【7】

その日――補習をさぼった日曜日のまだ夜の浅い時間、海に行こうとわたしが提案したら、まるでありもしない陰謀論を聞いたときのように受話器のむこうであずにゃんがため息をついて、その後がなりたてた。

梓「唯先輩が突拍子もないことを言うのはいつもですけどそれにしたって、今何時かわかってるんですか?」

唯「それって、わたしがなんか言うとざんねーん今は1秒違いますとか言うやつかな?」

梓「違いますよ。ていうかなんで海なんて行きたいと思ったんですか」

唯「なんで? なんでかあ……あ、前にあずにゃん、夜の海見に行きたいってたじゃん」

梓「そんなこともいったかもしれませんが急すぎますって」

唯「ふと、人のために何かしたくなったんだよー」

梓「おせっかいです」

唯「そんなこと言われてもなあ」

梓「とにかく行きませんからね」

唯「そんなんだからあずにゃんはすぐにうそつきになっちゃうんだ」

あずにゃんは今ごろ玄関を出て、公園に向かっているはずだ。
それから、少しの間そこで1人、まちぼうけをくらうだろう。なぜ、そうするのか?って聞かれたらこう返すしかないだろうな。
いつものことなんだ。

もちろん、わたしが待たされることだってある。ここだけの話、そのパターンは珍しいけど。
とにかくわたしたちは、お互いを待たせるというか、自ら待ちに行くというか、そんなふうにいつもしていた。
別に待つのが好きだったわけじゃないんだ。(待たされて嬉しい人がいるかな?)
でも、今ではお互いあのなんともいえない退屈さに慣れてしまっている。
その手の勘違いはよくあるけど、なんというかその時間が、かかせないもののようにわたしたちには思えてしまえるのだ。
あーあ。

そうそう、なんで急に海に行こうと思ったかってことだけど、それにはこんなわけがある。
わたしがさっき夕ごはんに焼き魚を食べていると、藪棒に頭の中でベルがびいいいいいって鳴って、天使が二人目の前に現れてこう告げた。
海に行きなさい。
嘘。

買い物のあと、家に帰ってお風呂の中で差し込んでいる西日に浸っていたら、そのまま寝てしまい嫌な夢を見た。
そのせいで、起きたあとの自分がまるでさっきまでとは別人になってしまったような感覚に陥った。(あるいは、ほんとに別の人になっちゃったのかも)
それでいろいろと考えてたんだけど、結局、せっかくの日曜日がこんなふうに終わってしまうのは耐えられないなあということになった。
おかしな話かもしれない。でも、その夢はそのくらいわたしを傷つけたんだ。

あずにゃんは缶コーヒーを飲みながら、錆びたベンチの下で足をぶらつかせていた。わたしの姿を認めるといかにも退屈なんかじゃなかったって顔を即席で作り上げた。
放られた空き缶がゴミ箱のすぐ横でワンバウンドした。わたしはそれを拾って、捨てた。

それはブラックコーヒーだった。
何もかもがうまくいかないなんてことは21世紀にはもう一般常識になってるけど、それでもすこし悲しくなった。
それは、頭の中の天国であずにゃんは甘いコーヒーが好きだったという簡単な理由から。
普段のわたしなら絶対にそんなふうには思わないだろう。おやつは別腹だって知ってる。
でも、昨日までのわたしの秘密基地は壊れてしまっていた。その感覚があまりに明瞭だったものだから、わたしはそれをありのままに受け入れないわけにはいかなかった。
最後の線は消されて、2つの世界が混ざってしまう。

唯「ごめんね、待たせちゃった」

梓「へーきです」

唯「うそだー。怖かった?」

梓「ちょっとだけ……夜は苦手ですから」

唯「でも、朝が来るからっていうのは、なし?」

梓「はい。ていうかはやくしないとおそくなっちゃいますよ」

唯「そうだね」

暗いホームで電車を待った。
わたしは空を見上げた。
しかし、大気の汚れのせいなのか単に時間の問題なのか、そこにわたしは星を認めることができなかった。
あずにゃんと触れ合った腕の部分が微震動した。震えていたのはあずにゃん? それともわたし?

唯「あずにゃん寒いの?」」

梓「別にです……」

唯「こうするとあったかいよ」

いつもどおり。

わたしは今まで、実にたくさんの触れ合うための口実を探してきた。それらをみんな、例えば大犯罪の弁明に用いていれば、1つや2つくらいの罪なら許されてしまっただろう。

唯「あずにゃんってお人形さんみたいだって思うときがあるよ」

梓「む……」

唯「なんだかほんとっぽくないんだ。もしかして幽霊とか?」

あずにゃんのほっぺたをつねった。足元には蛍光灯が2人分の影をちゃんと落としていた。

梓「わたし悪夢をよく見るんですよ」

唯「怖い夢?」

梓「はい。悪夢のなにが怖いかっていうと、夢から醒めたあともまだ夢がつづいてるんじゃないかって思うことなんです」

唯「それで?」

梓「でも、もし悪夢がつづいていたとしても結局はそこで生きるしかないんだと思いません?」

唯「そうかも」

梓「現実感なんてそんなものですよ」

残念だけど、この問答はわたしたちの聖書には記されていない。
なぜか?
答え。抱き締めあったまま喋りあうのは間抜けだから。


『9回目』

唯「いーちいい。にいいいい。さああああん。しいいいいい」

律「唯はまじめだなあ。準備運動なんかしたってしかたないだろ。ふあああああ、ねむ」

唯「ごおおおおお。ろくううううう。しちいいいい。はちいいいい。いつ敵に襲われるかわかんないんだよ。そのときにそなえなきゃ。ほらっりっちゃんもいーちいい」

律「だいたいなあれだよ。にー。唯は、ばかのくせに変なとこで気にしすぎるからダメなんだ。さんしー。なあ、澪?」

澪「え? どうかなあ。まあ、わたしはいつも準備は怠らないけどな」

唯「じゃあ澪ちゃんもほらっ。ごおおおおお。ろくううううう」

澪「なな、はち」

律「のわりには、いざとなると膝を抱えるんだよな」

澪「うるさいー。律だってはしゃぐくせにすぐにやられるじゃないか」

律「何をー」

唯「どんぐり?」

律澪「お前には言われたくないいっ」

唯「うわっ」

ぱたぱた。
向こう側からムギちゃんが走ってきたよ。

紬「号外ー号外ー」

律「新聞なんてあったっけ?」

唯「さあ?」

紬「みんな、ニュースよ」

律「号外っていうのは?」

紬「言ってみたかっただけよー。それよりね、新入りの子がくるんだって」

唯「ほんとっ? とうとうわたしも先輩かあ」

律「唯が先輩なんて大丈夫なのかー?」

唯「む……りっちゃんだってわたしと同期じゃん」

律「でも、わたしのほうがちょっと先にいたぞー」

唯「ぬぬうー。そんなちょっとだけはのーかんだよっ」

紬「ここはどんぐり村かしら?」

澪「うん」

唯「ていうかどんなふうにみんなは一緒になったの?」

律「それはだなあー。わたしが澪を救ってやったのがはじまりだったかな。敵の兵士に囲まれて、今にも大ピンチってとこにわたしがばばーんと現れてどっかーんと澪を助けたってわけ。それで澪に感謝されてどうしてもついてきたいって……」

澪「捏造するな」

律「あうちっ」

唯「じゃあホントはどうだったの?」

澪「大したことはないよ。わたしは記録係になるつもりだったのに、律が戦おうってむりやり。それだけ」

唯「なあんだ。まありっちゃんに限って、だよね」

律「なあにぃ」

唯「ムギちゃんは?」

紬「わたしは最初工務部に行く予定だったんだけど……」

唯「あーそこわたしの妹がいるよー」

澪「へえ。唯に妹なんていたんだな」

唯「そーだよ。で、工務部って何するとこなの?」

律「しらないんかいっ」

紬「いろんなものを作ったりするところよ武器とか何やら」

唯「ふむふむ。それで、ムギちゃんはなんでそこに入らなかったの?」

紬「道……間違えちゃって。たまたまりっちゃんたちに出くわしたの」

唯「そっかあじゃあみんなが出会ったのは偶然なんだあ」

律「まあ」

紬「そういうことに」

澪「なるな」

びいいいいいいい。びいいいいいいい。
警報がなった。何度聞いてもこの音は慣れない。体がぴくっと震えた。

唯「わわってきだあ」

律「よおし」

紬「あ、ちょっと……」

律「くらえええ」

りっちゃんの放った弾丸は目の前の女の子をあえて避けるかのようにずっと向こうに飛んでいった。
わたしは笑った。

梓「わわっ」

澪「あ、もしかしてこの子が新入り?」

紬「たぶん」

律「すまんっ」

澪「まったく。あやうくあたるところだったじゃないか」

唯「あはは。それはないよー」

律「おいっ」

りっちゃんが頭を下げて、澪ちゃんがその頭をはたいたんだ。
という芝居だけど。
新入りさんがぽかーんとしていたのでここは笑うところだと教えてあげた。

紬「お名前なんていうの?」

律「好きな食べ物は?」」

唯「血液型はー?」

梓「えーと……」

澪「やめてやれ困ってるだろ」

律「じゃあ、まずは名前からだな」

唯「あずにゃん、だよ」

わたしは言った。

梓「へ?」

紬「なに?」

唯「え、なんでもないー」

梓「中野梓といいます」

なんでそう思ったんだろう。
どこかで会ったようなそんな気がしたんだ。
デジャヴ。

ほんとに、なんでそう思ったんだろう?

律「他に自己紹介してみてよ?」

梓「じゃあその……コーラ・グミが好きです」

「え」

言ったあとであずにゃんは顔を赤らめた。

梓「いやその……さっき誰かが好きな食べ物聞いてきたので……場面間違えましたよね。たぶん」

律「まああれだ。誰にでも失敗はあるさ」

澪「それにしてもなんか梓はわたしたちとはちょっと違うよなあ」

紬「それそうよー。だって梓ちゃんは最新型だものー。より天使に近いのよー」

わたしはあずにゃんのきめ細やかな肌を無意識に見ちゃってた。
確かに柔くて触ったら心地よさそう。
気づかないうちににやにや笑い。

梓「あのーこの人やばい人ですかね」

あずにゃんがこっちを指さした。

律「そりゃあ」

澪「すごい」

紬「変態よ」

あーあ。

わたしはあずにゃんに触れようとした。

梓「ダメですっ」

あずにゃんは後ろに身を引いた。
わたしの手は中途半端に晒されたまま、宙に浮いていた。

律「唯はばかだなあ」

唯「なんで」

澪「ほら、わたしたちは雲くずだから触れただけで崩れちゃうんだ」

律「唯知らなかったっけ?」

唯「うん」

梓「もうそんな事しないでくださいよ?」

唯「はーい」

律「よしっ。梓、これから戦うわけだけど覚悟はできてるか?」

梓「へ? 戦うって何とですか?」

たぶん、誰でも通る道なんだろう。
あーあ。


【8】

電車のなかであずにゃんは泣きそうな顔をしていた。だいいち、わたしだってそんなにいい気分にはなれなかった。
会社帰りであろうサラリーマン(日曜日も仕事なんて!)、遊び疲れて憔悴した顔の学生、その他たくさんの人々で電車内はごったがえしていた。
電車に何度も乗っていればたいていの種類の人間に会える、とあずにゃんは言った。
それはおそらく誤った見解だろう。
そこにいるのはいつも変わらぬ同じ人々だ。
でも、あまりにたくさんの人が生きているのを見ると息が詰まるというのはわかるな。
きっと、そこを探せば自分の代用品が見つかるから。

こんな話がある。
これはわたしのつくり話なんかじゃなくて、ほんとにあった話。
おばあちゃんの家でのことだ。
夏休みがくるたびにわたしはその家に行くことになっていたのだけれど、おばあちゃんは子だくさんで、毎年多くの孫が集まった。
わたしには実に13人もの従兄弟がいたのだ。
わたしたちはさまざまな遊びを考え、実行した。
中でも一番人気は缶蹴りだった。いつもの公園でやる缶蹴りも楽しかったけど、人数が多くなるとまたひとつ別の遊びになる。
そんなわけでわたしもその缶けりが大好きだった。
その缶の役割にはおばあちゃんの家で使われていた油の容器が抜擢された。250のアルミ缶よりも太っちょで少し背の低いやつだ。

それが採用されたのはこんな理由からだ。
わたしの従兄弟にはひとり性格の曲がった男の子(わたしより1歳年下だった)で、いつも遊びには混ざらずにわたしたちのほうを見てにやにやしているような子がいた。
わたしはどんくさいからかよくその男の子によくからかわれた。

それについてあずにゃんは、唯先輩のことが好きだったんじゃないですかと刺のある声で言及したことがある。
りっちゃんいわく、唯はほんとのことが言えないやつばっかに好かれるんだな。
うそを信じやすいものにうそつきが寄ってきただけだと、わたしは思う。


閑話休題。
その男の子のいたずらの中に、缶けりをしているときの缶の中に砂なんかをこっそり詰めておき、思いきり蹴った者の足を痛めつけるというのがあった。
そこで、いろいろな紆余曲折を経た結果、片側がぽっかり穴になっている油の缶が採用されることになった。
底を上に向ければ中に砂がたまることはない。
それはうまくいった。
もう缶をけるたびにつま先をおさえなくてもよくなったのだ。
だが、ある年からこの油の缶が使えなくなった。
おばあちゃん家じゅうの油があの『万能オイル』にすり替わってしまったのだ。当時、『万能オイル』には他の多くの製品と変わらぬようにプラスチックケースが用いられていた。
わたしは足を何度か痛め、アルミ缶は踏んだ瞬間ぐにゃりと潰れた。
あの缶の油は唯一何者にも代えがたい素晴らしい油だったと、わたしたちは口々に言い合った。

でも、驚かないでね――来年には缶バージョンの『万能オイル』が発売されたんだ。
あーあ。


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最終更新:2012年05月18日 21:03