寝坊した!
 私は時計を何度も見る。時刻は十二時四十分。十二時四十分だ。
 約束の時間を頭の中で何度も反芻する。十三時。十三時だ。

 あと二十分しかない!

 私は急いで服を着替えた。パジャマを畳むとかそんな面倒な事は今はしている場合じゃない。
 適当に投げ捨ててすぐにクローゼットに飛びついた。服を選ぼうとか、久しぶりだからちょっとおしゃれしていくんだーとか意気込んでいたのに情けない。
 もし今が高校時代だったらちゃんと憂が起こしてくれたけど、昨日――。


「私、明日朝から学校で課外なんだけど」
「一人で?」
「うん。梓ちゃんは私と選択教科が違うからお休み。あと純ちゃんも休みだよ」
「憂はえらいねー」
「ありがと。それで、明日朝一人で起きれる?」
「大学生の私を舐めないでいただきたい!」


 というやり取りをしたばかりだった。しまったなあ……。

 目覚ましもセットしたのに、なんで起きれないんだろ。しかも十二時に起きるなんて、私の馬鹿。
 服は適当なものにした。髪の毛は少しだけ跳ねていたけれど、そんなのお構いなしだ。
 梳かすのなら部室でもできる。

 できればあずにゃんに大人になった私を見てほしかったのだけど、遅刻するぐらいなら別にいいや。
 ダイニングのテーブルに、朝食が置いてあった。

 ごめん、憂。昼食になってしまいました。
 昼に食べるのには少し違和感のある食パンを口にくわえた。
 牛乳とか飲み物も携帯したかったけど、それにしても時間がない。


 今から走ったって、どう考えても間に合わない――いや間に会うかな? ああ、でも間に合わないかも!
 とにかく走るしかなかった。
 ギー太を背負って走るのは大変だ。
 でも、久しぶりに皆に会うのに、遅刻なんてかっこ悪い。
 とにかく走って走る。遅刻したとしても出来るだけ早く着くように。











「こんにちはー」

 机の上を拭いていると、そんな声と共に部室の扉が開いた。
 この声は――。

「ムギ先輩!」

 私はふきんを投げ捨てて駆け寄った。
 まず部室にやってきたのは、ムギ先輩だった。
 唯先輩曰くおっとりぽわぽわな人で、いつもお茶とお菓子を持ってきていた。
 放課後ティータイムとさわ子先生が名付ける原因となった人で、私もときどきお世話になっていた。
 普段制服姿で先輩と会っていたので、大人っぽい私服に私は圧倒される。

(……大学生って、なんだかすごい)

「梓ちゃん、大きくなったわね」
「子ども扱いしないでくださいよ」

 こんなやりとりも久しぶりだ。
 ムギ先輩は重たそうなケースをソファの上に降ろし、中からキーボードを取り出す。
 それはやっぱり、五人で演奏したあのキーボードだった。

 その形や姿を見るのは、五カ月――いや、受験が終わった日から演奏自体していないので、もう半年振りだ。
 もう私たちは半年も一緒に演奏していない事になるのだ。
 時刻は十二時四十五分。約束の時間は十三時だから、まだ時間はある。
 澪先輩と律先輩、そして唯先輩ももうそろそろ来るだろう。

「大学どうですか?」
「そうねー」

 私たちは楽器の準備をしながら、そんな他愛もない話をした。
 大学がどうだとか、唯先輩がどうだとか。
 新しい曲がいくつもあるとか――本当になんでもない会話だ。

 でも、去年の事を思い出す。

 いつだって部室で繰り広げられていたのは、そんなどうでもいい会話たちだったのだ。
 どうでもいい話……一般的に見たり、外部から見たらなんでそんな話してるんだと思われても仕方ない事を、私たちは笑って話してきた。
 唯先輩やムギ先輩の天然具合が面白かったり、律先輩と唯先輩の意味不明な漫才とか……澪先輩が皆に弄られたりする姿も私は可愛いと思えたりしてた。

 そんな日常が、今は愛おしい

 でもそんな日々は、もう帰ってこないと思う。

 それは律先輩の所為でもあるだろう。
 もし先輩が受験に失敗していなければ、先輩たち四人は今も苦しむ事はなかった。


 そして澪先輩も辛いと思う事はなかったはずなのに。
 ――澪先輩もだ。
 どうして受験に失敗してしまった律先輩なんかの後を追うんだ。
 澪先輩が選んだ道は、私を苦しめる原因の一つになってしまった。
 澪先輩はわかってない。
 澪先輩が律先輩と一緒にいる事。
 それは、いろんな人を苦しめている事を。




 時計を見ると、すでに時刻は一時。

 窓の外を見ると、私たちの学校の正門が見えた。その門のところに、一台の軽トラックが止まっている。
 よく見る農作業用という印象ではなく、無駄に高級感溢れる外観の物だった。
 あんな軽トラックがあることを不思議に思う。
 その横に、二人。私服の誰かが佇んでいた。

「……――!」

 長い黒髪の人と、茶色かかったカチューシャの人。

「……ムギ先輩、あれ澪先輩と律先輩じゃないですか?」

 テーブルでお茶の用意をしていたムギ先輩に振り向いて声をかけた。
 ムギ先輩は一瞬動きを止めたけど、すぐに嬉しそうな表情になって私の横についた。
 窓の外を見る。そしてまるで動物園にいる子供のように感嘆の声を上げた。

「ほんとね! あの軽トラックも斎藤のだわ」
「斎藤さんって、確かムギ先輩の執事でしたよね……あの軽トラックは何ですか?」
「りっちゃんのドラムを運ばせたのよ」

 なるほど……確かに二人だけでは一度にドラムセットを運ぶことは出来ないだろう。
 私はチラリと、部室の端に置いてあるドラムを見た。これはさわ子先生と相談して購入したものだ。
 新入部員が二人入った時、片方はギターだったが、もう片方は楽器はどれもできない音楽自体が初心者の子だった。
 だから唯一いなかったドラマーをやってもらうことになり、結果部費で購入した。後輩も半分は自腹だった。
 ……律先輩のドラムを入れるとなると、これはどかさないと。

「ムギ先輩、これどかすの手伝ってください」
「え? このドラムを?」
「はい。律先輩のドラムが入るスペースがないんです」

 ムギ先輩は何か考え込んだ顔になると、人差指を立てて提案した。

「それは皆が来てからやりましょう。今はあの二人を手伝うのが先よ」

 ムギ先輩は、窓の外に目配せした。
 それもそうだ。
 私とムギ先輩は、手には何も持たず部室を出た。




 階段を降りている途中。
 一瞬だけ、ほんの一瞬だけ。
 ムギ先輩は悲しそうな表情をした。
 私も、なんだか胸がいっぱいだった。


 それは、澪先輩に会える喜びなのかな。
 それとも。



 階段を一番下まで降りて、生徒玄関の方へ曲がろうとする。
 私とムギ先輩は、同時に立ち止まった。

「――りっちゃん」

 ムギ先輩が漏らした。
 律先輩が、廊下の向こうの方へ歩いて行っていた。
 なぜだろう。部室の方向とは逆だ。あっちの方は事務室がある棟なのに。




 私は、今しかないと思った。
 今まで溜めこんできた気持ちを、律先輩にぶつけるのは。
 私は今にも律先輩に会いに行きそうな顔をしているムギ先輩に言う。


「……ムギ先輩。私、律先輩と二人だけで話したいことがあるんです」
「そう……なの?」
「はい。だから、あの、先に澪先輩のところへ行ってください。私と律先輩も、すぐに話しつけて行きますから」
「……うん、わかった……じゃあ先に行ってるね」



 ムギ先輩は、また少しだけ悲しそうにして先に行った。
 それでも、ムギ先輩の表情よりも優先することがあった。



 ――言わなきゃいけない。


 私は、ゆっくり律先輩に歩み寄った。










 軽トラックからドラムの入った箱を地面に下ろした。
 ドラムセットを運んでもらったはいいが、部室まで二人じゃ運べない。
 いくつかに分解されているので、私と澪の二人で運んだとなると二往復はしなきゃならない。

 時刻はすでに一時だから、皆を待たせるもな……そりゃ、運ばなきゃ始まらないけど。
 去年部室が使えなくなった時、私はキャスター付きの荷台を使って運んでいたのを思い出した。
 あれを使えば、少しは楽になるかもしれない。

「澪、私、事務室にキャスター荷台取りに行ってくる」
「ああ、あれか。確かにあれがあれば一気に運べるかも」
「うん。だから、ここで待っててくれ」


 澪は頷いた。私はあんまり待たせても悪いから、走って校舎の中に入る。
 ああ、でも私もう生徒じゃないんだよなあ……。
 生徒以外にキャスター荷台貸してくれって頼まれても貸してくれるだろうか。
 切羽詰まった様子とか、卒業生であることを言えば貸してくれるのかもしれないけど、勢いよく飛び出しておいて貸出できないなんてなったら骨折り損だ。
 校舎に入る。生徒玄関から靴を脱いで、靴下のまま廊下を歩いた。





 ――クラス替えの張り紙はここだった。
 ――あの廊下を、皆と歩いた。





 ……自然と歩みはのろくなる。思い出が頭の中に喚起した。


 頭の中の私はいつも笑ってる。
 皆を笑わせてばかりいる。


 今の私はどうだ。
 笑ってばっかの私を悔んで、あの時の自分を殺そうとしてる。
 そして悩んでうじうじして自分を責めまくってるんだ。
 そして、澪に慰めてもらうのを待ってるんだ。
 澪に慰めてもらいたい。誰かこの胸の傷に気付いてって。
 「ほら、可哀想でしょ。慰めてよ」って、思ってるんだ。
 そう思って、いつもいつも自分の心に痛みを溜めていた。
 それを利用して、澪と一緒にいたも同然なんだ。



 私は、唇を噛み締めた。



 ――怖い、皆と会うのが。



 さっき、澪に勇気をもらったのに。
 一ヶ月も考え抜いたのに。


 逃げ出したい、ここから。

 ……澪が待ってる。早く目的の奴を借りてこなきゃ。
 そう思うのに、足は早く動こうとはしない。
 意思に反して、動きはいつまでもゆっくりだ。


 ――だってドラムセットを運ぶことは、皆と演奏するということだ。
 そこに、私という存在が、皆の輪の中にはいるという事なんだ。
 こんなに馬鹿で、価値もない私がだ。
 皆の笑顔の中に、入り込めるのかよ。


 無理だ無理だ。
 澪に勇気をもらったって、澪と手を繋いでいたって。
 怖いんだ。不安なんだ。恐ろしいんだ。


 ムギや梓や唯が、私の事嫌ってるかもしれないんだ。
 そんな可能性が否定できないのに、笑顔で皆と話せるのか?
 そんな奴らじゃないことは、知ってる。
 でも万一だ。


 私が皆だったら、『田井中律』をどう思うんだ?
 嫌いになるか? 一緒に笑ってきた仲間だ。一緒に演奏してきた仲間だ。
 そいつが受験に失敗して、皆の気持ちを裏切ったんだぞ。
 夢を一年遅れにして、恋人を――大事な人に迷惑かけてばっかの奴だ。
 そいつを、『私』は許すことができるのかよ。




 許す――と自信をもって言えねーじゃん。
 そいつのこと……『田井中律』を笑って迎えられないかもしれないじゃないか。
 そんな馬鹿野郎なんだよ私は。



 もう皆といる価値だってない。
 皆が私の事を嫌ってるかもしれないって、仲間も信じれない奴なんだ。
 あんなに笑い合った友達を、嫌いになりかけてる奴なんだ。
 そんな奴が、皆といる事が間違いなんだ。




「律先輩」



 ふと、視界が廊下に戻った。
 目の前に、梓が立っていた。
 私は恐れおののいたが、なんとか立っていられた。
 梓は、無表情だった。


「お久しぶりです」


 この前のは会った事にカウントされない。
 でも一応は会ったことになる。


 背中が汗かいているのがわかった。
 まだ梓にも、こんなに怖がってるんだ。
 先月から、何も進歩してねえじゃん。


「あ、ああ……」
「こんなところで何をしてるんです?」


 他愛もない話の方が、私も話しやすい。
 無理に過去を懐かしむ話題を出さないでくれ。
 そう願って言葉を紡ぐ。喉が渇いて微かに掠れた。


「……ドラム運ぶためにさ、キャスターついた荷台借りて来ようって思って」
「ああ、あれですね。卒業生の律先輩が借りれるんですか?」
「……わかんねえ」
「でしょう」


 梓は呆れた顔で言った。
 いつもの梓――いや、いつものってほど最近は一緒にいない。
 去年の梓は、私たちが何かに失敗したり笑わせたりするのに、度々呆れていた。
 それでも、梓も確かに楽しかったのだろう。
 いろんな事をしてもらったし、笑顔だって時たま漏れていた。
 だからこそ、今の状況を作り出した自分が嫌いだっていうのに。



「――律先輩」


 梓は、一瞬俯いて、私を呼んだ。
 そして。






「澪先輩を……」


 苦悶の表情と、懇願が一気に梓から溢れだした。





「もう澪先輩を――これ以上苦しめないでください」


16
最終更新:2012年05月31日 23:22