唯ちゃんはわかってないとは言ったけど、私が悪いのも事実だ。
 りっちゃんと澪ちゃんは両想いで、一緒にいたいと思ったから二人は一緒にいる。


 だからそれを引き裂く権利なんて私には微塵もなかった。そんなこと知っている。


 でも一緒にいることが二人を苦しめているのなら、それを崩すのは悪いことなのか。

 二人は苦しいのに? 辛いのに?

 それを楽にしたいと切実に思って、私は澪ちゃんにあんな事を言った。
 もちろん澪ちゃんへの嫉妬やりっちゃんを取られたくないという想いから出た言葉でもあったかもしれないけれど、
 結果的にそれは二人の重圧を取り除くことに繋がったと思う。
 私が悪いことしたのかなんて、判断はつきそうにない。


 私は私のしたい事をしただけ。





 そう言い聞かせているのに、心の中はやたらとモヤモヤする。


 胃の中にナイフでも入ってるんじゃないかと思うほど、私の一日の中にキリキリと痛みが走る瞬間が幾つもある。


 それは身体的な痛みじゃない。喉の奥は異様に渇いていて、胸の辺りから酷くズキズキと迸る何か。


 それは心の何かだって事は察しはつくのに。

 私はやりたいと思っていた事をやった。


 澪ちゃんが羨ましいから、別れてもらった。
 そう願ってたんだけど、それが叶っても私は不安に包まれたままだ。
 一体何が引っかかっているんだろう。

 願いが叶ったのに。
 普通は喜んだり、心が満たされる高揚感に浸るものだけど、昨日からそんなものはまったく押し寄せては来ない。
 むしろ『悪いことだったのだろうか』という自己反芻から訪れる一抹の自責がちくちく胸を刺すばかりだ。


 唯ちゃんに言われたことがまったく的外れじゃないのは事実。

 私は酷い事をいったつもりはないけど、厳密に考えると酷い事かもしれない。


 りっちゃんと澪ちゃんが一緒にいたいという気持ちを否定した――澪ちゃんが走って帰ってしまったということは、澪ちゃんもショックだったんだ。
 傷つけるつもりはなかったと言えば嘘になるし、二人を引き裂こうと思ったら必ず傷つくものだとは思ったけど、確かに気持ちいいものじゃない。
 私は澪ちゃんの事を好きじゃないけれど、バンドメンバーとしては好きなのだ。

 澪ちゃんの事を悪く言う事は、りっちゃんを傷つけること。

 そんなのわかってるけど、りっちゃんの気持ちを一人占めする澪ちゃんにいい思いを抱いていないというのも、私自身十分理解してる。
 だから澪ちゃんが傷つくことさえいとわない。
 そう思った。澪ちゃんが傷つくことをりっちゃんは悲しむだろうけど、二人が離れればりっちゃんは多少は楽になる。
 どちらを選ぶかと言われれば後者だった。それだけだ。
 でも終わってみたって浮かばれない。


 想いはまだくすぶっている。



 なんでだろう。
 胸が痛いよ。



 唯ちゃんといろいろと言い合って、私は部室に残った二人に目もくれずに帰った。
 楽しい日になるはずだった八月十六日は、もう数日も前だ。
 楽しい日になるはずだった、と言えばまるで一言だけど、 そうしたのは私の所為――ちょっぴりではあるかもしれないけど梓ちゃんの所為でもある。


 自業自得と言えばそうだ。
 今日までの三日間は、特に退屈でやることもなかった。
 大学は十月までないし、ゼミもまだ始まらない。
 だから八月いっぱいはこっちに残ろうと唯ちゃんと話していた。


 その唯ちゃんとも喧嘩紛いの事をしたのだから、もうしばらくは話せないだろう。
 もうこのまま軽音部はバラバラなのかもしれない。


 そうしたのは自分の所為だってさっきから思ってるのに、何言ってるんだ。
 もし私が澪ちゃんにあんな事を言わなければ、多分いい方向に進んでいた――。


 もちろんりっちゃんと澪ちゃんの心の痛みは取り除けないまま――でも、五人で一緒にいるという楽しさは実現しただろう。
 でも私と梓ちゃんは、りっちゃんと澪ちゃんの救いのためにそれを壊した。
 だから私は、軽音部がバラバラになった事を嘆く権利なんてない。


 今日は八月二十日。


 あの日から今日まで、私の一日は朝起きて適当な事をして過ごすだけだった。
 父の仕事の手伝いを言われることもあるけど、それもまた適当にやって終らせた。
 正午少し手前の頃に廊下を歩いていると、斎藤が私に尋ねてきた。


「お嬢様」
「どうしたの?」
「先日田井中様の楽器をお運びしたのですが、あれを今度は田井中様の自宅まで持ち帰るというのはしなくてもよかったのでしょうか」



 はっとした。
 りっちゃんが澪ちゃんと二人だけでドラムセットを運ぶのは大変だろうと斎藤を軽トラックと共に使わせて、斎藤にドラムを学校まで運ばせたのだ。
 結局それを部室まで運んだのは私だけど、ドラムセットは部室に置きっぱなしだ。
 りっちゃんも澪ちゃんも取りに来てないのならあまりいい状態とは言えない。


 私は少しだけ考えて、決心した。


「……そうね、取りに行きましょう。それでりっちゃんの家に届ければいいわ」
「かしこまりました。いつ頃出ましょうか」
「暇だしすぐにでも出ましょう」






 恐らく梓ちゃんは部活にも出ていない。好都合だった。

 今はあまり、皆に会いたいという気持ちもない。





 斎藤を玄関に待たせて、私は一人で校舎に入った。
 部活をする運動部の生徒が校庭にいたり、私の知らない先生とすれ違ったりもする。

 この空気が懐かしかったけれど、今はそれを楽しんでいる余裕もない。早くドラムセットを運んで来よう。


 高校時代何度も通った階段を上り始めた時。
 スネアの音。スティックの弾く硬質な――。
 私は急いで階段を駆け上がった。りっちゃんが来ているかもしれない、というあり得ない事も期待した。
 梓ちゃんに言われたことがショックで今はドラムを叩ける状態じゃないだろうけど、でももしかしたらって――。
 部室のドアを前に、一瞬躊躇。


 そして。


「――」


 中にいたのは、まったく知らない子だった。
 りっちゃんのとは違う緑色のドラムの前のイスに腰かけて、スティックを手に持っていた。
 物珍しいような顔と驚きに溢れた顔でこちらを見つめながら固まっていた。



「あ、その……ごめんなさい」


 私は謝りながら気付いた。
 もしかしてこの子が梓ちゃんの言ってた、新入部員の子なのかな。
 確か新しく入った新入部員のうち、一人はギターのできる子で、もう一人は彼女に誘われたまったくの楽器初心者だと聞いた。
 梓ちゃんがギターボーカル、純ちゃんがベースで憂ちゃんがキーボード。


 となると放課後ティータイムの編成と同じにするならドラムがいない。
 そこで梓ちゃんは何もできない彼女にドラムを教えることにしたというのを聞いた。

 ドラムの前に座っているんだから、そうよね……?

「もしかしてあなたが……新入部員の」
「あ、はい……その、もしかして琴吹先輩……ですか?」


 彼女は立ち上がって、私に近寄った。
 どうして名前知ってるんだろう。


「梓先輩から、先輩方の事聞いてて……その、ベージュかかった髪の先輩が琴吹先輩だってこと、教えられてて」


 私の意図を読み取ったのか、言葉を詰まり詰まり囁いた。目も泳いでいる。
 緊張しているのか、それとも人見知りなのか。言葉に覇気もないし、元気のない子なのかな。

 でもドラムを一応やってるみたいだし……。
 それっきり黙ったお互い。私は場を繋ぐために質問した。


「……梓ちゃんは、どう? 部長、ちゃんとやれてる?」

 言いながら部屋を見渡した。
 りっちゃんのドラムが入っている幾つかのダンボールは、何も書かれていないホワイトボード――。
 私たちの頃から位置も変わっていない――の下に固めて置いてあった。

「はい……とても優しくて、足引っ張っちゃう私をいつも教えてくれてました」

 過去形なのが引っかかった。
 私はドラムセットに近づいて中身を確認する。ちゃんとあった。
 斎藤を待たせるのはあれだけれど、彼女とも話はしてみたい。
 私は一旦ドラムの事は置いておいて、彼女と会話することにした。
 振り返って、また質問。


「学園祭もうすぐね。何か曲考えてる?」
「はい。その、作るのは全部……憂先輩なんですけど。歌詞とかは、結構梓先輩も考えてて」


 梓先輩、憂先輩、純先輩。
 違和感が押し寄せる。いつも皆ちゃんづけで呼んでいた。

 だってあの三人より一つ下に『後輩』がいたことはなかったし、純ちゃんは一応ジャズ研だったけど軽音部としては後輩を持つのは初めてだったはず。
 私たちは彼女たちが『ちゃん』で呼ばれることに慣れているから、先輩と呼ばれている事にやっぱり不思議な思いを感じる。
 そっか。梓ちゃんは、もう先輩なんだなあ。


「琴吹先輩は……その、今日は?」

 どうして来たのか、という意図だろう。
 私は足元にある箱を見下ろした。


「このドラムセットを取りに来たの」
「え? でも確か、琴吹先輩ってドラムじゃないですよね……」
「そうよ。私はキーボード」


 私たちが何の楽器をやっていたのかもそれぞれ伝わっちゃってるのか。
 梓ちゃんはもしかしたら、後輩の子たちに私たちを自慢していたのかな。

 りっちゃんが受験に失敗してからは全然演奏もしなかったし、部室に全員が集まることもなかったけど……
 でも、梓ちゃんを含む軽音部全員が、皆で演奏したことを幸せだったと感じている。
 もちろんりっちゃんだってその思いはまだ残ってると信じてる。


 それは、もう叶わないかもしれないけど。


「ドラムは、田井中律ちゃんって子」
「知ってます……! その、すごい人だったんですよね」


 すごい人。

 梓ちゃんはあまりりっちゃんの事が好きではないだろう。だけどバンドメンバーとしては尊敬しているというのは知っている。
 梓ちゃんが後輩に私たちの事を語る時、りっちゃんの事を悪くいうのかと少しだけ不安だったけど、
 やっぱり梓ちゃんは梓ちゃんだ。私たちの事をまあ多少なり脚色はあっても褒めてくれてた。

 りっちゃんのことも、後輩の子にいい方向に伝わってて嬉しい。
 軽音部の存続を繋ぎとめたり私を入れてくれたりと、りっちゃんの功績は計り知れない。
 今私たちが皆と交流できていたのも、ここにいる後輩の子が軽音部にいるのも、全部りっちゃんのおかげなのだ。

 なんとなく誇らしい。
 けど今は、心はそこまで満たされないんだ。
 なんで?
 少し前なら、りっちゃんが褒められたら、自分のことのように嬉しく思えたかもしれないのに。
 今はどうして、こんなにも苦しく思えるの?




「……そうね。すごい子よ」
「私……申し訳ないんですよね。私もドラムなんですけど、その……下手糞で。田井中先輩はすごく上手らしくて、なんというか……」

 台詞は言いきらなかったけど言いたい事は伝わった。
 彼女は、りっちゃんの居場所を汚してると思ってるのかな。気持ちはわかる。

 もし私が去年までいた先輩と同じ楽器を担当することになって、そして自分の方が下手だったら、去年までいた先輩に申し訳ない。
 言い表す語彙を持ち合わせていないような罪悪感も胸に湧いてくるのも仕方ないとは思う。


 だけど半年でりっちゃんほど上手くなれるはずがない。
 りっちゃんは、澪ちゃんの話を聞けばもう数年以上もドラムを叩いている。
 それもドラマーに憧れたり、好きなバンドのドラマーのDVDを見たりして、ドラムを叩きたいという一心で始めたのだ。
 好きこそ物の上手なれとはいうけど、気持ちの上で後輩のこの子とりっちゃんに差があったんだと思う。


 兼ねてからやりたいと思っていたりっちゃんと、ドラムをやってと言われてドラムをやる彼女。


 スタートラインは随分と違う。



「りっちゃんはね――あ、田井中さんのことね。りっちゃんは、何年もドラムをしてるから上手だったの。 だからそんなにすぐにりっちゃんに追いつくのは難しいわ」
「だけど、上手になりたいんです。バンドで足引っ張ってるの私だし……それに、多分なんですけど、 梓先輩がたまに怒っちゃうので……」
「怒る? 梓ちゃんが?」


 私たちに怒ることはあったけど、後輩を叱ることがあるのだろうか。
 彼女は後ろめたいように俯きつつ、口を開く。


「もう最近なんですけど……その、演奏で失敗したら、『律先輩なら』とか……『澪先輩なら』とかって怒るんです。
 そりゃ先輩方に比べたら……当然下手なのは知ってるんですけど……前からそういう先輩語りをよくするんです梓先輩。
 でも、最近特に増えてて。この前なんか、演奏してたらいきなり『嫌だ』とか言って、出て行ってしまって……」


 梓ちゃんがそんな事をするなんて。
 よほど何か苦しかったのだろうか……いや、疑問じゃない。梓ちゃんは実際苦しんでいた。


 澪ちゃんに対する想い。それを叶えようとすることへの葛藤。


 去年までりっちゃんと澪ちゃんは、一緒にいることに幸せを感じていた。
 その二人に、私と梓ちゃんは入り込む余地などなかった。


 私はいつもりっちゃんを奪いたいと思ったけれど、二人はいつも一緒にいたし、とても幸せそうでそんなことできなかった。

 でもりっちゃんが受験に失敗してから、二人の関係は変わった。

 二人の幸せなだけの関係の中に、少しだけ痛みが生まれた。
 そして一緒にいることと、相手を想う気持ちから生まれた溝みたいなものも出来上がった。
 それを知った私と梓ちゃんは、そこにつけこむように二人に言った。



 別れて、と。


 多分梓ちゃんは、そう言おうか言うまいかとても悩んだと思う。

 その悩みの中に、少しいらだちも生まれたはず。
 多分、演奏中に逃げ出したのは、そんな心の落着きの無さがあったんだろうと思う。



「それで、近頃は、全然ドラム教えてくれなくて」



 さっきの過去形はそういうことだったんだ。
 きっと告白するかどうかの選択に悩んで悩んで。
 後輩を相手にし切れなかったんだ。


「……今日はどうして一人で?」
「一時から部活なんです」


 部屋の時計は、まだ十二時半にもなっていない。


「それに……やっぱり梓先輩が帰っちゃったのとか、最近部活に来ないの……私の所為だと思うんです。
 多分、田井中先輩ほど上手じゃなくて、梓先輩が思ったような演奏ができないから……だから、ちょっとでも上手になろうと思って」


 あなただけの所為じゃないわ。
 確かに梓ちゃんが、彼女がりっちゃんと比べて劣っているから怒ったというのも梓ちゃんの様子がおかしい理由の一つかもしれない。
 でもそれだけじゃない事を私は知っている。


 梓ちゃんはただ悩んでいて、彼女にやつあたっただけなんだって。


 梓ちゃんと私は、似ている。
 りっちゃんと澪ちゃんの仲を裂きたかったこと。
 それを実行するのに、酷く悩み抜いたこと。
 それを実行した事を、後悔している事。
 だけど二人が別れた事を、内心嬉しく思っている事。
 そして、どうすればいいかわからないこと。


 ……――こういう事を考えると、思考がそっちにいってしまう。
 もう彼女と話すのもいいかな。練習の邪魔したら悪い。


「学園祭まで三カ月くらいあるわ。頑張ってね」


 私は足元の箱の一つを持ち上げた。
 歩き出そうとすると、彼女は言った。


「あ、手伝います」


 大丈夫よ――と言おうとした。
 でもその言葉を言う前に駆け寄ってきて、箱の一つを持ち上げてしまった。
 もう止めても遅そうだったので、私は少し身長の低い彼女に笑いかけた。



「ありがとう。じゃあ一階まで」




 話してて、なんだかりっちゃんに会いたくなった。
 それと切なくもなったし、悲しくもなった。
 私は澪ちゃんを傷つけて、りっちゃんと別れてもらった。
 だったらそれを無駄になんかしたくない。



 私は斎藤が運転する横で、電話を掛けた。
 耳に当てて長いコールの先の声を待つ。


 そして。


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最終更新:2012年05月31日 23:42