■
「律先輩、どうかしたんでしょうか」
梓はトイレの方を見据えた。
私はなんとなく理由を掴めてはいたけど、何も言わなかった。
律……。
「あいつは……昨日アイスたくさん食べてたから」
嘘だ。
梓はそれに気をかけず、笑って言った。
「どこかでお茶にしませんか」
無邪気な笑顔に、私はなんとなく嫌な気持ちだった。
律がトイレなのにここで提案するか?
「してもいいけど、律が」
「律先輩、調子悪そうですからね……二人で行きませんか」
なんだよそれ。律を除け者にしようってことなんだろうか。
「いや律が調子悪いのなら私がついてなきゃ、心配だ」
「澪先輩がついてなきゃ駄目だなんて、そこまで律先輩は子供じゃないでしょう」
「そ、そうだけど……」
梓の言葉の妙な説得力に気圧される。
でも本当に大丈夫なんだろうか。
律は大人に見える。確かにそうだ。
部長としていつも皆を引っ張っていたし、冗談を言ったり皆を笑わせていたけれど、それは律がそういうおちゃらけた性格だからではなくて。
皆に笑っていてほしい、そして自分も笑いたいという思いからの行動だった。
だから律はとても大人だ。
あんなに人を笑わせることができても、時には誰かのサポートや、穏やかに人に突っ込んだり、冷静に物事を対処することだってできる。
多分五人の中じゃ一番大人だと思う。
でもだからっていつも大人じゃないんだ。
律は大人に見えて、とっても繊細な子。
心は壊れやすくて、すぐに色んな事を一人で抱え込んでしまう。
昔律と喧嘩した時も、全部悪いのは自分だと律は言い張ってしまう。
私に非があったとしても、律は全部請け負ってしまう。
だから傷つきやすい。
そして今も、いつもずっと傷ついている。
梓にはわからなくても、私ならわかってる。
「……やっぱり、行けない」
「澪先輩……?」
梓が心配そうに顔を覗き込んでくる。私はその時どんな顔をしていたのだろう。
私は場を取り繕うために、提案した。
「そ、そうだ……来月、唯たちが帰ってくるんだ」
「唯先輩たちが?」
「うん。だからさ、お茶はその時にしないか? 二人だけってのも、あれだし」
言葉にぎこちなさがあるのに気付いて、梓が嫌な思いをするかもしれない。
だけど、今はまだ一緒にお茶は飲めないだろう。
いつまでも律の事を考えて、律が心配なままじゃ、楽しく飲めない。
もしかしたら唯たちが帰ってきても、私と律は誰にも会おうとしないかもしれない。
律はそんなの、まだ望まないだろうから。
「……そうですね。そうしましょう」
「悪いな」
「いいんです。皆で集まるの、楽しみですね……」
梓はそう言って、私から目を逸らした。
その瞳に憂いの色を含んでいるのに、私はどうしようもない切なさを覚えた。
梓と別れてトイレに行くと、律は手洗い場に手を付いて項垂れていた。
「り、律!」
私は急いで駆け寄って、肩に触れた。
律はひどい汗をかいていて、顔はびしょ濡れだ。
「澪……」
振り向いた律の目に、水滴が溜まっていた。
ああ。
泣いていたのか――。
「り――」
名前を呼ぼうとした瞬間、抱きつかれた。
胸に顔を押しあてられる。
ドキッとしたけど、律は悲痛に呻いた。
「っ……澪……ごめん……ごめん」
ごめん。
ごめん。
私の胸を涙で濡らす律。
こだまする謝る声。
私は律の頭を撫でた。
「……謝るなって。もういいって、言っただろ」
「言ったけど……ごめん……ごめんな」
律は謝り続けた。
私は律を抱きしめ返して、私より少し小さな体を愛しく包む。
律の温もりが伝わってくる。
「帰ろう」
「うん……」
私たちは手を繋いで帰った。
律はいつまでも暗い顔をしていたけれど、ぎゅっと握り返してくれる手だけが、律の心を映してくれてるんじゃないかなって、なんとなく思えた。
■
「澪、お茶あるか?」
「あー、うん。聡は何を飲むんだ?」
「あいつ大会近いから、まだ帰ってこないぞ」
そっか、と澪が笑った。これじゃまるでお母さんだ。
高校を卒業してから、澪は私の家に住んでいる。
昔から私の家によく泊まる奴だったけど、卒業してからはそのお泊まり会が毎日続くかのように、私の家で寝泊まりを始めた。
澪の両親は特に何とも思っていないらしく、澪が家に帰るのは日曜日の夕方だけだ。
もう同棲ということでいいんじゃないの、と家族はからかうけど、正直まんざらでもない。
澪と一緒に晩御飯を作ったり、お風呂に入ったりするのはとても幸せだ。
まるで本当の家族のように一緒に生活するできるなんて、私にはちょっともったいないと思ってる。
もちろん生活することだけじゃなく、一緒にいることや勉強することだって私にはもったいないと常々思うけど。
「ああ、総体があるのか」
澪は冷蔵庫からお茶を出して、テーブルまで運んだ。私は澪と作った二人分の夕食を皿に盛り付けている。
私一人でつくってもよかったのだけど、澪も手伝うと言って二人で色々とつくることも増えた。
澪は料理はすごく得意というわけではないけど、私を見習ってせっせと動く姿はとても微笑ましい。
だけどそれを表情には出せなかった。
「だから今日は帰りも遅いと思う」
「そっか、大変だなあいつも」
澪は二つ置いてあるコップそれぞれにお茶を注いで、箸を並べた。
私はお茶がコップに注がれる瑞々しい音を聞きながら、皿を両手に持ってテーブルまで運ぶ。
「手伝うよ」と澪も小皿だったりをテーブルに並べてくれた。
エプロンを解いて適当な場所に投げる。澪と向かい合って座る。
「……いただきます」
「いただきます」
「さっきはいきなり泣きついたりして、ごめんな澪」
食事も終わりにさしかかった時、私は切り出した。
「なんだよ改まって」
澪は笑顔でそう言ってくれる。
「……私、梓が怖かったんだ。やっぱり嫌われてるんじゃないかって。そ、そりゃあんなに一緒にいた仲間を疑うのは、悪いことだって……思うんだけど」
でも一緒にいた仲間だから、怖い。
澪はそんな私をなんて言うんだろう。
また優しい言葉で慰めてくれるんだろうな。
「……私が律でも同じことを思うよ。仲間だからこそ、思っちゃうってこと、あると思う」
澪はなんでこんなに優しいんだろう。
どうして、こんなにも胸にしみる言葉をかけてくれるんだろう。
救われる、なんて大層なもんじゃないかもしれないけど。
でも確かに澪の言葉は、私に癒しをくれている。
「それよりも嬉しいよ。そうやって悩んだり苦しんだりしてる事を、私に話してくれることが」
「澪……」
ちょっとだけ和らぐ胸の痛み。
自分でたくさん痛みを作ってたくせに、こういう時だけ澪に甘えたがる。
私は私を責め続ける。
それって、ただ澪に慰めてもらいたいだけなんじゃないのか?
もう一人の自分の問いかけを振り払うために、声を出す。
「梓……何か言ってたか?」
私は梓が怖かった。だけどそれは私の被害妄想であってほしい。
澪は少し戸惑った顔で、答える。
「……お茶に誘われたよ。私と二人で行かないかって」
澪がどうしてそんな顔をするのかはすぐにわかった。
二人って、そういう意味なんだろうか。
わかりたくもない理由があるような気がして、私は何も言わなかった。
澪は取り繕うように、続ける。
「律が調子が悪いんなら、せめて私だけでもって意味だったんだろうけど……」
調子が悪い、というのは、澪が説明してくれたんだろうか。
だけど梓は私を連れて行こうとは言わなかったってこと。
もしかして本当に気遣ってくれたのかもしれないけれど、でも。
不安になる。
梓は私を除け者にしようとしたんじゃないかって。
やっぱり私、嫌われたのかなって。
「……梓は、『律先輩は大人だから、澪先輩がいなくても大丈夫』だなんて言ってた」
そうだったかもしれない。
梓にとっては私、皆を引っ張る先輩であったかもしれないけど。
でも今は、澪がいなきゃ。
梓にとっての先輩である『律先輩』は、もういない。
卒業以来一度も会ってないから、梓はまだあの時の私を覚えていてくれているんだろう。
「――おい、律」
目線を上げると、澪が鋭い眼差しでこちらを見ていた。
「……梓は、お前の事、大人だからなんて言ってるけど……本当は律がすごく繊細なやつだって、私は知ってる。
私がいなくても大丈夫なんて言ってたけど、そんな律にはなってほしくない」
澪は強い口調なのに、ちょっとだけ顔は赤かった。
私は驚いて喉が震えるけど、その振動はただ驚いただけのものじゃなかったと思う。
「……もっと私を頼っていいんだぞ、律」
私の名前が澪の口から零れるだけで、嬉しい。
頼っていい。
頼ることは、澪にとっていい事なんだろうか。
そうしてもいいって言ってくれる。
嬉しい。
だけどそうすることは、私にとって喜ばしい事じゃない。
澪に迷惑はかけたくない。
迷惑をかけてもいい――頼ってもいい、分かち合ってもいい。
澪はそう言う。
だけど私はそうしたくないんだ。
認められてるのに、私が認めようとしないの、間違ってるのかな。
「うん……ごめん、澪」
「だから謝るなよ」
このやりとり、何回やるんだろう。
まだ当分は、澪に謝る日々が続きそうだった。
■
田井中律ちゃん、通称りっちゃん。
元気いっぱいで大雑把な女の子。だけどいざという時は頼りになる部長でした。
だけど大学受験に一人だけ不合格して、そんな性格はまるでなかったかのように別人みたいになってしまいました。
澪ちゃんの励ましもあってか、澪ちゃんと一緒に予備校に通うことにして、来年あずにゃんと一緒に私とムギちゃんの通う大学を受けるみたい。
りっちゃんは、私たち軽音部がりっちゃんの事を嫌いになったんじゃないかと悩んでいる。
四人で同じ大学に行こうって決めた目標に本気じゃなかったんじゃないか? と言われるのが怖くてたまらない。
そして一人で色々と責任を取ろうと自分を責めている。
そして、仲間が自分を嫌うわけないのに、嫌ってるかもと思ってしまう自分を酷く嫌悪している。
そしてりっちゃんを追って澪ちゃんが大学を辞めたこと。
りっちゃんは、自分の所為で澪ちゃんに迷惑をかけたと思って、さらに自分を責めているようだった。
秋山澪ちゃん、通称澪ちゃん。
恥ずかしがり屋でクールで、繊細だけどかっこいい女の子。りっちゃんの幼馴染。
一人だけ大学に不合格になってしまったりっちゃんを追いかけて、澪ちゃんも大学を辞めました。
その時の澪ちゃんはとっても綺麗で迷いのない目をしていて、本当にりっちゃんと一緒にいたいんだなあってわかった。
それから一人でりっちゃんを励まし、今は二人で予備校に通っている。
澪ちゃんは、自分が大学を辞めた事で、りっちゃんに余計な負担を加えてしまったんじゃないかと悩んでいる。
りっちゃんと一緒にいたい、という気持ちはあるけれど、自分が一緒にいることでりっちゃんをさらに苦しませているんじゃないかと不安になってもいる。
そして、りっちゃんが昔のように笑顔で笑ってくれなかったり、自分に悪戯してくれない事に寂しさを覚えている。
琴吹紬ちゃん、通称ムギちゃん。
おっとりぽわぽわしてて、いつも優しい女の子。お茶を入れるのが上手です。
実はりっちゃんのことが好きで、一緒に遊んだり恋人同士になりたいと考えているけれど、澪ちゃんという存在に阻まれている。
そして澪ちゃんに決して敵わない事を受け入れつつも悩んでいる。
私と一緒に大学に通っているけれど、いつもふと目線が遠くなる。
そんな時、いつもりっちゃんの事を考えているんだろうなって思う。
そして澪ちゃんと今、一緒に勉強したり歩いているということに嫉妬を覚えずには居られない。
りっちゃんに会いたいと思っている。
中野梓ちゃん、通称あずにゃん。
私たち四人の一つ下の後輩で、少し真面目だけどとっても可愛い女の子。ギターが上手。
私たちとの時間をとても大事にしてくれて、あずにゃんも私たちと同じ大学を必ず受けると約束してくれた。
りっちゃんに対しては、先輩としては尊敬しているようだし、来年同じ学年として受験することはなんとも思っていないみたい。
だけど実は澪ちゃんのことが好きで、いつも澪ちゃんと何かコミュニケーションを取ろうとしていた。
あずにゃんが入部した時は、澪ちゃんも比較的真面目だったから、きっとそういうところに惹かれたんだと思う。
あの二人は外見も似てて、姉妹みたいだねってからかわれていたから、そういう部分も理由に当たるかもしれない。
だから澪ちゃんの心を一人占めしているりっちゃんが、なんとなく疎ましい。大好きな先輩ではあるけれど、恋敵としてあまり好きではなく、嫉妬に悩んでいる。
そして私、
平沢唯。
大学に一人不合格だったりっちゃん。
りっちゃんを追って大学を辞めた澪ちゃん。
そして一人部長として軽音部を引っ張っているあずにゃんの三人とは別れ、女子大の近くの下宿に一人暮らしをしています。
大学生活はそれなりに楽しいけれど、やっぱり、りっちゃんや澪ちゃん、あずにゃんが気になって時には心配になったりもする。
一緒に大学に入ったムギちゃんとは、いつも一緒にいる。
だけどムギちゃんも、純粋に大学生活を楽しめている、とは自信を持って言えない感じだった。
だからってそれを他の誰かの所為にしようとは思わないけど、四人で大学に入れたら、もっと楽しかったかなあと思っちゃう。
今が楽しくないわけじゃないよ。
ムギちゃんと一緒にいることや、新しい友達といたり、新しい生活で新しい何かを発見できたりするのはとても楽しい。
だけどもし四人だったら。五人だったら。
私一人でギー太をつつくだけに留まらないで、音楽のサークルか何かに皆で入って。
皆でわいわいしながら演奏したりお話できたんだろうなあと思うと、やっぱり今の生活は少しだけ物足りない。
やっぱりあの放課後が、楽し過ぎたんだと思う。
……こんなこと思うから、りっちゃんは悲しいんだ。
一年先までその楽しみはお預けなだけなんだって思えば、早いものだけど。
一年もこうやって、一人でギー太を弾くだけなのかなあ。
ムギちゃんと二人っきりで、ずっとセッションしてるだけになっちゃうのかな。
来月向こうに帰ったら、五人で演奏したいな。
りっちゃんは多分私たちに会いたいとは思ってないと思うけど……でも私もムギちゃんも、りっちゃんに会いたいと思ってる。
あずにゃんは、ちょっと複雑だけど。でもあずにゃんはバンドメンバーとしてはりっちゃんのことが好きなんだ。
来月、どうにか会えないかなあ。
最終更新:2012年05月31日 22:58