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「律、ムギにメール送ったから」
今日は金曜日だけど、予備校は休みだった。 世間はなもう夏休みだったから。
明日から八月。
唯とムギは夏休みに入るだろう。
梓は先週からとっくに夏休みに入っているだろうし、きっと勉強と部活の毎日に違いないと思う。
私と律は、律の部屋でそれぞれの時間を過ごしていた。
律はベッドの上で来週行われる模試の要項を読んでいた。寝転がって読んでいる姿は、以前も今も変わらない。
私はというとカーペットに座っていて、ちょうどさっきムギにメールを送ったところだった。
以前相談していた五人で会う約束を、私たちも了承した事を伝えるためだ。
「……ああ、ありがと」
律はこっちを見て静かに微笑んだ。
律は昨日の夜、ベッドの中で私に言った。
「澪、やっぱり――私、皆に会う」
隣で寝ている私は、その言葉に驚いた。
「ど、どうしたんだよ突然」
あんなに会うのを嫌がっていたのに。
部屋は暗いのだけど、こんなに近くだと律の顔はなんとなく見える。
律の表情は、悩ましいような――でもどこか悟ったような軽やかさもあった。
「……皆に会わなきゃ、何も始まらない気がするんだ」
律は続ける。
「澪が望む私……私の望む私。一カ月前に、澪とそんな話したよな」
『――律は、前の律に戻りたくないって、思ってるんだよな』
『……律が前の律に戻りたくないのなら、それでもいい』
『律が苦しくない選択をしてくれれば、私はそれでいいんだ』
『……澪は嘘つきだな』
『私が苦しくない選択をすれば、澪が苦しくなる』
そんな話、確かにした。
一緒にいる事。
律の選ぶ律、私の選ぶ律。
全部大好きな律だけど、心は以前の律を求めている事。
全部律にバレているし、私も私自身が嘘をついていることもわかってる。
でも、お互いが一緒にいたいことも。
「……澪の望む私と、私の望む私。どうしたって今のままじゃ交わらない」
私の望む律。それは以前の律。
律の望む律。それは今の律。
律だって、今の自分が好きなわけじゃない。
どっちも苦しい。だけど、どちらかと言えば今の自分の方が気が楽というだけだろう。
以前の律に戻ることが、怖くてたまらないと言っていた。
だから私の望む律と、律の望む律は、ずっと平行線のままだ。
でも。
「私だって――前の私に戻れるのなら戻りたい。澪が好きだと言ってくれるあの自分に」
私は黙っていた。
「だけどどうしたって決心つかない。あの頃の――笑ってた私に戻ることが、今も怖い」
律の独白は続く。
「でも、今のままじゃ駄目だって……このまま悩んでいても、私は――私たちはずっと幸せになんかなれない。
澪を笑顔にすることも、私自身が心から笑えることもできない」
私を笑顔にすることが、先決なのか。
私は、律が笑ってくれればそれでいい。
でも、律は――私が苦しいのを見逃しはしないだろう。
「だから――どんなに時間がかかっても、澪に迷惑をかけたって……元気な
田井中律に戻りたい。
そうすれば、澪も私も、辛くも苦しくもないだろ?」
律……。
律はいつだって私の事考えてくれている。
それが嬉しい。
律はいつだって、私の律なのだ。
だけど、それでいいのだろうか。
私のために、律は苦しい選択をしている。
本当にそれでいいんだろうか。
私が律を苦しめているも同然なのに――。
嬉しいのに、悲しい。
だけど、今は考えないことにした。
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正直、痩せ我慢だ。
そうするって決めて、どうにか穏やかを装っているだけ。
この決断は間違っていない。でもその日が近付くにつれて怖さは増していく。
皆の顔を見るのは確かに少しだけ楽しみかもしれないけど、いろんな事で迷惑をかけた申し訳なさは呪いみたいに心にへばりついていた。
そしてその呪いは、確かに私の中で大きくなっている。
だけど後悔はしない。むしろこの怖さは、その先の幸せの対価だ。
澪が幸せになる。澪が喜んでくれる。そして私も笑える。
そんな時間が訪れるためには、私がどうにかしなければならない。
今みたいに、悩んで悩んで何もしない私のままじゃ駄目だ。
以前の――お調子者の田井中律に戻る事は苦しい。
だからって、『今の田井中律』が苦しくないわけじゃない。
今も苦しいんだよ。
どっちも苦しいんだよ。
だったら、誰かが得をする苦しみにしてやるって、今になって気付いた。
今の私、以前の私。
どっちも苦しい。でも、以前の私なら――。
以前の私に戻れば、澪が笑ってくれるんだ。
それでいいじゃん。
澪が笑ってくれるのなら、苦しくなんかないはずだ。
一緒にいれば。
でもまだすぐに以前の私のように振舞う事はできない。
以前の私の事を、澪以外の皆が嫌っているかもしれないという邪推もあるから。
だから、まずは五人で集まろう。
そして色んな事を話して。唯とムギの大学の事とか、梓の新しい軽音部の事とか。
お茶を飲んでお菓子を食べて、また皆で笑いあう時間になって。
そしたら、私も皆を信じれるから。
私もまだ五人でいられる事を信じていたいから。
この一ヶ月――前回澪とそんな話をしてから今日までの日々は、本当に辛かった。
でも、踏み切れた。私が皆と会う事に踏み切れたんだ。
ここから、以前の私に戻る一歩が始まるんだ。
澪――そうさせてくれたのは澪だ。
いつも私が悩んでいる時、助けてくれるのは澪だ。
澪のことで悩むこともあった。二年生の時の嫉妬の時だって。
でも、最後は絶対澪が救ってくれる。
私に、力をくれる。
澪と一緒にいたい。
それだけが、私を動かしてる。
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ざわめきの中、私は携帯電話を耳に当てていた。
『お姉ちゃん大丈夫? ちゃんと乗れる?』
「大丈夫だよー。もう大学生なんだし、乗り場を間違えたりなんてしないよー」
電話の向こうで、いろいろと憂が心配そうな声をかけてくる。
私が高校生の頃からいろいろと世話を焼いてもらっていたけど、今もそれは変わりない。
一週間に一度は電話をしてきて、調子とか困った事はないかとか、仕送りの事だったりを尋ねてくる。
そんなに頼りないかなとも思うけれど、これは頼りなさからじゃなくて憂の私に対する想いの強さなんだなって思うとそんな気遣いも嬉しく思えた。
私とムギちゃんは、これから実家に帰る。
今日は八月十二日。明日から三日間は暦上お盆休みだ。
私と憂の両親は今も海外で、お盆は特にこれといった予定はない。
でもムギちゃんは私と違って、いろんな親戚やお得意さんなどと会うパーティーやお墓参りなどもあるとのこと。
やっぱりムギちゃんの家はすごいなあと思う今日この頃だ。
だから今日帰って、お盆が終わるまではそれぞれの家でそれぞれの時間を過ごす事にする。
私は私で、憂とゆっくり家でのんびりしたい気持ちもある。
そしてお盆が終わった次の日の、十六日。
久しぶりに放課後ティータイム全員集合の日だ。
今は懐かしい軽音部の部室に、私たち四人はOGとして上がらせてもらう。
私とムギちゃん、そしてりっちゃん澪ちゃんの四人と、今まさに学園祭に向けて頑張っているだろうあずにゃんという豪華な顔ぶれが揃うのです。
あずにゃんちょっとは成長したかな。
りっちゃんは少しは元気になったのかな。澪ちゃんもどうだろう。
いろんなことを考えながら、電話の向こうの憂に返事する。
「それにムギちゃんも一緒にいるんだから、安心してよ」
『う、うん……わかった。紬さんにお礼言っておいて。あと私、駅まで迎え行くからいつ頃到着とか教えてね。あと、お昼御飯何がいい?』
うーん、憂のご飯は久しぶりだな。
私はムギちゃんと一緒に駅のホームで電車を待っていた。
帰省する人が多いからかホームにはそれなりにたくさん人がいて、同じ大学の子も何人もいた。
人ごみはあまり好きじゃないけれど、あと数分で電車は到着するみたいでホッとする。
「じゃあねえ……憂の――」
私がメニューの名前を伝えると同時に、汽笛が鳴った。
最後まで名残惜しそうにしている憂の声と別れ、私は携帯電話をしまった。
「あ、憂ちゃんどうだった?」
ムギちゃんが尋ねてきた。
「別に普通だったよ。あと、憂がムギちゃんにありがとうだって」
「私に? 何かしてあげたかしら」
「さあ?」
電車は私たちの前にゆっくりと停車した。降りて行く人はあんまりいなかった。
代わりに乗り込む人はたくさんいて、私たちは少しどぎまぎしてしまう。
乗り込んで席を探そうとするが、人ごみを掻きわけてまで座席を探すメリットはないように思えた。
私とムギちゃんは、吊り革につかまって立っている事にする。
「大丈夫? 唯ちゃん」
ムギちゃんが心配そうに顔を覗きこんできた。
それは多分背負っているギー太の事だと私は勘づいた。
ムギちゃんは実家にもキーボードがあるので、下宿に持ってきていたものをわざわざ持って帰る必要はない。
でも私はギターがこの一本――大事なギー太だけしかないから、持って帰る必要があったのだ。
だからその分荷物は増えていて、その事をムギちゃんは不安に思ったのだろう。
「うん大丈夫。ありがとー」
私がそう言うと、ムギちゃんはいつものように微笑んだ。
それから窓の景色は流れに流れ、少しずつ乗っている人たちは減っていく。
いつの間にか、この車両に乗っているのは私たちだけになっていた。
空いている座席はたくさんあるのに、私たちは立ったままだった。
「ムギちゃん、席空いてるし座らない?」
茫然としているムギちゃんに声をかけるけれど、反応はない。
遠い目。まるでここではない、どこか遠くの情景を思い浮かべてるみたいな。
もう一度名前を呼んでみる。
「ムギちゃん」
「あ、ごめんなさい……ぼーっとしてて」
それから笑ってごまかした。
私はそれがなんとなく嫌だった。
「やっぱり、りっちゃんの事考えてた?」
「――」
表情をなくす。私は分かりきって尋ねていた。
「ムギちゃんがね。ぼーっとしてて呼びかけてもあんまり返事しない時は、いつもりっちゃんの事考えてるの、私わかってるんだ」
ムギちゃんも、りっちゃんの事好きなのを、私は知っていた。
そう、ムギちゃん『も』だ。
それは私の事を言っているんじゃない。もしムギちゃんがりっちゃんと恋人同士になりたいというのなら、
それはそれは強い誰かが立ち塞がってる。とってもとっても強い壁だ。
澪ちゃん『も』りっちゃんが好き。
私が思うに、ムギちゃんじゃ澪ちゃんに勝つことは絶対にできない。
でも、ムギちゃんに『諦めた方がいい』とは言わない。
そうすることは、ムギちゃんにとっていい事でも何でもないし、むしろ傷として残ってしまう事に繋がるんだ。
私が諦めろと言う事は、誰も幸せにならない。ムギちゃんは想いの捌け口をなくすだけだと思う。
「会ったらちゃんと言った方がいいよ、りっちゃんに」
「……うん」
「……ムギちゃん?」
いつもなら笑ってくれるけど、今度ばかりは悲しそうに目を細めた。
どうしたの、と言った後に気付いた。失恋を覚悟している誰かが、愛想良く笑うこと自体がおかしい事を。
本当はムギちゃんも、心の中で振られてしまうことが怖いのだろう。
澪ちゃんという勝てやしない相手がいる事に悔しさを感じているのだろう。
どうしたの、は軽率だった。
そんなムギちゃんの胸中を察すことができなかった自分が情けない。
「――りっちゃん、不合格だった時、一人で帰っちゃったよね」
ムギちゃんが、語るように静かに切り出した。
「……そうだったね」
私は小さな相槌と、それを思い出すことしかできなかった。
「苦しかったんだろうなって思うの、一人で電車に乗ってる時。私たちに対して、心の中で何度も謝ったんだろうなあって、思って」
動く電車。誰もいない座席。
そこに、ムギちゃんはりっちゃんの姿を思い浮かべていた。
だから、あんな虚ろな目をしていたんだ。
「……私、どうすればいいんだろう」
それは何に対する迷いなのか、私にはわからなかった。
でもムギちゃんの葛藤は、少なからずりっちゃんと関係する事だろう。
そして澪ちゃんもその葛藤の渦中にいることも。
それから、ムギちゃんは言った。
「しばらく考えたいことあるから……話しかけないでね」
そのまま俯いてしまった。
長い髪で横顔は隠れてしまう。
私たちはそのまま無言で揺られた。
懐かしい街並みが窓を横切っているとわかったのは、それから数時間もした後だった。
私たちは、帰ってきた。
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律は決意してくれたけど、まだ不安なところもあるだろう。
ギリギリの所で踏み留まって、無理に私のために一歩を踏み出しただけかもしれない。
律は壊れやすくて、繊細な女の子だってこと、私が一番知っているから。
だから、一緒にいたいって思える。
律が以前の律に戻る事を決めたのなら、私はそれを支えよう。
律はまだ辛いかもしれないけど、一緒にまた笑い合える時が来るのなら。
澪先輩と律先輩――ごめんなさい。
りっちゃん、澪ちゃん――ごめんなさい。
澪は、私が少しだけ無理をしている事に勘づいている。
私が辛いのも苦しいのも我慢して、以前の私に戻ろうとしてる事もバレているはずだ。
澪が頼れる女の子だって、私が一番知っているから。
だから、一緒にいてよって思える。
私が以前の私に戻る事を、澪は支えてくれている。
私はまだ皆を信じ切れていないけど、信じるための一歩はもう始まっている。
澪が望む事が、私の望む事だから。
もうちょっとだけ、脆い私を支えてほしい。
私たちは、それぞれのお盆を過ごしました。
そして、八月十六日。
放課後ティータイム、久しぶりの全員集合の日は訪れました。
最終更新:2012年05月31日 23:20