目に入ったのは、天井。
 最近は気付けばベッドに寝ている。


 八月二十日か。


 もう四日も、部活も夏期講習にも行っていない。
 携帯電話を一度開けば、そこにあるのは私に対する叱咤激励。
 そして心配の疑問符。
 どうしたの?
 そして私の名前。
 何かあったの?
 そして私の名前。
 先輩。
 梓ちゃん……。
 梓……――。






 もう放っておいてよ!



 私なんか、皆と一緒にいる権利もない子なんだ。
 今の私じゃ、皆と演奏したって楽しめやしない。部活は楽しい。皆と一緒に演奏するのは楽しいよ。
 ずっとそう思って今までやってきたはずだった。


 でも『はず』で、『つもり』だった。私の心は、いつもそこになかった。
 今は、部活に行ったって楽しくない。


 誰にも会いたくない。


 私の名前を呼ばないで。
 ただこの四日間。寝て起きて、ご飯食べて寝るだけの日々。

 頭の中はぐちゃぐちゃだ。


 澪先輩の笑顔とか。
 律先輩の笑顔とか。


 皆で過ごした思い出が、いつも私を責めるんだ。


 なんてことしてくれたんだって。


 お前が何も言わなければ、田井中律秋山澪は別れなかった。
 軽音部はまた、以前のように笑い合えたはずなんだって。
 だけどもう一人の私も言うんだ。
 これが望んでた結果なんだって。
 大好きな澪先輩を、邪魔な律先輩から引き剥がせてよかったじゃんって。



 うるさいんだ。



 引き剥がせてよかった。
 確かに昔からそうなればいいと思ってたかもしれない。

 澪先輩が、律先輩に奪われてしまうのが嫌だった。


 でも今はどうなんだろう。
 澪先輩が、律先輩に奪われる事はなくなった。
 だけど嬉しくなんかない。



 だって――。


 だってあの二人はまだ、好き合ってるんだ。
 片方が片方を嫌いになったわけでも、想いが冷めたわけでもない。
 相手を振ったわけでもない。
 まだあの二人は。
 澪先輩は律先輩が、律先輩は澪先輩が大好きなままなんだ。


 私はそれを望んでたの?
 あの二人がお互いを好きなままでも、別れてほしいと望んでいたの?


 私が望んでいたのは。
 私が望んでいたのは、こんなのじゃない。





 私が望んでいたのは。
 私が欲しかったのは――。





 ――私が欲しかったのは、澪先輩の想いだ。



 ただ律先輩に取られるのが嫌だっただけじゃない。
 澪先輩と両想いになりたかった。


 澪先輩が私の事を好きにならないのを、思い知った。
 澪先輩はいつだって、律先輩の事が大好きだ。
 だから、澪先輩は私の事を好きになんてならない。


 澪先輩の気持ちを私に向かわせられない。
 澪先輩に、私を好きになってもらえることはできない。
 だからこんなにも悔しくて、胸が縛られるんだ。


 そんなの前から知ってたのに。
 澪先輩が私を好きになるはずがないって。


 でも、ムギ先輩が澪先輩に言った言葉。
 別れて。
 そう言われた澪先輩は、駆けだしてしまった。
 そして、泣いていたのを唯先輩が見た。



 泣くほどまでに、澪先輩の心を律先輩が占めている。


 今までは望みがあるかもって、思ってた。
 でもはっきりした。


 澪先輩の気持ちは――心は揺らがない。


 律先輩だって――。


 あの二人の気持ちは崩れない。
 ずっと相手を好きなままでいる。


 だから、それを引き裂いてしまった私は最低な子だ。
 わかってたんなら……澪先輩が私を好きになるはずがないって知ってたのなら。



 知ってたのに。


 どうしてあんな事を言っちゃったんだ私。
 言わなきゃ、よかった。




 あんな事、言わなきゃよかった。
 言わなきゃよかった……こんなこと。
 あの二人を別れさせちゃうのなら、あんなこと、言わなければ……。




 私はもう澪先輩と一緒にはなれない。
 だったら……だったら。



 やっぱり澪先輩は、律先輩と一緒にいてよ。
 別れてなんてもう言わないから。
 苦しめないでなんて、言わないから。
 私のわがままなんて、どうでもいいから。



 澪先輩は律先輩といて苦しい。
 そして澪先輩を奪いたい。
 そう思って『別れて』と私は律先輩に言った。


 でも違うんだ。
 澪先輩は、律先輩が好きだからこそ苦しいんだ。
 そして澪先輩はもう奪えないんだ。
 だから。


 だから、別れる必要なんてないんだ。
 一緒にいなきゃ、駄目なんだ。
 澪先輩と律先輩は。



 気付くの遅いよ中野梓



 もう別れちゃったよ……。




 泣き出しそうな心を押さえて、携帯電話を掴んだ。
 別れてしまった。
 でも、言わなきゃ。
 澪先輩に、気持ちだけは伝えなきゃいけない。


 澪先輩は、律先輩ともう一度――って。












 聡は明後日まで遠征で家には帰ってこない。
 だから、家には私一人だけだった。

 一人でご飯を食べながら、テレビを見ていた。

 ワイドショーとか、ニュースとか。チャンネルをとにかく変えてばかりいたけれど、どこも面白そうなものはやっていない。
 もし普段――いや、以前の私ならば楽しめるものもあっただろう。
 だけど今は、何か面白いものがあったって全然面白いとは感じない。
 私は茫然とテレビを見つめる。



 八月二十日か……。

 今日も予備校に休みの連絡を入れた。

 さすがに四日も休みを入れると先生も理由を問い質してくるのだけど、私は風邪とだけ言っている。


 四日も風邪が続くことなんてほとんどないのに。
 でも、正直風邪をひいている時よりも辛い。
 その時先生に澪の事を聞くと、澪は私より先に休みの連絡を入れていた。
 どうやら澪も風邪という連絡を入れていて、いつも一緒にいる二人がまったく同じように休み始めた事に先生は怪しさを感じているようだった。


 澪の奴……本当に風邪なんだろうか。
 だっておかしい。私が梓に別れろって言われてショックを受けた。
 で、次の日から私はあまり行きたくないから予備校に休みを入れた。
 でも、そんな私とまったく同じように、四日間澪も休み続けている。


 私だけじゃなくて、澪も。
 なんでだろう。
 私に対して怒っている。そう思ってる。だったらなんで私を放っておいて予備校に行かないんだ。


 私の知らない澪の事情がある気がして、気が気でなかった。
 いつもなら電話なりメールなり、それか直接あって話していただろう。


 でも今はそれもできない。私はもう澪と会わない方がいい。
 向こうから電話もメールもしてこないんだ。つまり澪も私と話すことなんてないと思ってるんだ。
 だったら無理に私から話すこともない。それでいいんだ。


 適当な昼食を作ったけど、食欲もない。


 私はテレビを消して、食べきれない昼食を片づけた。普段ならもったいないと思う大好きな白いご飯も、今日だけは残飯だ。 
 食べ切れないのなら最初からこんなに作る必要もないのに。
 でも、以前の私ならこんなの食べ切っていた。そこが以前の私と今の私の違いでもある。


 前の私に戻る必要も、特にない。
 今はただの惰性で生活してる。


 澪と一緒にいられないのなら、私は勉強をする意味も、何かに頑張る理由もないんだから。
 澪と一緒じゃないんなら、私が笑顔を取り戻す理由もないんだ。


 それでいいのかって自問自答がないわけじゃない。
 このままでいいのか。
 私――。





 部屋に戻って昼寝をしようとベッドに倒れた時、携帯電話が鳴り始めた。
 相手は、ムギだった。


(……なんで、ムギが私なんかに)


 純粋な疑問だった。
 私が卒業式以降、軽音部でまったく会話をしなかったのは唯とムギだけだった。
 梓とは書店で挨拶を交わしたことと、数日前に言われた時の会話がある。澪とはずっと一緒だった。
 だから、ムギが私に電話をする理由が見当たらなかった。


 なんなんだろう。


 怒られるかな。軽音部で十六日に会おうって最初に言い出したの、ムギだから。
 それを梓の一言で――厳密に言えば私の所為で台無しにしちゃったんだから。
 当然ムギも、いや軽音部皆怒ってるはずだ。その事で、どうせ何か私に文句を言うんだろう。

 『どうせ』なんて使う私もどうかと思う。
 だってあんなに笑い合ってたメンバーなんだ。

 些細な事で私に文句を言ったり、怒ったり、嫌いになったりしないと信じていたかった。
 だけど、梓は私の事をどう考えても嫌ってた。

 だったら、皆、私の事嫌ってる。なんとなくそう思う。そんなの、思っちゃう私も駄目だけど。
 だからムギも私の事、どうせ嫌ってるんじゃないかって怖い。


 でも、出ないのも悪かった。
 私はゆっくりと携帯を耳にあてた。


「……もしもし」
『あ、りっちゃん……久しぶりね』


 私を嫌っているような素振りもない、私の記憶にあるムギそのままの声だった。
 私の事をりっちゃんと呼ぶのも変わっていないし、独特のぽわっとした声色もそのままだ。
 だけどそれも、昔の記憶を想起させて苦しくさせる要因にもなってしまう。


「……何か用なのか」
『うん……実はね、今りっちゃんのドラムセット運んでるの。斎藤の軽トラックで』


 そこから経緯を話すムギ。
 どうやら部室に置きっぱなしだった私のドラムをそのままにしておくのを見兼ねてか、
 持っていく時にしたように斎藤さんの軽トラックで私の家まで運んでいる最中らしい。

 結局あの時、私はキャスター付きの荷台を澪の元へ持っていかなかった。誰が部室に運んだのだろう。
 もし澪が一人でやったのなら、申し訳ない。

 あの時は、ただ家に帰りたくて。一人になりたくて、ドラムの事なんか忘れていたんだ。
 それに今もドラムを叩きたいなんて思ってない。


 皆との――澪との思い出が詰まってるあのドラムを見ると、嫌というほどあの時の楽しさや幸せが甦ってしまう。
 ドラムは嫌いじゃない。大好きだ。でも、当てつけみたいに今の自分への恨めしさも湧きあがってくる。

 こんなに大好きなドラムも、今はあまり見たいとは思わない。
 でも折角持ってきてくれている途中なのに、受け取らないというのも悪い。
 ただムギにはあまり会いたくない。どうしよう。



「わかったけど……その、玄関に置いておいてくれないかな……?」
『……どうして?』
「う、上手く言えないけど、ごめん。そうしてくれ」
『――』


 そりゃそうだよな。遠まわしに会いたくないって言ってんだ。


『私……りっちゃんに話したいことがあるの』


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最終更新:2012年05月31日 23:47