和に嫉妬したことがあった。
 私と澪のクラスは別れてしまって、なんとなく笑い話に澪のこと笑ってた私だけど、本当に寂しかったのは私の方だったんだ。
 『二年一組秋山さん』と『二年二組田井中律さん』という仕切りに、違和感も途方に暮れていたし、澪に突っ込んでもらわなきゃ収まりがつかなかった。
 だからって休み時間、毎度澪に会いに行こうとも思わなかった。
 そうすることは、私の澪への言葉の裏切りになってしまうから。


 寂しかったら、いつでも遊びに来ていいんだよ。
 寂しいのは私のくせに。遊びに来てほしいのに。


 私は寂しくない振りを装った。その装いは、本当にしなきゃいけないから。


 寂しいのなら、いつでも遊びに来ていいんだよと私は言ったんだ。
 それは、澪が寂しいと思う事を前提とした言葉で、『私が』寂しいから、という意味合いじゃないと誰だって受け取るだろう。
 遊びに行くではなく、遊びに来てもいいよ、なのだ。


 だから、私は寂しくないと振舞わなきゃいけなかった。


 唯やムギといつも一緒にいて、新しい友達も何人か作った。
 それと同じように、澪も前々からの知り合いといつも一緒にいて、新しい友達を作るんだ。
 私だけが何かをするわけがない。
 私がすることや誰かがすることを、澪だけがしないわけがない。
 澪だって新しい友達に出会ってしまう。


 それが怖くて溜まらなかった。

 なんて私はわがままなんだって、思った。
 澪は私だけのものじゃないのに。澪の友達は私だけのはずがないのに。
 澪の大事な人は私だけのはずがないのに……そう思うけれど、澪が他の誰かと楽しそうにしているのが、とても辛かった。




 もう私の事、忘れちゃったんじゃないかって不安で。私の事を特別に見てくれていないんじゃないかって心配で。
 だから一際仲良くなっていた和には、いろいろときつく当たったこともある。
 喫茶店でお茶をして意気投合する二人に突っ込んでぶち壊しにしたり、二人で楽しそうにしているランチタイムに突撃したり。
 せっかくそれを中止してまで昼練に来てくれた澪に迷惑をかけたり、結局喧嘩になって。
 本当にサイテー野郎だなって、当時は思った。
 だから昼練の時、頑張れなかった。澪に、和に申し訳なくて。
 ドラムを叩いたって、澪のベースに重なってみたってつまらなくて。
 こんなんじゃ駄目だって思ったし、頭の中や心の中にモヤモヤした黒いのが広がって、キリキリ痛くて。



『ごめん、なんか調子でないよ』



 また放課後ね。



 そう言って、皆を放置して逃げ帰った。
 授業にも出ずに、昼休みの喧騒に包まれた教室に戻って、鞄を掴んでさっさと学校を出た。
 皆はどう思ったか知らないし、もしかして嫌われたかもって思ったけど、誰かの大切な時間をぶち壊しにする奴は嫌われてもいいんだ。
 澪があんなに楽しそうに笑ってた時間を、私のわがままやただの嫉妬で崩しちゃうような奴は、嫌われて当然だって。
 本当は嫌われたくないくせにな。
 でも嫌われて当たり前な事してるんだから、そうなるよ。
 だっせーな田井中律。



 そう思ってた時期と、今の私は似ている。
 嫉妬して、澪を――軽音部の皆を困らせてた。迷惑掛けて、一人だけ塞ぎこんでた。
 あの時の私にそっくりだ。
 受験に失敗して、澪を――四人を困らせて、会いたくないと泣きごとを言ってる。
 もうあんな風にならないって決めてたけど、やっぱりなってるじゃん。


 あんなに澪にたくさんの物をもらったのに。
 私はまだ、それを返せていないんだ。












 律の様子がおかしくなった時の事はよく覚えている。















 私が和と唯とお茶を飲んでいて、唯の事について話が盛り上がった時だ。
 突然現れた律が、隣に座りながら私にぶつかってきたのだ。


「律、なんでここに?」

 帰ったのかと思っていた。私は和たちとお茶をすると言っても、律は何も言わずに無表情だったから。
 てっきり私も行くと言い出すかもと思っていたけど案外そうでもなくて、律はムギと梓を連れて街中へ消えていったのだ。

「いやー、たまたまねー」

 そう笑った律は、なんだか変だった。
 たまたまって、さっき私と唯とは逆の方へ行ってたんだけど……とは突っ込めなかった。
 律の笑みはなんだかぎこちなくて、どこか作っているような違和感が拭えなかったのだ。
 それから和に愛想よく挨拶する律に、私は声をかける。

「ちょっ、律」
「なに? なんか嫌なの」

 律が眉を寄せる。顔が迫ってくるのに、私はまた変な感覚を覚える。

「いや、そうじゃないけど……」

 なんだってこんなに突っかかってくるんだろう。
 そりゃいつも突っかかってくるし、いじりもするし構ってくるけど、露骨に私にベタベタするなんておかしい。
 二人きりでとかなら何度だってあるのはある。だけど笑顔を崩さないまま唯と和に話しかけている。
 どうしたんだよ、律。











 律が部室を出て行った。
「りっちゃん――」
「いいよ、唯」
 律の出て行った扉から目を逸らす。
 ……馬鹿律。





 何やってんだよ律……律がいなきゃ始まらないってのに。

「……どうします?」

 梓が心配そうな表情で言う。私はそんなのに全然考えが回らなくて、出て行ってしまった律のことで頭がいっぱいだった。
 どうしてどうして。
 律があんなに悲しそうな表情で俯いていて、何の理由も言わずに出て行ったこと。
 その理由を探すことだけが頭に巡っていたのだ。

「あ、ええと……」

 声に出したけど、何も出ない。

「練習……する?」

 ムギが私たちに目配せした。練習……律なしで。
 それはしたくないし、律がいなきゃまとまらない。
 ドラムという重要な楽器が鳴り響かないのはもちろんだし、律という部長でもあって大事なムードメーカーがいない。
 律の元気なワンツーという掛け声がないと、締まらない……さっきも元気はなかったけど。
 なんで律はあんなに変なんだろう。
 私、何かしたのかな。したんだったら、謝らなきゃいけないのに。
 意識を戻すと、長く沈黙が続いていたようで、皆が私を見ていた。

「じゃ、じゃあメトロノームでやろう」

 律のドラムじゃなきゃ嫌なのに、適当に言ってごまかした。
 それに、律に声をかけようとした唯の声を無理やり止めておいて、今から律を追うのはあまりに自分勝手だ。
 せっかく昼に集まったんだし、嫌だけど律なしで練習した方が私も気が紛れる。
 棚の上にあったメトロノームをソファの上へ移動させ、曲のリズムに合わせる。
 カチ、カチという久しぶりに耳にした音を頼りに、せーので演奏をした。リズムを取ってくれているので、もちろん全員の演奏はピッタリあう。
 むしろ律よりも全然走っていないし、強弱もないから重なりはバッチリだった。
 私は気張ることなくピックで弦を弾いた。
 だけど。


 だけどこんなの、つまらない。
 私たちの曲になっていない。
 私はベースの運指をやめて、演奏の途中で俯いてしまった。
 突然ベースの音がなくなった事に驚いたのか、ムギ、梓、唯、と徐々に演奏を中止し、音は減って、
 最後はメトロノームが寂しくリズムを刻んでいるだけになった。

「やっぱり、もうやめにしよう……」

 皆の意見を聞かずに、私はベースをホルダーに置く。そして持ってきた荷物を持ってすぐに部室を出てしまった。
 部室を出るまでは平静を装って歩いていたけど、部室の外へ出て扉を閉めた瞬間、私は走り出した。
 律に会って、話さなきゃ。




 二年二組を覗くと、律はどこにもいなかった。
 まだ昼休みなので教室はざわざわとしている。
 知らない人たちばっかりで私も少し緊張するが、律を探すことに躊躇はなかった。

(……律)

 入り口でキョロキョロしていたからなのか、律と同じクラスの人が話しかけてきた。

「誰か探してるの?」

 人見知りの性か、どぎまぎする。でも、一応言葉は紡ぐ。

「え、いや。ええと、田井中律は……」
「田井中さん? いないの?」

 彼女は教室の中を見ながら言った。それから少しして、何かに気付いたように、あっと漏らす。

「田井中さん、帰ってる」
「――えっ?」
「だってほら、田井中さんの席はあそこだけど、鞄がないよ」

 ほらあそこあそこ、とでも言うように教室の中を指さす彼女。
 私は少し戸惑いながら、指の向いている方向にある机を見た。
 不自然なほどポッカリと、何も置かれず、誰も座っていない机があった。
 その周りでは、いろんな人が談笑しているというのに。

 律が、帰った……?

 まさか。中学でも皆勤もらうような奴だぞ。調子悪くても意地でも授業には出るはず。
 それなのに昼休みの内に帰ってしまうなんて……ありえない。
 ありえたかもしれないし、私が知らないだけかもしれないけど、私の知っている律は早退なんてしなかった。

 律――……。


「あ、ありがとう……」

 私は無気力に囁いてその場を後にした。




 自分の教室に帰って、一人で机に伏せる。
 一人ぼっちで、話す友達もいないから寝てるふりをしているように見えるかもしれない。
 教室は、友達とわいわい盛り上がって話をするクラスメイトで溢れかえっていた。
 その中に一人ポツンと、机で顔を伏せている子がいる。こんなに場違いなことはない。
 だけど昔はそうだった。盛り上がっている教室の中で、一人で静かにしている私。
 その私に話しかけてくれたのは律だ。
 だからこうして一人でいれば、また律が出てくるんじゃないかって。
 帰ったけど、何してるのって私に話しかけてくれるの待ってる。




 だけど、結局昼休みは終わってしまった。律は来なかった。
 授業中は律の事をずっと考えていて、授業の内容はまるで頭に入らなかった。
 動き出したい衝動でじりじりと心が疼いたり、律がどうしてるのかとか、なんであんなに悲しそうに俯いていたのか、考えるだけで苦しい。


 数学のノートを取れなかった。和に見せてもらいに行った。

「ごめん和。さっきの数学のノート、見せてくれないかな」
「え? 澪、授業出てたでしょ?」
「……全然取らなくて」

 授業に出てたのに、先生が黒板に書いていた数式やポイント、公式も全部書き逃すなんて。
 普通に考えるとおかしい。考え事をしてたって言うと、また和は詮索するだろう。
 律の事だなんていうと、また心配させてしまう。

「澪が授業中にボーっとするなんて、珍しいわね」
「……ごめん」
「何かあった?」
「いや……でも、ありがとう。すぐに返すよ」

 受け取って、すぐに自分の席に戻る。白紙のノートに、和のわかりやすいノートを書き写していく。
 誰かにノートを見せてもらうなんてことはあまりないから、
 少し馴染まない感覚がある。ノートを誰かに見せる事は慣れてるのに――。
 誰かじゃなくて、律だけだ。私がノートを見せるのは。
 そう思うと、また心が軋んだ。


 放課後部室に行くと、みんな揃っていた。

「さっきは、ごめん。何も言わず、戻っちゃって」

 謝ると、皆はそんなことないよというように笑ったりしてくれた。
 また一つだけ、席がポッカリ空いている。
 律が来ていない。
 その事実を突きつけられたような気がして、私は入り口で少し立ちつくした。
 なんだよ……放課後にって言ってたじゃないか……。
 伝わるはずもない声を、心の中で律に伝えた。また放課後ねって言ったのは律だろって。
 そう言って出て言ったじゃないか。
 たとえ家に帰っても、放課後になったら来るんじゃないかって、ちょっとだけ期待してたし、そうしてくれるとも思っていたのに。

「澪先輩?」
「……あ、ごめん」

 梓の声で我に返ると、扉を閉めてソファに鞄を置いた。
 鞄は四つ、か。
 律がいないのが、こんなにも堪えるなんて。
 私はいつも席に座りながら、律と同じクラスの唯とムギに尋ねた。


「律、は……?」

 わかっていた。でも。
 二人は目を逸らして言いにくそうにしたが、唯が言う。

「りっちゃんね、調子悪いらしくて早退したんだって」
「誰から聞いたの?」
「担任の先生だよ。りっちゃん、帰る前に職員室に寄って先生に言ったらしいんだ。調子悪いので帰りますって」
「そ、そうなんだ……」

 唯の言葉を聞いたところで、私の心は晴れやしなかった。
 律が帰ったのはわかってるんだ。早退したのだって、多分そうだろうなって思ってたんだ。
 だから、予想通りの言葉しか唯たちから聞けない事に、不安はまた増していく。
 律。
 律は今……何してるんだ?
 そんなことを考えながら、皆自分の席に座って、何も話さないままじっとしていた。
 沈黙は貫かれ、何分何十分も経って――だけど、律は来ない。私の真正面の席で、笑ってたあいつがそこにいない。
 あるのは、『何もない』がある。私の頭で笑ってる律の顔だけがそこにある。
 その日の放課後は、律は来なかった。
 練習もせずに、皆気まずい中お茶をするだけに終わった。
 帰りに律の家に行けば会えるのに、私はなぜか怖くて、寄りもしなかった。
 それに、あんな態度取っておいて何様なんだよ私。
 律にあんなに怒鳴っておいて。


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最終更新:2012年05月31日 23:07