【プロローグ】


昔、明日がすごい怖かった。
笑わないで聞いてね……と、言いつつも実はこのジョークをわたしは気に入ってて、そのたびに自分で笑っちゃうんだけど、わたしは将来犯罪者になるんじゃないかって思ってたのだ。
あーあ。

でも実際、そのせいで眠れない夜もあった。
ほら、夜にしか鳴かない鳥っているよね。くわあああんくわああああんって。
眠れない夜には、あの鳥の鳴き声を数えてた。そうしてると、だいたい4000回あたりで飽きちゃう。それでひとつ教訓を得たんだけど、どんな繰り返しも4000回まで、それ以降は無理、少なくともわたしたちには耐えられないよ。

そもそもさ、なんでそんなこと思ったかっていうと、それには理由があるんだ。
まあ、何もないのに自分が未来の犯罪者だって信じこむなんて頭が変だ。それか自意識過剰だろう。
この2つはちょっと似てるって気がするけど、どうかな。わたしはよく的外れだって言われるから。

閑話休題。
中学生のときだった。その頃のわたしは今よりもずっと人の話を信じこみやすいおばかさんだったのだ。
これは嘘。
今も昔も大差ない。
昨日もデパートのチラシに騙された。ダイヤル式ドライヤーと電動ハブラシ。10段階に風量が調整できるからって、髪を乾かすのに役立つ?

とにかく、当時のわたしには誰にも話したことない夢があった。それはお話を書く人になりたかったってこと。
でも、真剣に思ってたわけじゃないよ。
いやいや、照れ隠しじゃないって。

小さい頃好きなことが2つあって、ひとつは公園で遊ぶことで、もうひとつはちょっとしたお話を作って誰かに聞かせることだった。
もっとも、そんな話相手になってくれたのはおかあさんと憂くらいだったけど。
しかも一番多くつきあってくれたのが年下の憂だったから、いつもわたしは「すごいねーおねえちゃん」って褒められた。
それにおかあさんはよく頭をなでてくれた。よくできましたってふうに。それがすごく好きだった。

やっぱりおばかさんだったわたしはそんな態度をそのまま信じこんで中学生になった。
わたしはすごいねってわけ。
その歳にはわたしも自分の夢がおおげさなものだってことくらいわかってたから、それを心のなかにしまい込んで一応はなんでもないふりをした。
でも、ちゃんと叶えられると確信してたのだ。
哀しいかな。

その夢がバレちゃって、まあ結果あきらめることにもなるのだけど、それは冬の頃、中学生1年生の夕暮れの帰り道のことだった。
わたしは珍しく学校から一人で帰っていた。
その途中でおねえさんに会った。
おねえさんというのはあだ名で近所の子はみんな彼女のことをそう呼んでいた。
おねえさんが誰とでも仲良くて、物知りだったからだ。
5歳年下のわたしもそれにもれなかった。
なぜか、わたしは小さい頃から遊び相手として特に連れ回された。おねえさんは後でわたしにこう教えてくれた。

唯ちゃんはなんでも信じるからおもしろかったの。

そんな話をあずにゃんにしたら、もしかしたら唯先輩が明るいのはそのせいもしれませんねと言っていた。
つまり、幼い頃から冗談ばかり聞かされたから。
それでも、暗いばかより明るいばかのほうが周りからすればいくぶんか気楽だ。
ちなみにこれもあずにゃんの受け売り。
ばーか。

というわけで、そのときもわたしはおねえさんの言うひとつひとつの冗談に笑ったり驚いたりしていた。
変に曲がりくねった道(それはその頃新たに付け足された道だったから古い家にあわせていびつな形をしていた)を歩いているときのことだった。
不意におねえさんがわたしに尋ねた。

「ねえ、唯ちゃんは自分の将来が見える?」

その質問があまりに唐突だったのと、隣家のカレーの匂いに心を貸し出してしまっていたので、わたしはいとも簡単に8年間のちょっとした脆い秘密をさらけ出してしまった。

 どかーん!(こういう安い表現はあまり使わないほうがいいと澪ちゃんが後で教えてくれた。澪ちゃんが教えてくれたのはこれともう一つ、えくすくらめーしょん・まーくはひとつまでだということだ。!!なんて言語道断。お話が薄くなるだけだ、と)

おねえさんは驚いた顔で、唯ちゃんが読書好きだとは知らなかったな、と言った。わたしもそれは知らなかったと言い二人で笑った。
それからおねえさんはわたしに書いたものを読ませてくれないかしら、と尋ねた。わたしは断った。
それはこういうことだった。
自分の天国――憂の褒め言葉やお母さんが頭を撫でてくれるあの感じの外側に自分の世界を放り投げだす勇気がわたしにはなかったのだ。
自分の書いたものが中学生の平均的なそれから言っても稚拙なものだということを、なにかあるたびわたしはひしひしと認識しなければならなかった。
それでも、わたしは自分の個人的なお話が好きだったし、自信もあった。でも、それに何の意味があるだろう。
棒つき飴で戦闘機に向かっていける?
同情はひけるかも。
それで、あっさりと夢を諦めた。
あーあ。

おねえさんはわたしにどんなものを書いてるの、と聞いた。
ファンタジーだよ、とわたしは言った。
わけのわからないものを説明するのには便利な言葉だ。
もっと現実的なものを書かなきゃダメだとおねえさんは忠告した。
現実的ってどんな感じってわたしが聞くと、おねえさんはいくつもの例をあげて教えてくれた。
離別、孤独、嫉妬、誰かの死、裏切り、などなど。
そこで、わたしは一時期この現実感というものに悩まされることになった。
きっと、そんな恐ろしい未来が誰の前にも待っていて、幸せでいれるのは子供だけだって。
挙句の果てには、おねえさんは高校を卒業したら死ぬんだとまで言い切った。
もちろん、今も彼女は生きていて、ときどきメールを交換したりする。
わたしがこのことを問いただすと、生き返ったのだという。おねえさんは一度も嘘をついたことがないから案外そんなこともあるのかもしれない。

そして、残念ながらわたしはまだこのうちのどれにもお世話になっていない。
だから、もしかしたらわたしは現実じゃないどこか――例えば、夢の中で生きていたりするのかもしれないな。


ずいぶん話が変な方向にそれちゃったな。
わたしにはどうもそういうとこがあるみたい。
注意注意。
さて、わたしは6年ぶりにちょっとした物語を書こうと思っている。というかそのほとんどはもうできあがってしまった。
たいていは朝、夢から覚めたあとにあくびをしながら机に向かう。物語といったって日記みたいなものだ。
あの澪ちゃんがご教授してくれたので、それなりの形にはなったんじゃないかなと思う。

わが愛すべきハッピーエンド主義者の妹(そうなったのはわたしのせいだ)、憂に言わせればこういうことだ。
真の幸福な物語とは何も起きないことだ。
というわけで、幼い頃、わたしの口から飛び出た懐かしい物語たちにならい、このお話にはどんな悲しいこともおきない。
誰かの死もその他いろいろも。



『0回目』

この線の向こう側に天使がいる。
すぐに顔が赤くなった。
そんな風に考えるのはなんだか恥ずかしかったから。
どうしたんですか。
右側で声がした。
どうでもいいけど音ってのは空気が震えておきるんだって。
知ってた?
へんだよねあはは。
おかしいですよ。
この線を越えないであずにゃんに抱きつく方法を考えてたんだ。
無理ですよ。
そんなのは最初からわかってるんだって。
はとが目の前で羽を広げて飛び立った。
もし人が空をとぶくらいの奇跡を用いれば、それができるのかな?
ねえ。
無理ですよ。
また言った。
あずにゃんはすぐ諦める。
天使だったくせに一度も空を飛べなかった。
ばかなんだ。
あーあ。
ゆらゆら伸びたその線をなぞっていく。
指が汚れた。
そっと触れた最後の隙間は不思議と暖かいような気がしちゃったんだ。



「この線からこっち側には来ないでくださいよ」

あずにゃんが言った。
午後5時の人気のない公園。
絶賛立ち入り禁止中。

今日はくもりだった。
昨日は晴れだった。
一昨日は晴れだった。
だから今日はくもりだった。
曇天特有の気だるさが街を支配していて、わたしはいつもよりすこし退屈な気分になった。
夕暮れに染められた雲はオレンジだった。


唯「見て見てきれいだよ」

梓「そうですね」

あずにゃんは下を向いたまま手頃な木の枝が落ちていないか探していた。
公園の地面が鏡張りだったらよかったのにね。
わたしは口をとがらせた。
少しあとで、木の棒を手に持って戻ってきたあずにゃんが歓声を上げた。

梓「わっほんとに綺麗な空じゃないですか」

唯「だから言ったのにさ」

空を見上げる。
厚い雲の切れ間からまっすぐ地上に向かって真っ赤な光が降り注いでいる。
何本も何本も。
あずにゃんが隣で息を呑んだ。

梓「天国の梯子でしたっけ」

唯「素敵な名前だよね」

あずにゃんのほうをそっと見た。
ほっぺに着色。
こんな真っ赤なあずにゃんは見たことないなって思った。
ほっぺたをつねったときも、わざとえっちな事を言って照れさせたときも、絵の具でべちゃべちゃにしあったときだってこんなには赤くはなかった。
すごくすごくきれいな赤。

砂場に腰を下ろした。
わたしたちはひどく疲れていた。
今日は一日中いろんなところで遊んだ。
そして最後にはあの箱からにげだした。ぽろりってこぼれおちるみたいに。
あずにゃんが砂の上に長い線を引いた。
わたしとあずにゃんを隔てる線。
曲がってる。

梓「この線からこっち側には来ないでくださいよ」

あずにゃんが言って線のぎりぎりに座った。
わたしはあずにゃんからのびたもう一本の別の線を眺めていた。
その白い糸の先には真っ赤な風船がくっついてる。
わたしのは白だった。
無理やり言って交換してもらった。
そっちのほうが天使に会えそうだったから。

唯「ねえねえ、ほんとにここに天使が舞い降りると思う?」

梓「多分ダメですよ。あの人怪しかったですし」

唯「そっかあ。本物の天使だもんね。あずにゃんみたいなにせものじゃなくて」

梓「にせものってひどいですね」

唯「じゃあ、空飛べる?」

梓「無理ですよ」

唯「触ることだってできないし」

梓「この線を越えなきゃいいですよ」

唯「あーあ」

梓「これは唯先輩のためでもあるんですから」

唯「むう」

砂の上に星座を描いた。
いつの間にか手が砂で汚れていた。

唯「これからどうしよっか?」

梓「どうもしませんよ。これで最後です」

唯「そのあとは?」

梓「めでたしめでたし。ですよ」

唯「ふうん」

わたしたちは話すことがなくなって、それっきり黙ってしまう。
隙を見ては線を越えようとするわたしの左手をあずにゃんは睨んでいた。

唯「あ、線の上はセーフだよね」

梓「まあ」

そっと線に触れた。
うねった線をゆっくとなぞった。
わたしの左手の右から数えて二番目の指は線上を何度も往復して真っ黒になった。
その間、わたしは空っぽについて考えていた。
あずにゃんとわたしの隙間、風船の中、そしてあの街もみんな空っぽだった。

唯「あーあ、あーあ、あーあ。」

梓「どうしたんですかいきなり」

唯「空っぽだから声が響くんだ」

この街ともさよならだね。
わたしも強くなったかな。


【1】

公園は天国だった。
少なくとも幼いわたしにとってはそうだった。
小さい頃の思い出はほとんど公園のものだ。
友達のはしゃぎ声、錆びた遊具、薄いカルピスみたいな色した水道水、昼の匂い、はしからはしまで走るだけで疲れてしまった。
そんな風景を明確に記憶している。
そこでわたしはよく憂や和ちゃんなんかと缶蹴りをした。
缶蹴りはわたしにとって最高の遊びだった。
3人でやるにはおおげさすぎるということを除いてはだけど。そこで、わたしは知らない子なんかにも声をかけて一緒になって遊んだ。
その場所では誰もがひとつの家族のようだった。それはわたしたちが隣の家の年上の女の子をおねえさんと呼んでいたことからもわかる。
あの頃のわたしはもし誰かがそんな天国の影で泣いてたって気がつかなかっただろうな。
今でも気づかないかもしれないけど。
だから、あずにゃんがそんな天国の影にいたって聞いたときは少し驚いた。

少なくとも、とあずにゃんは言った

梓「わたしにとって公園は天国じゃなかったです」

唯「そうなの?」

わたしたちは商店街に向かう道を歩いていた。
わたしはこの道が好きだったんだ。
思い出の公園が見えるからかな。

梓「小さい頃、母が姉の家によく行ってたんですけど」

唯「へ?あずにゃん妹さんだったの?」

梓「なわけないじゃないですか。母のですよ。それでいつも公園で遊んでてねって言われたんですよ。母の姉はこどもが嫌いでしたから」

唯「かわいそうなあずにゃん」

梓「それ自体はいい思い出なんですけどね」

唯「あれれ、なんでさ?」

梓「帰りに好きなジュースとお菓子買ってもらいましたからね」

唯「その頃からあずにゃんはげんきんだったんだねえ」

梓「今も昔もそんな覚えはないですけど。まあそれで公園でひとりだったんですよ」

唯「何してたの?」

梓「絵を書いてました砂場で」

唯「あ、それってさっき通った公園?」

梓「違いますけどなんでです?」

唯「いやさ、わたしが遊んでる横であずにゃんが寂しそうにしてるのは耐えられないからね」

じゃあ、わたしじゃない人ならいいんですか。と、別のあずにゃんの声がした。
それはわたしの小さい頭の中でいくぶんか誇張された重みを持って響いた。

いつからだろう、わたしはその手の病的な妄想にとりつかれていた。
1人の人間が生きる世界は1つではないという感覚。
妄想。
こういう気分になるのはたいていが夜のことだった。
お酒好きの人も酔うのは仕事から帰ってきてからだ。昼間から酒を飲みはじめたらまずい。
黄色信号。
アルコール中毒更生の会にでも行ったほうがいいだろう。
わたしの場合は、脳中楽園中毒と戦う会にいくべきだろうな。
そんなものがあればだけど。

商店街の前では、白い服を着た少女が募金を呼びかけていた。
わたしはその子たちが胸につけたマークをいつかのCMで知っていた。
わたしは彼女たちの1人に近づいていって、380円(自販機でジュースを買ったお釣り)を箱の中に入れた。
わたしの目の前の女の子が満面の笑みを浮かべて、ありがとーございます言ったから、わたしもつい笑顔がこぼれてしまった。

梓「唯先輩が募金なんて天地がひっくり返るんじゃないですか」

唯「ひどいっ。これもあずにゃん教の活動の一環だよ」

梓「はあ……それは素敵ですけどなんでまた」

唯「ふっふっふ。超絶理論聞きたい人ー」

梓「しーん」

唯「聞いてよっ」

わたしはあずにゃんのほっぺを軽くつねった。

梓「ふぁありましたふぁありました。何ですか?」

唯「みんなが幸せになっちゃえばいいと思うんだ」

梓「……いやそれは思うだけなら小学5年生でもできますけども」

唯「だってさあれだよみんな幸せならきっとあずにゃんが悲しんでも許されると思うんだ」

梓「なんですかそれ。わたしは悲しくなんてないですよ」

唯「だって、あずにゃんは素直じゃないから」

梓「うるさいです」

唯「ほら」

梓「じゃあ、どんなふうに悲しめばいいんですか」

唯「えー。こうやって煙草ふかしながら『世界終わればいいのにな』って」

梓「ぷっ。昨日夜、テレビで映画見ましたよね?」

唯「あったりー」

梓「まったく。唯先輩は棒つき飴のほうがぴったりですよ」

そう言うとあずにゃんはぺろちゃんキャンディーをポッケからだして、くれた。

唯「ねえ、あずにゃんはどんなことされれば幸せになる?」

梓「そうですね」

ちょっと間があった。
道を曲がった。

梓「先輩が真面目に部活して、ティータイムも返上して、抱きつくのもやめるとかですかね」

唯「えー」

梓「どうです?」

唯「でもあずにゃんが寂しいんじゃない?」

梓「そんなことはないです」

あずにゃんは否定して、歩くペースを上げた。
でも、ほっぺたをハムスターのそれみたいにふくらませてもかわいいだけだ。もし、わたしに抱きつかれたくないならハリネズミにでも生まれてくるべきだった。
後ろからとびつく。
くちゃって音がした。
たまにあずにゃんが軽く感じるんだ。ちゃんと紐をつかんでないと飛んでっちゃうんじゃないかと思うほど。
なんでだろう?

一日中遊んだあとで家に帰った。
夜になった。
わたしはあずにゃんに尋ねた。

ねえ、あずにゃんが軽いのはちっちゃいからかな。
そう思いたいだけですよ。
なんだか少し耐えられないよ。
いつもじゃないですか。
うん。
ベットに滑り込んで、灯りが消えたら天国に迷い込む。


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最終更新:2012年05月18日 20:54