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 しばらく歩いていたら、駅が見えてきた。
 並木道も終りに近づいていて、人通りも減ってきた。
 その時だった。



 少し先の駅から、誰かが出てきた。
 ゆっくりな足取り。茶髪。髪留め。それでも大げさな歩き方。



「なあ律……もしかしてあれさ」



「――唯だ」



 律の顔から笑顔は消えた。
 一瞬だけ引き締まった。


 律の悩みはほとんどなくなったかもしれない。
 だって律は、私に会ってくれたんだから。
 律を苦しめていたはずの私に、律は会ってくれた。
 それぐらい、苦しみから逃れられたと律は言った。


 だけど、律の痛みや悩みが完全に消えたわけじゃないと思う。
 それはわかってる。私にだって痛いほどわかる。
 律はまだ、完全に皆の事を信じたわけじゃなかったんだ。


 でも――。



 前方に小さく見える唯は、空を見上げて動かない。
 まだこっちに気付いてない様子だった。



「律……」



 私はきゅっと強く律の手を握った。



「澪……」



 律は少し驚いたような顔をして、こっちを見た。
 律が唯を見て、少しだけ不安になったのかもしれない。
 だからそれを取り除けないかなと、想いを手に込めていた。
 律はゆっくりと微笑んで、言った。



「ありがとな……多分、今度は大丈夫。
 前もこうやって澪と手を繋いでたけど、結局皆に会わなかった。
 多分勇気が足りなかったし、中途半端な気持ちだったんだ。
 だけど今回は……心が楽だから。
 『以前の私』……澪の好きな、私の好きな『田井中律』で、話せるよきっと」



 私の好きな律。
 それは律の好きな律だった。



「今の律なら大丈夫だよ。だって私がそう思うんだ」
「……どういうこと?」
「ずっと律を見てきたから、律の気持ちの変化もなんでもわかるんだよ」



 ずっと律を見てたから、なんでもわかる。
 今の律の心の中も、思ってることもなんとなくわかる。


 今の律の心の中は、多分それとなく澄みきっていた。
 さっき律は言った。
 『アルバムを見て、不思議な気持ちになった』と。


 私も同じだった。
 律の誕生日プレゼントを買いに行くアラーム。
 その音が、私に過去の『律との思い出』を振り返させた。
 律と同じ、『共有する記憶』に想いを馳せたんだ。


 だからわかる。


 律ともう一度会おうと思ったきっかけは、そんな律との思い出だ。
 会えない四日間から、もう一度会おうと決めるまでの苦しみが全部消えるくらい、律との思い出を振り返ることは、これ以上ないほど心を満たした。
 そして、律の事が大好きな事や、一緒に笑いあっていたいと再認識した。
 そんな高揚したような、嬉しい気持ちになった。
 多分それと、律は同じだ。
 だからそっくりそのままなんだ。
 私の気持ちが、律の気持ち。
 今、私の心は満たされているし、不安も痛みもそれほどない。



 私にとって、『律ともう一度一緒にいる道を選べた』事が何よりも大きいから。
 律と一緒にいられない痛みが、私の中の痛みの中で一番大きかったから。
 だからそれが解消されただけで、随分と心は楽になった。
 それも以前のように、『一緒にいても苦しい』という矛盾した想いじゃない。
 一度律と距離を置いてわかった。
 『一緒にいたことは苦しい』。でも『一緒にいないのはもっともっと苦しい』。
 だから。
 『一緒にいることで痛みを分け合っていた』んじゃないかって。



 今、私は律と一緒にいる。
 手を繋いでいる。
 隣にいる。
 傍にいる。



 だから律は、大丈夫なんじゃないかって思う。
 唯とも、『以前の律』――つまり今の律で接することができると思うんだ。
 私が言ってるんだから、間違いないと思う。



「私が傍にいるから……唯とも、話せるよ」
「……そうだな。澪がいるもんな」


 そう言ってニッコリ笑って、律は唯の方を向いた。
 唯も、こちらに気付いている様子で、ちょっとずつ歩み寄っていた。


 唯の顔が見える距離まで来た。
 律は私の右手を強く握り締めて。
 私も強く握り返して。





 受験に失敗したあの日から、律と私ははたくさん苦しんだ。
 これから先、私たちが苦しいと思う事がまったくないとは言い切れない。


 だけど私は、笑顔を取り戻しつつある律を支えようと思う。
 頼りになるけど、実は細い律の背中をずっと支えていようと思う。
 そして、ずっと一緒にいるんだ。
 律と一緒に。














 唯と話した後、私はムギにメールを送った。
















 唯と話した後、私は梓にメールを送った。












 流れる川を、河川敷に下りる階段の中ほどに座って眺めていた。
 約束の時間よりちょっとだけ早く来ていて、静かな時間が流れていた。
 セミの声も先週ほど五月蠅くもなく落ち着いていて、もう一週間ほどで八月は終わるんだとなんとなく感じた。


 涙は枯れていた。


 今は、なぜ律先輩が私と会おうと言ってくれたかという疑問に頭が向いていた。
 律先輩に酷い事を言った私。皆と一緒にいる資格もないくらい最低な事をした。
 だから、律先輩も誰にも会いたくないんじゃないかって……そして、一番律先輩が会いたくないのは私だと思っていたのに。



 なんで。
 どうしてなんだろう。
 私なんかに。
 また胸が疼いて。
 俯きかけた。
 その時だ。



「梓」



 ――優しい声で、名前を呼ばれた。
 私は後ろを振り返った。
 階段の一番上で、私を見下す瞳。



「……律先輩」



 律先輩だった。



「久しぶりだな。いきなり会おうなんて言って悪かったよ」
「――」
「どうした?」




 違う。



 五日前に会った律先輩じゃない。


 悲しい目で廊下を歩いていた、あの時の律先輩じゃない。
 何かが決定的に変わったような、強い眼差しをしているのだ。
 そして物腰も柔らかだけど、何処か軽やかの口調。
 あの日廊下で、目を細めて逃げ去った律先輩とは別人のような。
 何かが、変わっていたんだ。



「……なんでもないです」
「そっか」


 私は律先輩から目を逸らして、川に目を向けた。
 律先輩は階段を降りてきて、私の隣に座る。
 そして声を掛けてきた。


「この河川敷は?」


 律先輩は私に言いたいことがいっぱいあるはずのに、他愛もない話から吹っ掛けてきた。
 私は川を見つめたまま、答えを返す。



「去年、唯先輩と地域の演芸大会に出るってなった時……ここで練習したんです」
「そんなこともあったなー」
「あんまり人通らないし、ここならって……」



 律先輩が会おうとメールしてきて、場所の指定を頼まれたのだった。
 屋内は嫌だったし、適当な場所が見つからなかった。
 だから、朝の人通りも少なく両方からも比較的近くなこの河川敷にしたのだ。



 膝を掛けて座る私。
 律先輩は尋ねた。



「梓、部活出てないんだってな」
「……誰から聞いたんですか」
「唯だよ。昨日会ったんだ」




 私はゆっくり顔を上げた。


 ……律先輩、唯先輩に会ったんだ。


 十六日に皆で会うって約束をずっと渋っていたのは律先輩で、
 律先輩は軽音部のメンバーとあまり会いたくないと思っていたはずだ。

 それなのに、『唯先輩と会った』なんて。


 さっきから律先輩は、この前までの律先輩と違う。
 私に会おうと言いだしたり、唯先輩にも会っただとか。
 私は川を見つめているので、横にいる律先輩の顔は見えない。
 だけど口調は――去年の、律先輩を思い出すようなものだった。


 思い出すじゃない。
 律先輩は……。
 目の前にいる律先輩は、去年の律先輩だった。




「いろいろ話、聞いたよ。梓が私に言った事を後悔してるとか、今と昔の軽音部を比べてるとかさ」
「……」
「ごめん」
「……なんで律先輩が、謝るんですか」



 悪いのは、私だ。
 私があんな事を言わなければ、律先輩は澪先輩と……。
 今と昔の軽音部を比べてるのも、私が勝手にそうしてしまっただけで。
 誰も悪くない。悪いのは私なんだ。


 だから、律先輩が謝ったのに、私は腹が立った。
 律先輩は、責任を取ろうとし過ぎだと思った。



「そもそも私が受験に失敗しなけりゃよかったんだしな。私が悪いんだよ」
「……」
「ざまあねえって感じだよなー。あんなに高校生の時、ふざけまくって勉強もせずにいてさ。
 で、結局落ちちゃうとか……かっこわりーよな私」



 笑い声を交えながら、先輩はそう語った。
 確かにそうだったかもしれない。
 律先輩は受験に頑張るべき冬、していないわけじゃなかっただろうけど、澪先輩やムギ先輩ほど根詰めてやってなかったと思う。
 だけどそれは表面上で、実際は十分に努力したと思う。だって澪先輩と一緒に勉強していたわけだし、律先輩は……――。

 律先輩は、私たちを裏切りたいなんて思ってなかったんだ。
 律先輩だって、先輩たち四人が一緒の大学に行けるように頑張ったはずだ。
 だから、私は律先輩の言葉を否定した。



「……律先輩は、ふざけてなんかいませんでした」
「ふざけてたよ。梓も見てただろ? 部室で澪を弄ってばっかの私を」
「でも……でも律先輩は、大事な場面でふざける人じゃないと思います」


 最後の学園祭のステージに立つ前。
 律先輩は、澪先輩の手に『人』という字を書きまくった。
 でもあれは、澪先輩をからかいたいだけの行動じゃなかった。


 『澪先輩が律先輩に突っ込む』という普段通りのことを行うことで、澪先輩の緊張をほぐそうとしていたんだ。
 澪先輩が律先輩を殴ったり突っ込むのは、澪先輩が律先輩を拒んでるわけでも、
 その弄る行為が嫌いだからでもなんでもないのは誰もが知ってることだった。


 それからステージの脇で控えている時も、掛け声を掛けたり、部長らしい一面を何度も見せてくれた。
 普段とのギャップが一番大きいのは、律先輩だった。
 いつだって律先輩は、私たちの事を考えていた。


 やるべき時には、ちゃんとやっていた。
 だから、受験に落ちたのも、律先輩の気持ちが足りなかったとは思わない。
 律先輩は頑張っていた。
 受験に失敗したのは、勉強不足が原因かもしれないけど。
 でも律先輩が頑張ったのは、変わりない事実なんだ。
 だから。



「……律先輩は、悪くないんです」
「梓……」



 ポンと、律先輩は私の頭に手を乗せた。
 驚いて私は顔を上げるなり、隣の律先輩を見た。


 優しそうに笑っていた。
 そして律先輩は立ち上がり、空を仰いだ。
 頭の上の手は、ゆっくり離れた。



「ありがとな。でも、落ちたのは事実だし。私には何かが足りなかったんだよ」
「……」
「受験に失敗して、落ち込んで。皆にも嫌われただろうなって思って。心細くて」



 律先輩の気持ちはよくわかる。
 特に最近、『皆に嫌われた』って怖がってた私には。


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最終更新:2012年06月01日 01:32