しばらくして、廊下から足音が聞こえた。
 顔を腕に埋めていたからか視界は常に真っ暗で、起きていたのか寝ていたのかはわからないけれど、足音にすぐに気付いたという事は多分起きていたんだろう。

「律っ!?」

 私は立ち上がって、すぐに部屋の扉を思い切り開けた。
 いたのは聡だった。

「あ、こんにちは……」
「……聡か」

 聡には悪いが、どうしようもなく肩透かしだ。

「……どうした?」

 私が問うと、聡は私の顔をしばらくじっと見つめて何も言わない。
 私が不思議そうな顔をしたからか、聡は「ああ、すいません」と取り繕ったような笑顔と共に謝り、返してきた。
 そしてそのまま言葉を続ける。

「澪さんこそ、どうしたんですか?」
「……律を待ってるんだ。どこに行ったのか知らないけど」
「姉ちゃん? ああ、姉ちゃんなら病院です」

 私は反射的に声を上げる。

「病院……!?」

 私の焦った声色は、聡には怒ったように聞こえたかも知れない。
 聡はびくりと顔を一瞬だけ引きつらせた。私は心の中でだけ謝った。聡はすぐにいつもの顔に戻って、言う。

「いやただの風邪ですよ。昨日放っておいたからか知らないけど、結構高熱で。というか澪さんなら知ってたでしょ?」

 ……そうだよ。調子が悪くて早退したのなら、病院くらい行くだろ。何を焦ってるんだ。

「そ、そうなのか。でも、なんでそれを?」
「下のテーブルにメモが置いてあったんです。病院に行く事と、あと体温と帰ってきた時間と」
「……いつ頃帰るとかは、書いてないのか」
「書いてないです。でも帰ってきたのが四時ぐらいで、今六時ですからね。もしかしたら病院、混んでたりしてるんじゃないかな」

 四時……ということは、学校の授業が終わった後だ。
 ムギたちの話だと、律が早退したのは三時頃の授業。
 学校から律の家までは、三十分くらいだから……やっぱり普通に帰ったのかな。

「澪さんも帰った方がいいですよ」
「え、でも……」
「澪さんに風邪がうつっちゃったら、姉ちゃんもっと熱出しちゃいますから」

 聡は無邪気に笑った。なんとなく背中を押された気がした。

「……うん、ありがとな聡」
「じゃあ俺、寝ますんで」

 そう言って、廊下の向こうへ歩いて行ってしまった。
 そういえばまだ中学に入学したばかりで、部活も大変なんだろう。
 何部かは知らないけど、確か運動部だ。
 私はずっと文化系の部だから、運動部の部活が終わった後の疲れを体験したことはなかった。
 でも律は中学時代運動部だったから、部活を終えて一緒に帰る時いつも疲れたとか眠いとか垂れていた事を思い出す。

「はは……」

 また律の事考えてるよ、私。
 自嘲気味に呟いて、廊下を歩きだす。階段を降りる。
 そのままふわふわとした浮遊感に身を任せるように、何の気なしにダイニングに入る。
 聡の言っていた『下のテーブル』というのは、食事をするこのテーブルの事だろう。
 そのテーブルにはペンと一緒に一枚の紙切れが置いてあった。殴り書きだったけど、律の字だ。
 『病院に行ってくる。体温は38.5度。もし晩御飯の時私が帰ってなかったら、冷蔵庫の中の物適当に食べといて。四時、律』


 簡潔な文章だけど、なぜか今は響いた。
 高熱……大丈夫なんだろうか。
 心配だけど、聡も言っていた。
 風邪が移ったら、律がさらに熱を出す。
 ――律の風邪が治るのなら、うつされてもいいのに。
 でも、一緒にいたって律は体を休めることはできないし、逆に邪魔になっちゃうだろう。
 それで私に風邪が移ったら、律はまた心配に心配を重ねてしまう。そうなるのは、私も嫌だ。
 だから、嫌だけど、今日は帰ろう。
 私は紙をテーブルに置いたままにし、ダイニングを出た。そのままゆっくり歩いて、玄関へ辿り着く。
 玄関の壁に掛けてあった鏡をふと見た。









 泣いていた。



「えっ……」


 私は、驚いて顔を制服の袖で拭った。紺色だからか、水が染みて色が濃くなる。


「な、なんで……」


 指で目を擦っても、指は濡れていくばかり。
 袖で拭っても拭っても、制服は涙で濡れていくばっかり。
 鏡の中の自分は、目の端っこからポロポロと水滴を落としていく。



 なんでなんだよ。




 律の事、何とも思ってなかったんじゃないのかよ。
 律の事忘れかけてて、律のちょっかいや弄る行為が煩わしいって思ったんじゃないのかよ。
 和と一緒にいるの選んだくせに。
 もしかして、律の事をもう何とも――親友でも、大好きな相手とも思ってないんじゃないかって不安だったのに。
 律への気持ちがなくなったんじゃないのかよ!






 嘘じゃ、ないよね。
 この涙は。流れてる涙は。
 律のこと、もし忘れてたなら。
 涙なんて流れやしないんだ。
 律への想いが消えていたんなら。
 こんなに会いたいなんて気持ちが溢れるわけないんだ。


 だから私は――……。





「律ぅ……」

 私は泣き崩れて、その場に座り込んだ。

「……っ……ひっく、う……りつぅ……」


 律のために泣けてる。
 私、律の事もうどうでもいいと思ってるんじゃないかって思って。
 それで謝っちゃったのに。



 まだ、律の事で泣けてる。
 嬉しい。
 嬉しい。
 まだ律の事、好き。
 好きなんだ。
 頭の中、今、律のことでいっぱいだ。
 会いたい。
 会いたいよ……律。
 もう忘れたりなんかしないから。
 私をこんな気持ちにさせてくれるの律だけだから。
 私をこんなに泣かせるのも、胸を苦しめてくれるのも――。
 こんなに会いたいって思うのも、会えない事に切なさを感じるのも、話しかけてほしいって願うのも。
 一緒にいたいって思うのも、ずっと一緒にいたいって思うのも。
 律――。


 聡が、あの時私の顔をまじまじと見たのは、既に泣いていたから。
 無意識に泣いていたなんて、どれだけ律の事想ってたんだろう。
 私は――。


 私は律が好きだ。

 そして、律が好きな私が好きだ。

 だからまだ律のために泣ける事を――律の事が好きなんだってわかって嬉しかった。
 律の事をなんとも思ってない自分になるのが怖かった。
 いつまでも律を好きなままでいたかったんだ。
 だから嬉しい。
 律の事、まだこんなにも好きでいることが。









 次の日の朝、律の家へ律を迎えに行ったら聡が出た。

「ああ、澪さん」
「……律は?」
「学校に行けるか微妙なんですよ。先に行っててください。まあ姉ちゃんの事だから行くと思うんですけど」
「うん……わかった」


 本当は一目でも律に会ってから行きたかったが、仕方ない。
 私は聡に一言声をかけてから学校へ行った。



 二時間目が終わって、今は十時半頃だ。
 私は律が来ているであろう二年二組へ向かった。

「……」

 教室を覗く。
 ――いなかった。ムギも唯もいないから、三人で何処かに行ったのかな。


「あ、澪ちゃん」

 いきなり声を掛けられて驚いた。
 素っ頓狂な声を上げてしまうが、横を見ると、声の主はムギだった。
 横にはいつも通りな雰囲気の唯がいる。
 律はいなかった。

「りっちゃんね――」
「あ、いや……律の様子を見に来たんじゃなくって、その……」

 そうだったけど、そう言うのは恥ずかしかった。
 私は後ろ髪を撫でて顔を逸らす。多分顔に出てたから、嘘だってバレたと思う。

「学校休んでるの」

 私はムギのその言葉に、小さく声を漏らすしかなかった。

 律なら、意地でも来ると思ったけど。
 それがちょっと、残念だった。
 でもよく考えると、やっぱり学校で会わなくてよかったかもしれない。
 もし律を見たら、泣いちゃいそうだったから。
 無理しないで休んでくれた方がいい。


「……私、今日は部活休むよ」
「澪ちゃん?」
「授業終わったら、すぐに律の家に行く」


 ムギが目を伏せながら「そうだね……」と囁いた。
 なんだろうと私は思ったけど、律の事が心配なだけだと思って何も言わなかった。
 唯は「それがいいよ」と賛同してくれて、一度に全員家に行くのは律も大変だから、最初は私一人で行って、他の三人は部活を終えてから来ると提案してくれた。
 律と二人っきりにしてくれたんじゃないかと、なんとなく二人に感謝した。











 玄関には、ちゃんと律の靴があった。
 いるってわかっているから、余計に緊張する。だって何を話せばいいのかわからない。
 話したいことも、言いたい想いも溢れすぎてて、言葉に出来そうもなかったのだ。
 律が変だったのは、多分私の所為だ。
 そうじゃなきゃ、あんなにおかしくなるわけないと思うのは自惚れかもしれないけれど。でもこの数日間、律は私に構ってばかりだった。
 何が悪かったのか、はっきりとはわからないのが悔しい。
 だけど謝るだけはしたい。
 私が、律の事を好きでなくなりそうだったことを謝りたい。
 靴を脱いで、上がる。まだ聡は帰ってきていないだろう。
 誰もいないんじゃないかと錯覚するほどに静かな家。
 足音は私のだけ。
 静かすぎて、普段は聞こえないような床の軋む音が聞こえる。本当に律はいるのか怪しいぐらいだ。
 でもいるんだ、律は。
 階段を上る。ドアノブに手を添える。
 変に緊張した。

「……」

 唇を舐めて、入ろうとした。
 その時だ。




「……澪ー?」



 名前を、呼ばれた。
 ――律だ。
 律の声だった。
 たかが何日ぶりのはずなのに、本当に久しぶりに名前を呼ばれた気がした。
 他の誰かじゃない、律に呼ばれたんだ。
 やっぱり律に呼ばれるのは、しっくりくるというか――そうあるべき感覚というのがある。
 嬉しくて泣いちゃいそうで、ドアノブを捻る手が止まる。
 でも私が来てるの、バレてるから。

「超能力者か」

 いつもの私で、部屋に入った。
 律は、自慢のおでこに熱覚ましのシートを貼っていて、首から下をすっぽり布団におさめていた。
 最後に見た律は――調子が出ないと、放課後ねと言って部室を出て行った律だったから、
 あの時よりも吹っ切れたような優しい瞳がこちらに向いているのに、私はなんとなく律がいつもの律に戻った事を悟った。

「わかるよ。澪の足音は」

 律がそんな事を言うので、恥ずかしくて目を逸らしてしまう。
 私だって、律の足音くらいわかるぞ。
 そう返すのは後にして、私は荷物を置いて、律のベッドに背を預けるように座った。

「風邪どう?」
「まだちょい熱ある」
「……どうりでドラムに力なかったはずだ」


 あの時から、もう風邪ひいてたんだ。
 それに気付かないで、私は。


「学園祭の前……なのにな……」

 律が布団に潜り込んでしまう。
 やっぱり自分の事情けないとか、思っちゃってるんだろうか。
 そんなことないのに。

「いいから早く治しなよ……皆待ってるからさ」

 私は、律が入って膨らんでいる布団に頭を乗せた。

「……怒ってない?」

 律の声は委縮していて、聞き取り辛いほどか細かった。

「ないよ」

 唯やムギ、梓は、皆心配していた。
 練習ができない事や、五人がそろわない事に。
 だけど一番皆が心配していたのは、律の元気で明る声や、顔が見れなかったことだと思うんだ。
 いや――それは、皆じゃなくて私だった。


「……澪は?」

 怒ってるわけがなかった。

「……ないよ、当たり前だろ?」

 私は自分に怒ってた。
 なんで律がこんなになるまで、気付いてやれなかったのか。
 きっと、ずっと前――もしかしたら、和と唯でお茶を飲んでいる時よりも、前……その時から、律は風邪をひいてたのかもしれない。
 もう何日も前だ。それに気付かないで、もしかしたら、律の事冷たくあしらったりしていたかもしれない。
 私は昨日まで、『律の事を好きじゃなくなっていた』かもしれないのだ。
 馬鹿律って、この数日間言ってきた。
 そりゃ律にも悪いところがあったかもしれないけど……。
 馬鹿澪でもある。


「でも、律のドラムがないと……ちょっと寂しいかな」


 律のドラム、だけじゃなく律がいないと寂しい。
 でもそう言うのは、照れくさかった。

「私、走り気味でもさ……やっぱ意気が良くって、パワフルな律のドラム、好きなんだよ」


 いっつも走ってばっかで。
 同じリズム隊としては、とてもやりにくくて大変だけど。
 そんなドラムが大好きだから。

「――」

 律の顔のある方向へ目を向けると、律はこっちを見てにやついていた。

「あっ律、お前――」
「ふふ、あははは」

 律は笑いだした。
 私は、何か突っ込もうと思ったけれど、忘れていた。

「もう治ったー!」

 律は勢いよく体を起こし、両手を広げる。
 そのまま続けて顔を歪めてくしゃみをした。

「くしゅん」 
「いや、治ってないから」

 強がるあたりが、律らしいなと思った。
 私は、布団を掴んで律を寝かす。

「ほら寝てなって……まだ熱あるんだから」

 律は大人しく枕に頭を乗せて、私は布団をかけてあげた。
 調子は、そんなにいいとは言えない。
 部屋の中央の小さなテーブルには薬が置いてあったから、今日一日静かにしていれば明日から元気になってくれるだろう。昨日は私に風邪をうつしてくれてもいいと思っていたけど、今は私と律のどちらかが風邪になるのは嫌だなと思った。
 だから今日は、帰ろう。

「じゃあもう帰るな?」

 そう言って振り返った。
 でも。

「ええー、寝るまで傍にいてよー……」

 手を掴まれた。

「ねえ、お願い澪ー……」

 ああ、もう。
 そんな声で言われたら帰れないだろ!
 私は律を見て、溜め息混じりに言った。
 だけど、笑みも零れちゃったかもしれない。

「やれやれ……」

 呆れて見せた。でも本当は嬉しかった。
 私も、律の傍にいたかったから。

「へへっ」
 やっと見れた。

 律の笑顔。
 たった一回の笑顔でも、こんなに心を満たしてくれるのもやっぱり律だけなんだ。


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最終更新:2012年05月31日 23:12