【10】
海があった。暗い海だ。
わたしたちは並んで水平線を眺めていた。実際のところ、夜の暗闇の中ではその境目はひどくあいまいなものにすぎなかったのだけれど。
そこでわたしは2つの不思議な物体を見つけた。
赤と白。
どこかで知ったような色の組み合わせだ。
どこでだろう?
これはなにかな、とわたしはあずにゃんに尋ねた。
梓「そうですね、藻みたいなものじゃないですか?」
唯「……あ、ふわふわだ」
梓「変に触らないほうがいいですよ。なんなのかわからないんですし」
唯「大丈夫みたいだよー。なんだろ、雲みたいだね」
梓「きっと、ティッシュペーパーですよ」
唯「あずにゃんは夢がないよ……あ、他にもなにかある」
梓「今度は何ですか?」
唯「ほら、ぷにぷにだ」
梓「だから、また勝手にさわる」
唯「赤の半透明できれいだよー」
梓「ただのガラスじゃないんですか?」
唯「違うよー丸くて、柔らかいんだから」
それをあずにゃんの前でかざした。
あずにゃんはそれをじっと見ていたがやがて言った。
梓「星のかけらですよ。そういうやらかい惑星があってそれが寿命で崩壊して地球に降ってきたんですよ」
唯「へえー」
梓「夢があったでしょう」
唯「あずにゃんはやればできる子だよ」
梓「どうも」
それから、しばらくわたしたちは海を相手におはなしをした。
わたしがさっきの惑星について質問して、あずにゃんが答え、海がそれを聞くという形式で。
あずにゃんはわたしの問に対し、必死に考えてひねった返しをしようとした。ときにはちょっとしたその星についての逸話を聞かせてくれたりした。
あずにゃんの一生懸命な姿がかわいくてわたしはついつい難しい問いかけをした。
もし、誰かを好きにならなければいけない状況に追いやられたらその人に難問をぶつけてみるといい。誰かが必死に何か(それはできる限りバカげたことのほうがいい)を考える様子ほど愛おしいものはないとわたしは思う。
そのうちにあずにゃんは寝てしまって、わたしは1人で海と対峙しなければならなくなった。
あずにゃんはお人形さんみたいにくたりとわたしの膝に頭を預けていた。
夜に勝手に連れだしてきたのだ。眠くなるのも仕方ないだろう。
わたしは恐ろしいうねりをあげる海をただ見つめていた。
なんだか吸い込まれてしまいそうだと思った。
それが起きたのは、わたしがあくびをしてそろそろ帰ろうかと考えたちょうどそのときだった。
わたしがあずにゃんを起こそうとする直前。
海がまるであずにゃんには秘密だよとでも言いたげに。
それは映画だった。
海面いっぱいをスクリーンにして、月の光が映し出した。
そこに映ったものがなんなのかわたしにはうまくわからなかった。途中から映画を見たような気分になった。にもかかわらずわたしがそのとき感じていたのは不思議な懐かしさとでもいえそうな感覚だった。
わたしはそこに自分の姿を見た気がした。
りっちゃんの姿も。澪ちゃんも、ムギちゃんも、憂も、和ちゃんも、さわちゃんも。純ちゃんも。
でもーーなんでだろうーーあずにゃんの姿は一度も、どこにも見ることができなかったのだ。
あずにゃんが起きて映像が消えてもまだわたしは海を凝視し続けていた。
梓「どうしたんですか?」
唯「わたしあずにゃんを忘れたことは一度だってないんだ」
梓「唯先輩も寝ぼけてるんですか……ふあああああああ」
帰りは最終電車だったためか人はほとんどいなかった。
あずにゃんはまた隣で寝てしまいわたしの肩をその頭で重くした。
心地良い重さだった。
髪の毛が首にかかってくすぐったいのはご愛嬌だろう。
その間もわたしの脳裏ではさっきまでの映像がフラッシュバックしていた。ぱちんぱちんと切り替わっていく光景は紙芝居みたいだった。
ある着想が頭の隅に浮かんだ。わたしは、それがこぼれ落ちてしまわないように気を使いながら、かといってどうすることもできずにそれをぶら下げていた。
あそこで見た映像は無数の物語だった。
真実味にかけた乱雑に散らばった物語たち。
それはいつかわたしが考えたものだっただろうか?
残念ながら、それを知るにはあまりに彼らの輪郭はぼやけすぎていた。
遠い間、おきざりにされていたため風化してしまっていた。
キリスト教で聖人に認定されるには3つの奇跡に立ち会わなければならないとどこかで聞いたことがある。
ある意味ではあの映像は1つの奇跡だったといえるかもしれない。
だけど、わたしがあの映像から感じたのはそんな超然的なものではなく、むしろなんだかあたりまえの、喩えるならお芝居でもう誰もがあきてしまったあの決まりきったやり取り――悲劇のヒロインは死んで、主役の登場には長い口上があって、澪ちゃんはりっちゃんをたたくふりをする――のようだった。
長い時間がたったあとその頭の中の不明瞭な着想はようやく1つの形をなした。
わたしとあずにゃんで家に向かって歩みを進めているときのことだった。
それは結局、ちゃちなジョークだけで構成されたわたしのおはなしの一部としてまとまった。
それは奇跡ではなく、偉大なジョーク集、あずにゃん教の聖書の1エピソードとなったのだ。
あーあ。
『4000回目』
この雲の上でわたしたちは幸せだったんだ。
ほんとに。
それは今までのお話からもわかってもらえると思うな。
だけど、触れたら崩れちゃった。それだけ。
結局のところ、何かのせいってわけじゃないんだよ。
つまりね、4000回失敗してちょっと新しい方法を試してみようとしただけなんだ。
少なくとも、今のわたしにもこれだけは言えると思う。
天国には死んだあとでいくべきなんだ。
澪「ほ、ほんとに行くんだな?」
唯「うん」
澪「こ、怖くないのか?」
律「なんで、澪がそんなびびってるんだよー」
澪「だって、だってさ、よくわかんないけど、すごいだろ? 誰もやったことないんだぞ。それってすごいよ」
唯「そんなことないよー。いつもと一緒だよ」
澪「ううん。唯と梓はわたしの誇りだよ。もう会えなくなっても忘れないでくれよ」
梓「澪先輩はおおげさですね。また会えますよ」
澪「だって……嬉しいんだ。わたしずっと怖かったんだよ。ときどき、自分がこのまますり切れちゃうような感じがして眠れない日だってあったんだ。でも2人が、がんばるところみてたらわたしにも何か、何かあるんじゃないかって」
律「澪はこどもだなあ」
澪「そんなことないっ」
紬「うまくいくかしら?」
唯「大丈夫だよ。だってわたしがにせものならにせものになればいいんだよ。にせものの反対は本物だからね」
律「人間になるのが梓なんだよな?」
梓「はい」
紬「それで唯ちゃんが人形になるのよね」
唯「うん。逆だときっとダメなんだ。だって、わたしがばかだから残されたらなにもできなくなるよ」
律「でも、それだと梓はやっぱりにせもののままじゃないか?」
唯「それは大丈夫だと思うな。ほらっ雲くずのわたしたちでさえ、ものには触れても平気だから」
梓「ものって言い方は悲しいからやめましょうよ」
唯「しかたないよ。人形はやっぱりものでしかないんだ」
澪「怖くない? 人間は一回死んだらそれでおしまいなんだよ」
唯「どう、あずにゃん?」
梓「すこしだけ」
律「だいじょーぶ。変わんないって。今だって死んだらおしまいだよ。そうじゃないってきがしてるだけで」
梓「……そうですよね。だいじょうぶです!」
紬「わたしたちにはこうやって応援することしかできないけど……がんばって」
唯「それだけでじゅうぶんだよー。あ……そうだ。1つだけおねがいしたいんだ。いいかな?
紬「もちろん」
唯「わたしとあずにゃんがちゃんと出会えるようにうまく取り計らって欲しいんだ。ここまでして会えなかったんじゃ悲しいからさ」
紬「うんっ。まかせて」
唯「ありがと……じゃあ、そろそろいこうかな」
律「達者でな」
澪「がんばれっ」
紬「お幸せに」
わたしとあずにゃんは雲の端っこに立った。
眼下に長くて黒い空が広がっていた。
唯「きっと触れるよ、ね?」
梓「……はい」
地面に向けてわたしたちは飛び立つ。
【11】
家の中は静まり返っていた。
もうみんな寝てしまったのだ。そんな時間。
昔、『深夜はおれたちの時間だ』というキャッチコピーがあったのを思い出す。たしかなんかえっちなやつだった気がするな。
わたしふうに言えばこう。
深夜は妄想の時間。
昨日までは。
いろんな可能性を考慮してあずにゃんはわたしの家に泊まっていくことになった。
これは予定調和。
深夜はわたしたちの時間だ。
なーんて。
そんなことをほんとにあずにゃんの前で言ったらほっぺたをつねられた。
ずいぶん長い間。
着色。
ふと、考えた。
ほっぺたが赤くなったのはもちろんつねられたからだ。
しかし、本当にそれだけだろうか?
例のあの炎症のせいなのかもしれない。
それから、寝る場所のことについて、多少の議論があった。結果、わたしの部屋のベットに二人で寝ることになった。
わたしのほっぺたが赤いままなのにあずにゃんは気が付かなかった。
灯りを消したから。
あずにゃんは震えていた。
お互い薄いTシャツを着てたから肌が触れ合って、それがよくわかった。
唯「こわいの?」
梓「だいじょうぶです」
唯「泣いたりしてもいいんだよ? わたしはもう寝てるから」
梓「喋ってるじゃないですか」
唯「これは寝言だよ」
おかしいですって。
あずにゃんは無理に笑おうとした。
うまくはいかない。
梓「唯先輩はわたしが触っても炎症をおこさないんですよね。人と触れ合うのダメなのに」
唯「きっと、あずにゃんは特別製なんだよ」
梓「ときどき、こんなふうに考えるんです。自分は作り物でしかも失敗作じゃないかって」
唯「特別製ってのは冗談だよ?」
梓「わかってますって。でも……」
唯「ねえ、あずにゃんは夜になるとこわいって言ったよね?」
梓「はい」
唯「わたしだってそうなんだ。夜が怖くない人なんていないよ」
梓「そうでしょうか?」
唯「そうだよ。それに耐えられないから病気になるんだ」
風邪菌は誰の中にだって常に侵入してくる。
負ければ風邪をひく。それだけ。
梓「唯先輩はどうやって戦ったんですか?」
唯「作戦があったんだ。昨日までだけどね」
梓「昨日まで?」
唯「なくなちゃったんだ。だから、今は無防備できっといつもの明るいわたしのようにきれいでいれないけど。いいかな?」
梓「いつもだってそんなすごくないくせに」
唯「えへへ、そうかも」
梓「そうですよ」
唯「わたしが戦うのにどんな武器を使ったわかる?」
梓「そんなのわかんないですって」
唯「あずにゃんだよ」
梓「わたしですか?」
唯「うん。いつも頭の中であずにゃんがわたしを励ましてくれたんだ」
梓「それって?」
唯「妄想って言うんだって。嫌になった? もうやめる?」
梓「……へーきです」
唯「そこではおんなじ遊びを繰り返してたんだ。他にどんなことをすればいいか思いつかなかったから」
梓「なんで昨日までなんです?」
唯「壊れちゃったんだよ」
わたしは言った。
これは嘘だった。
失ったのは線だけだ。
唯「あずにゃんがよわいふりするから」
梓「む……」
唯「あずにゃんを見てたら泣きそうでさわらずにはいられなかったんだ。それがさ、わたしの作ったにせものだってわかっててもだよ?」
わたしはあずにゃんのほっぺたにふれた。
そんなのただのおせっかいですとこのあずにゃんは言った。
唯「そのままなら、頭の中のあずにゃんもわたしも幸せだったのに」
あずにゃんのほっぺたをつねった。
唯「さっきあずにゃんは自分が作り物だって言ったよね?」
梓「はい」
唯「きっとわたしたちお似合いだよ。ぬいぐるみとままごとを忘れられない女の子だったら」
梓「……うん」
暗かったからあずにゃんがどんな表情をしたのかわたしにはわからなかった。
ねえ。
わたしは言った。
唯「ねえ、わたしの頭の中の天国のものがたりはどんな形でもあずにゃんを笑わすことができたんだ。それが、ここでもできるっていうのは間違ってるかな?」
梓「じゃあやってみてください」
唯「がんばったんだ……ずっと考えてたんだよ。あずにゃんのためのものがたりを。聞いてくれる?」
梓「はい」
唯「あのね……えーと……えへへ……」
梓「どうしたんですか?」
唯「やっぱ、なんか、恥ずかしいなあって」
梓「……む」
唯「だって、ほんとに、うまく話せなかったら嫌だからさ……あ、ちょっとまってて」
わたしは部屋を出てキッチンに行って工作をする。
何度か深呼吸をした。
手が震えてなかなかそれは完成しなかった。
やっと、部屋に戻るとあずにゃんは窓から夜空を眺めていた。
ほら。
糸電話。
やっぱり電話は最高の発明だよ。
床に布団を敷いてわたしはそこに座る。あずにゃんは少し高くなったベットに横になっている。
その間を白い線が走っていた。
梓「これいみあるんですか?」
唯「あずにゃん相手に話すのは恥ずかしいけど、紙コップ相手なら恥ずかしくないよっ」
梓「唯先輩がいいならそれでいいですけど」
唯「じゃあいくよ。寝ちゃわないでね」
糸が揺れた。
わたしは話しはじめる。
――あのさ、雲の上にいたんだよ。
最終更新:2012年05月18日 21:05