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 朝、後輩に電話した。あと数時間で先輩たちに会う。
 私は落ち着かなくて、制服のままベッドの上に倒れ携帯電話を耳に当てた。

「言ってた通り、今日は部活なしだから」
『でもOGの先輩方が来られるんですよね? 私お会いしたいです』

 ギターの後輩の子の気持ちはわかる。
 彼女は一年生だから、卒業してしまった澪先輩たちのライブを生で見た事はない。
 部室にあるDVDで鑑賞した程度だ。私が感動したライブの数々を、後輩二人も興奮気味で見ていたのを思い出す。
 見終わった後、すごいと褒め称えていた。

 それを聞いて、その五人の中に私も入っていた事を誇らしく思うと同時に、その五人で今はバンドをやれていない事を寂しく思うこともあった。
 感動した後輩がOGである澪先輩たちに会いたいと思うのは不思議じゃないし、 私が彼女の立場であればぜひギターを教えてもらいたいと思うだろう。
 極端だったけど、唯先輩のギターは確かにすごかったのだから。
 でも。


「今日は……五人で話したいんだ」
『……他の日とかお願いできないですか?』
「うん……今日は無理だけど、多分別の日なら」
『お願いします! じゃあ、楽しんできてくださいね』


 後輩は快活な声で言った。私は適当に話をして、別れを言う。
 ピッという音が携帯から鳴って、無音になった。
 溜め息一つ。
 私は仰向けになって、天井を見つめた。
 手足をだらしなく伸ばす。




 ――楽しんできて、か……。


 あと数時間……厳密に言うと、昼の一時に部室で集まる事になっている。
 昨日の夜唯先輩から送られてきたメールによると、ムギ先輩は豪華なお菓子とお茶を持ってくるらしい。
 どうやら先輩たちが卒業する前の、甘い香りのする部室に一旦戻るようだ。

 それもまた、楽しいだろうな。

 ずっと先輩たちと会うのを……一緒に演奏するのを楽しみにしていたから。
 だけど、今の私で楽しめるだろうか。

 こんな気持ちで、皆さんに会ってもいいのだろうか。
 昨日の夜、私は悩んで悩んだ。
 五人で会う時、『あれ』をどうやって切り出せばいいのか。
 どうやってこの想いを伝えるかという事を。

 そして、澪先輩と律先輩に、謝ってしまったんだ。


 悩んでも終わりなどない事はわかっている。
 でもどうにかこの気持ちを叶えたいと願う事は、悪いこと。
 だから……。
 だからって、収まりなんてつかない。


 家にいて寝転んでいたら、いつまでも悩んでばかりいそうだ。
 私は起き上がって、むったんの入っているケースと鞄を担いだ。
 まるで遠足に行く前の小学生みたいに、前日の夜にほとんどの準備を終えていたのだ。

 我ながら恥ずかしいとは思うけど、それだけ先輩たちと会うのは特別だとも言える。

 部屋の壁時計は、十一時過ぎを指していた。
 ……先に部室に行って演奏しよう。ギリギリに出発して、先輩たちを待たせるなんてことになったら情けない。
 私は今の軽音部の部長なのだ。一応は招待する側なのだから先に行って演奏なりなんなりでもしておけばいい。

 もしそれでも時間が余るのなら、掃除だって。
 それは全部、心に広がる黒っぽい何かを取り繕う行為にすぎないけれど。
 でも、五人で会った時笑えると信じて。
 私は家を出た。
 足取りは決して軽いとは言い難いものだったのは、嘘だと思いたいな。









 朝、寝覚めはよかった。
 だけどびっしょりと汗をかいていて、私はすぐにクーラーをつけた。
 近場にあったタオルで体を拭く。髪が長いから蒸れたのだろう。一緒に置いてあったシュシュで髪を纏めておいた。
 昨日の夜は、いろいろな事を考えた。
 そして謝ってしまった。

 りっちゃんの事や澪ちゃんの事。
 ベッドの中で、暗闇の中で、二人の姿を思い浮かべた。楽しそうにしている二人。
 幸せそうな二人。手を繋いで一緒に歩いている二人。

 そこに私の姿はないことも分かっていた。
 りっちゃんと手を繋ぐのは私ではないということも、嫌というほど思い知っている。
 見せつける、という意図は二人にはない。
 だけど、私にとっては二人の間にある絆は余計に私を傷つけているんだ。

 私は悩んで悩んだ。
 五人で会う時、『あれ』をどうやって切り出せばいいのか。
 どうやってこの想いを伝えるかという事を。



 時刻は十一時……もう起きて準備しなきゃ。
 やっとクーラーが効いてきて汗も乾き始める。
 ベッドから降りて、身支度を始める。一旦髪を解いて梳かしたり、歯を磨いたり、服を選んだり。
 でもその一つ一つの動きに、覇気も元気も感じられない事を私自身が知っていた。
 頭の中で転がっている苦悩が、そんな動きを鈍くしている。

 久しぶりに五人で会うのに、こんなことでいいのかと。

 一通りの身支度を終えて、部屋に戻った。帰ってきてもう四日になるけど、ここまで過ごしやすい実家というのはやっぱりいいものだなあと思う。
 下宿の生活に慣れた――もちろん父親の勧めで豪華な下宿に住まわせてもらってるけど――とは言っても、生まれた時から住んでいる家の方が落ち着くに決まっていた。
  目を瞑っても歩けるぐらいの家は、最近悩ましいまでに頭が混乱していた私にとっては、憩いの空間だった。

 ……電車の時間が迫ってる。
 私は部屋にしまってあったキーボードを取りだした。
 ケースは少しだけ埃が積もってしまっている。それを払って中を見る。
 懐かしい七十六の鍵盤が私を迎えた。

 本当に久しぶりだ。

 キーボードは下宿でもやっていたけれど、五人で演奏した思い出の詰まっているこのキーボードはやっぱり特別で。
 指でなぞる肌触りもまるで違った。馴染んだような感触は、あの部室での光景を想起させる。
 ――あの時は、皆で笑い合えていたのに。
 どうしてこんな『想い』まで積もってしまったの。





 ……ううん、考えるのはまた後で。


 キーボードを時間の許す限り丁寧に手入れした。隙間に詰まった埃やゴミも拭きとって、動作なりを確認する。
 約五か月使わなかったけど、それでも弾きやすい。
 やっぱり三年間――いや購入したのは随分前だから、もう何年も一緒にいる事になる。
 そんな年季や、私のかけた愛情は大きい物だから、それにこの子も応えてくれているのかも。
 ごめんね。


 ケースに入れて、荷物も準備した。前々から注文しておいた最高級のお菓子とお茶だ。
 唯ちゃんが梓ちゃんに聞いたところによると、ティーセットの一部はまだ部室にあるらしいのでこれだけで十分。
 電車の時間が危ういので、そろそろ出よう。
 足取りは決して軽いとは言い難いものだったのは、嘘だと思う。
 だって皆に会えるのに、喜べないのは嘘でしょう?
 答えてよ、私。
 嘘だと言ってよ。









「ドラムセット……どうするかな」
「梓に聞けば、部費で買ったのが部室にあるらしいぞ」
「ドラムの奴が入ったのか?」
「そうらしい。新入部員が二人入って、私たちと同じ編成になったんだとか」


 澪が髪を梳かしながら答えた。私は鞄に荷物を詰めている。
 鈴木さんと憂ちゃんがそれぞれベースとキーボードで入っていたのは知っていた。
 でもそれだけだとドラムがいないよなと残念に思っていた。
 新歓ライブはさわちゃんの下手糞なドラムでやったらしいけれど、ドラムの私はその辺りを心配していた。
 でもよかった。ドラムをやる奴が入ったんだな。


「……じゃあ持っていかなくていいか」

 私は家の屋根裏にしまってあるドラムセットを想った。
 五人で演奏する時はあれって決めてたけど、持ち運ぶのは大変だし、部室にドラムが二つは邪魔だろう。
 慣れないけれど、その部費で買ったドラムでも、叩ければそれで……。
 と思った矢先だった。
 ピンポーン、と来客を告げるチャイムが鳴る。
 時刻は十二時。すでに昼食は済ませた私たちだけど、こんな時間に私の家に訪ねてくる人なんて珍しい。

「は、はーい」

 そう言って、澪は長い髪を跳ねさせながら部屋を出ていく。
 田井中の名前じゃないのに自然に出ていくなんて事はこれが初めてじゃない。
 もう私の家族みたいなものだったし、慌てて来客に会いに行く後ろ姿は、ドラマとか漫画でよく見るお嫁さんそのものだった。
 階段を降りる音が途絶える。恐らくお客さんと話している。


 私はドラムスティックを鞄に入れた。

 ……これから、放課後ティータイムが揃う。

 梓、唯、ムギ……皆と、全員顔を合わせるのは、もう五か月ぶりだ。

 梓は先月書店で会ったけれど、きちんとあの場で皆が私を見るのは、卒業式で落ち込みまくって何も喋らなかった時以来だろうと思う。
 もしあの卒業式で私がはしゃぎまくってたら、皆軽蔑しただろうな。
 あの時は、それでいいんだって思ってた。
 静かな私になる。受験に失敗したことや、皆に迷惑かけた事を罵られないように頭を低くして生きようって、あの時は決め込んでいた。
 でもそうすることは、私も澪も苦しめる事に繋がっていた。

 私が受験に失敗しなけりゃよかったんだ。
 そうすれば誰かが苦しむことも、澪が苦しむこともなかったんだ。
 私も、澪の嫌いな静かな私になる必要もなかった。
 もっと真面目にやってりゃよかったんだよ。


 過去に戻りたいって、何度願ったかわからない。
 受験前に戻れたなら、私は死ぬ気で勉強するよ。
 そして合格して、四人で大学に行ってバンド組んで……梓が遅れて入ってきて。五人でまた笑い合う生活にしてみせる。
 でもそれはもう叶わないんだ。
 過去に戻る事は出来ない。
 もう『今』も戻ってこないんだ。


 こんな事悩んでも仕方ないのに、そればっかり思ってしまう。
 もし過去に戻ったらああしてこうして。澪と一緒にあんなことしてって。
 くだらない空想だ。もうそれは叶いっこない願いでしかない事、さっきから何度も繰り返し考えてる。
 叶わないから、絶望してた。
 今も、その絶望に押し潰されるのが怖い。
 だからって怖がってばかりじゃ、澪に何かをしてあげられない。
 怖くても、私が私に戻るために、何かをしなきゃいけないんだ……。


 まず、五人で顔を揃えられるぐらいにならないと駄目だ。




「り、律!」

 来客を迎えていたはずの澪が、勢いよく部屋に戻ってきた。

「どうした?」
「外外!」
「はあ……?」

 私はカーテンを開いて外を見た。

「なんだあれ」

 玄関から出てすぐの道に、軽トラックが来ていた。
 それもよく目にする農機具を運んだりするような奴じゃなくて……なんというかメタリックでかっこいい外見の軽トラックだ。
 ただの住宅街に止まっているものとしては明らかに違和感がある。

「なんかムギがドラムを運ばせるために手配したらしいんだ」
「ムギが?」

 一階に下りると、ムギの執事の斎藤さんが立っていた。私に挨拶を言ってから深々とお辞儀をする。
 毎度毎度礼儀正しくて調子が狂う。

「紬お嬢様からお手紙が」

 私は斎藤さんから便箋を受け取った。それを開く。澪も横から覗いてくる。

「りっちゃんは五人の思い出が詰まったあのドラムを使わなきゃ駄目です。斎藤の軽トラックを使って運ばせるから、必ずあのドラムセットを持ってくること」

 澪が文章を読んだ。手紙の内容はそれだけだった。

「というわけですので、お持ちいただけますか」

 斎藤さんが落ち着いた声色で言う。

「あ、はい」

 私は澪に目配せして、ドラムのしまってある屋根裏に二人で向かった。



 屋根裏は、酷く埃が積もっていた。
 ドラムセットは箱にしまってあって、屋根裏の一番手前にあった。私と澪は幾つもある箱をとりあえず全て持って降りた。
 ドラムは分解されているので箱がたくさんある。二人で運ぶのは少し大変だったけれど、それほど苦ではなかった。
 玄関まで持っていくと、斎藤さんが軽トラックに運んでくれた。
 全部荷台に積み終わると、私たちに挨拶をした。

「それでは失礼します」
「あの……ムギにお礼言っておいてください」
「わかりました。お伝えしておきます」

 失礼します、と後付けし玄関を出て行った。それを見送ろうと、私たちも急いで靴に履き替えて外に出る。
 そして、軽トラックが道の向こうへ消えていくのを、いろんな気持ちを心に溢れさせながら見送った。
 エンジンの音が耳からまったくなくなった後、私は呟いていた。

「五人の思い出が詰まったあのドラムを使わなきゃ駄目……か」

 そうだった。
 あのドラムは、皆で一つになった証みたいなものだった。


「律……?」
 澪が私の名前を呼んだ。独り言が気になったのかもしれない。


「やっぱり、あのドラムで演奏したかったのかもな私」
「……そうだな。律はやっぱりあのドラムじゃないと」

 ヤマハのヒップギグ。
 買いに行った時の事はよく覚えている。
 澪と一緒に行って、値切って値切ってようやく買って。帰りに運んでる時は、もう早く叩きたくて仕方なかった。
 澪も次いでベースを買って……二人で味気ないリズムばっかり演奏してたけど、それも楽しかったのだ。
 忘れてた。
 毎日叩いてたけど、受験に失敗したあの日から叩かなかった。
 逆に思い出を思い出すのが怖くて、しまっちゃったんだ。
 あんなに澪と一緒に演奏するのが楽しかった、相棒なのに――。
 私は道の真ん中で佇んだまま、両手の平を見た。
 まめは、完全になくなっていた。


「澪……」

 私は空を仰いだ。
 ほとんど独白だった。

「もし今日家に戻ってきた時、今日一日が楽しいと思えたら……」

 五人で演奏して、お茶を飲んで、会話する。
 それがあと数時間で始まる。
 それを楽しいと思えるか思えないはわからない。
 思えないかもしれないと、今でも怖い。
 皆に会うのが不安で不安で仕方ないのも事実。
 でも、それを楽しめたなら。
 皆に私の笑顔が見せれたら。


「二人で演奏しようぜ」


 青い空を見つめ続けているから、澪の顔は見えない。
 でも、息を漏らすように笑った声が聞こえた。

「律がそういうなら仕方ないな……演奏してやるよ」

 私は視線を澪に向けた。
 澪は呆れたように微笑んでた。

「なんだよそれ」

 私と澪は並んで家に戻った。



 それからまた準備して、家を出る。
 まだ怖い。皆と話すのが、少しだけまだ怖かった。
 だから――。


「澪……手、握ってもいい?」

 一瞬驚いたような顔をする澪だけど、すぐに顔は緩んだ。

「手なんていつも繋いでるだろ? いいよ」


 そうだけど、街中や公共の場で繋ぐ事はほとんどない。
 だから恥ずかしいなと思った。
 澪のそっと差し出された手の平。細長くて綺麗な指。
 私は澪のそれにゆっくり手を重ねる。
 交互に指を絡ませて、繋いだ。

「これで……いいか?」


 澪の顔はちょっとだけ赤かった。可愛い。


「うん……ありがとう」


 私の胸の不安は、少しだけなくなった。




 そのまま、私と澪は学校へ向かった。
 確かにまだ皆の事を信じ切れてはいないけど、それでも。
 この手の温もりが、そっと背中を押してくれてる。


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最終更新:2012年05月31日 23:21