言葉にする必要はないと思った。
私はこうして唯を抱きしめることが出来る。それだけ伝われば大丈夫だと思った。
……なかなか恥ずかしい行動だけど、そんなことを日頃躊躇なくやってる唯相手になら、私だって出来る。

唯「……あのね」

澪「……ん?」

唯「………淋しかったんだ」

澪「………」

唯「よく、わからないけど。誰のせいとかそういうのじゃなくて、ただ、なんか淋しくて、それだけなんだけど……でも」

澪「うん、いいよ。大丈夫」

抱き締めたまま頭を撫でてやると、安心したかのように私に少し体重をかけてくる。
しばらくそうしたまま、唯の言葉を私なりに解釈してみる。

淋しい。唯はそう言った。
要はホームシックなのだろう。唯らしくないようで、唯ならありえそうだ、とも思う。
いつも元気で悩みのなさそうな唯らしくはないけど、ずっと一緒にいた憂ちゃんも、ずっと隣にいてくれた和も、ずっと可愛がってきた梓も、今の唯の近くにはいないんだ。
ずっと一緒にバンドやってきた私達でさえも、今の唯とあまり長く一緒には居られない。学部が違う、それだけで。
そんな環境に対する戸惑いが、唯の心に淋しさとなって影を落としたなら筋は通る。

澪「……落ち着いた?」

唯「……うん」

澪「そうか」

唯「………」

澪「………」

唯「………」ギュッ

澪「……いや、まぁ、確かに抱き締めたのは私からだけどさ」

唯「……もっと、いっしょにいたい」

澪「ん………」

唯にそう言われて、拒める人などいるはずがない。
和も言っていた。唯は何でも許してしまいたくなるような不思議な魅力を持ってる、みたいなことを。
和でも、私でも、最近知り合ったばかりの晶達でも、それは否定できないだろう。

唯「……ごめんね」

澪「…謝らなくていいよ。私なんかでいいのかのほうが心配なくらいだ」

唯「……みおちゃんがいい」

澪「………そうか」

そう言われて、少なくとも確実に心のどこかで私は「嬉しい」と思った。

前述の唯の魅力と、私がいい、と言われて嬉しく感じてしまった私の心。
その二つが重なって、何も見えなくなってしまった気がした。

まだ少し涙で潤んだ目をした唯が、私をじっと見上げている。切なげなその顔以外、何も見えない。
切なげな、怯えるような、求めるような、縋るような、そんな表情以外は。

唯「みおちゃん……」

澪「……一緒に寝ようか、唯」

唯「えっ……?」

澪「へ、変な意味じゃないけど。でも、淋しいなら、それくらいは……と思って」

唯「………うん。ありがと、澪ちゃん」

そう言って、小さくでも笑ってくれる唯が見れて、よかった、と心から思った。
私が唯に笑顔をあげられた、そのことがたまらなく嬉しかった。
特に大したことはしてないのに、私が普通にしてあげられることをしただけなのに、唯は喜んでくれた。

それが、本当に嬉しかった。

澪「――なるほど」

翌朝、ベッドで眠る唯を起こさないように、静かに唯の机の上を漁った。
あの時唯が隠したように見えた何か。悪いとは思ったけど、どうしてもそれが気になった。

そうして出てきたのは、いくつかの紙切れ。手紙だった。
梓からのもの、憂ちゃんからのもの、和からのもの、両親からのもの。
詳しい中身には一切目を通さず差出人だけをそこまで確認したところで、それ以上見るのをやめた。
予想通りだったというのもあるし、それ以上にやっぱり罪悪感に耐えられなかった。
唯に宛てられた手紙を、私が見ていいはずはない。中身は読まないように気をつけたけど、そもそも触れるのさえどうかと思う。
手紙を見て、今は会えない皆に思いを馳せ、唯はホームシックになった。それさえわかればいいんだ。
否、わかっていたんだ。唯は淋しいと言っていたんだから。ただ裏づけが欲しかったがために、私は唯の私物に触れた。唯の『思い出』に土足で踏み込んだ。
……最初に考えなかったわけじゃないけど、それでも私は踏み切った。一線を越えた。その罪悪感は私の予想よりはるかに重くのしかかってくる。

澪「……ごめん」

唯と、その周囲にいる人全てに、届かない謝罪の言葉を告げる。
誰も知らないのだから、その言葉は届けなくていい。それはすごく卑怯なこと。ズルい逃げ道。

だからせめて、あの手紙を補うものに、私はなろう。
唯が淋しくないように、笑顔で全てに向き合えるように、あの手紙にも向き合えるように、私が支えよう。
あの手紙に込められた想いは、淋しさとか涙とか悲しみとか、そんなものを唯にもたらすものじゃない。
あの手紙を読んだら、唯は笑わないといけないんだ。笑って欲しい、元気にやっていて欲しい。皆のそんな願いの表れなんだ、あの手紙は。
だから図々しくもその事実を見てしまった私は、唯と手紙の関係をあるべきものに戻さなくちゃいけないんだ。
唯の淋しさを消してあげて、正面から手紙に向き合えるようにしないといけないんだ。

……たとえ、それが自己満足であろうとも。


澪「……ほら、唯。起きろー、朝だぞー」ユサユサ

唯「……んぇ…? みおちゃん…?」

澪「おはよう。早く起きて、寝癖どうにかして朝ご飯だ」

唯「………うん………」

澪「……誰かに見られたら面倒だから、私は部屋に戻るけど……大丈夫か?」

唯「……っ!」

ほんの少しの間をおいて、唯が勢いよく跳ね起き、私の顔を見た。
どうやらお目覚めらしい、本当の意味で。

唯「っ、み、澪ちゃん! 昨日はありがとね!」

澪「う、うん。どうしたんだ、そんな急に……」

唯「そ、その………えっと、あのね、今夜も、とか……だめ?」

そう言って私を見つめる唯を……まぁ、私は拒めないのだろう、どうせ。
それに、その申し出自体はいろいろと嬉しい。私を必要としてもらえることそのものは言うまでもなく嬉しいし、それで唯の淋しさが紛れるのなら先程の私の決意にも反しない。
どうにかして唯の傍にいてあげないといけない、そう思いながらもどう伝えるか悩んでいた私にとって、それはこれ以上ない『お誘い』だった。

良く言えば、私と唯の双方に都合が良かった、となり。
悪く言うなら、私は唯の淋しさを利用した、となる。

それでも結果が同じならそれでいいかな、と、深く考えないようにした。
結果、私の存在が唯のためになるなら、それで。


――そうして私はそのまま毎日、唯の「今夜も」を聞き続けた。
聞き続けて、受け入れ続けて、いつしか『それ以上』に私を求めた唯をも、やっぱり私は拒めなかった。


そうして唇を重ねたのが一週間前だったか、一ヶ月前だったか。
いや、流石に一週間前は言い過ぎか。私にとっては一週間程度にしか感じられないくらいの時間だったけど、それでも確実にそれ以上の時間は経っている。

名実共に唯の傍にいられることになった私だけど、そのことを皆に公表はしなかった。
唯がそうしたいと言えば拒まないつもりだったけど、そう口にしないなら私からは言うつもりは無かった。
唯が意外にもそういうことを一切口にしないから、実際唯もバラしたくはないのだろうと思う。なら私も何があってもバラさないし、バレないように気を配る。

私は唯の望みを叶え、唯を笑顔にするだけの存在。
万が一にでも唯の害になる可能性があるような行動を取るつもりはなかった。

大学にいるときも、部活のときも、あくまで今まで通りに振舞う。
結局、日常で唯を見守る役は学部の同じ晶になってしまったような感があるけど、でも私は唯に目を配る人から唯を支えてあげる人になったんだ。
だからもう、目を配る役は晶に任せてもいい。そう思うことにした。

そして二人っきりになればただひたすらに唯を尊重する。
唯のしたいことをさせてあげる。唯のことを否定しない。そうすれば唯は淋しさなんて感じないだろうから。
唯も恋人関係を理由に私に甘えてきてくれる。恋人だから一緒の布団で寝るし、一緒に夜遅くまでお喋りするし、キスもする。キス以上のことは……ちょっとまだ、お互い早い気がするけど。

そんな時間が、毎日が、嫌いじゃなかった。
唯も笑っていてくれた。唯が笑えば、私も嬉しかった。
唯も楽しんでくれた。笑ってたんだから楽しかったはずなんだ。




――なら何故、唯は今、神妙な面持ちで俯いているのか。



「大事な話がある」と唯の部屋に呼び出され、床に座って向かい合う。
そしていざ向き合えば、呼び出した本人が話をなかなか切り出さない。
私のほうから口を開こうにも、それをすれば何かが壊れてしまうよう。

この空気、体験したことこそないものの、察しはつく。ついてしまう。
テレビや本などで幾度となく目にした、この空気。この光景。それは。

唯「……ごめんね、澪ちゃん」


それは。


唯「……もう、終わりにしよう?」

澪「……どう、して?」


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最終更新:2012年04月29日 22:53