■
「澪……」
手を握って、私は律の顔が見える位置に頬杖をついていた。
律が私の名前を呼ぶ。
「どうした?」
「……なんというか、ごめんな」
律は火照ったように少し赤みのかかった顔で謝る。
「澪も気分悪かっただろ、最近の私」
「……そりゃ、なんだか変だなとは思ったけど」
「私、澪に嫌われたと思ったんだ」
律はごまかすように目を細めて笑った。
「なんで、私が、律を嫌いになるんだよ」
「ほら、楽器屋でさ」
……あ。
『ほら皆、待ってんだって』
『嫌だ』
『みーおーちゃーん』
『ちょ、律、危ないって』
『何やってんだよ澪ー』
『もういいよ、馬鹿律』
「……そのあと、私じゃなくて和とお茶に行っちゃったし……私の事、嫌いになっちゃったのかなって」
「ご、ごめん!」
私、律を傷つけてたんだ。
知らなかったけど、気付けなかったけど……私、何も考えず、馬鹿律なんて言って。
律の事放っておいて、和とお茶に行ったから……律が勘違いするのも、わかる。
もう全部私が悪いんだ。
「なんで澪が謝るんだよ、珍しいレフティを見てたいと思うのは当たり前だしさ」
「わ、悪いのは私だろ。あの楽器屋で、わがまま言ったのは私だし……考えなしに律の事悪く言ったし…… それに、律がお茶にするって言ったのに、私、和の方を選んで……」
「和と行くのは、別にいいだろ。友達なんだから」
「……」
「悪いのは、そうやって澪が和と仲良くなるのに嫉妬した私だよ」
律は自虐気味、というよりも自嘲を含んだ声色でそう言った。
嫉妬、してくれたのか。
「怖かったんだ。澪が、私の事忘れて、和や他の誰かと仲良くなるのが…… もう私の事、構ってくれないんじゃないかって、不安で」
「り、律の事は――」
「いいんだよ。だって、澪が誰かと仲良くなるのは当たり前じゃん。むしろ、喜ぶべきなんだけど…… それでも、嫌だったんだ」
嫉妬なんて。
私だって何度だってあるのに。
律は昔からとても友達が多くて、誰構わず話し掛けていたし、誰とだって遊んでいた。
まさに私とは対照的な奴。
私にとって、律は初めてできた友達で、親友だった。
だから、律が誰かと仲良くしているのを見ると、胸が痛かった。
そんな気持ちになるの、私だけだと思ってた。
「馬鹿律」
「いたっ」
私は律のおでこに、シートごとデコピンした。
「な、何すんだよー」
「お前な……今までどれだけ私も同じ思いしたと思ってるんだよ」
「は、はあ?」
律は訝しげに眉を傾けた。
やっぱり気付いていないのかよ。
「律、お前は浮気しすぎなんだよ」
「浮気って……」
「私には……お前しかいないんだよ。律はたくさん友達いるし、簡単に作れるけど…… 私、人見知りだから、自分から作るなんて……できないんだ」
「……知ってるよ」
「だから、私いっつも思ってた。律が誰かと仲良くしてるの見て、怖かったんだ」
「澪……」
あの気持ち、わかってたはずなのに。
どうして律の気持ちに気付けなかったんだろう。
好きな人が誰かと仲良くしていたら、嫉妬すること、知ってたのに。
律が誰かに嫉妬するはずないと、思ってたのかもしれない。
律がそんな風に私を見てるなんて、思ってなかったから。
そんな風に、私の事想ってくれてるなんて。
「……馬鹿。私は澪だけだよ」
「本当に?」
「本当だって」
白い歯を見せる律。
その笑顔は、魅力的すぎる。
どうしてこの可愛さや、かっこよさに誰も気付かないんだろう。
気付かないままでいい。ずっと私の物でいいけど、皆にも知ってほしい。
複雑な気持ち。
「澪じゃない誰かといる時も、ずっと澪の事考えてる」
「……ありがとう、あと、ごめん」
「だからなんで澪が――」
「わ、私!」
律の言葉を遮って、叫んだ。
律の手をギュッと握りしめる。
そしてありのまま告げた。
「もしかしたら、昨日まで――律の事、好きじゃなくなりかけてたかもしれないんだ」
「――」
律は虚を突かれたように笑顔をなくした。
でも言葉に続きはある。
「律が私を構ってくれるの、嬉しかったのに。でも、和とのお茶やお弁当を邪魔されるの……ちょっとだけ嫌で。
ちょっかい出されるのも、なんだか嫌で。む、昔はそんなことなかったのに」
喉が詰まる。
だけど、だけど。
言わなきゃ。
「なんで律の事、ちょっとだけうるさいと思っちゃうんだろうって思って―― もしかしたら、もう律の事、好きじゃなくなったのかもって……怖くて」
律の事ずっと大好きでいたかった。
だから、律の事を嫌いに――嫌いとまでは行かなくとも、
好きという感情が消えている域まで行っちゃったのかも、と思うのは辛かった。
律は何も言わず、私の目だけ見つめてくれていた。
握り締めた手も、もっと強く握り締めてくれた。
「でも、気付いたんだ。昨日――律の事を考えただけで、泣けてきて……もう涙が止まらなくて。
会えない事が苦しくてさ……律の顔が見れない事や、律のドラムが聴けない事……私の名前を呼んでくれない事が、辛くて」
律の部屋でうずくまって、律の事だけ考えた。
知らず知らずに泣いていた。
鏡を見て、それに気付いた。
「そんな気持ちにしてくれるの、やっぱり律だけで……私には律しかいないって、改めて思ったんだ」
「澪……」
頬に、またなんだか違和感。
律と繋がっている手とは別の手で、そこを撫でた。
また濡れてた。
「……ごめん、律……私、これからは……ずっと……」
「ああ、ほら。泣くなって」
律はあったかい手で、涙を拭ってくれた。
律のお見舞いに来ておいてなんてざまだ……。
でも、やっぱり嬉しい。
「ありがとな、澪……私も、こんな気持ちにしてくれるのは、澪だけだよ」
「ひっく……こんな気持ちって……?」
「澪が誰かと仲良くしてるの見て、嫉妬するとか……泣き顔かわいいとか……ってああもう! 言わせんな恥ずかしい!」
「……っ……ふふ……あはは」
久しぶり、律。
それから、ムギたちが来るまで、色んな事を話した。
律が苦しかったのは原因を作ったのは私で、無意識のうちに律を苦しめていた。
私が謝れば律は私の所為じゃないと言ってくれるけれど、全ての原因は、私の律への気持が薄れかけていた事にあったんだ。
でも今は、薄れてなんかいない。
もう私には律しかいないんだって、本気でわかったから。
「大好き、澪」
「私もだよ、律」
こうやってずっと笑い合っていたい。
■
あれから、私たちは私たちを誓い合った。
ずっと一緒だって。
そして今も、共にいる。
お互いがお互いを気遣いあいながらも、時には悩んで、相手の事を想いすぎて辛くなったりもするけど――
隣にいる事に躊躇など覚えなかった。
律は、また一人で何かを抱え込もうとしている。
それを分かち合えるのは、私だけだって思いたいから。
こうして、今を一緒にいる。
■
『した』後、私と澪は寝ることにする。
電気を消して真っ暗なまま寝たが、全然眠れやしない。
暗闇にも慣れて、部屋の家具の位置も簡単にわかるレベルだった。
左を向くと、澪は向こうを向いて寝ていた。私は上半身だけ起こして、なんとなく呼びかけてみる。
「澪」
「……何?」
「……まだ起きてたんだな」
「いや、その……」
「やっぱり、嫌だった?」
「そ、そうじゃないって」
「私も、調子に乗っちゃったしさ」
「律の意地悪……」
「み、澪が可愛すぎたんだよ……ごめん」
「でも……」
「でも、何?」
「なんでもない」
「気になるだろ……」
「……なんというか、律が意地悪してくれるの、久しぶりっていうか」
「――……」
「やっぱり、ちょっと嬉しかったというか……その……」
「……ごめん。澪はやっぱり『昔の私』の方が、好きだよな」
「ち、ちが――」
「違わない。澪は、いっつも笑ってて、お調子者で、澪を弄ってばっかりの私の方が好きだったんだろ」
「で、でも律は律だ」
「そう言ってくれるけど、澪は――そういう私が好きだったんだよな。
そして、今の私が全然意地悪しない事、昔みたいに笑ってくれない事を、あんまり快く思っていない」
「だから、違うって」
「わかってるんだ。前の――澪の望むような私じゃないって」
「律――」
「だから、澪の好きな私に戻れない私が、大嫌いだ」
「……律」
「澪が前の私を好きなのに……昔みたいに笑ってる私の方が、澪は好きなのに!
わかってるのに……今の私じゃ、澪を笑わせられない、幸せにしてやれない……。
……前の、お調子者の私に戻るのが、怖くて……あの頃の私を、私は、まだ好きになれなくて」
いつも誰かを笑わせてた。
いつも澪を弄ってた。
私自身も笑ってた。
だから大学に落ちちゃったんだろ。
勉強を真剣な顔でやらずに、笑ってばっかりで、大丈夫だって思ってたんだろ。
他の誰かに意地悪ばっかりして、自分の事は棚に上げて。
「だから、私――」
「律」
さっき散々したけど、今度は澪からキスされた。
浅いキス。
澪の顔は、暗かったから見えなかった。
「馬鹿律……」
「馬鹿で、悪かったな」
「今の律が嫌いだって言ったら、前みたいになってくれるのかよ」
「澪は今の私が好きなのか? そうじゃないだろ。澪は前の私の方が好きだ。そんなの私にだってわかってる」
「わかってないよ。私は律が――」
「澪は私の事、好きだって言ってくれる。嬉しいよ……。でも、それは変わる前の私に対してなんだろ」
「じゃあ、戻れよって言ったら戻るのかよ。前の律が好きです、今の律は嫌いです。
だから前の律に戻れって言ったら、戻ってくれるのか」
「……無理」
「だから、受け入れてる。今の律も大好きなんだよ。それでいいだろ」
「それで澪はいいのかよ」
「……いいよ、律と一緒にいられるんなら」
言ってる事、無茶苦茶だな、私。
そんなに自分を責めてどうなるんだ。
澪が悲しんじゃうだけなのに。
澪は、絶対に、以前の――元気でお調子者な私の方が好きなんだろう。
それはわかってるけど、前の私に戻るのが怖い。あの時の私を、私は好きになれない。
どうすればいいんだろう。
澪が望む事、私が望んでいない事。
澪が喜んでくれるのなら、前みたいに笑って過ごしたい。
でも、そうすることは、私にとって辛いことでもあるかもしれないんだ。
あの時の私は、自分が笑っている事で自分の事も好きでいられたし澪と一緒にいれた。
でも。
今の私はどうなんだ。
皆に嫌われるのが怖くて――嫌われているんじゃないかってビクビクしてて。
皆はそんな奴じゃないってわかってるのに、もしかしたらって思って震えてて。
嫌われていたとしたら、その事実を知るのが怖くて殻に籠ってる。
そして、ときどき澪に悩みを垂らして、慰めてもらってる。
ウジウジしてて何もできない最低な奴。
そんな私が、大嫌いだ。
でも、前の私も好きになれない。
私は、私の全部が嫌いになってしまった。
そんな私が、澪を幸せにできるはずがないのに。わかってるのに。
でも傍にいてほしい。澪の望む私じゃないけど、傍にいてほしい。
わがままだな……。
「ごめん。忘れて」
逃げるように、布団を被る。
布団の外で、澪が言った。
「律は……私といて、楽しいのかよ……」
「――」
楽しいよ。
澪といつまでも一緒にいたい。
誰にも渡したくない。
ずっと私の傍にいてほしい。
だけど、澪と一緒にいる事は、澪を傷つけることに繋がっている。
澪は、以前の私が好きだ。そして今の私の事は好きじゃない。
その変わってしまった『
田井中律』を、澪は見ているのが辛いに決まってる。
澪が辛いのなら、私は――。
「澪だって、私といるの、楽しいと思ってるのかよ」
「……楽しい」
本当なら、嬉しいけど。
嘘、なんだろうな。
わかってるんだ、全部。
楽しいと思ってくれてるかも知れない。
澪も、私の澪に対する想いと同じ事、想ってくれてるかも知れない。
私とずっと一緒にいたいって、想ってくれてるかも知れない。
でも、澪が一緒にいたいと思っている『田井中律』は……今の私じゃない。
だって、前ほど笑ってないし、楽しそうじゃない。
そうさせているのは、私――変わってしまった、『田井中律』なんだ。
どうしよう、どうしよう……。
葛藤は、どんどん私の体を蝕んでいく。
不安で、押し潰されてしまいそう。
だから、私は謝るしかない。
この心の痛みは、全部、私の罪みたいなものだから。
「――澪、ごめん」
「……おやすみ、律」
「おやすみ、澪……」
澪は私とは反対方向を向いて寝た。
澪への気持ち、私の事。
考えてたら、眠れなかった。
最終更新:2012年05月31日 23:14