「律は……私といて、楽しいのかよ……」


 律は布団を被ってしまい、顔を隠した。
 私も、顔を見られずに済む。
 律は、私の質問に答えなかった。


「澪だって、私といるの、楽しいと思ってるのかよ」


 楽しいよ! と、声に出ない自分が、情けない。
 肯定できないなんて……律といるのが楽しい事を、自信を持って言えないなんて。
 律といるのは楽しい。
 そう思いこんでいる、だけ……なのかな。


「……楽しい」


 本当に、楽しいのかよ。
 私がいることで、律をもっと苦しめてるんじゃないのか。
 そして、律が変わってしまった事を、否定はしてるけど。
 確かに悲しいんだ。
 律は言った。


『澪は今の私が好きなのか? そうじゃないだろ。澪は前の私の方が好きだ。そんなの私にだってわかってる』




 最低だ、私。
 そうなんだ、そうなんだよ。
 私、前の律の方が好きなんだ。
 今の律が、あんまり好きじゃないことを。
 認めなきゃ、受け入れなきゃいけないのに。
 私は、以前の、いつも笑ってて元気な律の方が好きなのに。
 今の律は好きだなんて、嘘を言って。
 律は律だ。そこは変わらないし、大好きだ。
 だけど、一緒にいることに前ほどの充実感は得られない。
 でも嘘ばっかりで、律を傷つけている。


 私、私は――。
 私が『前の律が好き』と言えば、それで済むわけがない。
 律は『前の律が嫌い』なんだ。
 律がそうしたいなら、そうすることが一番だ。律の望むことが私の望む事であればいいのに。
 私は、思っちゃうんだ。


 以前の律に戻ってほしいと。


「――澪、ごめん」


 律は謝った。
 私も、心の中で謝った。
 ごめん、律。


「……おやすみ、律」
「おやすみ、澪……」


 私は、まどろみの中に落ちていく。
 律の反対方向を向いて寝た。
 いつまで経っても、律の寝息は聞こえなかった。










 朝起きると、律はもう制服に着替えていた。
 時計を見ると、既に予備校の始業まで三十分を切っている。
 比較的近場なので急げば間に会うレベルだが、普段よりも余裕がなさすぎた。


「律、起きてたんなら起こせよ」
「あんまり眠れなかったんだろ? だからギリギリまで寝かせてやろうって思って」


 律はそう言って、部屋の鏡を見ながら制服を整えて始める
 眠れなかったんだろ――。
 私があの会話の後昨日色んな事を考えて、すぐに寝付かなかったの、やっぱりばれてたのか。
 律はこういうのいつだって鋭いし、私の思っている事はすぐに気付いてしまう。


 私は起き上がって、律と同じクローゼットから制服や靴下を取り出す。
 朝食を食べる前に着替えて、食べたら歯磨きや洗顔、髪を整えたりしてから出掛けるのがいつもの手順だが、
 今日はいつもより三十分も遅いので一つ一つの動作を早くしなければいけなかった。


 鏡をチラッと見ると、それほど髪は乱れてはいない――あれだけ昨日律が触ってくれたのに――ので、髪を櫛で数回梳くだけに終わった。

 一階に下りると、テーブルにはすでに朝食が並べられている。
 律と聡の分はただの皿になっていて、どうやら食べていないのは私だけのようだ。
 聡は大会が近いと昨日律も言っていたから、朝練か何かだろう。
 律の作った料理は何でも美味しい。自慢、に聞こえちゃうかもしれないけどプロが作ったって言っても信じるぐらいだ。
 長年食べてるけれど飽きないし、むしろ律の腕前は上がっている。

 贅沢な話だな……。

 律は、私といる事を拒みはしない。もし律が私といる事に苦しみを感じていたとしても、律は私と一緒にいたいと思ってくれているのかもしれない。
 それは私も同じで、私が毎日の生活を律と一緒にいる事が苦しくても、私は律と一緒にいたい。
 この矛盾は、何なのだろう。
 私は律の用意した朝食を口に運びながら、二階でドタドタする足音を聞きながら思う。
 矛盾――葛藤。
 一緒にいる事は私を苦しめる。
 一緒にいたい。
 そして、一緒にいる事は律をも苦しめている。
 どうすればいいんだろう。
 どうすれば律の苦しみは無くなるのだろう……。

「おい澪ー、時間ないぞ」

 律が廊下から顔を覗かせる。私はちょうど食べ終わったので、立ち上がった。

「お前が起こさなかったから時間ないんだぞ」
「ごめん」
「……いいよ」

 私は真顔で謝る律に、居た堪れないままそう返した。
 洗面台に駆け込んで、もう一度髪を梳かして、歯も磨き、顔も洗う。
 時計を一瞥すると、始業まであと二十分と迫っていた。
 私は顔を拭いて、顔を整えたり、それなりの身支度を済ませてその場を後にする。

 部屋に戻って鞄の中を確認。今日の授業の用意は昨日のうちに済ませてあった。
 鞄を持って一階に下りると、律は玄関の段差に腰かけて靴に履き替えていた。
 その背中は、逆光で少しだけ暗く見えた。そっと近寄って、私も横に並んで靴を履く。

「澪、もういいのか」
「いいよ。遅刻したら駄目だろ」

 律はそうだな、と小さく漏らし、立ち上がった。律が玄関のドアを開ける。
 七月の、じめじめしつつも夏らしい空気が顔に降りかかった。
 私も立ち上がって、律について行く。時間差で横に並んだ。


 ――無言で歩いた。
 予備校の始業は近づいている。走った方が安全なぐらいだ。
 でも、私と律は、走ろうという気にはならなかった。
 歩いて間に会う距離だから、歩きたかった。
 走った方が遅刻を免れる可能性は高いけど、歩いても間に会うのなら、歩いたままでよかったのだ。

「……律、昨日のことなんだけど」
「忘れろって、言ったじゃんか」


 律は、表情を崩さずに言った。
 忘れろなんて言われて、忘れられるはずがない。
 こんな会話を、律は望んでいない事も知っている。
 忘れろ、ということは、もうこんな話はしたくないと言っているんだ。
 でも、私は。


「――律は、前の律に戻りたくないって、思ってるんだよな」


 切り出すのは簡単だった。
 律と私の足音は止まらない。
 ただ歩き続けている。
 でも、私は次に何を言うべきなのか、真っ白になっていた。
 自分から話し始めておいて、何も言えないのは、沈黙が痛くなるだけだ。


「……律が前の律に戻りたくないのなら、それでもいい」

 これも本心だった。

「律が苦しくない選択をしてくれれば、私はそれでいいんだ」

 それでいいんだ。
 それでいいんだ。






 いいわけないのに、また嘘ついてる。
 私は前の律が好き。元気いっぱいな律が好き。
 でも、律は前の律が嫌い。


 どうすればいいんだろう。
 律が今の律のまま生きていくことは、律が苦しくない選択。それで律がいいならそれでいい。
 でも私が――わがままだけど、私はそれを快くは思わない。
 前の律に戻ってほしいと、僅かに願ってしまってる。
 嘘ばっかり。


「……澪は嘘つきだな」


 ほらバレた。


「私が苦しくない選択をすれば、澪が苦しくなる」











「私が苦しくない選択をすれば、澪が苦しくなる」
 私はそう言った。歩きながらで、澪の顔は見えない。
 見たいとも思わなかった。


 私が苦しくない選択――それは、『今の私』で生きていく事。
 私が苦しい選択――それは、『前の私』に戻る事。
 澪が苦しくない選択――それは、『前の私』に戻る事。
 澪が苦しい選択――それは、『今の私』で生きていく事。


 私がどれだけ甘えているのか、うじうじしているのか、自分でもわかってる。
 私が以前の――元気な田井中律に戻れば、全部解決する話なのにな。
 でもそうすることを、私は未だに拒み続けているんだ。


 『今の私』がまったく苦しくないわけじゃない。
 でも『前の私』に戻ることはもっと怖い。



 戻れるなら。
 できるのならば、戻りたいよ。



 そうすれば澪の苦しみはなくなるのに。
 また、澪の笑顔が見れるのに。



 わかってるのに。



 私はそれを踏み切れないでいる。


 どうしてこんなに悩まなくちゃいけないんだろう。
 どうすれば、私たちはまた笑顔に戻れるんだろう。


 なんでって、なんで私は以前の私に戻る事を恐れているんだ?





 ――簡単だ。
 元気いっぱいの田井中律が、受験に失敗したから。
 もし元気はそこそこの普通の田井中律だったら、受験に成功したのかな。
 でも、元気のない田井中律だったとしたら、あんなに高校生活を楽しめたのか。
 そう言われると自信はない。お調子者の私だったから、軽音部でいられたんだろう。


 じゃあ、なんで今の私は『こんな』になっちゃったんだ。


 嫌われているかもしれないと、案じたから。
 受験に失敗した事を罵られるのが怖いから、頭を低くするようになったから。
 以前の私を、殺しちゃったからなんだ。


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最終更新:2012年05月31日 23:17