次の日の朝、律を迎えにいかなかった。
 不安だった。会いたいのに、昨日喧嘩みたいな事をしてしまったから。
 学校で謝ろう。放課後、部室でいつものように接しよう。
 そう思って、私は律の家を通り過ぎた。


 放課後。部室に律の姿はない。
 唯たちによれば、学校には来ていたというのだ。
 三人で弁当を食べたとも言っている。調子が悪かったんじゃなかったのだろうか。

「様子は……どうだった?」
「なんかね、ぼーっとしてた。話しかければ反応はするのに、自分からは何も話さなくて」

 あの律が自分から会話を吹っ掛けないなんて。
 相当、何か抱えてる。

「それで部活に誘わなかったんですか?」

 梓が尋ねると、ムギは申し訳なさそうに俯く。

「ごめんなさい……りっちゃん、トイレに行くって行ったっきり戻ってこなくて」

 そしてそのまま早退したらしい。教室に置きっぱなしだった鞄は、先生が持っていたとか。
 恐らく律は最初保健室に行ったんだろう。そして先生が鞄を律の元へ持っていき、そのまま律は早退した。
 それはムギの所為じゃないよ、と私は囁くけれど、もし私が同じクラスで、律の様子がおかしかったらいつも一緒にいると思う。
 だからってムギたちが悪いわけでもない。悪いのは。
 ――悪いのは、誰なんだよ。
 皆を困らせてるのは律だ。だけどその律が今何かに困っている。
 だからこそ皆に迷惑をかけている。なら、その困っている原因を作ったのは誰なんだ。
 ……私、なのだろうか。
 昨日から――いや、和とお茶を飲みに行った時から、律の違和感は感じていた。
 あの時、私は律に何かをしてしまったんじゃないか。
 律を傷つけるような事、律を困らせたり悩ませる事を、言ってしまったんじゃないのか。思い出せ私。
 何かしたら謝らなきゃいけないって、昨日から思ってるだろ。


 しばらくして、さわ子先生が来た。
 つまらない事を言ったり、律がヘヴィメタに進むとか……。
 今の私にとってはどうでもいい事を延々と述べていたけれど、それは私たちに落ち込むなと言いたげな口調だった。
 くよくよするなということだろうか。
 元気づけるためにそんな話をしているのなら、ありがたく思う。
 思うけど、喜べない。
 今日はもう、律はやってこない。
 私は、立ち上がった。

「練習しよう」

 学園祭も近いから、律なしでも少しぐらいは練習しなきゃ……。
 昨日の昼に私も練習切りだしてさっさと逃げたけど、でも律がいないことに嘆いてたら、学園祭に成功はない。
 律は、戻ってくるんだ。その時、下手になってたら駄目なんだ。
 今日はもう律は来ないかもしれないけど、明日だってある。今日部活が終わったら律の家に行って、話す。
 そしたら明日にでも来てくれるかもしれない。もしその時腕がなまってたら、笑われてしまうから。
 そう言い聞かせて。

「律先輩を呼びに行かなくていいんですか?」
「仕方ないだろ……」

 そうだよ、仕方ないんだよ。
 そう言い聞かせなきゃ、もう収まりがつかなかった。
 律がいない。それでどうするんだ……練習しなければいいって? しなかったらどうするんだ。
 このまま律を待つのか? 
 ずっとずっと律を待ってるのか? 
 『放課後ね』って言った律の言葉を信じたいよ。律の言葉、私だってずっと待ってたい。
 そうなるの、信じてるのに。
 呼びに行く。律を?
 無理やり連れてきたって、楽しい練習なんてできやしない。
 律は来ない。
 来ない、来ない。
 もうそんなの考え続けるの、嫌だ。
 練習してた方がマシだ。律に想いを巡らせて静かな時間を過ごすこと。
 律がいないままずっと静かにいること……そんなの辛い、苦しいなんかじゃ済まない。
 だったら練習して、時間を忘れてさっさと済ませた方がいい。
 練習に『さっさと』という扱いをするのは気が引けるけれど……。

「このまま、律先輩が戻ってこなかったら……」

 梓が突然そんな事を言いだす。

「もしくは代わりを探すとかね」

 さわ子先生が、切り出した。

「っ……」

 代わり? 
 律の代わりなんて――律じゃなきゃ、律じゃなきゃ。
 私嫌だ。

「りっちゃんの代わりはいません!」

 そう言い放ったのはムギだった。普段からは想像できない怒声。
 私も怒鳴りたいくらいだった。律の代わりはどこにもいない。
 走り気味でリズムキープも大変だけど、勢いがあって力強くて――そしてそんなドラムを叩く律の事が大好きなのに。
 例えもっと上手で、走り気味にもならなくて、丁寧な人がいたって、律を選ぶ。


 梓は、律のこと信じてないのかな。
 さわ子先生は、バンドメンバーは誰でもいいなんて思ってるのかな。
 そんなはずないだろうとは思うけど、律の事信じてたら、帰ってこないなんて思えない。
 帰ってこないわけがないんだ。
 ここには律がいなきゃいけないんだ。







 澪ちゃんが悪いんだ。りっちゃんが調子を悪くしたのは澪ちゃんの所為なんだ。
 りっちゃんという相手がいるのに、和ちゃんと仲良くなって。どうしてそこに察することができないんだ。
 いつだって一緒にいたのに、クラスが分かれたからってりっちゃんとはあまり話さなくなるなんて、りっちゃんの気持ちがわかってないんじゃないかって思う。
 そりゃ澪ちゃんも、りっちゃんが大事なんだってわかってる。

 さわ子先生も含めた五人で座って待っている時、澪ちゃんはずっと目を伏せて、悲しそうにしていた。
 ときどき唇を噛み締めたり、拳を握り締めたり。葛藤や焦りみたいなのが、澪ちゃんの表情から読み取れていた。
 やっぱりりっちゃんの事を心配しているようだった。
 さわ子先生が言った。

「もしくは代わりを探すとかね」



 その言葉は、私にも響いた。
 りっちゃんの代わり。
 それはりっちゃんを捨てて、別の誰かで演奏をするということ。
 そんな事、駄目だって自分の心が怒りに湧いた。
 だから、いつもの私とは違う声で叫んでいた。

 りっちゃんの代わりはいないんだと。

 澪ちゃんからりっちゃんを奪えないのはわかっているけれど、奪ってしまいたい私がいるんだ。
 でもそうするのが、二人の幸せを壊すことに繋がる事を私は知っている。
 りっちゃんと澪ちゃんは、お互いを気遣いあいながら生きている。
 だけど、その気遣いと相手に対する想いの余り、すれ違いが起きやすい。
 すれ違いが起きる事は、相手を想う裏返し。
 私じゃ澪ちゃんに敵わないって、多分一年後も、二年後も思ってるだろうな。










 また律先輩は、澪先輩を困らせている。
 なんでか知らないけれど、昼休みの昼練習の時、律先輩は澪先輩にちょっかいを出してばかりだった。
 澪先輩の髪をやたら構ったり、怖いDVDを持ってきたり……。
 律先輩の笑顔は、いつも見たいに元気な笑顔だったけれど、無理やり作っているような陰りのある顔だった。
 何してるんだ律先輩って思った。澪先輩はやめろって言ってるのに。
 私はまあいつものように終わるだろうと思った
 本当は澪先輩が律先輩と触れあってるところを見たくなかったので、アンプの音量を調節したり、チューニングを唯先輩としていた。


 だけど、突然澪先輩が怒鳴ったのだ。

「そんなこと言ってないだろ!」

 澪先輩の声は、今まで見てきた澪先輩の、一番怖い声だった。
 律先輩と澪先輩は睨みあって、お互いがお互いの事を――そうだと思いたくはないけれど、とっても憎たらしいような目をして見ていた。
 あの律先輩が……澪先輩の事をいつも構って大事にしているのに、眉を寄せて睨んでいる。
 澪先輩は歯を噛み締めたように顔を強張らせていた。
 ムギ先輩がお菓子の話をし始めた。おいしいタルト。
 そんな事を言われても、二人の間を割る事に繋がらない。
 ど、どうしよう。なんとかしなきゃ……。
 ふと床を見ると、さっき唯先輩につけてつけてと言われていた猫耳が落ちていた。
 少し恥ずかしいけれど、二人の空気をいい意味でも悪い意味でも断ち切るにはこれでもなんでもいい。
 とにかく何かしなきゃ!
 羞恥心を捨てて、猫耳を付けて言った。


「み、みなさん! 仲良く練習しましょう……うぅ……」


 思いっきり声を上げたが、皆呆気にとられた顔で私を見ていた。
 は、外した……。
 数秒の沈黙がザクザク胸に刺さる。
 ところが。

「そうだな……」

 律先輩の声だった。
 顔を上げると、澪先輩が目を逸らして床を見つめていた。律先輩は、後ろめたそうにしている。

「練習するか……」
「うん……やろっか」

 やった、私の恥は無駄じゃなかった。
 律先輩も澪先輩も自分の持ち場について、少しだけ調整をする。
 私は、なんとかできたと嬉しかったけど、澪先輩の横顔は思い詰めたような表情である事に気付いて、そんな気持ちはなくなってしまった。
 思わずピックを落としそうになるけれど、持ちこたえた。
 なんだか、複雑。
 律先輩のワンツーの掛け声で、演奏を始める。
 学園祭近いから頑張って、澪先輩に褒めてもらいたい。
 滑って落としそうな不安の汗の事なんか忘れて、指を動かす。
 イントロから順調に演奏する。
 けど――あれ、ふわふわ時間ってこんな曲だったかな、と思うほどに力強さも何もない演奏に自分がおかしくなったんじゃないかと思い始めた。
 チラリと横を見ると、澪先輩が私の後ろ――つまり律先輩の方を見て不安そうにしていた。
 私も気になって振り返る。
 走っていないドラムと、正確なリズムキープ。
 すごい。すごいけど。
 律先輩じゃないみたいだ。
 澪先輩を一人占めしてしまう律先輩はあんまり好きじゃないけれど、バンドの仲間として、先輩としては大好きなのに。
 走り気味で少し力み過ぎなドラムも、律先輩だからこそだと思うのに。
 そんな律先輩のドラミングを、いつの間にか全員が、不思議そうな顔で見ていた。
 もちろん澪先輩も。
 一人一人その違和感に耐えれなくなって、演奏を中止する。
 律先輩もそれに気付いて、キリよく演奏をやめた。そして俯いてしまったのだ。

「律……?」

 澪先輩が名前を呼ぶ。
 律先輩は答えない。

「あのさ、ドラム走らないのはいいけど……パワー足りなくないか?」

 澪先輩も私と同じことを思っていたに違いない。
 きっと澪先輩は、誰よりも律先輩の事はもちろん、律先輩の大雑把なドラミングが好きなはずなのだ。
 長年一緒にいたんだから、ちょっとの変化だって見過ごせやしないんだろう。
 そんな澪先輩の心配をよそに、下を向いたまま何も言わない律先輩。

「おい、律!」

 澪先輩が今度は強く律先輩の名を呼ぶ。
 律先輩はよろめきながら立ち上がって、謝った。

「ごめん、なんか調子出ないよ」

 一瞬だけ見えた律先輩の顔は、悲しそうだった。

「また放課後ねー」

 そう言って、先輩は出て行ってしまった。

「りっちゃん――」
「いいよ、唯」

 何か声を掛けようとした唯先輩を、澪先輩が止める。
 そして澪先輩は、切なく目を細めた。



 また、また。また律先輩は澪先輩を困らせた。
 あんなに切なそうな目をした澪先輩は初めてだ。
 そんな顔にしたのは律先輩で、澪先輩にそんな顔をさせられるのは律先輩だけだ。
 やっぱり敵わないのかもしれない。
 多分、一年後も二年後も思ってるんだろうなあ。








 ムギが怒鳴り声を上げて、皆がバンドを続けていく事に憂いの目を瞬かせた部活。
 その部活を終えてから、私は律の家に行った。
 律の家の合鍵は随分昔にもらっていたので、いつものように鍵を開けて中に入る。
 玄関の靴を見ると、律の靴はなかった。私はまた不安になって、靴を脱いで律の部屋へ走った。

「律!」

 ドアを開けて部屋に飛び込むが、中はもぬけの殻だった。
 ベッドにも、椅子にも、どこにもいない。
 静かな空間と、無造作に転がっている抱き枕やぬいぐるみが私をさらに焦らせる。どうして早退したはずなのに律が帰ってきていないんだ? 
 どこかをほっつき歩いているのか? 
 そうに違いない。律はきっとそうだ。
 なら帰ってくる……帰ってくる。
 私は律のベッドを背もたれにして、体育座りをした。そして腕を膝の上に乗せて組み、顔をうずめる。
 視界は真っ暗になって、思考だけが頭に広がっていった。
 律……。
 律の無邪気で悪戯っぽい笑顔だけが頭に浮かんでくる。
 そういえば最近、あんまり律と話してないな……律が思いっきりボケることとか、私が律を殴ることも極端に減った。
 クラスが別れてしまっては仕方ないとは思う。新しいクラスで唯一の知り合いだった和に、最近は付きっきりだった。
 だって一人が怖いんだ。
 小学生の時、確かに一人で過ごしていて、律に出会った。
 親友という存在ができて、その存在が大切に思えて、かけがえなくて、失いたくないと思って。
そして、また一人になるのが怖くなってしまった。
 だから律を手放してしまった今が怖くてたまらない。
 また一人になってしまうかもしれないと、びくびくしていた。
 そこに現れたのが和で、唯一の知り合いだった。
 だから一年間の付き合いとして、できるだけ仲良くなろうと思った。
 律を忘れたわけではなくて、むしろ律の事をもっと大事にしたいと思えるようにはなったけど、律にはときどきしか会えない。
 私がこれから一年間一緒にいるのは和だろうから、悪い言い方かもしれないけど、『律の代わり』として彼女を見ていたかもしれない。
 でも、律を忘れたわけじゃないんだ。
 確かに和といつも一緒にいて、律ではなく和を選んだこともあったかもしれない。
 律がお茶を飲みに行こうって行った時、唯が和と行くというから私もついて行った。
 昼休みに律に会いに行くこともなかったし、本当に話す機会がなくなった。
 だからって律を忘れたわけじゃない。何度だって言える。
 律の事、忘れたわけじゃないんだ。
 だけど。
 でも――。






 でも。
 忘れてたのかな。
 律の事、少し忘れてたのかな。
 ちょっと忘れてたのかな。
 和といるのも楽しかったし、和と話すのも大切な時間だった。
 律の事、もしかしたら、少しだけ忘れてたのかな……。



「ごめん……っ」

 私は、誰もいない部屋で呟いた。

「律……ごめんな……」


 何がごめんなんだって言われたら、言葉に困るけど。
 私、律の事大好きなのに。
 そんな気持ちが、薄れかけていたのかもしれないんだ。

 本当は肯定したい。

 和と一緒にいる時も、ずっと律の事考えてたよって。律を忘れたわけじゃないんだよって。
 私の中にある律に対する想いは、いつだって変わっていなかったよって自信を持って言いたい。


 だけど、それは嘘なんだ。


 律の事を忘れて、和といたいって思った時もあった。律の事を考えていない時間だってあった。
 私の中にある律に対する想いが、少しだけ消えた瞬間だってあったんだ。
 だから、和とお茶を飲みに行っちゃったり、律が私を構っているのを煩わしく思っちゃってたんだ。
 構ってくれるの嬉しかったこともあったのに。律を殴ったりするのだって、大切だったのに。
 そうすることもしないで、やめろなんて言ったりした。
 そうすることも大切なのに? どうしてやめろなんて言ったんだ。それってやっぱり。

 私は、律の事を、もう何とも思ってないのかもしれないってことなのかな。

 そのまま腕に顔をうずめたまま、時が経つのを待った。
 そうすれば、律が帰ってくると思ったから。




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最終更新:2012年05月31日 23:11