「私、澪先輩の事が好きなんです」






 私と律先輩しかいない廊下に、声はよく響いた。


 言ってしまった。



 ずっと悩んでいた。私が心に留めていた気持ちを。
 私が入部してすぐに実ったこの想い。
 澪先輩が大好きだということ。


 その気持ちだけならなんとかなった。
 だけどその気持ちは、いつしか律先輩への嫉妬に変わってしまっていた。
 律先輩が――。


 こんな事を思うのは悪いことだ。
 そうすることが二人にとって幸福だとしても。
 私はそれを邪魔したい。


 律先輩、澪先輩から離れてください、と。
 私は言わずにいられない。


 書店で会った澪先輩は、悲しそうだった。
 その悲しみの原因は律先輩だ。
 澪先輩は、そんな律先輩に悲しまされているんだ。


 それを知って、私はどうしようもない怒りに苛まれた。
 律先輩じゃ、澪先輩を幸せにできない。
 そう断言できるほど、今の二人の関係はあまりにも脆いと思う。


 だから言ってやるんだ。




「もう澪先輩を、苦しめないでください」



 そして。




「澪先輩を、解放してください」



 もう止まらない。
 今まで溜めこんできた私の――律先輩に対する怒りや嫉妬。
 全部言葉に込めた。





「もう、澪先輩と別れてください!」





 力任せに叫んだ。


 最低な子だ、私は。嫌な子だ、私。
 律先輩だって澪先輩の事好きなの、知ってるのに。
 それを、無理やり引き剥がそうとしてる。



 何様だ、澪先輩に近づくなだなんて。
 澪先輩は私のものじゃないのに。
 でも、でもそう言いたかった。


 澪先輩が辛いのも苦しいのも、律先輩といるからなんだ。
 絶対そうなんだ。澪先輩は無理してるんだ。


 だからあの二人は、一緒にいるべきじゃない。




「律先輩は、ずるいです。澪先輩を、いつも一人占めして……。
 結果澪先輩も嫌な思いたくさんしているんです」





 律先輩は、無表情だった。
 何も言わなかった。泣き出すことも、愛想笑いもしなかった。
 ただ唖然と、茫然と――表情をただ見せなかった。
 私の言葉に言い返しもしない。口は一文字に結ばれたまま。
 その目は虚ろで、私の顔など見えていないのかもしれない。


 少し後ろめたくなって、私は口調を緩めた。
 さっきまでの怒鳴るような声を抑えて、言葉を続ける。
 私が律先輩に望むことは――。




「……澪先輩と、付き合うのはやめてください。そうすれば……」


 どうもならないけど、苦しむ澪先輩はもう見たくない。



 静かになってしまった律先輩に、声をかけた。



「……すいません。ドラム運びましょう」



 律先輩は、少し口元を釣り上げた。
 そして。





「――そうだよな、笑っちまうよな」



 私は、硬直した。
 律先輩の声は、諦めを感じる弱弱しさを孕んでいた。
 そしてぞくっとするように悲しい目が、私の心を打撃する。




「私みたいな奴が澪を幸せにできるわけない……わかってるんだ」




 声が震えていた。




「ごめんな、梓……」



 笑顔で。
 律先輩は、笑顔でそう言った。
 そして、向こうに走り去ってしまったのだ。





 廊下に一人残された私を包むのは、切なさ。



 どうして……?
 ずっと願ってたことなのに。
 律先輩から澪先輩を奪いたい。二人を引き裂きたい。
 そう思ってた。そうなればいいと、私はずっと思ってたのに。
 なんでこんなに……。


 こんなに私も苦しいの?
 後悔しているの? 
 ただ言えるのは。


 私は、最低な子だ。
 律先輩に、散々心の中で文句を言ったのに。律先輩が悪いんだって文句を言い続けてきた癖に。
 それと同じくらい――いやそれ以上に、私も最低だ。


 律先輩の澪先輩に対する気持ちを、私は否定したのだ。
 それがどんなに律先輩にとって、辛いことか想像に難くない。
 私はそれを、事前に気付けなかっただけなのか?


 いや気付いていた。私のさっきのような発言が律先輩を傷つけることを。
 じゃあなんであんなこと言ったんだ。別れろだなんて、近づくだなんて。


 ……簡単だ。


 澪先輩を苦しめる人なんて、邪魔だったからだ。
 いなくなればいいと、思ってたんだ。
 私と澪先輩の二人だけでいいって、思っちゃってたんだ。
 こんな気持ちを抱くことが、悪いことだと私は十分理解している。
 誰かの存在に対して、邪魔だと思う事は悪いことだ。
 それが軽音部のメンバーに対してなら、なおさらだ。
 あんなに一緒にいた仲間である先輩の存在が、煩わしいだなんて。


 でもその気持ちは嘘じゃない。


 私は澪先輩が欲しかった。
 律先輩から奪いたかったんだ……。
 奪いはできなくても、二人が別れてくれればって。
 澪先輩が誰かの物になるのが、怖かった。




「ごめんなさい……律先輩」









 律の奴、遅いな。
 事務室まで行ってキャスター荷台を持ってくるだけなのに、もう十五分になる。
 約束の一時をとっくに過ぎているのに。梓や唯、ムギも部室で私たちを待っているはず。
あんまり皆を待たせるのも忍びないのに。


「すいません、そろそろ私も仕事がありまして」


 斎藤さんが私に言った。


「そうなんですか……じゃあ」

 二人で協力して、ドラムセットが分解されて入っている幾つかの箱を地面に下ろした。
 斎藤さんの軽トラックの荷台は空になる。
 斎藤さんはお嬢様をよろしくお願いしますとお辞儀をして、軽トラックで走り去って行った。
 エンジン音が嫌に耳に残った。
 その場には、私とドラムセットだけが残った。

「……」

 律、早く戻ってこないかな。
 私は、靴で地面をコンコンと叩いた。



 少しして、後ろから誰かの足音が聞こえた。

「律? 遅か――」

 キャスター荷台の音がしないから、律じゃないと気付いたのと同時に、足音の正体に気付いた。
 ムギだった。


「ムギ!」

 私は、久しぶりの再会に彼女へ駆け寄った。
 会ったのは卒業式以来だから実に五か月ぶり。
 その間あまり変化があるとは考えなかったけど、やはり違う土地で生活した結果か彼女の顔は少し大人びて見えた。
 元々お淑やかで大人っぽさはあったものの、女の子から女性へと変わったという印象だ。
 近寄ると、ムギは部室でお茶を汲んだ時のような笑顔を見せてくれた。
 見せてくれたけど。


「澪ちゃん、久しぶり」
「――」


 この違和感は、なんなんだ。
 ムギが何か変わったというわけでもないし、あの時のぽわぽわした雰囲気は今も健在している。
 でも、でも――。笑顔の前に一瞬だけ、無表情な顔が現れた気がしたのだ。
 その顔は、まるで私の事を快くは思わない陰りを含んでいるようにも感じれて。
 私はムギの久しぶり、という言葉に何も返せなくなった。
 それでも、会話は生まれていく。


「澪ちゃん、どう? 予備校とか」
「え……ああ、うん。なんとかやれてるよ」
「そう。よかった」


 よかった、と言う顔に快活さは微塵もない。
 どうしたのだろう。


「あ、えっと……――」
「澪ちゃん」


 私が声を掛けようとすると同時に、ムギは強い眼差しを私に向けた。
 怒っているような――さっきから、ムギの表情の一瞬一瞬に、私に対する遠まわしな嫌悪を感じていたけれど、本当に何かに怒っているのだろうか。
 ムギの、私の名前を呼ぶ声に少したじろいだ。
 何に怯えてるわけでもないのに、この居心地の悪さはなんなんだ。
 ここには二人しかいない。
 微妙な空気と風が、私たちの間に流れていく。
 そして。
 ムギは、冷たく口を開いた。









「りっちゃんと、別れて」





 吐き捨てるような、そして私を蔑むような声色。
 ムギの言葉は、まるで鈍器で殴ったかのように私の心を強く揺らした。



「もう、りっちゃんを苦しませるのはやめて」



 その言葉の意味を理解するのに、数秒を要した。
 りっちゃんを苦しませるのはやめて。
 律――律を苦しませるのは、やめて。




 言葉が刃物のように突き立って、頭が回らない。
 そんな私に容赦なく、ムギは辛辣な言葉を告げていく。




「澪ちゃんがいるから、りっちゃんは苦しいのよ」



 私が……いるから。
 私がいるから律は苦しい。
 律が苦しいんだ。




「澪ちゃんじゃ、澪ちゃんじゃりっちゃんと続かないよ!」



 ムギの目には、涙が浮かんでいた。
 なんでムギがそんなこと言うのだろう。
 私と律じゃ続かない。
 私と律。
 律――。




 『ごめんな、澪――』



 悲しそうに目を伏せる律。
 息苦しそうに謝る律。
 律の顔が、頭の中で転がった。



 私は――。






 私じゃ律を苦しめるばかり。



 そうだった。いつもそうだった。
 律は優し過ぎる。
 そして私のために自分を犠牲にして何でもしてくれた。
 私が泣いていれば、律だって苦しい時も私の傍にいてくれた。
 涙を拭いてくれた。優しく宥めてくれた。





 それが律にとって、負担になってるんじゃないかって。






 それをいざ人に指摘されると、自分の馬鹿さに気付かされる。
 一番大好きな人を、苦しめてる奴なんだ私は。
 そんな奴が、律といること自体おかしいんだ。






 なんで私、律といるんだ。


 いる理由があるのか? 律を苦しめているのに。
 律に辛い思いをさせて、結局得たのはなんなんだ?


 律を苦しめてるだけじゃないのかよ。
 一方的に律と一緒にいたいって、大学を辞めて。
 それでずっと一緒にいる。
 でもそんな私のわがままが、律の苦しみに繋がってるんだぞ。



 そんなの、そんなのって。
 気付いてたのに、わかってたのに。
 見て見ぬふりして。
 律が苦しんでるのに。
 辛いのに。
 私の所為で。
 私なんかの所為で――!








 私は、走り出していた。
 ムギに目もくれず、地面に置いたままの律のドラムセットも置き去りにして。
 背負ったままのベースだけを担いで、一心に駆けた。



 信じたくはない。
 私が律といることが間違いであることを。
 だけど間違ってるんだ。それは。



 私たちが一緒にいると、相手に迷惑をかける。
 他の誰かを、困らせてしまうんだ。


 私は。



 私は、律を苦しめたくないよ!









 気付いたら、家に帰ってた。律の家じゃなくて、私の家。
 家に入ると、ママが出迎えた。


「あら、桜高に行くんじゃなかったの?」
「……もう、いい」


 桜高なんて、今はどうでもいい。
 軽音部の事も、忘れたい。
 律とも、もう会う理由なんてないんだ。
 私が律と会うことは、律を苦しめることだから。


 律には苦しんでほしくない……。
 私が律から離れて律が苦しくなくなるのなら――。


 もう、私は律に会わなくたっていい。


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最終更新:2012年05月31日 23:25