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一時二十分。もう約束の時間から大分遅れてる。
私はあまり頑張って選ばなかった適当な服。最初から乱れていた髪は走ってるうちにさらに乱れた。
もう! 大人っぽくなった私をみせるチャンスだったのに。
これじゃあいきなり大失敗だ……今頃部室で皆『唯先輩成長してませんねー』『ま、唯は唯だからな』とか言ってるよ絶対!
私の計画があ……。
今までは猫を見つけたら可愛がってたけど、そんな暇もない。
途中で横断歩道で止まったり、踏切で足止めされることがなかったから助かった。
ギー太がたくさん揺れて少し大変そうだなとは思ったけれど、もう少しの我慢だからねと心の中で伝えたりしてとにかく街中を駆けた。
あと一直線で学校だ、という位置まで来た時。
前から誰かが走ってきた。
長い黒髪で、後ろに何か細長い物を背負っている。
その姿に見覚えを感じると、私は足を緩めた。
「――澪、ちゃん?」
走り疲れて切れ切れになる息のまま、私は呟いた。
立ち止まって、よく見る。その誰かはこちらに少しずつ近づいていた。
間違いない。澪ちゃんだ。
「澪ちゃ――」
元気よく声をかけるつもりだった。
だけど、澪ちゃんは私の横を駆け抜けていってしまった。
「……」
泣いて、た?
振り返ったけれど、澪ちゃんの背中はもう小さくて、今から呼びかけても聞こえないし追いかけても追いつけないところまで駆けていた。
それぐらい無我夢中に、そして一心不乱に走っている様子がここからでも見て取れる。
それに、私が澪ちゃんとすれ違う寸前に私は声を上げたんだ。『澪ちゃん』と。それすらも聞こえないなんて……。
何があったのだろう。
私の声も耳に入らない。そして泣きながら。
まるで何かから逃げるような。
何があったんだろ。
私は、もう見えなくなった澪ちゃんとは逆の方向へ駆けだした。
何があったんだろじゃない。澪ちゃんが泣き出すような何かがあったんだ。
学校で。
皆に会える喜びが、一気に不安に変わった。
複雑な感情。
澪ちゃんが泣く。
泣かせたのは……りっちゃんだろうか。
澪ちゃんを本当の意味で泣かすことができるのは、後にも先にもりっちゃんに関係する事に違いないと、私は確信していた。
誰かが澪ちゃんを泣かしても、澪ちゃんの心を揺るがすのは、必ずどこかにりっちゃんが絡んでるはずなんだって。
だから、澪ちゃんがさっき泣いていたのは、きっと誰かがりっちゃんの事で澪ちゃんを問いただしたんだ。
それとも、りっちゃんが澪ちゃんに何かをしたのか。
でも、りっちゃんが澪ちゃんをあそこまで泣かすことは、あり得ないと思う。
りっちゃんは澪ちゃんの事を何よりも大事にしているし、泣顔を見たいとは思わないはずだ。
それがりっちゃんだ。
どんなに落ち込んでても、澪ちゃんに悲しんでほしくないと思っているのは、今も昔も変わってないに違いないと思う。
だから、澪ちゃんを泣かしたのは……。
ムギちゃんだと思う。
私は、何をどうしようか考えながら走り出した。
ムギちゃんが澪ちゃんを泣かした。
もしかしたらあずにゃんも――りっちゃんに何か言ったかもしれない。
私は、多分怒っていた。
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私は澪のいる正面玄関とは別の、裏の玄関から学校を出た。
いつも通ることはなかった見覚えのない道を歩いて行く。
見慣れない街灯や住居の屋根だったりは、新鮮だった。
このままこの道を歩けば家に辿り着くかはわからなかったけど、別に家に帰れなくてもいい気もしていた。
帰ったところで何になるんだ。
澪が帰ってきたら、家から追い出そう。
もう澪とは、別れよう。
私は澪に何一つしてやれない。以前の私と今の私の間を、悩んでばっかで示しもつかないままで。
澪の望む私になることなんてできない。
そんなままでいたら、いくら好きでも澪は笑ってなんかくれない。幸せになんかなれない。
梓は――澪の事が好きと言った。
そして、もう澪を苦しめるなとも言った。
澪が梓にそう漏らしたのか、それとも梓の憶測かわからない。
あの二人がメールや電話をしていたとしてもおかしくないし、私の知らないところでそんな事を澪が言ったのかもしれない。
澪がそう思うのも無理はない。
私といるのが苦しいと、澪が思うのは当然だ。
仕方ないんだ、澪がそう思ったって。
何もしてやれてないんだから。
いつだって私は澪に、何も返せてない。
いつもいつも澪を弄ってばっかりで頼りない私で、澪に甘えたり……澪に何かしてもらってばっかりで。
私がへこたれたり落ち込んだりした時はいつも傍にいてくれて――私が風邪をひいて一人で家で寝てる時、手を握って傍にいてくれたり。
いろんな事を澪にしてもらって、嬉しい気持ちや大好きな気持ち、たくさんあるのに。
私は澪に何をしたんだ。
迷惑掛けてばっかだろ。
そんなの、澪だって嫌に決まってる。
――。
なんか全部壊れちゃったな。
私が受験に失敗して。
梓は私の事、嫌いなんだろうな。
嫌われてるんじゃないかって思って皆と会うのが怖かった。
だから今まで決断に踏み切れなかった。どうせ皆、心の中で私の事嫌ってるって思ってて。
それはやっぱり現実だったんだ。
梓は、怒ってた。
澪から離れろって。別れろって。
受験に失敗した馬鹿みたいな先輩と、憧れの澪先輩がくっつくのは嫌だろうな。
私が梓なら、そう思う。大好きな人が、別の誰かに取られちゃうのはとても辛い。
律先輩のような人に、澪先輩は渡したくないって。
思ってるんだきっと。
だから、謝るしかなかった。
ごめん。
ごめん……梓。あと、軽音部の皆も、ごめん。
ごめん、澪――。
帰ってきたら、四時だった。
普通学校と家は三十分程度の距離なのに、帰ってくるのに何時間かかってるんだろう。
やっぱり慣れない道を通るのは良くないな。
家には誰もいなかった。澪の靴もなかった。
私は自分の部屋に戻って、ベッドに倒れた。
酷く疲れていた。
学校に行く時は澪がいた。
だから澪と話していれば気は紛れた。
だから心配事や不安も、少しは忘れることができた。
でも一人で、しかも知らない道を歩くのは、辛かった。
頭の中に、色んな事が乱れた。
これからの事。
澪の事。
梓の事。
唯やムギの事。
勉強の事。
私自身の事。
やらなきゃいけない事。
やるべき事。
したい事。
したくない事……。
考えれば考えるほど、心は痛む。
だってどれを取ったって、悪い結末しか待っていないんだ。
澪とは、もう会えない。
梓は、私が嫌い。
梓でもそうなのだから、唯もムギもきっと……。
勉強なんて、皆が私を嫌ってるなら意味ない。
私なんて、消えちゃえばいい。
やらなきゃいけない事なんて、ない。
やるべき事もない。
したい事なんて、ない。
皆と会いたくない。
もう、寝よう。
考えなくていいように。
意識を沈める。
目を閉じた。
真っ暗な世界に、浮かぶのは澪の顔だけだった。
最終更新:2012年05月31日 23:32