涙が溢れてた。
 律の言葉が、聞きたくて。まだもうちょっとだけ我慢したかったのに。
 でも、堪え切れなかった。



「……っ……りつぅ……」



 私は服の袖で目元を拭った。
 律が駆け寄ってきて私の肩に手を置いた。



「ど、どうしたんだよ澪? 感動して泣いちまったのか?」



 滲んだ瞳でうっすら見える律の顔。
 笑ってて、茶化すような意地悪な顔だった。


 ――感動して泣いちまったのか?


 だってさ。




 律だ。


 私をからかった。
 律が私を、意地悪な顔で……。



「りつ……りつぅ……」



 私は律に抱きついた。


 私よりも身長が少しだけ低いけど。


 でも、思いっきり抱きしめた。



「なんだよー、泣くなよ」



 笑いながら私の頭を撫でる律。
 優しい声で、私を慰めた。


 それだ。


 それが泣かせるんだよ。


 私の涙の原因は。


 律にまた会えたこと。
 一緒にいたいと言ってくれたこと。
 好きだと言ってくれたこと。


 全部全部律の所為だ。



 こんなに泣いちゃうのも。
 律の事思うと胸が痛いのも。
 嬉しいのも。
 全部律が悪いんだからな……。



 抱かれたまま、私はゆっくり口を開いた。
 開いただけで、声が出なかった。
 涙は止まらない。溢れ出てくる一方で。
 でも、伝えたくて。



 私もだって。



 だけど、嗚咽が止まらない。
 声を出せるほど、喉が安定してなかった。
 涙が律の肩を濡らしていくばっかりで。
 喉が震えて。
 声が漏れないように堪えるぐらいしかできなくて。


 それもちょっとだけ悔しくて。


 でも私の背中にまわしてくれた律の手が、あったかくて。
 どうしようもない嬉しさで、胸がいっぱいで。


 言いたいこといっぱいあるのに。
 それが、涙の所為で言えない。






「っ……りつぅ……ひっく……」




「澪……ありがとな」





 今日の律は――今の律は、以前の律だ。
 私をからかって、皆を笑わせてばかりだった律だ。
 笑ってばっかのくせに、いつも誰かの事ばかり考えてた律だ。


 私が大好きな律だ。



 もし前までなら、律は謝っていた。
 律は受験に失敗して以来、何度も私に謝っていた。
 それは自分を責めることだったから。


 だけど律は、今、私にありがとうと言った。
 それだけで、確信できた。



 律が戻ってきたんだって。
 この前までの律は、律自身が苦しんでいた。
 そんなの私も嫌だった。


 律が笑ってて、他の誰かも笑ってる。
 私も笑ってる。
 そんな律が、戻ってきたんだって。


 いつも律は傍にいたけど、そこにはいつも陰りがあったんだ。
 お互いがお互いを苦しめているという、そんな気持ちがついていて。
 だから私も律も、相手のために距離を置く決断をした。


 でも、今、律にそんな暗がりは感じない。
 律自身が心から笑ってる。


 そんな気がする。


 いや、絶対そうだ。




 そこに確信を持てるのは、私がずっと律を見てきたから。
 一緒にいたから、律がどんな風に思っているかもわかる。
 今の律の気持ちも、それとなくわかる。


 それが私だから。




 だから嬉しいんだ。
 『律が戻ってきた』という事を気付ける私がまだここにいること。
 それが嬉しい。


 まだ私が、律の事を大好きだということだから。
 それがわかることは、私にとって一番大事なことだから。



「……澪、顔上げて」



 優しくて、穏やかな声が聞こえて。
 私はゆっくりと、律の肩から顔を離した。
 そして、律の顔を見た瞬間。




 唇が重なった。



 最初は驚いた。
 涙もまだ止まってなかった。
 キスしてるってわかった時、また体が熱くなって、顔も熱くなって。


 だけど、律のキスは優しかった。



 私は目を閉じて。
 お互いに抱きしめ合って。


 ずっと、律を感じていた。













 買い物から帰ってきて、携帯電話が机の上に転がっているのを見つけた。
 側面についてる小さな液晶に、アイコンが一つだけ浮かんでいる。

 このアイコンは、不在着信のボイスレコードだ。


 多分私が買い物に出掛けている間に誰かが電話してきて、私が不在だったから、その誰かは用件を残したんだろう。
 どうせ私に電話してくるのなんて限られているけれど。
 もし私の知り合い――軽音部の誰かだったら、無視しよう。


 そう決めた。
 そう決めたのに。



 唯先輩だった。
 私は何も言えず、なんとなく複雑な気持ちになった。
 ベッドの上に転がって、仰向けになりながら携帯の画面を見つめる。


 時刻は五時半。もう部活は終わっている。
 でも、電話をしてきた時間は三時半頃。部活も終わっていない時間だ。
 後輩たちや憂や純と部活を一緒にしているはずの時間に、なぜ私に電話をしてきたんだろう。


 私なんかに電話せずに、楽しくやってればいいのに……。

 何言ってんだ私は。
 また文句みたいなこと言って。

 それでいいのに。
 私以外が楽しくやってればそれでいいのに。
 でも、それがなんとなく悔しいのは。
 やっぱりまだ、自分を嫌いになり切れていないのかな。
 周りに――軽音部や皆への想いを、捨て切れていないのかな。


 私は、ゆっくりと録音されている唯先輩の言葉を再生した。



 ――。












『あずにゃん。
 本当は直接会って話したかったんだけど、家にいないみたいだったから電話することにしました。
 でも、電話にも出なくて……だから、私の声だけ残しておくね。




 あずにゃん。
 私、わかったんだ。
 何がわかったのって言われたら、ちょっと困るんだけど……。
 でも、でもね。


 部室で、去年の学園祭のDVDを見たんだ。
 私たち三年生の最後のライブで、皆でおそろいのTシャツ着て。
 すっごい楽しかったよね。
 本当に、本当に楽しかったよね。


 DVDを見てる時、その時の感情を……ちょっとずつ思い出してきて。
 ギー太を一生懸命弾きながら歌を歌った時の、嬉しさとか。
 ちょっと横を見れば。



 りっちゃんがいて。
 澪ちゃんがいて。
 あずにゃんがいて。
 ムギちゃんがいる。
 目が合うだけで、気持ちが通じるみたいに笑顔が溢れてたんだ。
 それぐらい、私たちはあの場所で『重なってた』んだよ。


 私、それを忘れてたんだ。


 もちろんライブの事を忘れたわけじゃないよ。
 楽しかった事も、またやりたいってことも、全部覚えてた。
 だけど。


 何かが決定的に欠けてたと思う。
 その時の事を簡単に思い出すことはできるけど、でも、私はその時の『私』を喚起させることができてなかった。


 それを『過去』だと、決めつけていたんだ。


 もちろん、去年の学園祭も――その前の新歓も、全部過去の事だよ。


 でも、だからそれは『過去でしかありえなかったもの』じゃない。
 これからも、そんな嬉しさを生み出していけるはずだった。
 だけど、私たちは『この先』……


 『未来』を考えてなかったんだよ。



 私は……私たちが悩んでいた事は。


 全部『過去』のことだ。


 りっちゃんが受験に失敗してしまった事も。
 それを原因に始まったりっちゃんと澪ちゃんの悩みも。
 あずにゃんが、二人の仲に嫉妬して、その関係を壊したことも。
 ムギちゃんも、自分の想いのために行動したことも。


 全部が全部とは、言いきれないよ。
 でも。


 でも私たちは『過去』に……終わったことに縛られすぎてたんじゃないかなって、思ったんだ。


 もちろん、りっちゃんと澪ちゃんの悩みは『過去』じゃない。
 あずにゃんの悩みも、ムギちゃんの悩みも。
 私の悩みも……『今』の事だよ。


 だけど、その悩みも痛みも。




 私はさっき、忘れることができたんだ。
 ライブで一生懸命歌う『私』の姿を見て。
 楽しそうに演奏する『放課後ティータイム』を見て。




 自分で言うのもなんだけど……感動したんだ。
 泣いちゃいそうなくらい、心を動かされたんだ。
 今すぐにでも演奏したいって、身震いしたんだ。



 悩みなんて、楽しい事で忘れられるんだって。
 確証はないのに、確信したよ。







 あずにゃん、演奏しよう?



 あずにゃんが、今の軽音部と私たちを比べてること。
 りっちゃんと澪ちゃんの仲を裂いちゃったこと。
 いろんな事に悩んでるの、私は教えてもらったから。


 だから、だからね。


 一緒にギター弾こうよ。


 演奏しよう。


 一緒にいよう。


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最終更新:2012年06月01日 01:29