何度も何度も、澪ちゃんや私たちに言ったんだ。
そんなりっちゃんが、苦しんでいないわけがない。
澪ちゃんに対して、申し訳ないと思ってるはず。
そして、罪悪感で心はボロボロで――澪ちゃんといることでその傷は掘り返されるんだ。
澪ちゃんがいるから、りっちゃんは自分の過ちを思い出しちゃうんだ。
そして澪ちゃんに何もしてやれない自分に絶望してしまうんだ。
澪ちゃんが――。
澪ちゃんがいるから――。
「りっちゃんは、澪ちゃんがいるから苦しいの。わかるのよ」
「ムギちゃん――」
「あの二人は一緒にいたら駄目なの。りっちゃんは澪ちゃんといることから解放されたがってるに決まってるわ」
「……」
「唯ちゃんの言いたいことはわかってる。でも、私はもうりっちゃんが苦しんでる姿なんて見たくない」
もしりっちゃんが澪ちゃんの事を大好きで。
澪ちゃんもりっちゃんの事が大好きでも。
二人が苦しくて辛いくて、悲しいのなら、無理に一緒にいるのはいいことなの?
それは、二人にとっていいことなの?
一緒にいる事に、幸せを感じないなら。むしろ痛みを感じるのなら。
別れた方が、いいと私は思う。
――いや、そんなのこじつけだ。
私はただ、澪ちゃんにりっちゃんを奪われたくないだけ。
そしてもうりっちゃんを苦しめないで欲しいだけ。
唯ちゃんは私に『酷い事を言ったのでしょう』と罵った。
それに対して、私は憤り怒鳴ってしまった。
だけど、唯ちゃんの言う通りだ。
私は、自分勝手に酷い事を言った酷い女だ。
でも、私が罵られてりっちゃんが楽になるならそれでもいい。
そうであってほしい。
■
ムギ先輩の言葉は、私に通じるものがあった。
いや、同じ。
ムギ先輩の律先輩への想い。
律先輩を苦しみから解放させてあげたいという事。
そのために、澪先輩に別れてほしいと告げた事。
全部、私と同じだったのだ。
澪先輩が大好きで、澪先輩をいつまでも独占する律先輩が好ましくない。
律先輩と一緒にいることで、悲しく目を伏せる澪先輩を思いだす。
澪先輩に悲しんでほしくない。
苦しい気持ちをなくしてあげたい。
だから、律先輩に言ったんだ。
澪先輩をもう苦しめないで、と。
澪先輩と別れてください、って。
ムギ先輩と唯先輩が言い争っているのを、横で見つめていた。
心の中は、忙しく淀んでいた。
唯先輩がムギ先輩に言った言葉が、全部私に跳ね返ってきたからだ。
「ムギちゃん。何を言ったの? 澪ちゃんに……何か、りっちゃんの事で酷い事言ったんでしょ?」
――あずにゃん、何を言ったの? りっちゃんに……何か、澪ちゃんの事で酷い事言ったんでしょ?
そう問われているように聞こえたのだ。
それから唯先輩の言葉は、ズキズキと私の胸に刺さる。
耳を押さえたくなるほど、唯先輩の台詞が重かった。
「ムギちゃんは、澪ちゃんの気持ちを無視した。ムギちゃんがりっちゃんを好きなように、澪ちゃんだってりっちゃんが好きなんだ。
そしてりっちゃんは、澪ちゃんが好き。それはムギちゃんにだってわかってるよね」
私は――。
私は律先輩の、澪先輩に対する想いを無視した。
律先輩も、澪先輩の事大好きなのは知ってるのに。
それを真っ向から否定して、別れろと私は言ったのだ。
私が律先輩ならどう思うんだろう。
なぜ好きなのに、別れろと言われなきゃいけないの。
そう思うだろうか。
でも律先輩は、人に澪先輩と別れろと言われるだけの事をした。
たくさん澪先輩に苦労を掛けた事を、律先輩自身が一番わかってる。
そんなの律先輩だって気付いてる。
だからこう思うんだ。
『そうだよな……笑っちまうよな』
律先輩の声がフラッシュバックした。
『私みたいな奴が澪を幸せにできるわけない……わかってるんだ』
自分じゃ駄目なのだと、律先輩は言った。
澪先輩に辛い思いをさせている事に、律先輩は当然気付いている。
だから、あんなにも自分を嫌っている。
そして謝ってばかりいる。
『ごめんな、梓……』
受験に自分だけ落ちたと律先輩が報告してきた時の電話。
ずっと律先輩は謝っていた。
書店で一人トイレに駆けて行って、澪先輩に抱かれながら泣いていた時。
やっぱり律先輩はしきりに謝っていたんだ。
ごめん、ごめんと。
私は、律先輩の事が好きじゃない。
それは、私の大好きな澪先輩を奪ってしまうから。
だけどそうじゃなかったら、律先輩だって大好きな先輩の一人。
好きじゃないのは澪先輩を一人占めから。
だから、澪先輩を一人占めないのなら、私は律先輩を嫌いになる理由もない。
私は――律先輩を嫌いになりたくない。
バンドメンバーとして、信頼できる先輩のままでいてほしい。
好きという感情に及ばないまでも。澪先輩に及ばないまでも。
律先輩に苦しい思いをしてほしいとは思わない。
邪魔だとは思うけど、だからって律先輩に悲しい思いをしてほしいわけじゃないんだ。
もう謝ってほしくないんだ。
だからこそ澪先輩と別れてほしい。
そうすれば、澪先輩も律先輩も、相手を想う余り息苦しくなることもない。
私が嫉妬に歪むこともない。
誰かを嫌いになることもない。
よかれと思ってしたこと。私は私の想いを律先輩に告げた。
それを唯先輩は、責め立てるように声を上げる。
でも、これでよかったと思う。
いや良くなんかない。
だって私、全然心晴れてないもから。
ならどうすればよかったの。
このまま何もしないままだったら、先輩二人は苦しんだままだった。
別れれば、それが軽くなるんじゃないかって思った。
でも別れてくれたとしても、それは私を苦しめたんだ。
どうしたって、誰かが苦しんじゃうんだ。
悲しい結果になっちゃうんだ……。
思考から戻るのと、ムギ先輩はキーボードを担いで出て行くのが同時だった。
艶やかな髪を揺らすムギ先輩の後ろ姿は、怒っているようなそうじゃないような。
私が考え事をしている間に、何があったのだろう。
そのまま口論していたのだろうか。
ムギ先輩は出て行った。
ドアがしまった硬質な音が、じーんと耳に響いた。
唯先輩と私の、二人だけ。
唯先輩の横顔は、思い詰めたように暗かった。
律先輩は、私の所為で帰った。
澪先輩は、ムギ先輩の所為で帰った。
ムギ先輩は、唯先輩と喧嘩して帰った。
皆で会うの、楽しみにしてたのに。
それも叶わなくなっちゃった。
誰の所為?
私の所為だ。
私が、一人で律先輩と話をするなんてムギ先輩に言ったからだ。
私があんなこと言わずに、私とムギ先輩で律先輩に会って――。
澪先輩と合流して四人でドラムセットを運んでればよかったんだ。
言わなきゃよかったんだ。
別れろなんて。澪先輩と別れろなんて言わなきゃよかった!
――でも。でもでも。
言わなきゃよかったって思うのに。思ってるのに。
二人が別れたのを、ちょっと嬉しく思ってる私がここにいるんだ。
どっちが本音なんだろう。
矛盾ばっかで、嫉妬ばっかりで。
でも後悔ばっかで。
それでも微妙に喜んでて。
でも、でもやっぱりって。
でもでもって。
嫌な子だな私。
■
私は目を伏せるあずにゃんに尋ねた。
「あずにゃんも……りっちゃんに何か言ったの?」
言ったのはわかってる。
あずにゃんがりっちゃんに何かを言ったから、ここにりっちゃんがいない。
わかってるけど、聞かずには居られなかった。
ムギちゃんを帰らせたことが、気持ちの上で尾を引いていた。
「……はい」
あずにゃんは、小さく漏らした。
何を言ったのかは大体想像はついた。
さっきムギちゃんが私に反抗している時、ふと見たあずにゃんの顔は、強張っていて――そして何か後ろめたいようにそわそわしていた。
その様子は、まるで自分の事を陰で悪く言われている事実を知ったかのような、そんな心細い印象だった。
その姿を見て、私は思ったんだ。
あずにゃんも、りっちゃんに言ったんじゃないかって。
澪ちゃんと別れろと。
二人が一緒にいる事は良くないんだって。
「ムギちゃんと……似たようなこと?」
「……すいません」
肯定も否定もしなかったけれど、ただ一言謝った。
これは、言いましたと言っているようなものだった。
あずにゃんがそこまでりっちゃんに踏み込めるなんて私は思ってもみなかった。
何の気なしに言える言葉じゃない。
りっちゃんは澪ちゃんが好きで、澪ちゃんはりっちゃんが好き。
そんなの誰だって知っている。
でもあずにゃんは――そしてムギちゃんは――それを、壊す気でいた。
二人の仲だけでなく、軽音部自体の関係を悪くするかもしれない。
そういう想いは、あずにゃんもムギちゃんも持っていただろう。
でも言った。
そこに至るのに、どれだけ二人は苦しんだのだろう。
そして言われたりっちゃんと澪ちゃんも、どれだけ苦しいのだろう。
そして、私も。
皆が苦しんでいるのに、何もできないことが苦しいよ。
「……あずにゃんは悪くない。さっきムギちゃんに、あんなこと言ったけど……ムギちゃんも何も悪くないんだよ」
ムギちゃんはりっちゃんの事が好き。
それだけなのに。
その想いのまま行動したムギちゃんを、私は否定した。
だけどそれがいい事か悪い事かの判断はつかないんだ。
「……私、どうしたらいいんでしょう」
あずにゃんが拳を握りしめて、顔を歪ませた。
「私、澪先輩の事大好きで……恋人になってほしいとか、ずっと一緒にいたいって思って…… だから律先輩の事、邪魔だなんて思って……!」
握った拳が、そのまま顔を隠す。
声に涙が混じってた。
「だから……だから言ったんです。澪先輩をもう苦しめないでって……別れてくださいって……でも、でも……」
床に、水滴。
「私がしたことは……っ……間違いだったのかなあ……ひっく」
私はあずにゃんは抱きしめた。
あずにゃんが入部してから、ずっとこういう風に抱きついたりいきなり背に手を回すことだってあったけれど。
今はそんなのとは違う抱擁。
ただ、もういいって言ってあげたかった。
泣いてる姿なんて見たくなかった。
「もう言わなくていいよ、あずにゃん」
「っ……うう……すいません……」
「謝らないで」
「でも、でも……」
なんで誰もが『でも』って使うんだろう。
りっちゃんは、澪ちゃんに慰められたはずだ。
そして一緒にいることに苦しみを感じる事を、分かち合った。
だけど使うんだ。
『でも』。
でも、ってなんなんだろう。
誰かに救われそうになる自分を、追い込むための言葉なのかな。
そんな人じゃないよと、相手の言葉を否定する言葉なの?
りっちゃんは、澪ちゃんに言われたんだろう。
『今の律でも構わない』。
だけどりっちゃんはこう答えるだろう。
『でも』。
『でも、澪はそれを望んでいない』って。
あずにゃんも言うんだ。
自分のしたことを悔むのはいいよ。それを私は、言わなくていいって言ったんだ。
懺悔するみたいに、苦しみを無理に言葉にしなくてもいいよって。
でもあずにゃんは言うんだ。
『でも』。
『でも、やっぱり。私のしたことは悪い事でしたよね』って。
ムギちゃんだって言う。
自分のしたことを否定されたのに腹を立てたのはわかる。私も悪い。
でもりっちゃんと澪ちゃんの事について話すとこういうんだ。
『でも』。
『でも、あの二人は苦しい思いをしているの』って。
そして私だって言うんだ。
ムギちゃんのしたこと。あずにゃんのしたこと。
どっちも間違っていない。正解も不正解もない。
そんなのわかってる。
でも私は、りっちゃんと澪ちゃんは一緒にいるべきだと思った。
ほら、さっそく使った。
『でも』。
『でも、りっちゃんと澪ちゃんは一緒にいたいと思ってる』って。
私たちは、いつの間にかこんなにも誰かを否定することに慣れていた。
いつからこんな事になったかなんて、わからない。
りっちゃんが受験に失敗したから?
違う。あずにゃんが澪ちゃんに、ムギちゃんがりっちゃんに恋心を抱いたのはそれよりももっと前で。
当然その頃から、りっちゃんと澪ちゃんの仲を裂きたいと二人は考えていたんだろう。
なら、りっちゃんが受験に失敗したからじゃない。
なんでなんだろう。
どうしてだろう。
どうしよう。
どうしたらいいんだろう。
私の――私たちの葛藤は、心に穴を開けて行く。
その隙間に、たくさんの痛みが潜り込んでいく。
代わりに、心を埋めてた笑顔や思い出が抜けていってしまう。
嫌だ。
皆が悲しんでいるのは、嫌だ。
だけどどうすればいいのかもわかんないんだ。
最終更新:2012年05月31日 23:38