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目が覚めて、時計を見ると五時半だった。
窓の外は、ちょっとだけ赤みが掛かった夕暮れだ。八月はやっぱり日が長い。
夏至自体は随分昔に終わったし、八月もあと一週間とちょっとで終わるのに。
だけど、微妙な空の色は真っ暗な部屋を少しだけ照らしていて、それがなんだか綺麗だった。
(……二時間も寝てたのね)
私は重い体を起こした。
頭ががんがんと痛んだ。風邪をひいた時に似てる。
おでこを手で押さえると、汗が指先についていた。
……気分が悪い時に寝るとこうなるのかな。
私はまた嫌な気持ちになって――頭にりっちゃんと澪ちゃんの顔が浮かんで――。
いたたまれないような、そわそわしたような気持ちになって、すぐにベッドを降りた。
罪悪感が抜けきれない。
私が唯ちゃんに猛反発した時は、これでいいんだと自信を持って言えていた。
りっちゃんと澪ちゃんが別れるのは、一番いいことだと思ってたのに。
でも、今になって、それは間違いだと知るなんて。
それが間違いだなんて最初は思ってなかったのに。
それでよかったとなんとなく思ってた私はいたのに。
だってりっちゃんと澪ちゃんが一緒にいるの、見たくなかったから。
これでいいんだって言い聞かせてきたのに。
呪いみたいに、心にへばりついてるんだ。
心にあるのは、なんだろう。
りっちゃんの事、まだ好きなのに、届かない悔しさ?
全然違った。
私にあるのは、自己嫌悪と後悔だけだ。
りっちゃんも澪ちゃんも、傷つけた。
それで告白に失敗して、また馬鹿みたいに後悔してる私。
もう嫌だ。
唯ちゃんにあんなに猛反発したくせに。
やっぱり唯ちゃんの言ってることが正しかったんだ。
りっちゃんと澪ちゃんは、苦しんでた。
だから私は別れさせた。
でも、苦しんでただけじゃない。
一緒にいられることの幸せも、あの二人にはあったのに。
それを私は砕いたの。壊したの。
自分のわがままで、ぶち壊したんだから……。
……もう考えるのはよそう。
息を吐いて、ベッドから立ち去ろうとした。
その時ちらっと、枕の横の携帯電話に気付いた。
……そういえばさっき、電話が来てた。
無視すればいい。
さっきそう思って、寝た。
でも、今は――今は、なんとなく携帯を見る気になった。
それを手にとって、着信履歴を見る。
「唯、ちゃん」
だった。
ぶわっと風が吹くように、頭の中に喧嘩した記憶がフラッシュバックした。
苦い色が広がるので、目を逸らしたかったけど、でも。
でも、なんで唯ちゃんは私に電話したのだろう。
ボイスレコーダーに、伝言が残してあった。
私がまったく出なかったから、不在扱いになったようだ。
……唯ちゃんの声が残してある。
それがもしかしたら、私に対する罵りかもしれなかった。
怖い。
でも、本当に私を嫌いなら。
罵りたいのなら。
電話なんて。
「……」
私は、目を閉じて、再生した。
――。
『ムギちゃん。
本当はね、直接家に行きたかったんだけど、電車がなくて……。
次にムギちゃんの家の近くに行く電車があるの、六時過ぎだったから。
そんな時間にお邪魔するのも悪いし、電話することにしました。でも、出ないから、言いたいことだけ残すね。
ムギちゃん、ごめんね。
あの時部室で、私ムギちゃんの事色々と怒ったよね。
でも今考えてみると、私も……分からず屋だったと思うんだ。
私は恋を知らない。
ムギちゃんは、そう言ったよね。
その通りで、私……まだ皆みたいに恋してないんだ。
もちろん皆の事、大好きだよ。
りっちゃんも澪ちゃんも、あずにゃんも。
そしてムギちゃんも。
大大大好きだよ。
でも、その気持ちは。
りっちゃんの澪ちゃんに対する気持ちや。
澪ちゃんがりっちゃんに向ける想いとは別の『好き』だって、わかってる。
ムギちゃんのりっちゃんに対する『好き』とも、あずにゃんの澪ちゃんに対する『好き』とも違うの、わかってる。
恋愛感情を、私はまだよく知らないんだ。
だから、ムギちゃんにとって辛いこと言ったよね。
ムギちゃんは、りっちゃんが大好きだっただけ。
だからりっちゃんが苦しんでるのを、見過ごせなかっただけなんだよね。
……あと、澪ちゃんに嫉妬したりとかもあったと思うけど。
でも、それも自然な事じゃないかなって、思って。
好きな人が苦しんでるのを、なんとかしたい。
好きな人が誰かと仲良くしているのは、辛い。
好きな人を奪いたい。
そう思っちゃうのは、仕方ないよ。
だからムギちゃんは少しだけ我慢できなかっただけだと思う。
もし私がムギちゃんなら、似たようなことしたんじゃないかな。
でも。
でもね。
りっちゃんは、絶対に澪ちゃんしか選ばない。
澪ちゃんは、絶対にりっちゃんと一緒にいると思うんだ。
だってそうだから。
もう四日も皆に会ってないから、わからないけど。
今頃あの二人は、お互い会えないことを、とても苦しく感じてると思う。
それも、一緒にいた時の苦しみよりもずっと痛い。
だからある意味でムギちゃんとあずにゃんは、あの二人を苦しめる結果にさせてしまったのかもしれない。
それは、二人もちょっとは認めなきゃ……いけないよ。
だからって、責めるなんて絶対にしないよ。
だって、苦しいのは仕方ないんだ。
私たちは、忘れてたんだ。
ねえムギちゃん。
四月からの半年間。ずっとムギちゃんと一緒だったよね。
皆で一緒にいられないこと、とても寂しかったよね。
あずにゃんは、一つ年下で。
りっちゃんと澪ちゃんも、浪人しちゃって。
私は、とても寂しかった。
だけどね、ムギちゃんと一緒にいるのも、楽しかったんだ。
二人きりでずっと一緒にいて、それも楽しかったんだよ。
嬉しいことも、笑えることもたくさんあった。
二人だけで演奏するのも、ちょっとだけ物足りないけど、楽しかった。
だから、五人で集まればもっと楽しくなる。
だから早く演奏したい。一緒に演奏したい。
そう思って、生活してた。
でも、私の知らないところで……ムギちゃんの心の中で。
そして、私の心にも。
『会いたくない』って気持ちが、芽生えてたのかもしれない。
高校生の頃は、そんなことなかったのに。
『会いたくない』って、思ってた。
会うことが、怖かったんだ。
落ち込んだりっちゃんや、それを見て悲しそうにする澪ちゃん。
想いに揺れてるムギちゃんとあずにゃん。
そんなギクシャクした関係で、私たちが集まったとして。
それは本当に、『楽しい事』になったのかな……。
多分、ならなかったと思う。
あずにゃんにも同じことを言ったんだけど。
私たちは、放課後に集まる事に楽しさを感じてた。
授業も集中できないくらい、放課後の事だけ考えてた。
それぐらい楽しみだったんだ。皆で集まることが。
でも今回は、そうじゃなかった。
『楽しみ』でないまま、会おうとしちゃった。
だから、こんなにも……辛いことになってるんじゃないかな。
さっきね、部室で、去年の学園祭のライブDVD見たんだ。
そしたらね、いろんな事を思い出したよ。
楽しかったこと。嬉しかったこと。幸せなこと。
皆で笑いあってたこと。
それは簡単に思い出せるけれど、でも。
何かがなかった。何処か足りなかったんだ。
笑いあってたことを『過去』だと、決めつけてたんだよ。
去年の学園祭も――その前の新歓も、全部過去の事だよ。
でも、だからそれは『過去でしかありえなかったもの』じゃない。
これからも皆で笑いあえる日々を作り上げていく気持ち。
そんな『未来』を、望んでいなかった。
『過去』の悩みが、そんな『未来』なんて来ないと思わせてたんだ。
私は……私たちが悩んでいた事は。
全部『過去』のこと。
だけど、それに縛られてた。
私が皆の事をまったくわかってなかったこと。
りっちゃんが受験に失敗したこと。
澪ちゃんがりっちゃんを苦しめてると疑問に思うこととか。
あずにゃんが二人を別れさせて、部活の事でも悩んだり。
ムギちゃんが自分のしたことに罪悪感を抱くこと。
それが全部。
『私は、皆といる資格なんかない』――。
そう思わせちゃってた。
私もね、皆の想いとか全然知らなくて。
全部わかった気でいたんだ。
でもムギちゃんと喧嘩して、あずにゃんの想いも聞いて。
それが、どんなに浅はかか、理解したんだ。
だから思った。
『私は最低だ』。
『皆といる価値もない』……って。
でも違うんだ。
確かにそう思ったよ。
こんな馬鹿な私が、皆といちゃいけないかもって思った。
皆の事一つも知らない私が、皆と一緒にいていいのかなって迷ったよ。
でも、でも。
一緒にいるべきか迷うぐらい、私は皆といたいんだ。
皆のために迷うぐらい、私は皆が大好きなんだ!
りっちゃんと澪ちゃんもそうだよ。
あの二人は、お互いが一緒にいることに幸せを感じてた。
でも一緒にいると相手を苦しめるから、身を引いた。
でも、相手のために幸せを切り捨てるなんて。
相手の事を愛してなきゃできないよ。
それと同じなんだ。
私も、あずにゃんも、ムギちゃんも。
りっちゃんと澪ちゃんも。
大好きな誰か――相手が大好きだから、会っては駄目だと言い聞かせたんだよ。
それぐらい、大好きなんだ。
五人とも。
一緒にいるのが、大好きなんだよ。
一緒に笑い合ってたいんだよ。
だからね、ムギちゃん。
ムギちゃんは、りっちゃんに想いを伝えた方がいいよ。
少しはすっきりするかもしれない。
でも。
でも、まだ悩んでたら。
辛かったら。
大好きな私たちに、色んな事を話してほしいんだ。
辛いこと、苦しいこと、全部教えてほしいよ。
私も一緒に、ムギちゃんと考えたいよ。
だけど、ムギちゃんが一番話さなきゃいけないのは。
りっちゃんと澪ちゃんだ。
特に澪ちゃんと、きちんと話さなきゃいけないんじゃないかな。
それでね。
ムギちゃんの気持ちに整理がついて。
嫌な思いや辛い事が、抜けていったら。
一緒に集まる約束に『楽しみ』を感じれたら。
絶対に、皆で演奏しようね。
この前は、『楽しみ』にしないまま会ったから。
集まることに、楽しさを感じていなかったんじゃないかって。
だから会えなかった。
辛い思いで、帰り道に立っちゃったんじゃないかなって……思うんだ。
それじゃあ、まだ『放課後ティータイム』になれないんじゃないかって。
だから、皆で――それぞれできちんと気持ちを整理して。
ホントのホントに、『会いたい』って。
皆と一緒に演奏したい、おしゃべりしたいって思えたら。
その時、やっと会えるんだと思う。
それぐらい五人でいることは、かけがえのないことだから。
だからムギちゃん。
私たち、待ってるから。
いつまでも待ってる。
私、絶対に逃げないから。
ムギちゃんがおいしいお菓子とお茶を持ってくるの、待ってるから。
それじゃあね』
おいしいお菓子と、お茶。
片手に携帯電話を持ったまま、暗い部屋に佇んでいる私。
突風が吹くみたいに、頭の中に記憶が駆け巡った。
はちみつ色の午後が過ぎる時間を。
皆で笑ってた、あの放課後を。
最終更新:2012年06月01日 01:31