いつのまにか眠っていたらしい。
 部屋に戻ってくるまでの記憶はあった。ママにもうどうでもいいと吐き捨てて、逃げるように部屋に上がったんだ。
 そして、苦い言葉や辛い記憶からも逃げたくて、ベッドに潜り込んでそのまま寝てしまったんだ。


 服装は、出掛けた時のままだ。
 電気は点けっぱなし。
 上半身を起こす。布団にしわが寄る。
 汗が酷い。長い髪が蒸れる。夏の暑い日に布団に潜り込んだ私が馬鹿だった。


 喉が渇いて仕方なかったけれど、足も動かなかった。
 時計は、夜中三時頃を差していた。窓の外は真っ暗だ。
 ……十二時間ほど寝ていたようだ。晩御飯も食べていない。


 もしかしたらママが起こしに来たりしたかもしれないけど、そんな記憶もない。何も思わず、ただひたすら寝ていた。
 それだけみたいだった。
 投げ捨てられたように床に寝ているベース。
 座布団の上で寂しそうにしている携帯電話。
 私は、ゆっくりとベッドから降りて携帯電話を拾った。
 開いたけれど、誰からも連絡履歴はなかった。
 律でさえも、メールも電話もしてこなかった。


 それでいいとは思うけど、やっぱり寂しい。

 それにおかしい。

 だって今日、勝手に帰ってしまったのは私だ。律は、一人帰ってしまった私に何も言わないわけがないのに。
 だって、折角全員が集合するという日に、一人帰ったんだぞ。それも何も言わないで。
 それに対して律は、どうして何も声を届けてくれないのだろう。
 律にも、何かあったのだろうか。



 ……いや、むしろこんな私に律が声を掛けることもおかしいと思え。
 律を苦しめてたんだ。
 律が選んだ『律』を、心のどこかで嫌がっていたんだ。
 そんな最低な私が、律と一緒にいることさえ甚だしいんだ。
 やっと皆と会う事を決心した律を置いて、一人逃げ帰ったんだぞ。
 そんな奴に、律が怒ったり呆れたりするのも当たり前だ。
 私なんかが律の傍にいちゃ駄目なんだ。



 だから……もういいんだ。


 喉の渇きを忘れてもう一度ベッドに倒れた。
 電気を消すのを忘れているのに気付いたけど、どうでもよくて。
 立ち上がるのも面倒だった。
 それぐらい無気力が体を占めていた。


 目を閉じる。暗闇に身を投じる。


 浮かんでくるのは律の顔ばかりで、うっとおしかった。
 思い出したくないのに、出てくるなよと言ってやりたい。
 思い出したら――律の顔を思い出したら、泣いてしまいそうだから。
 だから早く眠れ私って、願った。


 なのに、眠れない。
 律が横にいない事が、こんなに不安だなんて。
 だけど隣同士で寝る権利は、もうないって思うから。



 ベッドの横に座っていたお気に入りのうさちゃん人形を手に取った。
 ふかふかと弾力のあるうさちゃんでも、律の代わりにはならないけれど。
 募る想いを受け止めてくれるには、この人形でも十分なんだ。



 ……お気に入りのうさちゃん抱いて、今夜もおやすみ。











 澪は当然怒っただろうな。
 何カ月も悩んで悩んで、やっと皆と会う決断をした。それに澪は喜んでくれた。
 私も、以前のように明るい私に戻るための一歩を踏み出せたんだって――
 澪の幸せのために、私ができることをやっとやれるって思ったのに。


 まだ脆くて、逃げ出してしまった。


 きっと澪は、私の事をもう嫌いになってしまっただろう。
 澪から電話もメールもないのがその証拠さ。


 いつまでも優柔不断で、やっと決心したかと思えばまた引きこもる。
 逃げ帰って皆に迷惑を掛けるなんて、何度目なんだよ。




 目が覚めて、携帯電話を開いた。日付を見る。
 皆と会う約束していた時間から、ほぼ一日経っていた。
 八月十七日の昼。まるまる二十四時間もよく眠れたもんだ。


 聡にご飯作ってやってないけれど、昨日の夜と今日の朝は何を食べたんだろう。
 適当にパンを焼いたりラーメン食べたりしたのかな。
 ゆっくりと起き上がって、携帯を座布団に放り投げた。

 喉が渇いたので、部屋を出る。
 階段を降りたところで、聡に出会った。そういや今日部活休みだっけか。


「あ、姉ちゃん」
「聡……」
「どうしたんだよ、昨日俺が帰って来た時からずっと寝てたけど」


 昨日は聡は朝から部活だった。帰りは四時頃と言っていたけど、それより前に私は寝ていた。
 二十四時間寝るなんてこと今までないし、どう考えても寝過ぎだ。
 それに予備校も半分以上授業が終わっている。今日は休もう。


「どうもしないよ……夕飯作ってやれなくて悪かったな」
「ふーん。そういえば澪さんは?」


 私が聡の横を抜けて行こうとした時、その問いに足が止まった。
 卒業してから、澪は私の家に住むようになった。
 澪の親も全然何も言わない、というよりもむしろそれが普通だったという感じで送り出したのを見たし、
 確かに昔から澪が私の家に泊まることはよくあったので、そのお泊まり会が毎日連続してあるようなものと思ってくれたのだろう。


 澪が家に帰るのは、日曜日の夕方だけだ。
 だから聡も、澪がいるのが当たり前だと思っても仕方ない。



 でも、もう澪はいない。


 いないんだ。



「澪は――澪は帰ったよ」
「ふーん。昨日から姿見ないけど、いつ家出たんだろう」
「昨日」


 私は吐き捨てるように言って、台所へ向かった。
 聡が後ろから追いかけてくる。


「昨日って……帰ってこないのか澪さん」
「そうだな」
「そうだなって姉ちゃん……もしかして喧嘩?」



 皆で食事を取るダイニングのテーブルを抜けて、調理台の横の冷蔵庫を開いた。
 中に入っていた烏龍茶を取り出し、近場にあったコップに注ぐ。


「喧嘩じゃない」
「でも澪さんが一日中帰ってこないなんて、なかったじゃん」



 ……うるさいな。
 そりゃ聡が不思議がるのもわかるけど、澪が私といたこと自体間違いだったんだ。
 今さら澪が家に帰ったって当然だし、私みたいな奴と一つ屋根の下暮らしてたこと自体すごいことだった。
 澪が家に帰ったのも別に不思議じゃない。


「ないけど。でも、澪の家は元々ここじゃないだろ」


 私は勢いよくお茶を飲んだ。良く冷えたそれが喉を通る時、体が一気に潤う快さに浸されたけれど、心持ちが穏やかじゃなかった。
 息を吐くと同時にすぐにその快さは消え失せた。


「やっぱ喧嘩したんじゃねえの姉ちゃんたち」



 聡は冷蔵庫からコーラを取り出しながら言った。


 喧嘩じゃない。


 私たちは、別に別れたいとお互いに口に出して今に至ったわけじゃない。
 私がもう澪と会わないと決めたら、澪もここに来なくなっただけ。
 だから喧嘩でも、相手が嫌いになったわけでもない。


「だから違うって言ってんだろ」
「でもなんか澪さんが家にいないの、違和感あるな」


 私がまたお茶を飲むのと同時に、聡は私の隣でコーラをコップに注いだ。
 泡が沸き立つような音。スポーツマンが炭酸なんて飲んでいいのかと普段なら突っ込むものだけど、今だけはそんな気分になれなかった。
 喉を通っていくお茶の味が、気持ち悪く感じ始める。
 私はコップから唇を離した。


「もう澪のことは……いいんだ」



 澪の事は、もういい。


 できれば忘れたいけど、それもできない。


 だからできるだけ思い出させないでほしい。
 私の顔を見てきょとんとする聡。
 コップをシンクに置いて、私はその場から離れた。また聡から言及されるのも面倒だ。
 今は口を動かしたくないし、自分の心の中を曝け出したいとも思わない。
 今は誰かに会うよりも、一人で静かにいた方が楽だ。



「姉ちゃーん」
「……」


 部屋から出たのに、聡はまだ私の名前を呼んでいた。


「俺、鈴木ん家行くから」

 今度は追ってこない。声だけが耳に泳いでくる。

「わかった」

 冷蔵庫の前に残っている聡に聞こえるよう、歩きながら返事した。
 階段を上っている途中、ふと何やら音が流れているのに気付いた。
 聞き覚えのある音。
 それが自分の部屋から聞こえると悟った時、私は勢いよく部屋に飛び込んだ。
 携帯電話に、着信。バイブしながら、鳴り響いている。


 誰だろう。


 それに、なぜ私はこんなに焦っているんだ?
 軽音部の誰かだったらどうしよう。
 澪だったらどうしよう。
 そんな不安が胸に過ぎって、すぐに携帯を取れなかった。
 だけど、ずっとコールしている。

 相手にも悪い……私は息を呑んで手に取り、開いた。
 電話の相手の表示に、軽音部のメンバーの名前はなかった。
 予備校の先生の名前が書いてあった。
 一瞬安堵し、でもすぐに耳に押し当てる。


「も、もしもし」
『田井中さん?』

 女の先生。顔が思い浮かぶのと同時に返事をする。

「はい……」
『今日はどうしたんですか? 欠席なら連絡をしてください』
「す、すいません……」


 時計は正午を過ぎている。もうすぐ予備校は三コマ目を終えて、昼休憩に入ろうという頃合だろう。

 昨日から丸一日寝ていて連絡のしようもなかった。澪は今頃一人で授業に臨んでいるんだろうか。
 澪はあの予備校で、私以外とはほとんど喋らないし友達もいないようだった。
 澪が寂しい思いをしているかも、と思うとまた、胸が苦しくなる。
 それから少しだけ怒られたが、私がいくらか謝ると先生も許してくれた。
 少しして、先生は思い出したように言った。




『そういえば秋山さんも休んでるけど、何か知りませんか』
「――」
『あなたたちいつも一緒だから、田井中さん何か知ってるでしょう?』






 ……澪が予備校を休んでる?
 どうして? なんで澪が予備校に行ってないんだよ。
 私の事呆れて、忘れて、いつもの通りの生活してると思ったのに。
 どうして――なんで。


 突拍子もなく告げられた言葉に、頭と心が追いつかない。
 先生が何か私に言ったような気もするけど、左から右へ抜けていった。
 気付いた時には、電話が切れていた。



 澪……なんでなんだ。


 どうして予備校に行ってないんだ。
 何かあったのかよ。
 澪は真面目で、そういうのきっちりすると思うのに。
 行きたくない、行けない理由があったって事なのか?
 澪――。



 もう澪なんて関係ないってさっきから思いこんでるのに。
 なんでこんなに澪のこと、気になるんだ。
 思い込んだって、心は正直なんだろ。
 まだ澪の事大好きなのに、無理に忘れようとするから余計に思い出す。

 そこに心配と切なさが生まれる。


 好きだからこそ、会わないと決めた。
 会わない。



 いいんだそれで。
 それで!
 それでいいって言ってんだろ!





 電話を放り投げて、またベッドに倒れる。
 もう家でやることもない。
 だって澪もいないし梓にも嫌われてるとわかったのなら、もう五人で一緒にやる意味なんてないようなものだから。
 皆で一緒の大学に行って、バンドをやる。


 それは確かに夢であったけれど、それは皆が私の事を信じてくれてるって確証があってのものだった。
 でもそれも今は、崩れた。


 だから頑張る意味もない。


 また適当な時期になったら予備校を退学しよう。机の上の勉強道具も邪魔だ。
 そのうち捨てるか何かすればいい。もう勉強をやる理由もないんだから。


 ……そう、何もない。
 もう私には何もないんだ。


 やれるのは、寝て起きて、食べて寝る。聡のご飯作る。
 その程度だ。

 つまんねえ生活だな。


 でもそうしたのは自分だ。
 高校時代へらへら笑って過ごして、受験に失敗した揚句がこのザマだ。
 全部私が悪いのだから、仕方ないけど。


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最終更新:2012年05月31日 23:41