セミの声が、この日だけは小さく感じた。
 代わりに、硬質で規則性のある音が響いていた。



 私は公園を一歩一歩進む。



 公園の中央の、連なったタイヤ。


 律はタイヤに座って、すぐ横のタイヤをドラムスティックで叩いていた。
 この光景を、私は何度も目にした事があった。
 この位置からは律は横顔だけれど、それでもよかった。



 今すぐ律に抱きつきたい衝動を押さえて、私は少し距離を置いて足を止める。


 律はスティックの動きを止めて、空を見上げながら言葉を紡ぎ始めた。



「澪、覚えてるか?」



 律の声には、どこか吹っ切れたような軽やかさがあった。
 五日前の、陰りのある声とはまるで真逆の。
 何かから解放されたかのような浮遊感と、微妙な快活。
 この感覚――前にも……。


 私は何も言えない。
 律は空を見上げたまま続けた。



「初めてドラムスティックだけ買った時さ、このタイヤを叩いてたよな」



 横顔だけど、懐かしむような優しい目が垣間見えた。



「学校が終わって、澪と二人で買いに行って……その後、周りはもう夕暮れだってのにずっとこのタイヤを叩いてた…… 澪は横でそれを見ててさ」



 覚えてる。
 忘れるわけ、ない。




「スティックだけだったけど……嬉しかったなあ」




 最初はスティックしか買えなかった律。
 でも律は、それだけで嬉しそうにタイヤを叩いていた。

 そんな律を見ていると、私も嬉しくなってた。
 私も早くベース欲しいな、って思った。
 早く律と一緒に演奏したいなって。




「それから、中古のドラムセット買って……澪もベース買って」



 いつも一緒に楽器屋に行った。
 律は嬉しそうに楽器屋に走って、私も嬉しくて走って。
 一緒にドラムセットの箱を持ち帰って。


 私のベースも、律と一緒に見に行って……。
 買って帰ったら、ずっと音階ばっかり弾いてたなあ……。




「いっつも一緒だったよな、私たちさ」



 律は立ちあがって、私と正面に向かいあった。
 こうも真正面から見つめ合うのは久しぶりで、私はどきっとした。



 ……この感覚は、あの時と同じだ。


 二年生の時、律と喧嘩別れして。
 風邪をひいた律の家にお見舞いに行って。
 部屋に入った時に、私を見ていた律の眼差しと。
 あの時の、気持ちと。


 声だけじゃない。
 顔も、なんだか悲しくない。
 律だ。



 律だ……。


 ちょっと意地悪そうに口元を釣り上げてて。


 あの頃の。
 元気でいっつも笑ってる律の顔だった。




「澪……私、馬鹿だった」


「律……」



 今までとはニュアンスが違うような『馬鹿』という言葉。
 律は白い歯を見せて続けた。



「見返りを求めてた。損得で物事を考えてたんだ」



 私は律の言葉が、すっと心に染みるのを感じていた。
 だから何も言えずに、ただ律の言葉に耳を傾ける。



「澪が苦しいからとか、私が苦しいからとか……。
 私じゃ幸せにできないとか、笑わせられないとか。
 恩を返すとか返せないとか、何もしてやれないとかさ。
 そんなしょうもないことで……ずっと悩んでて……。


 でも違うんじゃないかって。
 どちらかがリスクを背負うから、私は澪に会うのはやめようって決めたけど。


 でも、でも!
 思ったよりもずっと、澪といられないのは辛くて……」




 私と同じだ。
 律が苦しんじゃうからって、ムギに言われたから、だから。
 だから、律に会うのはよそうって決め込んで引き籠って。
 それでいいんだって思いこもうとしてた。


 だけど律に会えない事への痛みは増えていった。


 こんなに辛いのなら、律に会いたいと何度も思った。
 だけどそれは律にとっていい事じゃないからって、我慢してた。


 でもそれは――。




「苦しいってなんだよって、ずっと思ってた。
 苦しいのは嫌だ。
 それを作り出したのは私だ。
 受験に失敗して、澪に迷惑を掛けた。
 だから、こんなに辛いのは罰だって。
 その罰なんだぞって言い聞かせてきた。
 それに耐えて耐えて。
 我慢して。
 自分を責めて責めて責めまくったさ。




 それで何が手に入ったんだって……ずっと自問自答してた。

 手に入れたのは、寂しさと悲しさと、罪悪感だけ。
 失ったのは、軽音部としての絆と、澪」



 律はまだ、私を失ってなんかない。
 まだ私は――私は律の物だって。
 言えるけど、まだ言わなかった。


 律は続けた。

















「皆に嫌われてるんじゃないかって、いつも不安だった。
 受験に失敗して、引き籠ってうじうじ悩んでる奴なんて……。
 どうせ皆に嫌われてる、疎ましく思われてるって思ってた」



 思ってるだけで確証はなかった。
 実際皆が私を嫌っているという、実際的な証拠はなかった。
 だから、もしかしたら皆は私の事を嫌っていないかもしれない。
 この考えは邪推かもしれない。


 だからこそ、会って、その真実を知るのが怖かった。



「だから」



 正面に立つ澪は、穏やかな顔で私の話を聞いてくれていた。
 ちょっと驚いたような表情は、一体何でだろう。
 それはまたあとでいいかな。


 今は私の想いを言うだけだ。
 溢れ出る言葉に、任せるだけだった。



「梓に、澪と別れてくださいって言われた時さ……ショックだったんだ。
 不安が真実になっちまったんだから。
 だから、そうだよなって」



 決めてから、何かが変わったのかと言われると、どうなのだろう。
 澪は、ちょっとは楽になったんじゃないかなって思った。
 それならそれでもいいと思った。


 でも……。




「そうだよなってずっと思いこもうとしてた。
 澪といちゃいけないんだって。
 でも、どんどん胸が苦しくなって……。
 澪がいないと、私……こんなにも弱くてさ。
 辛くて辛くて……」




 澪がいないこと。
 傍にいてくれないこと。
 一緒にいられないこと。
 手を繋いでられないこと。


 それが、私にとってとんでもなく苦しいということ。
 随分前から知ってた。



「二年の時さ、私、和に嫉妬して……澪と喧嘩したよな。


 あの時と、同じなんだ。今回の事は。


 昼休憩に、和と楽しそうにご飯食べてるのを邪魔して。
 それで澪を無理やり部室に連れてきて、結局練習せずに帰っちゃった。


 皆に迷惑を掛けてる。
 部長として失格だとか、澪と一緒にいる意味もない。
 そんなことばっかり考えて、自分が嫌いになって……。
 結局風邪と重なって、家で寝込んじまって。


 今回もだ。
 受験に失敗して、約束先伸ばして、迷惑ばっかり掛けてさ。
 澪と一緒にいる資格なんてないんだって、思ってた……。


 もう二年の――あの時の自分にならないって決めてたのに。


 でも。


 でも、いつも。


 風邪で寝込んで落ち込んでた私を、励ましてくれたのは澪だ。
 受験に失敗してから、ずっと悩んでた私を励ましてくれたのも、澪だった。


 苦しんでる私を助けてくれるのは、いつだって澪なんだ。


 大好きな人が――澪が傍にいるだけで、救われてたんだよ」



 私の言葉は、公園に響く。
 ここにいるのは、私と澪だけ。
 私の長ったらしい言葉を聞いてくれてるのも、澪だけ。


 伝えたいのは、澪だけだから、よかった。


 澪は、何も言わずに私の目をじっと見つめていてくれた。
 何を思ってくれてるのかわからないけど。
 でも。



「私は澪が大好きで、一緒にいてほしくて……。
 澪が、苦しんでるのを助けてくれるから必要なんじゃない。
 理由なんかない。理由がいるような気持ちなんて、いらないんだ。


 ただ、澪が好き。

 澪と一緒がいい。


 私は澪と別れたくない。
 ずっと一緒にいたい。


 それだけなんだ」



 恥ずかしくて、ちょっとだけ目を逸らして最後の言葉を言った。





「澪が大好き。本当に、それだけだったんだ」





 それだけはいつまでも変わらない気持ちだった。
 思えば何時だって、澪を嫌いになったことなんてない。
 ずっと想ってた。


 澪が大好き。
 だけど、純粋に気持ちを伝えたのは、久しぶりだった。



 視線を澪に戻した。



 澪は泣いていた。


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最終更新:2012年06月01日 01:28