八月に入って、軽音部の新メンバーにも慣れてきた。




 澪先輩たちが卒業して、もう五カ月。
 憂と純がそれぞれキーボードとベースとして入部してくれて、新歓ライブは、三人で新しく作詞作曲したものを歌った。
 澪先輩や唯先輩に遥かに劣る私のボーカル。
 十分に上手だけど澪先輩に比べると何倍も劣る純のベース。
 ムギ先輩に勝るとも劣らない……でも主張の弱い憂のキーボード。
 ……そして助っ人のさわ子先生の下手糞なドラム。
 でこぼこであまりにも演奏力に磨きのないバンドアンサンブルは、放課後ティータイムとして二年活動した私にとってはとても物足りないものだった。

 それでも新歓ライブは成功し、新入部員が二人も入ってくれた。
 一人はギターができる子で、もう一人は彼女に誘われたまったく何もできない子だった。
 私たち三年生は、何もできない子にドラムを教える事にする。
 専門知識は得てはいないけど、叩けるぐらいにするには私も純も心得ていた。
 なんとなく安心した。
 ギターが二人、ベース、キーボード、ドラム……。
 これで、去年と同じ楽器メンバーだ。

 よかった。
 四月は、そう思ってたのに。


 同じ楽器なだけに、去年と比べてしまうようになっていた。


 全員、去年の方がレベルが高かった事は言うまでもない。
 八月だから、一応高校は夏休みだ。
 私と憂と純は本来ならば受験勉強に励まなければいけないのだけど、去年も唯先輩たちはこの時期も部活には来ていたのでそれを習うことにする。
 だけど律先輩が落ちるという不測の事態も起こってはいるので、夏期講習にも通っているし学校が主催する勉強会にも参加していた。
 部室に行くと、一年生の二人がすでに練習をしていた。

「こんにちは」

 二人は快活な笑顔で挨拶をしてくれた。
 時刻はすでに一時半を回っている。
 私たち三年生三人のサイクルは、朝から学校の勉強会、昼から部活、夕方から夏期講習というある意味で充実したものだった。
 ムギ先輩がいなくなり、『ティータイム』と冠するものはまるでない。バンド名も、今は別の物だ。
 お茶を部室でたくさん飲んでいたから、あんなにだらけた受験生だったんだ。
 私はそうはならない。受験に失敗したくもないし、先輩たちみたいに無計画で過ごしたくない。
 先輩たちは部活一辺倒で、少し勉強という印象だったけど、私はどちらもまんべんなくやると決めていた。



 私はこの日、少しだけ心に落ち着きがなかった。
 来週、唯先輩とムギ先輩がこっちに帰ってくるというのだ。
 昨日の夜、唯先輩からメールがあり、『あずにゃん待っててね。私とムギちゃん、お盆の三日ぐらい前にそっちに戻るよ』とあった。
 メールの文面だけだと、唯先輩は特に変わった印象は見受けられない。だけど、文章には続きがあった。

『久しぶりに五人で集まろうよ』……。

 唯先輩の笑顔は浮かぶ。

 でも、律先輩と澪先輩は、五人で会う事をそんなに快く思ってないんじゃないのかな。

 澪先輩は、唯先輩とムギ先輩が帰ってきたらお茶しようと言ってくれたけど……でも、律先輩は私たちに会いたいとは思っていないはず。
 澪先輩は律先輩と同じ選択をするだろう。
 なら、五人で会う事は叶わないんじゃないのかな。

『澪先輩や律先輩と会う約束でもしたんですか?』

 と返信すると、すぐに返ってきた。

『うん。十六日にね。りっちゃんはちょっと迷ったみたいだけど、約束してくれたよ』


 約束、したんだ。

 前に書店で会った時、律先輩は私と会うことさえ拒んでいたのに……どんな心境の変化なんだろう。
 それとも少しは時間が傷を癒してくれて、前みたいな律先輩に戻りつつあるのかな。
 それとも澪先輩が励ましたりして、律先輩に決心させたのかな。
 どっちにしても、澪先輩が律先輩に『そうさせるだけの何か』をしたに決まってる。
 複雑だ。
 十六日といえば、もう来週だ。久しぶりに五人で会える事は楽しみ。
 だけど、素直に喜べないのはなんでなんだろう。


「梓先輩」

 ――五人で会うの、前は楽しみだったのに。

「梓先輩ってば」
「あ、え?」
「もう、何回呼んだと思ってるんですか」

 私はギターを持って立っていた
 どうやらいつの間にか昨日の事や五人の事に想いを馳せすぎていたようだ。
 後輩のギターの子が、少し口を尖らせて私を見ている。

「ご、ごめん」
「何か考え事ですか?」
「ちょっとね……」

 それで何か用だったの? と彼女に問うと、彼女は練習中の楽譜を取り出して、私に色々と質問してきた。
 この部分のコードはどうとか、ここのミュートが……とか。私は熱心に質問してくる後輩に、一つ一つ教えていく。
 彼女は楽譜の余白にメモを取ったり、タブ譜を雑ながら書いていったりと、とても真面目に私の話を聞いてくれていた。
 後輩は、とても可愛い。
 私より身長は低くて――この数カ月でそれなりに身長は伸びたからか――小柄な女の子。
 ちょうど一年生の頃入部した私になんとなく似ていた。
 部室で一生懸命ギターを練習していたり、時々見せる綻ばせた笑顔は微笑ましい。
 唯先輩がいつも私を構っていた気持ちがよくわかる。

 ああ、こんな気持ちだったんだなあって。
 本当にちょっかい出したり、なんだか色んな事をしてほしいと思うほど微笑ましかったんだなあって。

「ありがとうございます」

 彼女はお礼を言うと、私と少し距離を置いてジャカジャカと弾き始めた。
 私の助言は活かし切れていないけど、それでも顔をしかめて練習しようとする様子はなんとなく心に染みた。
 ちらっと向こうの机を見ると、憂と純がこっちを心配そうに見ていた。
 何? と尋ねたけど、二人は何も言わなかった。



 五人で、演奏することにする。
 文化祭で披露しようと考えているのは全部で五曲。
 全部四月から三年生の三人で書いた曲だった。歌詞は私だったり憂だったり……純は歌詞を書けなかった。
 作曲は憂がアコギとキーボードと使って行い、アレンジは私と純が考える。
 ただ私と憂はベースの知識がほとんどないので、曲のベースラインは全て純が考えていた。
 そう考えると、五人のラインの原型をほとんど全て作曲していたムギ先輩の音楽の才能は、計り知れないものがあると思った。


 時刻は二時三十分。それぞれの調整や音作りを終えて、五人で曲を合わせてみることにした。

「じゃあ、やろっか」

 私がドラムの後輩に目配せすると、彼女は緊張しつつも頷いた。
 そして。
 掛け声。
 私のリフと、後輩のアルペジオ。純のベースと憂のキーボードも後から追いかけるように重なる。
 前奏を終えて、私は空中にマイクを思い浮かべて口を開いた。

 歌を歌う。

 でも頭の中は、歌詞を流し読みするだけで、今は別の事に考えがいっていた。

 さっきの掛け声。律先輩に比べると、勢いも覇気もない。

 後輩のギター。唯先輩に比べると、楽しそうでもない。

 憂のキーボード。ぎこちない手つきは、ムギ先輩の指先を想起させやしない。

 私のギターボーカル。下手糞な歌と、それに縛られた下手糞なストローク。

 そして純のベース。今思うと、本当に澪先輩は上手だったんだなって思う。

 澪先輩は、ベースという楽器の果ての果て、というのは言いすぎかもしれないし私の過剰な表現かもしれないけど……
 ――でも低い唸りや、サポートに徹しつつそれでも硬派に主張するベースという楽器の良さを、きちんと引き出していたのだ。
 フィンガーでもピックでも、そこに『澪先輩の音』というのが確かにあった。だからこそ私もそれに惹かれたのに。
 純のベースは――そんな澪先輩と比べることすらできないほど、私にはいい音を出しているとは思えない。
 純が下手なわけでも、彼女をけなしているわけでもない。
 でも、どうしても。


 どうしても澪先輩と比べちゃうんだ。


 私の大好きな人で、私の大好きなベース。
 純が澪先輩と同じ立場で同じ楽器を弾いているということが、こんなにも憤りを感じるなんて。
 そこは澪先輩の場所なんだって、そんなレベルで澪先輩と同列だと考えないでって。
 罵りたいだなんて……純は、大事な友達なのに。






 ――駄目だ。


 駄目だ、こんなんじゃ。
 こんなの、こんなのって。




「もう、嫌だよ!」



 私は、叫んでいた。
 嫌だ。
 去年の軽音部を超えるとか言っておいて、私は、放課後ティータイムを――。
 澪先輩を諦めきれていない。
 傍にいてほしいと、一緒に演奏してほしいと願ってしまってる。
 律先輩ではなく、私を見てほしいと想ってしまっている。

 こんなんじゃ、駄目なんだ。
 こんなんじゃ、後輩にも純にも憂にも――嫌な思いをさせちゃう。
 私が、気持ちに終わりをつけ切れていないから……。

「梓先輩?」
「梓ちゃん?」
「どうしたのさ梓!」

 皆が駆け寄ってくる。見回すと、全員不安そうな表情をしていた。
 はは……心配してくれるんだ。
 私は、だらりと腕をぶら下げて、自嘲を含みつつも答えた。


「ごめん……私……帰るね」


 精一杯笑ってみせる。ギターとアンプを繋ぐケーブルを抜く。
 ギターを肩から下し、ソファに置いてあったケースにしまった。その様子を、他の皆は何も言わないで見ていた。

「あ、梓?」

 私がケースを担いで振り向くと同時に、純が私の名前を呼ぶ。
 その口調には『どうしたの?』という意味合いも含まれていた。
 どうしたのって、私が聞きたいよ。
 でも、胸が痛いんだ。朝から。いや昨日の夜から――。
 なんでだろう。むしろ教えてほしいぐらいなのに。

「本当に、ごめん。明日は、来るから」

 私は皆の間を抜けて部屋を出て行った。
 扉を閉めたと同時に、部屋の中から私の名前を呼ぶ声が聞こえたけど、誰も追いかけては来なかった。


 律先輩みたいだな。
 階段を駆け下りながら思った。
 律先輩じゃん、これじゃあ。
 ――なら、あの時も。
 あの時も律先輩は、きっと何かで悩んでいたんだ。
 そして今の私は、何に悩んでいるんだろう。


 ――澪先輩。
 澪先輩が、律先輩に取られちゃう事。
 放課後ティータイムという軽音部の居場所を、私たちみたいな五人が汚しちゃう事。
 もう全部、嫌な事だらけ。


 来週五人で会う時、私は笑っていられるのかな。
 律先輩が澪先輩と一緒にやってきた時、私は笑顔で迎えられるのかな。
 ……無理だ。
 それどころか、それをぶち壊したいという想いばかりが募る。
 ……ごめんなさい。



 その日、私は家でずっと寝ていた。
 夏期講習もサボって、ソファの上で一日中寝ていた。









 七月三十一日。明日から夏休みという日。私と唯ちゃんは、最後の講義に出ていた。
 明日から夏休み……でもりっちゃんに会えないのなら別に向こうに帰る理由もあまりない。
 それは両親に久しぶりに会ったり、梓ちゃんや澪ちゃんの様子も気になるけれど。
 でも会ってくれるかわからないまま帰ったってそんなにいい事なんてないんじゃないのかなと思う。

 唯ちゃんは、今日も茫然と教授の話を聞いている。

 講義が半分ほど過ぎた時、私の携帯がバイブした。
 携帯の側面についている小さな画面に送信者の名前が小さく表示される。

 澪ちゃんからだった。
 すぐに受信メールを見てみる。題名に『五人で会う話』とあった。

 前に提案したけど、りっちゃんが会えないと言って断られたあの話のこと……? 
 でもあれはもうやらない事になったはずじゃなかったのだろうか。私は期待と不安が入り混じった気持ちで本文を開く。

『この前断った五人で会う話だけど、やっぱりやろう。律も皆と会うこと約束してくれたし。まだ律も前み』

 まだ続きはあったけど、喜びで指が止まった。
 やった、りっちゃんに会える!
 何カ月も見ていない彼女の顔を思い浮かべるだけで、心にふんわりとした高揚が広がるのがわかった。
 今までそれはただ頭で思い出すだけだったけど、今度は本物に会うことが久しぶりに叶うんだ。
 それだけで私は、口元が緩んでしまっていた。
 続き続き。
 私はボタンを押して読み進める。


『まだ律も前みたいに戻れてないけど、五人で会うの、二人とも楽しみにしてるから』


 ――。
 前みたいに戻れてない。

 それって、やっぱりりっちゃんが、以前のように元気のあるりっちゃんではないという事。
 この四カ月で、りっちゃんは前のりっちゃんに戻れなかったということだ。

 澪ちゃんでも、元気なりっちゃんに立ち直らす事は出来なかった……。
 最後にりっちゃんに会ったのは、卒業式だ。
 その日のりっちゃんは酷く伏し目がちで、一日中暗かった。

 ずっと澪ちゃんと一緒にいて、笑う時も目は虚ろ。私たちが話しかけても返事はするけど感情はこもってない。
 放課後、部室にりっちゃんと澪ちゃんは来なかった。

 そんなりっちゃんだった。
 澪ちゃんでもそれはできなかったなんて……りっちゃんの心の傷は、とても深いのかもしれない。

 きっと、本当は私たちに会いたくないんじゃないか。
 だけど会おうと言ってくれてるのなら、りっちゃんはりっちゃんなりに今の自分と戦っているんだろう。
 苦しいのに、どうにかしようと足掻いているんだと思う。
 苦しいのなら、今のままでもいいと私は思うのに。
 りっちゃんが苦しい姿なんて、見たくないのに。


『場所は、部室で』


 澪ちゃんは、最後にそう残し、挨拶を最後に書いて本文を終えていた。
 何を思って、りっちゃんは私たちと会う事を決めたのだろう。
 だけど決意の裏に、必ず澪ちゃんの支えがあったんだ。
 会える事は嬉しいのに、それがたまらなく悔しい。


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最終更新:2012年05月31日 23:19