「梓の馬鹿! なんで言わないんだよ! メールも電話も無視して!」


 純の頭は私の肩に乗っていて、表情は見えなかった。
 でも、そんな叫びは悲痛だった。
 ――なんで言わないんだ。
 ……私は。
 私は悩んでいて、それを誰にも言わなくて。
 皆に迷惑かけたくないし、嫌われたと思って。


「先輩は、前の軽音部と今の軽音部……比べてたんですよね」


 ドラムの後輩が、細い声で言った。
 唯先輩は喋りすぎだと思った。


「ご、ごめん……本当に、私……馬鹿だよね」


 なんで比べるなんてしてたんだ。

 澪先輩と律先輩の事と重なってイライラしてたからって練習逃げ出したり、怒鳴ったり。
 本当に迷惑にも、自分勝手にもほどがある部長だと自分でも思う。
 皆が怒るのも無理はない。


「馬鹿だよ梓。でも馬鹿なのは、言ってくれなかったことだよ」


 純は抱きつくのをやめて、私の両肩にそれぞれ手をのせる。
 そして真っ直ぐな眼差しで見つめながらそう言った。


「そんなに、信用ないかな私たち」


 ……信用あるよ。
 大好きだよ。
 皆好きだ。
 だけど言わなかったのは、私が私を嫌いだったから。
 言いたくなかったんだ。


「……ごめん。部長失格だよね。今と昔の軽音部比べるなんて――」
「失格じゃないです!」


 私の言葉を遮って、叫んだのはギターの後輩だった。
 拳を握りしめている彼女は、そのまま続けた。


「梓先輩は……いろんな事を私たちにしてくれて……かっこいいなあって普段から私……。
 だから、そんなこと言わないでください! ギター下手なのは頑張って直しますから!」
「わ、私も……田井中先輩みたいに絶対上手くなります! だから、元気出してください!」


 ドラムの子も続く。
 あったかい気持ちが、湧き上がった。


「梓ちゃん。私も、紬先輩ほど上手くなれないし、曲も作るの得意じゃないけど。
 でも、楽しいから……梓ちゃんともっと部活続けてたいよ」
「憂……」



 笑顔が胸に刺さる。
 それは痛みじゃない。
 さっきの律先輩の言葉と同じだ。
 決定的な何かが、心の壁を壊すような。



「梓」


 私の肩に手を置いたままの純が、名前を呼んだ。
 目と目があう。



「……梓が一番文句言いたいのは、私だと思う。梓は澪先輩の事好きだったらしいし、
 澪先輩に比べて下手だから、比べるのも無理はないよ」


「純……」
「でも、私梓と部活するの楽しいし! えーと……澪先輩ほど上手くなれないけど、
 たくさん練習して、もっともっとライブとか楽しみたいし!」


 ライブ。
 ライブ――。
 懐かしい響きだった。
 思い出に残るステージでの光景。
 あの興奮と感動を、もう一度味わってみたいな。
 私は皆の顔を見渡した。
 涙目だけど、強い瞳で私を見ていた。



「っ……」
「梓?」





「ごめん……っ……ありがとうっ……!」




 私は手の甲で目を拭った。
 びしょびしょに濡れていた。
 皆の心が、嬉しくて。
 私はしゃっくり混じりに叫んだ。



「ありがとう……っ!」



 同時に、皆が抱きついてきた。
 道端で何やってんだって、感じかもしれないけど。
 でも、皆が目の端を光らせて抱き合ってる。
 私は……皆を信じれそうだって思った。



「でも、私のための軽音部じゃないんだ」


 私は純の手を掴んだ。


「私のために、部活をしないでよ」


 そうなんだ。
 私が悩んでるとか、苦しんでるとか、どうでもいいんだ。
 私のために、皆が頑張るのは違うと思う。
 私が満足するために、皆が演奏するんじゃない。



「……皆が楽しめれば、笑えれば、私はそれでいい」



 私の軽音部じゃない。

 皆の軽音部だから。

 皆が、楽しめれば。

 私はいいんだ。
 それで幸せなんだ。



「だから――」



 皆が、励ましてくれるのを聞くまいとしてた。
 メールも電話も、全部全部無視してた。
 でも。
 でも……。


 皆の声が、こんなにも心を満たしてくれるなんて。
 皆と一緒にここにいるの、とっても嬉しいんだって。
 気付くのが遅すぎた。
 遅かったけど、それで十分だった。




「学園祭のライブ、頑張ろ!」




 私は、もう『過去』に縛られたりしない。
 そこに懐かしむことや、振り返ることがあっても。
 皆がいるから。
 澪先輩や律先輩が、一歩踏み出したように。
 私も、笑って皆と演奏するんだ。



 『今』を楽しむんだ。










 私は、ファストフード店の隅っこの席に座っていた。
 高校に入学したすぐ後、軽音部のメンバーを増やす作戦会議をここでした。


 ちょうど同じ席で、私の今座っている席はりっちゃんが座っていた。
 あの時はまだりっちゃんの事を好きではなかったし、
 りっちゃんと澪ちゃんのやり取りに惹かれて軽音部に入ったも同然だった。


 懐かしいと同時に、自分が嫌になった。


 テーブルの上には、買ってきたハンバーガーとポテト。別に食べたかったわけじゃない。
 でも、何も食べていないのにテーブルについていたらおかしいと思ったからだった。

 だけど、結局席に着いたら考え事ばかりで、またハンバーガーの包みすら開いていない。
 目に浮かぶのは、三人で話したあの光景。あの時私は初めてファストフード店に入ったんだ。
 まだ慣れてなかったけど、話すのは楽しかったな。


 でも。
 でもあの頃から、既にりっちゃんと澪ちゃんは好き合っていたんだ。

 じゃなきゃあんなに容赦ない突っ込みを入れる澪ちゃんも、遠慮なく冗談を言えたりできるわけがないんだ。
 あの二人の絆は、何年もの積み重ねだ。


 それをどうこうしようだなんて、私が馬鹿だったんだ。
 ……自己嫌悪の渦に呑まれると泣きそうになる。
 まだ朝の八時でこのお店に人がそんなにいないとしても、泣くのはさすがにまずいと思う。

 もちろん場所の指定をしたのは私で、ここを選んだ私が悪いといえば悪いけど、ここぐらいしか思いつかなかった。




 澪ちゃん――……。
 どうして澪ちゃんは、私に会おうなんて思ったんだろう。
 私の事、きっと大嫌いなはずなのに。
 それぐらい私は酷いことしたのに。
 それなのに……。


 そしてまた痛みに溺れそうになった時。
 左側から声がした。



「ムギ」



 はっとして、顔を上げた。左を向く。



「時間通りに来たのに、随分早いんだな」



 笑って言いながら立っていたのは、澪ちゃんだった。
 それから私の向かいに座ると、テーブルの上のハンバーガーとポテトに目を向ける。

 まったく手つかずのそれは、多分もう冷え切っているだろう。
 澪ちゃんは何食わぬ顔でそれを指さした。


「食べないのか?」
「……買っただけで、あまり食べたいとは思ってないの」
「……そうだな」


 私の気持ちを受け取ったのだろうか。考え事ばかりで食欲すら湧いてこないという事を。
 りっちゃんと澪ちゃんに申し訳がなくて、何かを食べることさえ遠慮がちになりつつあるのに。
 澪ちゃんの表情は柔らかかった。それに裏を感じさせないような小さな微笑み。

 本当は私に言いたいこと、文句を言いたいことがたくさんあるはずなのに、その兆しも見せない。
 あんな事があって、私は澪ちゃんに気まずい思いでいっぱいだ。だけど澪ちゃんはそんな素振りも見せないのだ。
 どういうことなんだろう……。


「ここ懐かしいな」
「……うん」
「私と律とムギで、ここであと一人の軽音部のメンバーどうするか考えたりしたっけ」
「……」
「結局律の奴が考えるのに疲れて、お開きになっちゃったけどさ」





 なんで笑えるんだろう。

 りっちゃんの事を思い出して、笑うことができるんだろう。

 だって、愛してるのに別れたはずなんじゃないの?

 今もりっちゃんの事思うと胸が苦しいってなるぐらいじゃないの?


 私には澪ちゃんがわからないよ。どうして大好きな人と距離を置いてしまったのに、それを懐かしんで笑えるのかが。
 思い出すのも辛い相手の事を、そう簡単に思い出せる事が。


「……そうね」
「……」


 澪ちゃんには悪いけど、私は相槌を打ってただ一言返すしかできなかった。
 本当は誰にも会いたくなかったし、特に澪ちゃんとは会いたくなかった。

 自分の情けなさを嫌でも思い知るから。


 でも、あんなに傷ついた澪ちゃんが私と話をしたがるなんて。
 不思議でならなかったんだ。


 なんでそんなに、微笑んでいられるんだろう。
 私は、澪ちゃんが怖い。


 私は黙っていた。
 澪ちゃんも、呼んだなら呼んだで早く話をしてほしい。
 窓の外をじっと見つめて、ときどき息を吐いたり、唇を舐めたり。
 ……時折、麗しく目を細めるのも。
 私は居た堪れなくなって、俯く。テーブルの下の足元を見つめた。


 息を吸う音がした。
 そして。




「ムギ、私……律とよりを戻した」



「――」



 私は顔を上げた。
 澪ちゃんは、とても優しい顔でこちらを見つめていた。
 声を上げそうになるけど、店内にいる数人に気取られる。
 喉の奥の衝動を堪え、息を呑み、声をゆっくり漏らした。



「……そう、なの」
「うん。ムギにとっては、あんまりいい報告じゃないかもしれないけど」



 私はもうりっちゃんを諦めた。
 この胸の痛みは、彼女への失恋ではない気がする。
 自分の情けなさと、醜さ。そしてりっちゃんと澪ちゃんに対する懺悔の気持ちだ。

 あの二人を別れさせてしまったこと。

 澪ちゃんを傷つけたのをいい事に、抜け駆けしてりっちゃんを手に入れようとしたこと。
 自分の愚かさが、身に染みてるんだ。
 だから心が痛かった。



 だけど、澪ちゃんの言葉が、すっと胸に染みた。



「ムギは律のことが好きなんだから、よりを戻したって聞いて嬉しいわけな――」
「いいえ」


 そんなことなかった。
 嬉しくないわけがなかった。



 もう、りっちゃんへの気持ちは、なくなっていたから。


 だからって嫉妬もない。今はそんな感情は湧いてこなかった。
 あるのは。
 ここにあるのは、安堵だった。安心だった。






「よかった……よかったわ……」
「ムギ?」
「澪ちゃん達の仲が戻って……よかった」






 仲が戻ってよかった。
 ……やっぱり最低ね私。
 別れてなんて言った癖に、戻って喜んでる。


 いや、そっちじゃない。
 喜んでるのは。


 私が許された気がしたからだ。
 別れさせてしまった罪悪感が、晴れたような気がするのは。
 結果二人が寄りを戻すことで、その事実が消えたように思えるから。
 私の罪が、なかった事になるような気がしたから……。



「ムギは、私たちに別れてほしかったんだよな?」
「……そうね。最初はそうだった」
「じゃあなんで、よかったの? 後悔してるのは、聞いたけど……」



 澪ちゃんの声は、優しい。
 私を見据える双眸も。
 言うべきか言うまいか迷う。




「……私、澪ちゃんに別れてって言った後、りっちゃんに告白したの」
「――それは、知ってる、けど……」
「……私、澪ちゃんからりっちゃんを奪おうとした……」



 澪ちゃんの顔から、一瞬笑顔が消えた。
 それは仕方なかった。
 私は、悪い事をした犯人が自白する気持ちで続ける。



「最低よね……澪ちゃんにあんな事言っておいて」
「ムギ……」



 むしろ罵られた方がほっとすると思った。
 文句を言ってほしい。私の事をもっと悪く言ってほしい。
 許されたくなかった。
 だけど。澪ちゃんは笑った。



「最低じゃないよ。確かに言われた時は、ショックだったけど……」
「……」



 私が何を言っても、言い訳にしかならない気がした。
 やっぱり傷つけてたよね。



「でも、もう立ち直ってるから」
「……本当に、ごめんなさい」


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最終更新:2012年06月01日 01:34