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私と唯ちゃんが、実家に帰れるのは八月――つまりお盆の前の週辺りだ。
大学も夏休み入っているし、サークルにも入っていないから比較的時間に余裕はある。
大学に入って新しくできた友達は、バイトだったりとか運動部の大会なんかでなかなか家に帰る余裕はないそうだ。
そうではない私たちは、やっぱり何処か『軽音部』の延長のまま過ごしているのかもしれない。
今日は、唯ちゃんの小さな下宿で一緒に楽器を弾くことにした。
六畳半という下宿にありがちの一般的な部屋だけど、唯ちゃんはそれで十分らしい。
家具はきちんとそろっていて、昔訪れた唯ちゃんの自宅の部屋とどこかしら似た雰囲気を兼ね備えた部屋だった。
質素ながら味のあるテーブルが一つ中央にあって、クローゼットの周りには『がびょう』『貝柱』という謎の印字Tシャツが幾つも投げ捨ててある。
唯ちゃんの趣味も相変わらずだと思った。
時刻は夕方。窓からは少しオレンジ色の光が差し込んでいる。
唯ちゃんは正方形でとても小さなミニアンプをギターと繋げたりしている。
ケーブルとヘッドフォンが絡まったりして、解こうと一生懸命な姿は微笑ましい。
私はというとキーボードを机に置いて、電源を入れたりコンセントに繋げたりしていた。
ちなみに放課後ティータイムで使っていたあのキーボードは、実家に置いたままで、今使っているのは、あの時の物よりも少し小さなもの。
あのキーボードは大切に取っておきたいし、皆との思い出が詰まっているから、五人の時だけ使おうと決めていた。
だから来年まで使わないだろうとこっちに持ってこなかった。
唯ちゃんはというと、ギー太と呼ばれるギターしか持っていないので、それをそのまま持ってきたみたいだった。
アンプは部活で使っていた大きな物ではない。
それゆえに音もあまりいいとは言い切れないけれど、彼女は『五人じゃないから、音が悪くてもいいや』と言っていた。
五人で演奏することにこだわっているのは私と同じようだ。
「準備、できた?」
唯ちゃんがストラップを肩にかけるのを見て、私は声をかけた。
「あ、うん。ちょっと音量の調節はまだだけど、大丈夫だよね」
そうやって笑う。唯ちゃんの笑顔は、どことなく人を元気にしてくれる。
それはりっちゃんも同じだった。
……今は、唯ちゃんとの演奏に集中しよう。りっちゃんの事を考えてたら、やることもやれない。
やりたいと思ってたこともやりたくなくなる。
「じゃあAにしようよ」
「Aでいいの?」
「うん」
A、というのは、私と唯ちゃんがこっちに来て作った幾つかの曲のうちの一つだ。
五人で演奏する機会はないけど、私は新規に曲を作り続けていて、暇な時にメロディを紡いだりしている。
そうやってできた曲は四曲ほどあって、完成した順にABCDと呼んでいた。
澪ちゃんがいないから歌詞もないので、今の時点では全てただのインスト曲。
ドラムパターンやベースラインも考えてあって、五人でまたアレンジしたりするのを楽しみにしている。
だけど、その日が来るのか不安でもあった。
「じゃあ行くよ」
唯ちゃんが言って、首をリズムよく振った。
一、二、三。
私はリズムよく鍵盤を叩いた。唯ちゃんの、ジャーンという擬音のよく似合う音が、適度な音量と強度で奏でられていく。
それから、頭の中に流れていく楽譜を追った。ドラムもベースもない薄っぺらな音色は、六畳半によく響いた。
――。
楽しいけど。
楽しくない。
いつも私の横の位置で、楽しそうにドラムを叩くりっちゃんがいないのに違和感がある。
梓ちゃんのサイドギターも、澪ちゃんのベースもないのも……。
頭の中に思い浮かべた五人での演奏は、それで完全なもの。
そうでなくちゃいけなくて、それ以外であるとしっくりこない。
五人でなきゃ、やっぱり駄目なんだなって思う。
演奏は終わって唯ちゃんがジュースをコップに注いでくれた。
私は正座で座っていて、もうキーボードはケースにしまっていた。
少しして、唯ちゃんは訝しげな顔で尋ねてきた。
「ムギちゃん……あんまり楽しくなさそうだね」
そう思わないようにしていたのに、唯ちゃんはあっさり見抜いてしまった。
唯ちゃん、気を悪くしたかな。
「ううん、違うの……」
「嘘は言わなくていいよ。私も……そんなに楽しくないもん」
それは『私と一緒に演奏することが楽しくない』と言っているわけじゃない。
わかっていた。唯ちゃんも同じだった。
「五人でやりたいよね」
唯ちゃんは寂しそうに、すっかり日も落ちた窓の外へ目を向けた。
今、りっちゃんと澪ちゃんは何をしているんだろう。
あんまり連絡を取らないから、わからない。
もしかしたら予備校で二人で勉強をしているかもしれない。
晩御飯を一緒に作って、一緒に食べているかもしれない。一緒にのんびり座ってお話をしているかもしれない。
りっちゃんと澪ちゃんが一緒に。
一緒に。
二人にとって一番それがいいのに、私はそれを邪魔したいと思ってしまう。
りっちゃんが欲しい。
だけど澪ちゃんから奪えないんだ。わかってるんだ。
どうしようもないってことわかってるのに。
りっちゃんと澪ちゃんは、何年も一緒にいるんだ。
まだ出会って三年の私を、りっちゃんが好きになってくれるわけがない。
りっちゃんと澪ちゃんが一緒にいるのは、一緒にいる然るべき理由が何十何百もあるから。
理由なんてなくても、お互いの心がそうしているから。
だから私は、澪ちゃんには勝てない。
私は、膝の上の拳を握りしめた。
「ムギちゃんは……まだりっちゃんの事、好きなんでしょ?」
はっとして唯ちゃんを見ると、私の方を見ずにギターの手入れをしていた。
ばれていたんだ。
唯ちゃんって、やっぱり凄い子だ。
「うん……そうよ」
「会いたい?」
「……うん」
「じゃあ会おうよ。それで、気持ちを伝えたらいいんじゃないかな」
唯ちゃんの声は、いつもみたいに明るく元気なトーンではなく、冷静で、まるで言い聞かせるような優しさを含んでいた。
そうしたら? と言われて、できるものならやっているのに。
りっちゃんが好き。それを伝えて、りっちゃんはどう思うだろう。
もしそれで迷惑がかかったら。りっちゃんが嫌な思いになったらと思うと怖くて。
もしかしたら五人で集まることができなくなるぐらい、気まずくなっちゃうかもしれないのに。
気持ちを伝えたら、苦しいの終わるのかな。
「……りっちゃん、会ってくれるかな」
「りっちゃんは、怖いんだよ。皆に嫌われたんじゃないかって思ってる」
それをわかってる。
そんなこと絶対にないのに。
信じてくれてないのかな。
「『仲間が自分を嫌うわけないのに、嫌ってるかもと思ってしまう自分』も嫌いだとも思ってるはずだよ」
まるでりっちゃんの心を読んでいるように、りっちゃんの心情を読み上げる唯ちゃん。
りっちゃんだけじゃなくて、唯ちゃんは昔から、人のことをよく見抜ける人だった。
だからりっちゃんが好きなことも、ばれてたんだろう。
だとしたら。
唯ちゃんの言っていることが本当だとしたら、りっちゃんは相当辛いだろう。
「だから、私たちは嫌ってないって言ってあげなきゃね」
そう言って、微笑んだ。
私は、少し頬を緩めて頷いた。
だけど、やっぱり、黒いもやもやはお腹の中で渦巻いていた。
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お風呂からあがって、ボタンのパジャマで夜を過ごす。私はふと、本棚を見た。
律のドラムスティックが、本棚の隅っこで埃を被っていたのだ。
肝心の律はベッドの上で赤本を読んでいた。
唯たちのいる大学の物だろうけど、この時期から赤本に取り掛かるのは早すぎる。
それとも早いうちに対策を立てるつもりなんだろうか。
私もあの女子大の赤本は持ってるが、今はそれ以外の事に力を注いでいる。
気になるのは、律が勉強ばっかりってことじゃない。
あの律が、家でドラムの練習をしていないこと。
卒業して三カ月、ほぼ二十四時間毎日一緒にいるけれど、律がドラムの事話したことはほとんどない。
もちろん律の中では、ドラムというのは重要な位置を占めるものだろう。
五人で過ごした軽音部の核で、私と一緒にバンドを組もうって言った時、律がやるドラムだったんだから。
だから、律の中でドラムはまだ輝いているはずなのに。
それを触ろうともしないなんて。
「律ー、ドラムの練習しないのか?」
あまり深刻にならずに問うと、律は何の気なしに返した。
「してる暇、あるのか?」
――そうだけど。
確かにそうだけど。
私たちは浪人なんだ。律は受験に失敗して、私はその後を追って辞めたから、一般的に見れば負けたみたいなものだ。
本当は勉強をたくさんして、目指すべき大学に入ろうと努力しなきゃならないんだ。
そういうものなんだろうけど……。
「……澪だって、ベース弾いてないんじゃないの?」
図星だった。
私は言葉をなくす。
そりゃ、ベースなんて弾けないよ。こんな気持ちじゃ。
律も、同じ気持ちなんだろう。だから弾かないんだ。
私の戸惑いに、律はこっちを向いて目を細めた。
「――だけど澪、勘違いすんなよ」
「……え?」
「私さ……今も、いつでも、ドラムや澪のベース、大好きでいるから」
さっきの優しい瞳は、私の気持ちを汲み取ってくれたんだろうか。
もしかしたら律が、ドラムを嫌いになっちゃったかもって。
そう思ってた私が、ちょっと恥ずかしい。
そこだけは変わらないんだなあって。
嬉しい。
「……でも、しばらく叩けない」
律は切なそうに白い歯を見せた。
さっき心は温かくなったけれど、またちょっとだけ胸は痛んだ。
「――自信がない。こんなにたくさんの人に迷惑をかけて、澪を困らせて、梓や唯、ムギと会いたくないと思っている内は、叩きたくないんだよ」
律は赤本をテーブルに投げ捨てた。そして、仰向けで寝転ぶ。
この位置からでも表情はよく見えた。
「澪もわかってるんだろ?」
「……何を」
律の言いたいことはいつだって、なんとなくわかるんだ。
でも、それでも信じたくないんだ。
「私、変わっちまったよな」
「そ、そんなこと――」
反論しようとしたけど、言葉が出ない。
そんなことないよって、言いたいけど。
律は仰向けのままこちらに首を回して、笑った。
いつも律の笑顔は寂しそうだ。
それが私の心を揺らしているっていうのに。
「昔みたいに元気ないし、笑いもしない。馬鹿な事もしないし、澪をからかいもしないしさ」
律は、自分を客観視できる。
昔からそうで、いつだって大人だった。
だから安心して殴ったり、一緒にいたり、ときには頼れたりできた。
根本的なところは何にも変わっていないって、断言できるのに。
変わっちゃったことがこんなにも悲しいなんて。
「あ、でも……澪にとっちゃ、からかわれなくなったのはいいことか」
律がそう言った時、頭に浮かんだ記憶。
『すごい! 百点だ!』
『左利きなんだあー!』
『綺麗な髪だねー!』
『わあ、手の豆潰れちゃった!』
『澪ほどメイド服姿が似合う奴、なかなかいないぞー!』
……。
いっつも殴り返してたけど、確かに嫌がってたかもしれないけど。
嬉しかった。楽しかった。好きだった。
そういうの全部、私と律にしかできないことなんだって。
だからそういうのも大切な時間で。
愛おしい。
またからかってほしい。いじってほしい。私に構ってほしい。
「嫌なんかじゃ……なかった」
無意識に漏らしていた。記憶から戻った時、律はこっちを不思議そうな目で見ていた。
私はゆっくり近づいて、律の倒れているベッドの端に座った。少し顔を左に向けると、律の顔がさっきよりもよく見える。
律は倒れたまま私を不安そうに見ていて、もしかして私、泣いちゃっていたかもしれなかった。
独白のように、私は言う。
「弄られるのを殴って返すのが、私なりの律への愛だって、律は知ってるだろ」
「……そりゃもちろん、知ってるよ」
「だから……律が私をからかってくれるの、ちょっと嬉しかったりしたんだ」
「……やっぱり、馬鹿だなあ澪は」
「ば、馬鹿って――」
瞬間、律が私にキスをした。
律は私の言葉を遮って、体を起こした勢いのまま唇を重ねたのだ。
「んっ……」
律の舌が入ってくる。
絡みつく少し湿った感触。
「っ……」
力が抜けて、抵抗も何もできやしない。する気もなかった。
目を閉じた分、暗闇で律の為すがままになっているような感覚。
私の五感は全て口元に集められているように、言いようのない感情がせめぎ合う。
体が熱くなって、顔も熱くなって。
風邪を引いたときのような、火照った高揚感。
頭の中を、ドロリとした熱が蹂躙した。
口を結んだまま、律はゆっくりと私をベッドに押し倒した。
パサリという音が聞こえて、私の長い髪の毛がシーツと擦れた音だと悟ると同時に、律は唇を離した。
「っ、ぷは……」
私は情けない声を出してしまう。目を開けると、律は私を意地悪そうで――それでいて切なそうな目で見下ろしていた。
微かに私たちの口と口の間に、透明な糸が張っている。
律は細い指でそれを絡み取ると、舐めた。
「澪は可愛すぎるんだよ……」
「り、律……ちょっとまっ」
律は私のパジャマのボタンに手を掛けた。
プチ、プチ。
小さな音は、大きく反響する。
律の手が、微かに私の胸に触れた。
「っ……あっ……」
「ごめん……嫌なら、嫌って言ってな」
律はいっつも優しい。
優しくて優しくて。
そんな律が大好きで。
「い、嫌じゃない」
私が強い口調で言ったためか、律は少し驚いていた。
律と『やった』ことは、何度もある。でも、『今の律』になってからは初めてだった。
体を重ねることは、初めてじゃないのに。
どうして嫌かどうかの確認なんてするんだ。
私の気持ち、知ってるくせに。
「……律じゃなきゃ嫌だ。私、律がいい」
「――私も澪がいい」
左手と右手を重ねて、指を絡ませる。離さないというようにお互いが強く握った。
律は、目の端に光るものを見せながら、笑った。
「澪じゃなきゃ嫌だ……澪とずっと、一緒に……一緒にいたいよ」
さっきの笑みが崩れて、泣き出してしまった。
私が気持ちを伝えると、律はいつも感傷的になる。
それでも涙を零して、掠れた声で私に想いを伝えてくれる。
「澪……」
「うん……律」
もう一度、深いキスをした。
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眠りの中で、いつかのことを思い出した。
それは、高校二年生。私と澪が、久しぶりに大きな喧嘩をして、疎遠になって……私が本当に駄目なやつだったときのことだ。
あの時のことを、最近いつも思い出す。
最終更新:2012年05月31日 23:03