「澪にも迷惑を掛けまくって、余計に自分が嫌いになってた」




 律先輩は階段を降りて行って、川の方に近づいた。
 歩きながら律先輩は、語る。




「二年の時もさ、似たような事があっただろ。
 昼休みに、昼練習しようって言ったくせに勝手に帰っちゃった奴。
 あの時見たいな気持ちだったなあ。
 皆に迷惑かけたことが申し訳なくて、嫌われただろうなって思ったりしてさ」



 そんな事もあった。
 私はあの時、律先輩の苦しみを知らずに、こんな事を思ってた。
 澪先輩を悲しませることができるのは律先輩だけ。
 律先輩には敵わないって。



「そういや梓もさ、練習の最中逃げたんだって? 私と同じじゃん!」



 振り返ってこっちを笑った律先輩。
 私がどんな気持ちで練習を逃げたと思って――……。
 と怒鳴りたい気持ちも一瞬だけ湧き上がった。


 でも。そうはできなかった。
 それよりも、律先輩がその行動を笑ってくれたこと。
 それがまるで『私の行動が許された』ような気がしたのだ。
 無邪気に茶化す笑顔が、異常に胸に染みたから。



 染みたけど、何も言えなくて。
 律先輩はそんな私に、笑って言った。



「梓は……澪を楽にしてやりたかったんだろ? 私が澪を苦しめてばっかりだから。だから別れてなんて私に言った」
「……はい」



 涙は出てこない。あんなに後悔したのに。
 でも痛みは覚えてる。
 澪先輩は律先輩に苦しめられていて、私はそれが嫌で、律先輩に嘆願した。
 別れてって。
 でも終わってみれば、それが最低な事だってわかって。
 死ぬほど後悔した。



「でも……あの後……すごく後悔しました」
「ん? なんで?」



 気付いてる、と思う。
 律先輩は、誰かの気持ちを推し量るのが得意だから。
 だけどそんな装いに、言葉は簡単に出てきた。



「やっぱり、律先輩は……澪先輩と一緒にいるべきなんじゃないかって」
「梓……」



 私は目を逸らした。
 実際、二人はそれを望んでいたんだ。
 私とムギ先輩が、自分勝手にそれを壊しただけで。
 あのまま何も言わなければ、前みたいに戻れていたかもしれないのに。



「気付くの遅いだろ?」
「……はい」
「まあ、ショックだったけどな。それに図星でもあったから余計に」



 やっぱり傷つけてた。
 律先輩を傷つけてたんだ。
 それがまた、自責の念を助長する。



「だからって、梓を責めやしないよ」



 律先輩は、言い放った。
 私は――その言葉に、色んなものが含まれてる気がした。
 逸らしていた目を律先輩へ戻す。
 律先輩は落ちていた小石を拾って、川に投げた。
 そして振り返って、白い歯を見せた。



「さっきも言ったけど、私も二年生の時、梓と似たようなことしたんだ。
 だから梓の気持ちは、痛いほどわかるよ」



 律先輩は、昔に想いを馳せる優しい瞳で言った。
 でも、私みたいに『過去』を引きずっている様子ではなかった。
 それを『思い出』として、心に残しているような。
 そんな自身と力強さ、そして説得力が確かにあった。



「だけど澪がさ、傍にいてくれたんだ。
 責めないでいいって、私の事好きでいるって言ってくれたから……ここにいる」



 そして。



「今回の事は、誰が悪いとか無いと思うんだ。もちろん発端は私だ。それは一番悪い事をしたと思うよ。
 でも、受験に失敗して、いろんな事を思い出したし、改めて実感したこともあるんだよ」



 受験に失敗して、得たものなんかあるわけない。
 だから律先輩は苦しんでいるんじゃなかったの? 
 でも、今の律先輩に『苦しみ』という陰りは見られない。
 前ほどではないけど、元気を取り戻したような風貌だ。
 ……それは、受験に失敗して得たものがあるからなのかな。



「……なんですか、それって」



 律先輩が嫌というほど苦しんだ現実。
 その中で、実感したこと――掴んだものって。



 律先輩と、目があって。
 座っている私。立っている先輩。
 向かいあって。
 律先輩は言った。




「澪の大切さ」




 ――『澪』。
 それは律先輩にとって、一番大切な人の名前だった。




「もちろん昔から大切だった。ずっと大事に想ってた。
 だけど梓に別れろって言われて。そして私自身も澪を苦しめるのは嫌だったから、澪と会わないことにした。
 タイミングよくムギも同じことを澪に言って、澪も私に会わないと決めた」



 律先輩がどれだけ澪先輩を好きか、私は知っている。

 高校時代の二人を思い出せば、そこにいつでも『愛』があった。

 『絆』があった。『想い』があった。

 多分私の澪先輩に対する気持ちの、何千何万という倍数ほど律先輩は澪先輩を想ってる。
 そんなの知ってる。
 だから、別れると決めた時は辛かったはずなんだ。
 その辛さがわかるから、今私はこんなにも自分を責めてるんだから。



「でも、会わないって決めてからいろいろ考えたんだ。
 受験に失敗して皆に嫌われたかもしれないという痛み。
 澪と別れて会わないと決めてから悩んだ時の痛み。
 どっちが痛かったかって……澪に会えない痛みなんだよ」



 大好きな誰かに会えない痛みは、計り知れないと思う。


 優しい瞳のまま、律先輩は続けた。



「それから色んな事を思い出した。
 梓に言われたことや、ムギに告白されたこと。
 澪と過ごした生活を。
 まさに葛藤だ。
 自分の選んだ道が誰かを苦しめる。
 だからその選択をしなかった。
 でもそうすることに、自分が満足していたかって悩んで。
 怖がったり臆病になったり、痛かったり辛かったりしたさ」



 自分の選んだ道。
 私は私の想いのままに行動して、失敗した。
 しなければよかったと後悔をした。
 先輩二人の想いをぶち壊した事に。


 律先輩も、後悔したのだろうか。
 一緒にいることで澪先輩を苦しめる。
 だから一緒にいるのをやめて、距離を置いた。
 そう選択したことに、後悔したのだろうか。



「でも――気付いたこともある。
 受験に失敗した痛みも、皆を信じれない辛さも。
 澪と分かち合えていたんじゃないかって。
 だから澪と離れて、その時以上に苦しいんじゃないかって。


 それに、会えない四日間。ずっと澪の事を考えてたんだ。
 布団に包まったり寝たり起きたり、ご飯食べてる時もさ。
 それぐらい、澪のこと好きなんだなって……」



「……」



 さっきから感じるこの妙な感じは何なんだろう。
 律先輩は、澪先輩と別れたんじゃないの?
 だから私は、こんなにも悩んでるのに。
 だとしたら、どうしてこんなに律先輩は笑っていられるの?


 私は、はっとして言った。



「律先輩」
「なんだ?」


「……もしかして、澪先輩とよりを戻したんですか?」


「そうだけど、言ってなかった?」



 心で何かを考える前に、声を上げながら立ち上がってしまった。



「さ、先に言ってくださいよ!」
「ごめんごめん」



 くすくす笑う律先輩。
 私は怒鳴りたいぐらいだったけど、そうはできなかった。
 だって、だって……!
 私の悩みの一つは、すでに解決されていただなんて。
 うじうじ悩んでた私が、馬鹿みたいだ。



「ほ、ホントに……ホントに後悔したんですからねっ……。
 私の所為で、好き合ってる先輩二人が……別れちゃったんだって、思うと……本当に……」



 心にあった黒っぽいモヤモヤは、今までずっとあと引いてたくせに。
 澪先輩と律先輩がまた一緒になったと聞くと、それは簡単に姿を消した気がした。
 完全に消えたとまではいけないけど、縛りつける感覚はなくなった。
 それほど、私はあの二人が別れたことが嫌だった。
 自分で別れさせておいて、変だけど。


 でもやっぱり、澪先輩と律先輩は一緒じゃなきゃ駄目なんだなって。
 二人が別れてから、実感した。

 律先輩は澪先輩と一緒にいなきゃ駄目で、澪先輩は律先輩と一緒にいなきゃ駄目なんだってこと。



「だから、梓はもう悩まなくてもいいんだぜ。私と澪の事で。
 もちろん……梓は澪が好きで、そう簡単に諦めれるもんじゃ、ないと思うけど……」




 唯先輩が言ったこと。
 『告白すれば気持ちに示しがつく』……。
 確かにそうだったかもしれない。


 いかに澪先輩が遠い存在か気付いた。
 そして、律先輩がとても澪先輩の近くにいることも。
 思い知らされたというよりも、納得したんだ。
 現に私は、澪先輩と恋人になれなかったことを悔んでいない。
 そうならなかった事を、悲しんでいない。
 そうならなくてよかった。
 私の恋が叶わなくて、よかったんだ。


 澪先輩の事は好きだっ『た』。
 過去形。




 もう私は、澪先輩に恋していなかった。


 よかった……本当に良かった。






「……いいんです。澪先輩にも言いました。
 私は……私は、澪先輩と律先輩が一緒にいて、笑ってくれてればそれでいいんです」



 好きな人が幸せなら、それでいいんだ。
 大好きな人が大好きな人と一緒にいる。
 それだけで、私も嬉しいんだ。



「ありがとな……梓」


「律先輩……絶対、澪先輩を幸せにしてください」


「わかってるよ。ぜってーしてやるから」



 ピースして宣言した律先輩。


 もう十分、二人は幸せだった。
 澪先輩も、十分、すっごく幸せなんだと思う。
 だから、幸せにしてと言わなくても、すでに幸せだ。


 私は、以前まで澪先輩を独占する律先輩が嫌いだった。
 だけど、今はそんな気持ちは微塵もなかったんだ。
 満たされたような幸福感。
 それは、嫉妬や嫌悪に塗れた醜い感情でもなんでもない。


 私も律先輩を好きになったんだ。
 その『好き』は恋愛感情ではなかった。
 そんな高揚感はなく、もっと穏やかだった。
 静かな尊敬。
 私が律先輩に嫉妬していたときにはなかった、信頼。



 やっぱり律先輩と澪先輩は一緒にいなきゃ駄目なんだって確信。
 一緒にいるのが一番だよ澪先輩と律先輩は。
 あの二人が一緒にいることってことが、私にとってとても嬉しいんだってこと。
 それだけで、私も満たされる気持ちになるんだって。



 そんな気持ちが、確かに私の中に生まれていたから。







 別れ際、律先輩は私に言った。


「梓、練習しとけよ」
「……何をですか?」
「『放課後ティータイム』の曲をさ」


 それは、再会を意味していた。




 自転車で帰宅していると、家の玄関の前に何人か人がいるのが遠くから見えた。
 近づくにつれて、その数人が誰かがわかってきた。


「……皆?」


 私は少し距離を置いた位置で自転車から降りる。
 ブレーキの音に気付いた数人――今の軽音部のメンバーが駆け寄ってきた。


「梓ちゃーん!」
「梓!」
「せんぱーい!」


 そして一斉に私を取り囲む。純にいたっては私に抱きついてきた。


「ちょっと純、自転車倒れるって」
「あずさー……馬鹿!」



 抱きついた純が眼前で顔を上げる。その目は微妙に潤んでいた。
 どうしたんだろう皆そろって。
 私は自転車をそこに止めて、純の手を掴んだ。


「ど、どうしたの皆」


 言いながら見渡す。
 全員申し訳なさそうにしゅんとしていて、私は訳がわからない。
 純が馬鹿と私を罵ったのも、よくわからない。
 憂が言った。


「ごめんね梓ちゃん……」
「えっ?」
「色々悩んでたんだって、お姉ちゃんから」


 純が今度は思い切り抱きついてきた。格好自体は澪先輩と律先輩のロミジュリのようだ。
 そんな抱擁を引き剥がせなかった。


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最終更新:2012年06月01日 01:33