「お嬢様……」
「斎藤。静かになさい……いいのよ」



 本当は泣きたかったけれど、それもできなかった。
 斎藤が運転しながら寂しそうな声を出したという事は、やっぱりさっきの私とりっちゃんのやり取りを聞いていたということだろう。
 別にそれが腹立たしいことではないけれど、でもみっともないところを見せてしまった。


 私はただ助手席に座って、俯いていた。
 りっちゃんの声が頭に響く。



『うるさい!』




 ……りっちゃんは怒ってた。
 私は多分うるさかった。澪ちゃんを否定しすぎた。
 そこは認めざるを得ないし、りっちゃんが好きすぎて盲目だった所も、多分ある――多分じゃない。絶対あった。


 でも。


 盲目だったとして、見逃していた悪いところを直したとしたら、りっちゃんと付き合うことができたかと問うと……そうでもない。
 私が例え、澪ちゃんを否定することなく、ただりっちゃんの事が好きだと伝えるだけ伝えたとしても、りっちゃんは私に振り向くことはなかったと思う。
 それはわかってたし、それを知った上で告白した。


 私が、どうしてりっちゃんに告白すると踏み切ったか。
 それは――私が澪ちゃんに、あんな事を言ったからだ。
 別れてって、言った。

 それは上手くいってしまって、二人は距離を置いている。
 その事に、私は後悔を感じないわけではなかったし、それでよかったのかと自問自答もした。


 あの二人は別れるべきじゃなかったんじゃないかって。
 一緒にいるべきだったんじゃないかって。
 自分勝手だと罵られても、確かにそうだとしか言えない。
 私はいろいろ突っ走りすぎた。
 りっちゃんが欲しくて、周りを見なさすぎた。
 この結果がこれだ。


 りっちゃんには怒鳴られて、多分嫌われた。別れてなんて言った私を、澪ちゃんがよく思ってるわけもない。


 唯ちゃんは、私をあそこまで責めたのだから……多分嫌いになっちゃったと思う。
 梓ちゃんは、私とまったく同じ行動をりっちゃんにしたみたいだけど、梓ちゃんの大好きな澪ちゃんを傷つけたのだから、快くは思ってないだろう。
 梓ちゃんは……今、どうしてるんだろう。
 梓ちゃんも私と同じく、りっちゃんに対して澪ちゃんと別れてと言ったらしい。


 私と行動がピッタリ一緒で驚いたけど、梓ちゃんはとってもいい子だから、もしかしたら罪悪感で押し潰されそうになっているかもしれない。


 ……だからって私も罪悪感がないわけじゃない。
 それどころか、ずっと罪悪感に際名前てばかりだ。
 あの二人を別れさせてしまったこと。まだ二人は好き合っているのに、それを引き裂いたことは、確かに最低な事で私はそれをやって。
 さらに澪ちゃんを差し置いてりっちゃんを手に入れようと抜け駆けたんだ。




 結局、想いは実らなかった。
 今すっごく胸は痛い。
 でも、この痛みは……失恋だけの痛みなの?



 それだけ?
 それだけだったら、私、最低な女ね。



 だけど最低な女ね――で終わらせられる問題でもない。
 それに――それに、そんなに簡単じゃない。
 最低だと自嘲できるほど、気持ちは軽くない。
 りっちゃんにも澪ちゃんにも、唯ちゃんにも梓ちゃんにも悪い事をした。
 唯ちゃんが言った事は本当だった。



『酷い事言ったんでしょ?』


 ……その言葉を聞いた時、私は唯ちゃんに言い返していた。
 でもそうだったんだ。
 酷いことだった。


 私はりっちゃんと澪ちゃんの気持ちを、理解していなかった。
 一番りっちゃんを理解しているのは、私だと思いあがっていた。


 そんなわけないのに。
 過信していたんだ。




 でも、でも……。
 でも澪ちゃんに勝てるわけなかった。
 今も、りっちゃんの頭にいるのは――心にいるのは、澪ちゃんだ。
 りっちゃんを一番理解しているのは、澪ちゃんだ。
 りっちゃんの気持ちを私に向けることはできない。


 そうわかっていたのに、澪ちゃんにあんな事を言った。
 それはもしかしたら、『もしかしたら』という気持ちがあったんだろう。
 よく考えれば、そんなのあり得ないとわかるはずなのに。




『なんだよ……それじゃあさ、まるで澪が私を苦しめてたみたいじゃん』




『でも、ムギちゃんは……ムギちゃんは、澪ちゃんの気持ちを無視した。ムギちゃんがりっちゃんを好きなように、澪ちゃんだってりっちゃんが好きなんだ。
 そしてりっちゃんは、澪ちゃんが好き。それはムギちゃんにだってわかってるよね』


『会ったらちゃんと言った方がいいよ、りっちゃんに』


『ずっと私は律を見てきた。だから律の気持ちは誰よりも理解してるつもりなんだよ


『うるさい!』



 私はりっちゃんの気持ちを、何も理解してなかった。
 澪ちゃんの事も。
 唯ちゃんも。
 梓ちゃんも。
 私は、ただわがまま言ってりっちゃんと恋人になろうとした卑怯者だ。


 うるさい、とりっちゃんは言った。
 それは私の言葉に間違いがあって、それをりっちゃんは聴きたくなかったんだ。
 私の言った言葉。


 澪ちゃんはりっちゃんを苦しめていた。


 それは間違いだったの?
 いや間違いじゃなかった。


 でも、間違いじゃなくても――。


 例えりっちゃんが――二人が一緒にいることで苦しんでいるとしても。
 二人はお互いの事が好きで、好きで、それで一緒にいたんだ。


 好きなら、少しぐらい苦しくたっていいのに。
 なんでそれに気付けないで、私はあんな事を澪ちゃんに言っちゃったんだ。




 ――それに、苦しいからって。
 苦しめるのはやめてって、私は言ったけど。


 あの日、りっちゃんが私たちに会おうとしてくれたこと。
 それは、りっちゃんが私たちを信じてくれたということなんじゃないの?


 りっちゃんと澪ちゃんの間にある苦しさを、やっとそこで終わらせようとしてたんじゃないの? 
 二人はお互いが苦しいのを知っていて、だからこそりっちゃんはそれを終わらせるために私たちと会う事を決めてくれたんじゃないの?


 そうだ。そうに違いないんだ。



 なんで、こんなに気付くの遅いんだろう。
 普通に考えたら、りっちゃんはそうしようとしていたこと、わかるはずなのに。
 なのに、私はあんな事を言ってしまった。


 澪ちゃんに。
 澪ちゃんに『酷い事』――!



「……っ」
「お嬢様?」
「な、なんでも、ないの……いいから」


 私は袖で目元を拭った。


 びしょびしょだった。


 私はそれをみて、ただ澪ちゃんに対する懺悔だけ頭に浮かんでいた。
 ごめんね……ごめん、澪ちゃん。
 りっちゃんも、唯ちゃんも。
 ごめんなさい……。


 本当に……私、何やってるんだろう。



 言わなければよかった。





 胸の苦しさは、すべて罪悪感に代わってしまった。




 ごめんなさい……。













 あの日からもう四日経って、八月二十日だ。
 あずにゃんから電話があった。私はベッドに座って電話に出る。



『……おはようございます、唯先輩』



 おはようございますとあずにゃんは言ったけれど、もうお昼前で、一階ではもう憂がお昼御飯を作り始めている。


 その憂も、三日間部活にあずにゃんが出てこない事を心配していた。
 今日の部活はこの後一時からだけど、それにあずにゃんが来るか来ないかで酷く不安そうな顔をしていた朝の憂をまだ覚えている。
 憂じゃなくて私に電話するということは、『放課後ティータイム』単位での話だろうか。


 それとも……澪ちゃんとりっちゃんのことなのかな。


 電話の声に元気がない――もちろん久しぶりに会ったあずにゃんに、元気なんてものはなかったけれど――ので、多分後者だろうなって思った。


「おはよう、あずにゃん」
『……っ……あの、唯先輩に、頼みごとがあって……』


 鼻水をすすったり、咳き込んだりするあずにゃん。
 どうも様子がおかしい。



「あずにゃん……泣いてるの?」

 はっとしたような声が漏れて、ごそごそとする音も聞こえる。


『な、何言ってるんですか。そんなことありませんっ』



 ああ、涙を拭いたんだなあってわかっちゃった。
 昔から強がる所だけ変わってないね。
 何で泣いたかは……なんとなくわかるけど。
 言わないでおこうと思った。



「……うん。それで、どうしたの?」
『はい。あの……後輩が、唯先輩にギターを教えてほしいらしくて』
「私に?」


 りっちゃんと澪ちゃんの事なのかと思ったら、全然予想と違っていて驚いた。
 あずにゃんの後輩の――名前はうろ覚えだけれど、でもギターの上手な子が入ったのは知っていた。

 だけどなんで入部の時点であずにゃんですら上手いと認めるような子が、私なんかにギターを教わりたがるのだろう。
 そんなに上手いとは言えないと思うし、ギー太にも悪いなあ、あずにゃんにも申し訳ないなあと常日頃思っていたのに。


「どうして?」
『春に学園祭のライブDVD見せた時から、会いたいって言ってたんです……さっきもメールがあって、昼から平沢先輩に部活に来てほしいって』
「ふーむ……」


 私は唸りながら部屋の隅に立てかけてあるギターケースを見た。
 帰ってきてから適当に弾いている。
 この数日、放課後ティータイムの曲をいくつかギターだけで演奏したし、大学の下宿でムギちゃんと何度も弾いた。
 だから一応は楽譜なんかは頭にある……つもり。


 そして机の上に広げられた幾つかの本と参考書、そしてレポート用紙にも目を向けた。
 大学のレポートもあったので、ここ数日それにも取り組んでいた。
 ここで問題なのが和ちゃんの言う通り、私はとても極端なので、他の何かに集中すればそれ以外は非常に駄目になってしまう。
 だから、昨日までレポートに専念していたからもしかしたらギターのテクニックやコード、楽譜も全部頭から抜けているかもしれない。


 ……だから後輩の子の期待に添えられないかも……。


 でも、会ってみたいな。



「うん、行くよ。憂と一緒に行くね」
『――――……はい。お願いします』



 微妙な間を、私は聞き逃さなかった。
 憂と一緒に行く。
 その言葉に反応したのかもしれなかった。



「……憂は、連れて行かない方がいいの?」


 回りくどく怒ったように聞こえてしまったかもしれない。
 あずにゃんはすぐに言い返してきた。



『そ、そんなことないです! ただ……』


 私は黙っていた。
 あずにゃんは、戸惑ったように声を詰まらせて続けた。





『憂にも、純にも……皆に迷惑かけて……私、部長なのに……新しい軽音部と、前の軽音部を……比べちゃうんです。
 皆頑張ってくれてるのに……純のベースは澪先輩より下手だとか……後輩の子のドラムがどうとか……比べちゃって……』


 その声は、前に部室で二人きりの時私に告げた時と似ていた。
 苦しさを曝け出す時の、すごく痛い胸。
 あずにゃんは、りっちゃんと澪ちゃんの事だけに悩んでいたわけじゃなかったんだ……。

 あの二人の事と、部活に楽しめない事が重なって、自暴自棄になっていたのかな。

 ……私あずにゃんのこと、全然わかってないね。
 ムギちゃんもだ。
 私はムギちゃんの事、全然わかってなくて……でもわかったような気でいて。
 りっちゃんに気持ちを伝えてなんて軽々しく言ってしまった。それがどんなにムギちゃんにとってショックなのか。

 そして伝えた後の苦しみだったりを、私は全然理解していなかったんだ。
 ムギちゃんも言ったように、私はまだ恋を知らないから――だから、ムギちゃんの気持ちはわからなかったけど、今ならわかる。
 ムギちゃんは想いを伝えただけだった。
 澪ちゃんからりっちゃんを奪いたかった。それだけだった。
 それが願いで、やっと叶った。ムギちゃんが『したかった事』なんだ。

 好きな人が欲しいと思うのは当たり前だ。
 なのに私は、それを『酷い事』だなんて……。
 そりゃりっちゃんと澪ちゃんからしたら、好き合っているのに別れてと言われるのは 一般的に見ればあまり快いものじゃないとは思う。



 でもだからって私は、ムギちゃんの気持ちを否定した。でも、ムギちゃんを肯定することもできない。
 誰が悪いわけでもないのに。
 私の思考と、あずにゃんの囁きは連なる。


『私部長なのに……! 皆の事、まだ信じれないんです……。
 憂も純も、後輩も……頑張ってくれてるのにっ……澪先輩なら、律先輩だったらって、いっつもそんなことばっかりで……!』



 私があずにゃんなら、どう思うのだろう。

 大好きな先輩が卒業してしまって。

 新しいメンバーで軽音部を続けることに、楽しさを見いだせるのかな。


 もちろん新しい誰かと一緒に演奏したり、新しい曲作ったりするのは楽しいと思う。
 皆で重なるのはすごく気持ちがいい。
 でも、今までずっと一緒だったメンバーとさよならして、すぐに新しいメンバーと今まで通りに楽しめるかと言われても……自信はない。


『それに――』


「……?」


 あずにゃんの言葉は途切れた。



「あずにゃん?」
『……なんでもないです。その……私、部活に出ないので……』


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最終更新:2012年06月01日 00:47