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地面に放置されたままのドラムセット。
りっちゃんのドラムセット。
さっき学校の中で、りっちゃんを見た。何かを探しているようで――でも寂しげな顔をしたまま歩いていた。
梓ちゃんが、りっちゃんと二人きりで話したいことがあると言っていたので、私はりっちゃんに話しかけるのを抑えた。
ちょうど私も、澪ちゃんと二人きりで話をしたいと思っていたから、好都合だったのだ。
でも、その結果がこれだった。
澪ちゃんは私が怒鳴りつけると、走り出してしまった。
私の言葉にあんなにも反応するという事は、やっぱりどこか核心を突かれた部分があったのだと思う。
りっちゃんと澪ちゃんが一緒にいるのは、よくない。
そう指摘して、澪ちゃんは逃げ出した。何か思い当たる節があったから逃げたんだ。
やっぱり澪ちゃんは、りっちゃんを苦しめていた。
そしてその事に、澪ちゃん自身も気が付いていたのだろう。
だから私はそれを指摘した。
そして澪ちゃんは、帰った。
りっちゃんを置いて。
りっちゃんのドラムセットも、私たち放課後ティータイムのメンバーも置いて、走り去ってしまった。
それだけ、私の言った言葉はショックだったのかな。
胸は痛んだけれど、りっちゃんが苦しくなくなるのならそれでいい。
もしかしたら澪ちゃんに嫌われたかもしれないけど、それでりっちゃんの辛さが少しでも無くなるのなら、そんなの軽いものだ。
私にとってりっちゃんは、バンドの仲間ではなく片想いの相手なのだ。
その相手が楽になるなら、私なんて嫌われてもいい。
それは、澪ちゃんに嫌われたくないけど。
誰かに嫌われたいなんて思ってないけど。
仕方ないんだ。
澪ちゃんがここまでりっちゃんを追いこんだのが悪いんだ。
もし澪ちゃんがそうでなかったら、私は澪ちゃんに怒ったりしなかった。
りっちゃんと別れろだなんて言わなかった。私が嫌われることもなかったはずなんだ。
――もう澪ちゃんとは普通に話す事もない。
バンドも、私の所為で解散かな。
だけど抑えられなかった。澪ちゃんに言いたかったんだ。
りっちゃんから離れてって。
でもそれは、澪ちゃんのりっちゃんへの気持ちを否定したことになる。
澪ちゃんだって、りっちゃんの事が大好きなはずなのに。
それを私は、個人的な都合でやつあたって攻撃した。
そして結局澪ちゃんを傷つけたんだ。
それでよかった。それを望んでたんだ。
……。
二人に別れてほしいという願いは叶ったのに、まだ心の中はモヤモヤして晴れない。
それはきっとまだ、澪ちゃんの事が後をひいているからで、バンドメンバーとして、友達として好きだった澪ちゃんを傷つけたことに、後悔しているからだった。
やっと言えたけど。
まだ陰が付き纏う。
申し訳なさと嬉しさは、相殺した。
これでよかったんだ。
そう無理に思いこませようとしてる、自分がいる。
ドラムセットは思いのほか軽くて、部室まで二往復で運べた。
部室に入ると、梓ちゃんが高校時代のいつもの席に座って俯いていた。
さっきまでの少し晴れやかな表情とは一変して、今はとても暗い。
少し距離があるからよく見えないけれど、でも確かに顔色は良くはなかった。
「……梓、ちゃん?」
声を掛けても返事はない。
それにりっちゃんはどうしたのだろう。
梓ちゃんとりっちゃんが二人で話した後、二人とも手伝いに来るだろうと思っていたのに来なくて。
だからドラムセットも運んできたのに。部室の中は、まるで誰もいないかのように静かだった。
でも確かに梓ちゃんがいる。
私はドラムセットの箱をソファの前にひとまず置いて、梓ちゃんに近づいた。
「梓ちゃん……どうしたの?」
「ムギ先輩……」
顔を上げた梓ちゃんは、酷く悲しそうだった。
顔は笑っていた。
いつも見せてくれる無邪気な笑顔とは少し一歩引いているけれど、子猫のように愛くるしく笑う姿はそこにある。
でも、細い眼差しには、やっぱりさっきとは違う何か別の感情を含んでいるように感じた。
「澪先輩は……?」
いきなり聞かれたくない質問をされて、私は言葉を失った。
なんと言えばいいのだろう。私が怒鳴って帰らせてしまった。
そんな事を正直に言えば、梓ちゃんはどう思うだろう。同じバンドの仲間を怒らせた。
それも五か月ぶりにあった友達を。その事を、梓ちゃんが何とも思わないはずがない。
それに、唯ちゃんも節々で匂わせてた。
私もなんとなく気付いていた。
梓ちゃんは、澪ちゃんのことが好きだってことに。
入学した当時、梓ちゃんは今よりもとても真面目で、練習しない事に腹を立てていた。
その当時、澪ちゃんは今よりも少し真面目で、二人は少しだけ同調していたのだ。
梓ちゃんにとって、澪ちゃんは初めての先輩らしい先輩。その交流の中で恋心が芽生えたっておかしくない。
それに、いつも梓ちゃんは澪ちゃんの事を気にしていた。
きっと今日も、梓ちゃんは澪ちゃんに会う事を楽しみにしていたはずだ。
だから、私が澪ちゃんを帰してしまったのは申し訳なく思う。
言葉を濁そうと思ったけど、そうする意味もない。
私はゆっくり言った。
「ごめんね……私、澪ちゃんを怒らせる事しちゃったの」
「……どういうことですか?」
悲しい表情のまま上目遣い。だけど、少し口調に色が戻った。
やっぱり澪ちゃんの事が……――。
私は言葉を続けた。
「梓ちゃん……実はね、私――」
もう隠していく意味もない。
息を吸う。
「私、りっちゃんの事が好きなの」
梓ちゃんは一瞬驚いたように目を見開いた。
私は意外とすんなり想いを曝け出せたことの方が驚きだった。
この重圧を誰かに分け合いたいと、思っていたのだろうか。
梓ちゃんはそれから、目を伏せつつ言った。
「……なんとなく気付いてました。ムギ先輩が、律先輩を好きなこと」
唯ちゃんも梓ちゃんも鋭い。
それとも私がりっちゃんの事を好きなのを、表情や行動に出し過ぎていたのだろうか。
確かにそうだったかもしれないけど、まさか梓ちゃんにもバレていたなんて。
唯ちゃんは天然ながら鋭いところがあったから仕方ないと思っていたけど、どうやらそれだけじゃないみたい。
私がりっちゃんの事を好きなのは、バレバレだったのかな。
「りっちゃんが好きだから、だから――」
私が言葉を紡ごうとした時、部室の入り口のドアがゆっくり開いた。
私と梓ちゃんは、音に反応して振り向いた。
そこに立っていたのは、浮かない顔をした唯ちゃんだった。
外出するには似つかない格好と、ボサボサの髪。背中にはギター。
「唯先輩……」
梓ちゃんが口を開いた。
私たちは毎日のように会っていたけど、梓ちゃんにとっては久しぶりに唯ちゃんを見るのだから、嬉しい気持ちは湧くに決まってる。
でも梓ちゃんの顔は、少しだけ笑みが零れるだけで嬉しさを溢れさせるまでに至らない様だった。
それは仕方ない。私が澪ちゃんを帰らせてしまったことを、梓ちゃんが快く思うはずがない。
久しぶりに澪ちゃんに会えなかったことや、澪ちゃんを私が怒らせたことに対していい思いはしていないだろう。
だからそれが引っかかって、唯ちゃんとの再会にも素直に喜べないんだ。
もう一度、心の中で謝った。
梓ちゃんは席を立って、唯ちゃんの元へ近づいた。
「……お久しぶりです、唯先輩」
「あずにゃん……」
去年はいつも梓ちゃんに抱きついていた唯ちゃんのことだ。
今回も歓喜余って梓ちゃんに飛びつくんじゃないかと思った。
だけど唯ちゃんは、そうしなかった。
そのまま佇んで、私と梓ちゃんの顔を交互に見た。
そして。
「……りっちゃんと、澪ちゃんは?」
「――」
私の背中にさっと寒気が走った。
唯ちゃんの声は、酷く平坦だった。
いつもの抑揚のある、元気で明るいな声じゃない。そこに沸き立つ波もない。
ただの線のような低い声で。そして私たちを見つめる瞳は、もう全てお見通しとでも言うかのような強い自信と困惑に満ちていた。
「ムギちゃんは澪ちゃんに何か言って……あずにゃんはりっちゃんに何か言った。そうだよね……?」
唯ちゃんの言葉は、正解だった。
なんでこの子はいつも、こんなにも鋭いのだろう。
普段は天然で何も考えていないような顔をしているのに、どうしてこんな時はいつも心を読まれるのだろう。
極端な子だと和ちゃんは言っていたけれど、極端さから来る勘の鋭さとでもいうのだろうか。
唯ちゃんの目は、怒っているようにも見えた。
それに気付いた時、私はなんとなく罪を責められているような――よくテレビで見る、探偵や刑事さんに追い詰められる犯人のような気持ちになった。
悪い事をした。それが心の中で渦巻いているのを知っているのに、それを何とか自分で押さえつけてる。
だけど、鋭い探偵さんがそれを暴こうとしているんだ。
私は願っていた事を、なんとか言って、それを実現させた。
りっちゃんと澪ちゃんを別れさせることができた。
でもそれは、私の中で尾を引いてる。
私はりっちゃんと自分のために精一杯やれることをした。
そう自信を持って言いたいし、それがりっちゃんのためになると思って起こした行動だったはずだ。
澪ちゃんと別れることは、りっちゃんにとって少しでも苦しみを和らげることになる。
そう思ってやったんだ。
それはいいことじゃないの? って思ってたのに。
いざ終えてみると、それは私の心に変な感触を残したままだ。
もしかして『悪いことだったの?』と、自問自答が浮かんで消える。
私はいい事をしたつもりだったのに。願ってた事をしただけなのに。
それが悪いことだったかもしれない。
それが、溜まらなく胸を縛る。
そしてそれを唯ちゃんに責められるのが怖い。
唯ちゃんは、黙っている私に言った。梓ちゃんは俯いて、床を見つめている。
「二人は……何を言ったの?」
私は奥歯を噛み締めた。
言葉が出ない。
「りっちゃんと澪ちゃんがここにいないのは……それは二人が何か言ったから?」
りっちゃんも帰ったの……?
さっきから唯ちゃんはそう言っているのに、なぜそれに気付かなかったんだ。
梓ちゃんとりっちゃんが一緒に来ない時点で、それに気付くべきだった。
りっちゃんも、帰ってしまった。
梓ちゃんが、何かりっちゃんに言ったんだ。
頭に浮かんでいたりっちゃんとの再会の光景は、一瞬だけ砕けた。もちろん先はある。
でも帰ってしまったという事実は重く圧し掛かっている。だから梓ちゃんは浮かない顔をしていた。
『私と同じように』、『自分の好きな誰かを独占する誰か』に対して『何か酷い事』を言った事に、少しだけ後悔を感じているんだ。
私と、同じ。
りっちゃんから、澪ちゃんを奪いたい。
澪ちゃんから、りっちゃんを奪いたいだけだった。
だけどあの二人を別れさせたことが、罪悪感になってしまっている。
その理由はわからない。
唯ちゃんの追及は続く。
「ムギちゃん。何を言ったの? 澪ちゃんに……何かりっちゃんの事で酷い事言ったんでしょ?」
私に鋭い言葉が刺さる。
酷い事。
酷い事って。
酷い事って何?
私がりっちゃんを好きでいることが、酷い事なの?
大好きな人が誰かに取られているのを黙って見過ごして、それを壊したくて。
やっと別れさせることができて、少しだけ私と大好きな人が一緒になれる可能性が見えてきた。
それが、酷い事なの? 悪いこと……?
さっきまでの罪悪感は、唯ちゃんへのやつあたりに変わってしまっていた。
感情の変化には冷静に気付いたけれど、私は思わず声を上げていた。
「言ったわ! 別れてって……澪ちゃんに、りっちゃんと別れてって言ったの!」
唯ちゃんは、驚いて目を見開いた。
私は抑えられなかった。
私の、りっちゃんへの想いを否定された気がしたからだ。
「でも、澪ちゃんに別れろっていうのは……悪いことなの? 私はそれを望んでたのに」
唯ちゃんは、私に詰めよった。
「澪ちゃんはりっちゃんといたいんだよ。それをムギちゃんは、自分勝手に――」
「自分勝手って? 澪ちゃんがりっちゃんと一緒にいるから、りっちゃんは苦しんでるのよ? それを終わらせたのに、なんで酷いなんて言われるの?」
「ムギちゃんはわかってないよ。苦しくても、あの二人は一緒にいたいって思ってるはずなんだよ」
「唯ちゃんこそ……私の気持ち何にもわかってないわ!」
私の言葉が、部室に響いた。
唯ちゃんはわかってないんだ。
どれだけ私がりっちゃんの事を好きなのか。
そしてどれだけ澪ちゃんの事を羨ましく思ってたか。
あの二人が仲良くしているのを見ている時、どんなに心苦しかったか。
唯ちゃんは鋭い。誰かの心を簡単に見透かすこともできるだろう。
でもわかってないんだ。
私の苦しみを。
「唯ちゃんは……誰かに恋したことある?」
「……」
私に寄っていた唯ちゃんは、一歩下がって目を泳がせた。
「……ないよ」
「恋したことないなら、わからないわよねこの気持ち。大好きな人が誰かに取られてるのを黙って見てるこの気持ち。
そして大好きな人が苦しんでるのを黙って見過ごしてる悔しさ。そんなの、唯ちゃんにはわからない!」
言いきった語尾が、反響する。
頭に血がのぼったのか、私は息切れをしていた。
唯ちゃんと梓ちゃんは、私の事をまるで珍しい物でも見つけたかのように顔を強張らせていた。
梓ちゃんは少しだけ怯えているようで、唯ちゃんは唇を舐めて何か言い返そうとしている。
私は、私が二人に怒鳴った事を少し後ろめたく思った。
言ってしまった、と思った。
澪ちゃんだけじゃなく、二人にも怒鳴ってしまった。
声に出して叫んだときには、ただ唯ちゃんを黙らせたかっただけ。
でも、そんな考えなしに怒声を上げた事は、また私に悪いことをしたのではないかという罪悪感を助長させる。
遠まわしに――いや、ほとんど唯ちゃんを侮辱したようなものだった。
唯ちゃんが、沈黙を裂いた。
「わかんないよ」
その声は、さっきまでの少しうろたえた表情からは想像できない、とても落ち着いた声だった。
私が顔を上げると、唯ちゃんは悲しそうな目を私に向けていた。
「……ムギちゃんの気持ちは、私にもわからないよ。私、誰かに恋をしたことがないから、
自分の大好きな人が誰かに取られるとか……その人が辛い思いをしてる時にどう思うかなんて
……わからない。わからないけど、でも、でも」
言葉はぎこちなかった。
止まり止まり。言葉に筋はなくて、所々で詰まる。
だけど必死さの中に、唯ちゃんらしさが見えて。
そしてそれが異常なほどに説得力を持っていて、それがいちいち私をつんざくのが痛かった。
「でも、ムギちゃんは……ムギちゃんは、澪ちゃんの気持ちを無視した。
ムギちゃんがりっちゃんを好きなように、澪ちゃんだってりっちゃんが好きなんだ。
そしてりっちゃんは、澪ちゃんが好き。それはムギちゃんにだってわかってるよね」
「……わかってる。でも、二人が一緒にいる事は、りっちゃんを苦しめてる事なの!」
「本当に?」
問われて、本当だと言えなかった。
りっちゃんが自分自身で『苦しい』と言ったわけじゃない。
卒業式の時見たりっちゃん。
苦しそうに、辛そうに俯いていた。
受験前のりっちゃんの面影はまるでなかった。
そして、ずっと澪ちゃんと一緒にいて、澪ちゃんが笑ってりっちゃんに何か声を掛けて、
りっちゃんはそれに対してこう返したのだ。
『ごめん』と――。
どう考えても、りっちゃんは苦しんでいた。
澪ちゃんと一緒にいることが苦しい。例えそれが好きという感情から来る苦しみだとしても、
りっちゃんは澪ちゃんといるのが不安で仕方がなかったに違いないんだ。
私の憶測でも邪推でもなんでもない。りっちゃんは確かに言ったのだ。
泣き出しそうな声で。
『ごめん』って。
最終更新:2012年05月31日 23:37